言語空間+備忘録

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習近平の父、習仲勲はどんな人間だったのか

2011-12-02 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.72 )

 習近平が7年間の下放生活を経て北京に戻った75年夏、父の仲勲にも大きな変化が訪れた。河南省洛陽市の洛陽耐火資材工場の副工場長として、妻の斉心と娘の橋橋を帯同しての「病気療養」が許されたのである。これは62年から13年にも及ぶ軟禁生活の終わりを意味し、仲勲は「復活は近い」と確信した。
 仲勲は13歳で共産革命に参加した生粋の革命戦士だけに、身体の鍛錬を忘れることはなかった。北京での軟禁生活でも、時間があればわずか7㎡の部屋を歩き回った。洛陽での3年間、雨が降ろうとも毎朝2時間は散歩を欠かさず、それから公衆浴場で汗を流し、新聞と本を読み、午後にはまた郊外のダムまで散歩するという生活を送った。すべて復活に備えるためだ。

(中略)

 そして78年3月、北京で開かれた中国人民政治協商会議(政協)で、仲勲は政協常務委員となり、実に16年ぶりに中央で復活を果たした。近平にとっては寝耳に水で、このことをラジオで聴いて初めて知ったほどだった。
 北京の習家は再び門前市をなすがごとく多数の訪問客でにぎわった。橋橋は「たくさんの人が父の話を聞きにくるようになった」と述懐している。

(中略)

 近平も、このような父を取り巻く幹部らの姿を見て、橋橋とは違う意味で人生の機微を捉えている。
「権力は接する機会が少なく、遠くで見ている分には非常に神秘的で新鮮に見える。しかし、権力や栄耀栄華、名声などは、しょせん花のように移ろいやすいものだ。世間はなんと薄情なものか。政治とはなんと残酷なものか」
 近平は率直な印象を文章に残している。この経験が後の近平の政治観を形成したことは想像に難くない。

(中略)

 仲勲は同年末、広東省党委第一書記に昇格して同省トップに就く。第二書記には、すでに副首相として復活していた小平の側近である楊尚昆が北京から送り込まれてきた。歴史は大きく転換し、広東省を舞台にした小平による一連の改革が幕を開けようとしていた。

(中略)

 実は広東省に旅立つ前、仲勲は胡耀邦の家で食事に呼ばれた。胡は仲勲の失意の日々を慰めるとともに、広東省で何をなすべきかについて縷々(るる)話した。胡のバックには小平がおり、仲勲の広東行きにはの意思が強く働いていた。仲勲は胡からが何を考えているのかをじっくりと聞き、広東省での改革の決意を固めた。
 仲勲と胡の親密な関係はその後も続いた。87年1月、全国的な学生の民主化運動への対応を誤ったなどとして、窮地に陥った胡は総書記解任に追い込まれる。実はこの胡耀邦の失脚には伏線があった。胡は学生運動が起きる前から、小平ら老幹部の引退を求めていたのだ。これに対して、らは強く反発した。
その際、仲勲は政治局員としてただ1人、胡の意見を支持した。
「あなた(小平)のような強力な指導者がいれば、経済改革の推進や腐敗問題の解決などもすんなりといくかもしれない。しかし、それは人治であって、専制的なやり方だ。これからは法によって問題を解決することが必要だ。そのためには、私も含めて老指導者は第一線から引いて、胡耀邦のような若手指導者に任せる必要がある」
 仲勲の論旨は明快だった。
 これに対して小平は、
「何を言っているのか。それは口実に違いない。あなた方は私が中央の仕事に口出しするのを望んでいないだけだ。私が邪魔なのだ。それならば、それでいい。私は潔く引退しよう」
 と拗ねた言い分を展開して、結局、地位にとどまった。その後も両者の間にはわだかまりが残り、学生運動が起こった時に、保守派が胡耀邦を一斉に攻撃。小平は「これ幸い」とばかり、胡耀邦を総書記から更迭したというのが真相である。
 この時も仲勲はただ1人、胡耀邦の更迭に反対したが、多勢に無勢で、胡耀邦は解任されてしまった。さらに、このしこりが元で、仲勲は同年末の党中央委員に選出されなかった。
 ともあれ、仲勲と胡耀邦の親密な関係は、もちろん胡耀邦を師と仰ぐ胡錦濤・主席もよく知るところであり、めぐりめぐって近平に幸運をもたらすことにもなった。「一代朋友、三代親戚」と言われる所以である。


 習近平の父、習仲勲はどんな人間だったのかが、書かれています。



 私が重要だと考えるのは、次の3点です。



 まず第一点目は、
 仲勲は13歳で共産革命に参加した生粋の革命戦士だけに、身体の鍛錬を忘れることはなかった。北京での軟禁生活でも、時間があればわずか7㎡の部屋を歩き回った。洛陽での3年間、雨が降ろうとも毎朝2時間は散歩を欠かさず、それから公衆浴場で汗を流し、新聞と本を読み、午後にはまた郊外のダムまで散歩するという生活を送った。すべて復活に備えるためだ。
という部分で、

 習仲勲は「本気で革命を信奉し、努力していた」ということがわかります。

 軟禁生活中、「わずか7㎡の部屋を歩き回った」というのは凄いと思います。そこまでやる人は、おそらくまれでしょう。もちろん「雨が降ろうとも毎朝2時間は散歩を欠かさず、それから公衆浴場で汗を流し、新聞と本を読み、午後にはまた郊外のダムまで散歩するという生活を送った。すべて復活に備えるためだ。」というのも凄いと思います。



 次に第二点目は、
 仲勲は同年末、広東省党委第一書記に昇格して同省トップに就く。第二書記には、すでに副首相として復活していた小平の側近である楊尚昆が北京から送り込まれてきた。歴史は大きく転換し、広東省を舞台にした小平による一連の改革が幕を開けようとしていた。

(中略)

 実は広東省に旅立つ前、仲勲は胡耀邦の家で食事に呼ばれた。胡は仲勲の失意の日々を慰めるとともに、広東省で何をなすべきかについて縷々(るる)話した。胡のバックには小平がおり、仲勲の広東行きにはの意思が強く働いていた。仲勲は胡からが何を考えているのかをじっくりと聞き、広東省での改革の決意を固めた。
という部分で、

 習仲勲の信奉する革命は、どちらかといえば毛沢東型の共産主義ではなく、小平型の共産主義だったという点です。すくなくとも仲勲は、資本主義を完全には否定していなかったことがわかります。これを一言でいえば、「習仲勲は文革派ではなく、走資派だった」ということになります。



 第三点目は、
 仲勲と胡の親密な関係はその後も続いた。87年1月、全国的な学生の民主化運動への対応を誤ったなどとして、窮地に陥った胡は総書記解任に追い込まれる。実はこの胡耀邦の失脚には伏線があった。胡は学生運動が起きる前から、小平ら老幹部の引退を求めていたのだ。これに対して、らは強く反発した。
その際、仲勲は政治局員としてただ1人、胡の意見を支持した。
「あなた(小平)のような強力な指導者がいれば、経済改革の推進や腐敗問題の解決などもすんなりといくかもしれない。しかし、それは人治であって、専制的なやり方だ。これからは法によって問題を解決することが必要だ。そのためには、私も含めて老指導者は第一線から引いて、胡耀邦のような若手指導者に任せる必要がある」
 仲勲の論旨は明快だった。
 これに対して小平は、
「何を言っているのか。それは口実に違いない。あなた方は私が中央の仕事に口出しするのを望んでいないだけだ。私が邪魔なのだ。それならば、それでいい。私は潔く引退しよう」
 と拗ねた言い分を展開して、結局、地位にとどまった。その後も両者の間にはわだかまりが残り、学生運動が起こった時に、保守派が胡耀邦を一斉に攻撃。小平は「これ幸い」とばかり、胡耀邦を総書記から更迭したというのが真相である。
 この時も仲勲はただ1人、胡耀邦の更迭に反対したが、多勢に無勢で、胡耀邦は解任されてしまった。さらに、このしこりが元で、仲勲は同年末の党中央委員に選出されなかった。
という部分で、

 ここには、習仲勲の考えかたや人間性が現れています。すなわち、「人治から法治へ」という考えかたをもっており、「国のためには、わが身の危険もいとわない」人間だったということです。

 なお、仲勲は「友人のために」行動したとも受け取れます。たしかにそのような側面もあったとは思いますが、主たる動機は「国のため」だったとみるのが自然でしょう。



 これらは、習近平ではなく、近平の父・習仲勲について「どんな人間だったのか」を物語っているにすぎませんが、

 息子である習近平にもなんらかの影響が及んでいると考えられるので、資料として引用しています。



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習近平の友人に対する態度

2011-12-02 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.61 )

 74年、近平は20歳で党員になった。ほどなく梁家河大隊支部書記に任命された。これは実質的な村長に当たる。北京から来た "はみ出し者" の知識青年が村のナンバー1になったのだ。これについて、近平は父・仲勲の影響があったことを率直に認めている。
「ここ(延安地区)は父親が以前活動していた根拠地だ。当時、父は19歳で『陜甘辺区ソビエト政府主席』だった。多くの人々が私を守ってくれたし、助けてもくれた。それに私自身も頑張ったから、こういう結果になったのだ」
 近平は父・仲勲の昔の仲間が助けてくれたように言っているが、実際は身近な友人がかなり奔走した。近平は育ちがよいせいか、自分のことは構わず、他人のために一生懸命尽くすことができる性格だった。また、鷹揚な性格が人々を安心させ、それが包容力につながっていった。
 そのような友人の1人に呂候生がいる。呂は梁家河の共青団支部書記で、近平と同年代だけに何でも話し合える間柄だった。2人で朝まで語り明かすこともしばしばあった。
 近平は入党できないことを気に病み、呂に「親父の問題があるから入党は無理だ」と泣き言をこぼしたこともある。呂は「そんなことはない。君なら必ず入党できる」と慰めた。呂は実際、村の党幹部に入党を頼み込むなど熱心に近平を支持した。
 近平が村を離れて20年近く経った94年、呂は右足に重い骨髄炎を患った。治療費は6000元。当時の北京市民の平均月収は500元程度であり、梁家河の村人には考えられない巨額な費用だ。
 呂は藁にもすがる思いで、当時、福建省の省都、福州市の党委書記だった近平に手紙を書いて援助を求めた。半月後、近平から500元が入った手紙が届いた。「これを旅費にして福州まで来い」と書かれていた。
 近平は福州に着いた呂をすぐに入院させ、仕事が終わってから毎晩、見舞いを欠かさなかった。やがて呂は退院。この間の治療費はすべて近平が出し、帰りの航空チケットと2000元の見舞金を持たせて呂を延安に帰した。その後も、近平は呂が山西省太原武警病院に入院する手はずを整え、右足切断手術を受けさせた。00年1月、呂は福州を再訪した。
 福建省長になっていた近平は、呂を見るなり「私の農民の友よ。大難は去ったか。記念撮影しよう」と言い、呂の右足の大腿部をさすった。さらに、近平は延川県の県長に頼み、呂を障害者登録させて生活を保障させるなど、20年以上も前に受けた恩を忘れず、旧友を気遣ったという。


 習近平が共産に入党する際には、友人の協力があった。とくに呂候生は村の党幹部に近平の入党を頼み込むなど奔走してくれた、と書かれています。



 習近平は「人に好かれるタイプ」なのでしょう。今回の引用部分は、習近平が「誰とでもうまくやれる」のみならず、人に「好かれる」人間であることを物語っています。



 ところで、上記引用のなかに、
近平は入党できないことを気に病み、呂に「親父の問題があるから入党は無理だ」と泣き言をこぼしたこともある。呂は「そんなことはない。君なら必ず入党できる」と慰めた。
という部分があります。

 ここで疑問があります。習近平はなぜ、共産党に入党したかったのでしょうか?



 ひとつの可能性として、近平が熱烈な共産主義者であり、したがって信念の故に共産党に入党したかった、という可能性があります。

 近平の父は共産革命に参加した党の幹部であり、息子の近平にも革命について話し続けていたことから、この可能性が浮上してきます。



 しかし、別の可能性もあります。上記引用には、
74年、近平は20歳で党員になった。ほどなく梁家河大隊支部書記に任命された。これは実質的な村長に当たる。北京から来た "はみ出し者" の知識青年が村のナンバー1になったのだ。
とあることからわかるように、

   共産党に入党すれば、社会的に有利

なわけです。中国で出世するには、共産党への入党が欠かせないわけで、近平にとって(共産主義という)主義主張はどうでもよかったが、出世の手段として共産党への入党に固執した、とも考えられます。

 (農民ではなく)「当時の北京市民の平均月収は500元程度であ」るところ、(のちに)出世した習近平は友人の旅費としてポンと500元を出し、友人の治療費「6000元」をすべて負担し、「帰りの航空チケットと2000元の見舞金を持たせて」帰したばかりか、友人を「障害者登録させて生活を保障させ」たことからわかるように、

 出世によるメリットは権力だけではありません。金銭的なメリットも大きいわけで、近平の目的は「カネと出世」だったとも考えられるのです。



 この問題が重要なのは、(1) 習近平はゴリゴリの共産主義者なのか、(2) 習近平は計算高い人間なのか、といったことを判断する材料になるからですが、

 今回の引用部分のみでは、この問題に対して答えは出せません。私なりの答えは用意しているのですが、それは後日、根拠となる資料を引用する際に記載します。

 とりあえず、今日は問題提起にとどめたいと思います。



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