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言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

「中南米カリブ海諸国共同体」が発足

2011-12-04 | 日記
日本経済新聞」の「中南米諸国、米抜き共同体設立で首脳会議」( 2011/12/3 20:09 )

 【サンパウロ=檀上誠】ベネズエラの首都カラカスで2日、中南米とカリブ海の独立国で構成する「中南米カリブ海諸国共同体」設立のための首脳会議が開幕した。同共同体は2008年に設立方針が示され、準備が進んでいた。この共同体構想には域内の全独立国33カ国が参加。米州には米国とカナダを含み、キューバが革命後に除名された米州機構(OAS)がある。新たな構想では米国と距離を置く中南米独自の組織を創設し、長期的な地域統合の可能性を探る。

 会議は3日までの予定。メキシコのカルデロン大統領は冒頭「中南米の10年が訪れた。統合に向けて進んでいこう」と演説。地域連携の重要性を強調した。開催国のチャベス大統領は「ここに独立と発展の礎を築こう。統合だけが自由をもたらす」と述べた。会議は今年7月に開催予定だったが、チャベス大統領のがん治療のために延期された経緯がある。


 中南米「域内の全独立国33カ国が参加」する「中南米カリブ海諸国共同体」設立のための首脳会議が開幕した。「米国と距離を置く中南米独自の組織を創設し、長期的な地域統合の可能性を探る」構想である、と報じられています。



 報道には、「同共同体は2008年に設立方針が示され、準備が進んでいた」とあるので、「政治単位統合の要因」において、政治的統合が
 あり得るとすれば、中南米諸国の統合でしょうが、いまのところ、そのような歩みは報じられていません。おそらく、中南米は統合を目指していないのでしょう。
と書いた私が不勉強だったことになります。このようなことにならないよう、もっと努力したいと思います。



 なお、下記に引用する報道によれば、「中南米カリブ海諸国共同体」はすでに発足したようです。

 この共同体構想には中南米「地域での米国の影響力を低下させたいとの狙い」があり、反米路線をとらない国々は「米国抜き」を強調することを避けているとも報じられています。

 日本はどういう態度をとったのか(とるのか)わかりませんが、中国は早速、「祝電を送り、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体の成立にお祝いの意を表し」たようです。おそらく中国は、米国の影響力が低下することが「うれしい」のでしょう。



47NEWS」の「米排除の中南米カリブ共同体発足 33カ国で」( 2011/12/04 11:17 )

 【カラカス共同】中南米とカリブ海の33カ国は3日、ベネズエラの首都カラカスでの首脳会議で地域機構「中南米カリブ海諸国共同体(CELAC)」の設立を表明する「カラカス宣言」を採択し、同共同体が正式に発足した。

 米国主導の米州機構(OAS)と異なり米国とカナダを排除しており、同地域での米国の影響力を低下させたいとの狙いがある。

 3日の首脳会議には親米のコロンビアやチリからも大統領が参加し、地域の結束力の強さを示した。資源価格高騰や経済成長に伴い中南米地域の国際的な存在感が増す中、中南米諸国は、CELACを通じて国際社会での一層の発言力強化を目指す。




YOMIURI ONLINE」の「中南米カリブ海33か国、米と加を除き新機構」( 2011年12月3日18時52分 )

 【リオデジャネイロ=浜砂雅一】中南米とカリブ海の33か国で構成する新たな地域機構「中南米カリブ海諸国共同体」を創設する首脳会議が2日、ベネズエラのカラカスで開かれ、米州のうち米国とカナダを除外した新機構が発足した。

 ベネズエラのチャベス大統領やキューバのラウル・カストロ国家評議会議長ら「反米」の指導者は、新機構を、米国が主導しキューバを事実上追放している米州機構(OAS)に対抗する組織と位置づけている。

 ロイター通信などによると、会議を主催したチャベス大統領は記者団に、「OASは米国に操られてきた。新機構はいずれOASに取って代わる」と強調した。

 一方、米国との関係悪化を望まない穏健路線の首脳たちは「米国抜き」を強調することを避けている。メキシコのカルデロン大統領は2日の演説で、「調和と繁栄を目指そう」と述べるにとどまった。




CRI 中国国際放送局」の「胡主席、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体を祝賀」( 2011-12-04 13:16:59 )

 中国の胡錦涛国家主席は2日、ベネズエラのチャベス大統領、チリのピニェラ大統領に祝電を送り、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体の成立にお祝いの意を表しました。
 胡主席は祝電の中で、「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体の成立は地域一体化プロセスにおける重要な一里塚だ」と高く評価し、「ラテンアメリカ・カリブ諸国が国際事務や地域問題で重要な役割を果たし、共同体の成立は必ず地域の団結と協力を促し、グローバルな挑戦への対応に大きく寄与するだろう」と期待を寄せました。

 胡主席はさらに、「中国とラテンアメリカは遠く離れていても、国民の友情は深い。21世紀に入ってから、中国とラテンアメリカの関係が全面的に発展し、各分野での互恵協力が持続的に拡大している。中国は一貫して高度に戦略的なラテンアメリカとの関係を重要視し、ラテンアメリカ・カリブ諸国と共に、協力と交流を強め、互恵共栄、共同発展の全面的パートナーシップを築きたい」と述べました。(12/04 Lin、志摩)


太子党の絆の強さの秘密

2011-12-04 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.90 )

 近平と同じように地方官僚を経て這い上がった幹部としては、上海に下った曾慶紅や、国家主席だった劉少奇の長男である劉源・軍事科学院政治委員、薄熙来・重慶市党委書記らがいる。
 劉源は生まれ育った境遇が近平と似ている。ともに党・政府幹部の両親を持ち、文革で両親が失脚、地方に下放されるなど塗炭の苦しみを味わう。特に、劉少奇の場合、四人組ら文革派の最大の攻撃目標とされ、あまりの激しい拷問によって身体はぼろぼろになって河南省で衰弱死し、別人の名前で葬られるという文革最大の被害者となった。劉源は長男だったことから、文革が始まると大半は牢獄の中で拷問を受ける生活を送った。この点、末端とはいえ陜西省の村で幹部として活躍した近平のほうが恵まれていた。
 近平と劉源は知らない仲ではない。劉源は51年1月生まれで、近平より3歳長じているが、ほぼ同世代で家が同じ中南海だけに小さい頃からの遊び仲間だった。また、小中学校も同じ幹部子弟を集めた学校に通った幼馴染だ。
 劉源は大学入試が復活した77年、北京師範大学に入学。近平は75年に清華大に入っており、学生時代も重なる。清華大と師範大は同じ市内海淀区にあり、2人は旧交を温めたという。
 劉源は卒業後、ただちに父・劉少奇が最期を遂げた河南省の田舎の村に下って末端幹部の道を選び、県長や省都の鄭州市副市長、河南省副省長を務めた。だが、親譲りの個性の強さから周りの幹部との折り合いが悪く、武装警察部隊に転じてナンバー2の副政治委員まで出世した。その後は人民解放軍に転じて総後勤部副政治委員となり、現在は軍の最高学術機関で、戦争理論や作戦などを研究する軍事科学院のトップである政治委員を務めている。いずれにせよ、地方から積み上げてきたその生き方は、近平とも共通している。
 近平の兄貴分である曾慶紅は、上海で一歩一歩地歩を固め、当時の上海市トップだった江沢民に見出された。江が89年6月の天安門事件で党総書記に抜擢された際、唯一北京に連れて行った子飼いの部下だったことは先にも触れた。近平はその曾と、上海時代や中央に移ってからも頻繁に連絡をとっていた。
 ところで、近平は有力な若手リーダーの1人である薄熙来(現在の重慶市党委書記兼党政治局員)とも幼馴染で、薄の母は文革で自殺し、父は失脚するなど、薄家も辛酸を嘗め尽くしている。薄は文革後、遼寧省の県幹部を経験し、大連市長や遼寧省長代理などを務めており、今も関係は悪くない。
 その一方で、秘書として中央に残り、中央機関で出世した太子党もおり、近平は彼らとも連絡を密にし、中央の動きを把握していた。
 近平は河北省正定県の党委副書記を皮切りに、07年10月まで25年間、福建省、浙江省、上海市の地方幹部として過ごした。特に福建には18年間勤務し、政治的基礎を形成した。この間、幾多の "修羅場" が近平を襲い、そのつど難関を克服して政治指導者として階段を上がっていった。その際、励みになったのは同じ幹部子弟として地方に下った仲間だったという。実は、同時期に同じ苦労をしたことが太子党閥の絆の強さの秘密とも言えるのだ。


 同じ時期に同じ苦労をしたことが、太子党閥の絆の強さの秘密である、と書かれています。



 日本では、中国で太子党が台頭しつつあることをとらえて、「日本と同様、中国でも二世が幅をきかせつつある」といった論評があります。

 たしかにそのように言えなくもありませんが、

 今回の引用は、そのような捉えかたを否定するものだといってよいでしょう。



 同じ二世でも、中国の太子党は「文化大革命の荒波に揉まれ、鍛えられた」集団であり、「同じ釜の飯を食った仲間」にも似た連帯感があると考えられますが、

 日本の二世議員は、たんなる「お坊ちゃん」の集団。二世議員同士の連帯感など、ないに等しいでしょう。



 両者のどちらが政治家として優れているかは、論ずるまでもないと思います。

 太子党は二世だ、お坊ちゃんにすぎない、などと甘く考えていれば、(日本は)大変なことになると思います。



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 「習近平の下放時代

習近平の秘書時代

2011-12-04 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.83 )

 父・仲勲の名誉回復が正式に決定された79年夏、近平は清華大を卒業し、就職先として中国共産党中央軍事委員会弁公庁(総務部門に相当)が割り当てられた。具体的な職務は当時の党政治局員で中央軍事委秘書長を兼ねていた耿飈・副首相の秘書だった。

(中略)

 耿と仲勲の違いは、仲勲が小平寄りの改革派だったのに対して、耿は毛沢東を支持する文革派の幹部だったことだ。文革で苦汁をなめた仲勲に対して、耿は新中国建国後に外交畑に転じ、スイスやパキスタンの大使を務めたあと、外務次官を経てビルマ(現在のミャンマー)やアルバニアの大使、党対外連絡部長(閣僚級)を歴任するなど順風満帆だった。

(中略)

「秘書を辞めたい。基層(末端の組織)からやり直したい」
 近平は他の若い秘書たちとの集まりで、自らの思いを吐露した。
「なぜだ。生活も安定し、いい目を見ているではないか」
 彼らは驚き、近平の決意をいぶかしがった。しかし、近平が地方の末端幹部としてやり直したいと考えたのは単なるわがままではなく、当時の政治状況を敏感に読んだ結果でもあった。改革・開放路線の導入で、小平配下の改革派幹部が重要ポストに就き始めており、耿のような文革派幹部は徐々に排除されていくというのが近平の読みだった。父の仲勲が改革派の重鎮だけに、政治的な風向きには敏感にならざるをえなかった。
 近平の読み通り、絶頂期だった耿の身にも徐々に変化が見られていた。81年6月の党中央委総会で、華国鋒が党主席を胡耀邦に譲り、小平が党中央軍事委主席の座を奪うと、翌7月、耿は軍事委秘書長を解任され、楊尚昆が後任に就いた。

(中略)

 仲勲や楊が日の出の勢いなら、一方の耿飈は落日のたそがれだった。82年5月には副首相を解任され、11月には81年3月に就任したばかりの国防相の座も失い、83年6月に名誉職とも言える全人代副委員長に祀り上げられた。
 このほぼ1年前の82年3月、近平はすでに耿の秘書を辞め、北京から約300km離れた河北省正定県の党委員会副書記として赴任していた。変わり身は早かった。
 実は、近平は秘書を辞める際、耿に「地方に行きたい」と打ち明けた。その際、耿から「地方に行くなら軍の野戦部隊でいいではないか。私が紹介してあげよう」と言われたのを断わっている。
「耿の指示に従って野戦部隊に行けば、生涯、耿の部下という目で見られてしまう。そうなれば、耿が堕ちたときに道連れになる」
 近平はこう考えた。


 習近平は耿飈・副首相の秘書を2~3年間していた。その習近平が耿の秘書を辞めたのはなぜか、が書かれています。



 ここには習近平の政治感覚が現れていると思います。

 政治感覚などというと「いかにも凄そう」な感じがしますが、この能力は程度の差こそあれ、誰にでもあります。

 要は、「空気を読む力」です。



 ここで、習近平は「わが身のために」耿飈とのつながりを断ち切ろうとしています。

 習仲勲には「わが身を犠牲にしてでも」といった要素がみられましたが、息子である習近平には、そのような要素はみられないのかもしれません。いざとなればドライな人間かもしれないですね。

 習近平は計算高い人間かもしれません。



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