言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

経済学における「モラルハザード」の定義

2010-02-28 | 日記
池尾和人|池田信夫 『なぜ世界は不況に陥ったのか』 ( p.173 )

池田 今回の問題に関して、よくモラルハザードという言葉が出てきますが、これは経済学者が使う言葉と世間一般で使われる言葉がまったく違う典型です。これは元は保険用語で、モラルというのは「心理的な」という意味なのだけど、「道徳的危険」とか、「倫理の欠如」とかいう訳語になるでしょ。それだと、いかにも不道徳な悪党がやることみたいだけれども、ペイオフの構造がいい方に回ったらプラスで、悪くなったら政府に全部押し付けられるとなると、徹底的にリスクを取るのが合理的なのです。

池尾 基本的に個別合理的な現象です。個別的には合理的な行動だけれども、社会的には非効率な結果を生むというのがモラルハザードの定義です。

池田 市場メカニズムというのは、個別に合理的なことは、集計したら社会的にも合理的になるというのが前提だけど、外部性とか情報の非対象性などがある場合には、個別に合理的な行動の集計が、社会的に非効率な結果になる。そういうときには政府がルールを直して、合理的な行動がまともな結果になるようにしなきゃいけない。この問題は理論的には分かりきっている。S&Lのときも含めて、モラルハザードはごくありふれた現象だったのに、それを分かっていて放置していた面もありますね。


 経済学における「モラルハザード」の定義が述べられています。



 上記引用部は、経済学でいう「モラルハザード」と、世間一般にいう「モラルハザード」とが、異なっていると示しています。用語が異なる場合、かならずしも、世間一般の側が、経済学者の用語の定義に合わせなければならない、ということにはならないのですが、「用語の意味が異なっている」ことは、知っておかなければならないのではないかと思います。経済学者が「モラルハザード」について語っているときには、「どちらの意味で用語が使われているのか」が、問題になりうるからです。



 さて、経済学者のいう「モラルハザード」とは、「個別的には合理的な行動だけれども、社会的には非効率な結果を生む」ことであると、示されています。

 これは要するに、「市場原理」がうまく機能しない場合、「市場の失敗」が発生している場合、と考えてよいのではないかと思います。

 とすれば、経済学の基本的な考えかた、すなわち、「『競争』が『効率』的な結果をもたらす」という考えかたが、うまくいかない場合はすべて、「モラルハザード」が発生している、ということになるのだと思います。



 世間一般の定義であろうと、経済学上の定義であろうと、「政府がルールを直して、合理的な行動がまともな結果になるようにしなきゃいけない」ことには、かわりありません。

 両者で異なるのは、そこに、「倫理的な意味合い、非難が含まれているか否か」です。

 そこで考えるに、経済学上の定義が「倫理的な意味合い、非難を含んでいない」理由は、おそらく、「経済学は効率などの客観的事象のみを扱い、倫理・道徳的な問題には立ち入らない」ということではないかと思います。この定義には、経済学のスタンスが浮き彫りになっている、と考えられます。近年は、行動経済学・行動ファイナンスも注目されつつあるようですが、このことも、

   経済学の本流は、「客観的事象のみを扱い、主観面の問題には立ち入らない」

ことを示している、と考えてよいのではないかと思います。

実名表記の是非と納得

2010-02-27 | 日記
 今後、記事の投稿ペースを可能なかぎり、元のペース(1日あたり1~2記事)に戻したいと思います。



 ところで、今日、「「市場原理主義」批判について

ファニーメイ、フレディマックにヌエ的な性格があることは確かで、完全民間企業であると言いながら、政府保証を享受しているところがあった。そういういいところ取りみたいな感じの組織で大丈夫なのかという批判はずっとありました。公的な役割を果たさせるのであれば、公的なコントロールの下に置くべきだ、暗黙の政府保証を補助金のように使って株主が利益を得ることになるとまずいという話はされていました。




を書いていて、思い出したのですが、「「詭弁」について」に記載したY弁護士から、

   「大丈夫なのか?」

と聞かれたことがありました。私は、Y弁護士から、

   「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした」

と非難されたので、

   「それなら警察に行って自首しようと思いますが、警察に行ってもかまいませんか?」

と、お尋ねした際に聞かれたのですが、

   なぜ、「大丈夫なのか?」と聞かれたのか、よくわからない

ところがあります。



 私が、「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした」のであれば、隠そうとしたりせず、警察に行って自首するのは当然ではないかと思いますので、私が「自首しようとする意志を持っている」ことをもって、Y弁護士さんは、「大丈夫なのか?」と聞かれたのではないと思います。

 もっとも、私が警察に行ったところ、まったく問題にされなかったので、私は「警察に行く必要はなかった」のであり、その観点からいえば、「警察に行く必要もなく、自首する必要もない私が、なぜ、そのようなことを聞くのか、と疑問に思われ、「大丈夫なのか?」と聞かれたのかもしれません。しかし私がY弁護士に対して、「警察に行って自首しようと思いますが、警察に行ってもかまいませんか?」と聞いたのは、Y弁護士から、「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした」と非難されたためであり、そのY弁護士が、「大丈夫なのか?」と聞く、というのは、「とても奇妙」ではないかと思います。Y弁護士は私が、「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした」と思っているはずだからです。



 あるいは、私が、「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした」にもかかわらず、

   なぜ、「警察に行ってもかまいませんか?」と聞くのか、

と、Y弁護士さんはお考えになられたのかもしれません。

 しかし、私が、Y弁護士に対して、「警察に行ってもかまいませんか?」と聞いたのは、Y弁護士が、

   「いままで築き上げてきたものを失いたくないんだ!!」

と怒鳴ったためであり、「「詭弁」について」に書いたとおり、私が警察に行くと、Y弁護士が困るのではないか、と考え、Y弁護士に配慮したためですから、この観点から、Y弁護士が「大丈夫なのか?」と私に尋ねた可能性も、考え難いと思います。



 どうなっているのだろう、と思います。



 Y弁護士さんは、「大丈夫なのか?」と私に聞くくらいですから、「オレにはやましいところはない」とお考えなのだと思います。

 「Y弁護士」という表記は、「いかにも、Y弁護士が悪いことをした」と言わんばかりなので、「Y弁護士」と表記せず、Y弁護士の実名を表記すべきではないかと考えています。

 ところが、「弁護士自治を弱めてもよいかもしれない」に書いたとおり、私は以前、ブログ「弁護士こぐまの日記」を開設しておられる「こぐま弁護士」から、「具体的な方の批評等」を書くことは「いけない」と批判されたことがあります。

 それを思い出したので、やむなく、「Y弁護士」という、「いかにも、Y弁護士が悪いことをした」と言わんばかりの表記をしているのですが、



 この点について、「こぐま弁護士」がどうお考えなのか、「こぐま弁護士」の見解を伺いたいと思います。

 しかし、「こぐま弁護士」さんは、一方的に私を批判し、ブログのコメント欄を閉鎖されましたので、私は「こぐま弁護士」に対して直接、「こぐま弁護士」さんの見解を伺うことができません。前回の記事、「弁護士自治を弱めてもよいかもしれない」を書いた際に送ったトラックバックも、「こぐま弁護士」さんは承認されなかったようです。

 そこで、今回、再度、「弁護士こぐまの日記」の記事、「コメント欄凍結のお知らせ」に対して、トラックバックを送ってみます。

 今回も承認されないかもしれませんが、私は、相手に「意見を述べる機会」を与えるべきだと思っていますので、とりあえず、トラックバックを送ってみます。



 なお、古い記事に対しては、ブログ(システム)がトラックバックを反映しない、という可能性もありますので、「こぐま弁護士」の新しい記事、「説得?納得?」に対しても、トラックバックを送ってみます。「納得」をテーマにした記事内容と、まったく無関係だとはいえないので、問題はないと思います。

「市場原理主義」批判について

2010-02-27 | 日記
池尾和人|池田信夫 『なぜ世界は不況に陥ったのか』 ( p.169 )

池尾 ファニーメイは政府機関として設立された。政府機関だからエージェンシーと言っています。一九八〇年頃のレーガン政権時に、民営化の話が出ました。現在、商業銀行がオリジネートしたものを買い取って証券化するファニーメイと、S&L(貯蓄貸付組合)がオリジネートしたものを買い付けるフレディマックの二つの住宅金融機関がアメリカに存在しています。いずれも厳密な意味でいうと、完全民営化され、民間が株主の企業になっています。

池田 その場合も、「暗黙の政府保証」があると言われた。そこが今回の危機のかなり重要な原因ですね。

池尾 ファニーメイ、フレディマックとも完全民営化していて政府が所有しているわけではありません。しかし、ファニーメイとかの定款には、政府の住宅政策に協力することが目的として織り込まれ、取締役の何人かを政府が任命できると定めているので、政府とのかかわりは残されているわけです。
 住宅政策に協力し、政府が人事にも影響を及ぼせるような民間企業だから、純粋民間企業といっても何かあったときには政府が保証するだろうと受け取られる。政府は公式には否定していたけれども、マーケットは暗黙の政府保証があるということで、ファニーメイとかが発行するエージェンシー債は、連邦政府が発行する国債(連邦債)とほぼ同格の信用度を持ったものとして取引されていました。アメリカ国債と同じ安全度で、アメリカ国債よりも若干利回りが高いので、海外の投資家が喜んで大量に保有しています。
 ファニーメイ、フレディマックにヌエ的な性格があることは確かで、完全民間企業であると言いながら、政府保証を享受しているところがあった。そういういいところ取りみたいな感じの組織で大丈夫なのかという批判はずっとありました。公的な役割を果たさせるのであれば、公的なコントロールの下に置くべきだ、暗黙の政府保証を補助金のように使って株主が利益を得ることになるとまずいという話はされていました。
 元の政府機関に戻せという話じゃなかったけれども、株主の利益追求とか、純粋な民間企業として営利に走ることに対しては一定の歯止めをかけることを含めて、しっかりした規制監督の下に置くべきではないかという議論はずっとやられてきたわけです。しかし、ファニーメイ、フレディマックの側が、猛烈なロビイングを続けて規制監督の強化をさせてこなかったという経緯があります。

池田 そこは日本の銀行と似ているところがあって、あれも儲かっているときは民間、民間といって、危なくなったら最後は政府が助けてくれると思っているから、ああいういい加減な経営を続けてきたわけです。

池尾 今回、アメリカ政府はファニーメイとフレディマックを監督下に置いたため、暗黙の政府保証があったことを自ら立証してしまったことになります。自ら公式には否定していた政府保証を、自らあると証明した。そういう点でも非常にまずいといえます。

(中略)

池田 だから、これはよくいわれる「市場原理主義」といった一般論じゃない。政府がいざというときには保証する前提で民間がリスク取り放題になっていたら、こういうことになるのは分かり切っているわけです。


 今回の不況の原因は、「市場原理主義」といった一般論ではなく、「暗黙の政府保証」にあると考えるべきである、と論じられています。



 ときおり、「市場原理主義」はよくない、「市場原理主義」が諸悪の根源である、といった主張を見かけますが、この本(『なぜ世界は不況に陥ったのか』)の著者らは、「市場原理主義」批判は間違っている、と主張しているとみてよいと思います。



 私は、本当に「市場原理主義」が悪いのか、ずっと疑問に思っていました。というのは、

 資本主義である以上、「市場原理主義」になるのは当たり前で、「市場原理主義」を批判することは、資本主義を批判・否定することにほかならないからです。「市場原理主義」を批判する人々は、資本主義を否定して、どうしようというのか、それが見えてこないのです。



 彼らは、社会主義・共産主義にしろ、と主張しているわけでもないようですし、ソ連が崩壊し、中国が資本主義化しつつある今、日本を社会主義化・共産主義化しろ、という主張には、まったく説得力がありません。

 とすれば、日本は資本主義社会であり続けねばならず、そうである以上、「市場原理主義」批判は、「なにかがおかしい」と思わざるを得ないのです。



 そういう意味で、「市場原理主義」が悪いのではなく、「暗黙の政府保証」に問題があったのだ、という指摘は、重要だと思います。



 さて、「暗黙の政府保証」がいけなかったのだ、ということになれば、「市場原理主義」批判とは、まったく違った考えかたをすることになります。すなわち、

 「市場原理主義」が問題なのであれば、社会・経済の資本主義的性格を弱めて、社会主義的政策をとるべきである、といった方向に考えることになるはずですが、「暗黙の政府保証」に問題があったと考えるのであれば、このような、市場原理を歪める要素を排除し、市場原理をより貫徹した、「もっと純粋な資本主義」に近づけるべきである、と考えることになるはずです。

 とすれば、著者らの観点からは、(世間で)よく言われる、小泉・竹中改革がいけなかったのだ、という主張とは正反対の主張、さらに徹底した改革を行うべきである、と考えることが、自然な結論になるのではないかと思われます。



 私はどちらの考えかたをとるのか。すこし、決めかねているところがありますが、どちらかといえば、「さらに徹底した改革を行うべきである」という考えかたが、適切なのではないかと思います。

情報の非対称性と金融業

2010-02-23 | 日記
池尾和人|池田信夫 『なぜ世界は不況に陥ったのか』 ( p.155 )

池尾 今回の問題を考える際、インセンティブの問題とかエージェンシー問題、利益相反(コンフリクト・オブ・インタレスト)の問題と並んで、複雑性(コンプレクシティー)という話がキーワードとしてあります。投資家と最終的な買い手の距離が長くなりすぎて、トレースができなくなって価値評価が不可能になってしまっているという話はすでにしました。実は、そういうことを意図的にやっていたということがあるわけです。
 いまは価格が発見できなくて困っているわけだけれど、わざとトレースできないぐらい複雑にしてきたという面があります。金融仲介というか、金融の仕事は本来、情報の非対称性を緩和する、あるいは情報の非対称性に伴う問題を解消するものだったはずなのに、意図的に複雑化することによって人工的に情報の非対称性を作り出し、それによって利益を上げるような仕組みになっていた。情報の非対称性、すなわち自分は知っているけど相手は知らないということを利用して、極端な言い方をすると相手を収奪するような形で利益を上げる。そういうビジネスモデルを展開するようになってしまっていた。
 そこまで変質し、堕落していた。プロとプロの間の取引だったら、騙された方が悪いのだけれども、本当はプロとプロの関係ではない。極悪のプロと、そこまでの悪さのないセミプロとの取引だった。だから、取り付けが起きた。セミプロは、善良でちゃんとやってもらっていると思っていたのが、騙されていることに気づいた。だから、もう二度と付き合いませんという感じになってしまった。


 金融業は本来、情報の非対称性を緩和する、あるいは情報の非対称性に伴う問題を解消するはずだったのに、意図的に情報の非対称性を作り出して利益を上げる仕組みになってきている、と書かれています。



 この記述を読むと、「日米のバブル崩壊における相違点」(…で引用した部分)における池尾先生の主張、すなわち、アメリカの金融業は「市場型間接金融」という、「きわめて高度かつ複雑に発展していた重層的な市場型金融の仕組み」である、という主張の意味合いが、すこし、異なってきます。

 「きわめて高度かつ複雑に発展」しているのであれば、「素晴らしいもの」であるかに思われるのですが、「不必要な程度にまで、わざと、意図的に」複雑化して、利益を上げようとしていた、ということであれば、「好ましくないもの」であるかに思われます。



 著者の評価が正しいのか、正しくないのか (意図的に複雑化してきたといってよいのか) 、それはわかりませんが、正しいと仮定して考えれば、

 おそらく、現状は、不必要なまでに複雑化しなければ利益が出せなくなりつつある、といってよいのではないかと思います。金融危機前に、すでに、金融業は行き詰まっていた、といえるでしょう。「情報の非対称性は(ほとんど)存在しないか、情報の非対称性に伴う問題は(ほとんど)存在しない」状況になっている、といってよいのではないかと思います。



 「情報の非対称性」が消えつつあることは、ネットの存在によって、実感されつつあります。すくなくとも私は、実感しつつあります。

 とすれば、意図的に複雑化してきたといえるかはともかく、(従来の)金融業の役割は消えつつあり、「不必要なまでに複雑化しなければ利益が出せなくなりつつある」ことは、ほぼ確実とみてよいと思います。



 製造業の行き詰まりがささやかれていますが、じつは、製造業のみならず、金融業も行き詰まっているのではないか、と思われます。

「漢直Win」による日本語入力

2010-02-19 | 日記
 このところ更新が止まりがちになっている理由ですが、他のことに時間がかかっているから、というのもありますが、「漢直Win」による日本語入力に慣れないから、というのも、大きな理由です(「日本語が打てない…」参照)。



 ローマ字入力に比べれば、はるかに効率よい入力になってはいるのですが、「すこし、反応が遅い」感じがします。ゆっくり入力しているときには、まったく気にならないのですが、高速で入力しようとすると、「反応が遅い」感じがします。

 すこしくらい、「反応が遅くてもいいじゃないか」と言われれば、そうなのかもしれませんが、たとえ 0.1 秒にしろ、0.01 秒にしろ、

   「反応が遅い」というのは、そこで思考が止まるということ

なので、すこし、つらいものがあります(なお、この数字は適当です。ほんのわずか、というイメージを伝えるために数字を挙げています)。



 もともと、漢字直接入力(漢直)というものは、「高速入力」というよりは、「思考が止まるのを防ぐ」意味合いが強いものだと思いますので、

   ほんのわずかであっても、思考が止まるというのは、実感としては、かなりつらい

のではないかと思います。



 それではどうすればよいのか。それをいま、模索しています。

 早目に、もとの更新頻度に戻します。