茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.72 )
習近平の父、習仲勲はどんな人間だったのかが、書かれています。
私が重要だと考えるのは、次の3点です。
まず第一点目は、
習仲勲は「本気で革命を信奉し、努力していた」ということがわかります。
軟禁生活中、「わずか7㎡の部屋を歩き回った」というのは凄いと思います。そこまでやる人は、おそらくまれでしょう。もちろん「雨が降ろうとも毎朝2時間は散歩を欠かさず、それから公衆浴場で汗を流し、新聞と本を読み、午後にはまた郊外のダムまで散歩するという生活を送った。すべて復活に備えるためだ。」というのも凄いと思います。
次に第二点目は、
習仲勲の信奉する革命は、どちらかといえば毛沢東型の共産主義ではなく、小平型の共産主義だったという点です。すくなくとも仲勲は、資本主義を完全には否定していなかったことがわかります。これを一言でいえば、「習仲勲は文革派ではなく、走資派だった」ということになります。
第三点目は、
ここには、習仲勲の考えかたや人間性が現れています。すなわち、「人治から法治へ」という考えかたをもっており、「国のためには、わが身の危険もいとわない」人間だったということです。
なお、仲勲は「友人のために」行動したとも受け取れます。たしかにそのような側面もあったとは思いますが、主たる動機は「国のため」だったとみるのが自然でしょう。
これらは、習近平ではなく、近平の父・習仲勲について「どんな人間だったのか」を物語っているにすぎませんが、
息子である習近平にもなんらかの影響が及んでいると考えられるので、資料として引用しています。
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習近平が7年間の下放生活を経て北京に戻った75年夏、父の仲勲にも大きな変化が訪れた。河南省洛陽市の洛陽耐火資材工場の副工場長として、妻の斉心と娘の橋橋を帯同しての「病気療養」が許されたのである。これは62年から13年にも及ぶ軟禁生活の終わりを意味し、仲勲は「復活は近い」と確信した。
仲勲は13歳で共産革命に参加した生粋の革命戦士だけに、身体の鍛錬を忘れることはなかった。北京での軟禁生活でも、時間があればわずか7㎡の部屋を歩き回った。洛陽での3年間、雨が降ろうとも毎朝2時間は散歩を欠かさず、それから公衆浴場で汗を流し、新聞と本を読み、午後にはまた郊外のダムまで散歩するという生活を送った。すべて復活に備えるためだ。
(中略)
そして78年3月、北京で開かれた中国人民政治協商会議(政協)で、仲勲は政協常務委員となり、実に16年ぶりに中央で復活を果たした。近平にとっては寝耳に水で、このことをラジオで聴いて初めて知ったほどだった。
北京の習家は再び門前市をなすがごとく多数の訪問客でにぎわった。橋橋は「たくさんの人が父の話を聞きにくるようになった」と述懐している。
(中略)
近平も、このような父を取り巻く幹部らの姿を見て、橋橋とは違う意味で人生の機微を捉えている。
「権力は接する機会が少なく、遠くで見ている分には非常に神秘的で新鮮に見える。しかし、権力や栄耀栄華、名声などは、しょせん花のように移ろいやすいものだ。世間はなんと薄情なものか。政治とはなんと残酷なものか」
近平は率直な印象を文章に残している。この経験が後の近平の政治観を形成したことは想像に難くない。
(中略)
仲勲は同年末、広東省党委第一書記に昇格して同省トップに就く。第二書記には、すでに副首相として復活していた小平の側近である楊尚昆が北京から送り込まれてきた。歴史は大きく転換し、広東省を舞台にした小平による一連の改革が幕を開けようとしていた。
(中略)
実は広東省に旅立つ前、仲勲は胡耀邦の家で食事に呼ばれた。胡は仲勲の失意の日々を慰めるとともに、広東省で何をなすべきかについて縷々(るる)話した。胡のバックには小平がおり、仲勲の広東行きにはの意思が強く働いていた。仲勲は胡からが何を考えているのかをじっくりと聞き、広東省での改革の決意を固めた。
仲勲と胡の親密な関係はその後も続いた。87年1月、全国的な学生の民主化運動への対応を誤ったなどとして、窮地に陥った胡は総書記解任に追い込まれる。実はこの胡耀邦の失脚には伏線があった。胡は学生運動が起きる前から、小平ら老幹部の引退を求めていたのだ。これに対して、らは強く反発した。
その際、仲勲は政治局員としてただ1人、胡の意見を支持した。
「あなた(小平)のような強力な指導者がいれば、経済改革の推進や腐敗問題の解決などもすんなりといくかもしれない。しかし、それは人治であって、専制的なやり方だ。これからは法によって問題を解決することが必要だ。そのためには、私も含めて老指導者は第一線から引いて、胡耀邦のような若手指導者に任せる必要がある」
仲勲の論旨は明快だった。
これに対して小平は、
「何を言っているのか。それは口実に違いない。あなた方は私が中央の仕事に口出しするのを望んでいないだけだ。私が邪魔なのだ。それならば、それでいい。私は潔く引退しよう」
と拗ねた言い分を展開して、結局、地位にとどまった。その後も両者の間にはわだかまりが残り、学生運動が起こった時に、保守派が胡耀邦を一斉に攻撃。小平は「これ幸い」とばかり、胡耀邦を総書記から更迭したというのが真相である。
この時も仲勲はただ1人、胡耀邦の更迭に反対したが、多勢に無勢で、胡耀邦は解任されてしまった。さらに、このしこりが元で、仲勲は同年末の党中央委員に選出されなかった。
ともあれ、仲勲と胡耀邦の親密な関係は、もちろん胡耀邦を師と仰ぐ胡錦濤・主席もよく知るところであり、めぐりめぐって近平に幸運をもたらすことにもなった。「一代朋友、三代親戚」と言われる所以である。
習近平の父、習仲勲はどんな人間だったのかが、書かれています。
私が重要だと考えるのは、次の3点です。
まず第一点目は、
仲勲は13歳で共産革命に参加した生粋の革命戦士だけに、身体の鍛錬を忘れることはなかった。北京での軟禁生活でも、時間があればわずか7㎡の部屋を歩き回った。洛陽での3年間、雨が降ろうとも毎朝2時間は散歩を欠かさず、それから公衆浴場で汗を流し、新聞と本を読み、午後にはまた郊外のダムまで散歩するという生活を送った。すべて復活に備えるためだ。という部分で、
習仲勲は「本気で革命を信奉し、努力していた」ということがわかります。
軟禁生活中、「わずか7㎡の部屋を歩き回った」というのは凄いと思います。そこまでやる人は、おそらくまれでしょう。もちろん「雨が降ろうとも毎朝2時間は散歩を欠かさず、それから公衆浴場で汗を流し、新聞と本を読み、午後にはまた郊外のダムまで散歩するという生活を送った。すべて復活に備えるためだ。」というのも凄いと思います。
次に第二点目は、
仲勲は同年末、広東省党委第一書記に昇格して同省トップに就く。第二書記には、すでに副首相として復活していた小平の側近である楊尚昆が北京から送り込まれてきた。歴史は大きく転換し、広東省を舞台にした小平による一連の改革が幕を開けようとしていた。という部分で、
(中略)
実は広東省に旅立つ前、仲勲は胡耀邦の家で食事に呼ばれた。胡は仲勲の失意の日々を慰めるとともに、広東省で何をなすべきかについて縷々(るる)話した。胡のバックには小平がおり、仲勲の広東行きにはの意思が強く働いていた。仲勲は胡からが何を考えているのかをじっくりと聞き、広東省での改革の決意を固めた。
習仲勲の信奉する革命は、どちらかといえば毛沢東型の共産主義ではなく、小平型の共産主義だったという点です。すくなくとも仲勲は、資本主義を完全には否定していなかったことがわかります。これを一言でいえば、「習仲勲は文革派ではなく、走資派だった」ということになります。
第三点目は、
仲勲と胡の親密な関係はその後も続いた。87年1月、全国的な学生の民主化運動への対応を誤ったなどとして、窮地に陥った胡は総書記解任に追い込まれる。実はこの胡耀邦の失脚には伏線があった。胡は学生運動が起きる前から、小平ら老幹部の引退を求めていたのだ。これに対して、らは強く反発した。という部分で、
その際、仲勲は政治局員としてただ1人、胡の意見を支持した。
「あなた(小平)のような強力な指導者がいれば、経済改革の推進や腐敗問題の解決などもすんなりといくかもしれない。しかし、それは人治であって、専制的なやり方だ。これからは法によって問題を解決することが必要だ。そのためには、私も含めて老指導者は第一線から引いて、胡耀邦のような若手指導者に任せる必要がある」
仲勲の論旨は明快だった。
これに対して小平は、
「何を言っているのか。それは口実に違いない。あなた方は私が中央の仕事に口出しするのを望んでいないだけだ。私が邪魔なのだ。それならば、それでいい。私は潔く引退しよう」
と拗ねた言い分を展開して、結局、地位にとどまった。その後も両者の間にはわだかまりが残り、学生運動が起こった時に、保守派が胡耀邦を一斉に攻撃。小平は「これ幸い」とばかり、胡耀邦を総書記から更迭したというのが真相である。
この時も仲勲はただ1人、胡耀邦の更迭に反対したが、多勢に無勢で、胡耀邦は解任されてしまった。さらに、このしこりが元で、仲勲は同年末の党中央委員に選出されなかった。
ここには、習仲勲の考えかたや人間性が現れています。すなわち、「人治から法治へ」という考えかたをもっており、「国のためには、わが身の危険もいとわない」人間だったということです。
なお、仲勲は「友人のために」行動したとも受け取れます。たしかにそのような側面もあったとは思いますが、主たる動機は「国のため」だったとみるのが自然でしょう。
これらは、習近平ではなく、近平の父・習仲勲について「どんな人間だったのか」を物語っているにすぎませんが、
息子である習近平にもなんらかの影響が及んでいると考えられるので、資料として引用しています。
■関連記事
「来年、中国の最高指導部は大交替する」
「あと一歩のところで失脚した共産党幹部の例」
「習近平の父、仲勲の教育方針」
「劉志丹事件」