言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

当ブログ記事への見当外れの批判

2010-10-30 | 日記
文理両道」の「当ブログ記事への見当外れの批判

 「言語空間+備忘録」では、私の記事に対して、結局のところ、<「最終的にはすべての収入が消費にまわされる」ので問題にならない、とはいえないことは、あきらかだと思います。>と批判しているわけだが、私の記事のどこに、<問題とならない>と書かれているのだろう。私の記事は、単に、レンジを空間的時間的に広げれば、収入に対してはテクニカル的にフラットであると書いているだけであり、それが良いと思っているわけではないのは、「フラットだからいいと言っているわけではない」と記事中にも明記している通りだ。フラットだから公平だと、どこに書いてあるのだろうか?

(中略)

 私の記事を全文掲載しているのは、著作権法に定める引用の範囲を明らかに超えている。それは置いたとしても、書かれている内容を十分に咀嚼せずに、批判にもならない批判をするということは、ご自分のブログの価値を下げるだけであると思うのだが。


 記事を誤解して批判されている、と書かれています。



 私は、誤解していないと思います。「文理両道」さんの主張、すなわち「レンジを空間的時間的に広げれば、収入に対してはテクニカル的にフラットである」を言い換えると、「消費税の累進性・逆進性は問題にならない」になります。私は、「テクニカル的にフラットである」から「逆進性は問題にならない」という主張を批判しているにすぎません。

 つまり、私の主張は、

   「逆進性」には、
      「形式的な」逆進性 (テクニカル的な逆進性) と、
      「実質的な」逆進性がある

というものです。「文理両道」さんは「形式的な」逆進性はないので消費税の逆進性は問題にならないと主張されているが、逆進性には「実質的な」逆進性もあり、消費税の「実質的な」逆進性は無視しえない、と私は主張しています。



 また、私が「消費税の逆進性」の結論として主張している
したがってこの観点でみた場合、消費税に比べ、所得税のほうが公平であり優れている、といってよいと思います
は、「文理両道」さんの意見に対する批判として書いたものではなく、「文理両道」さんの記事を読み、実質的な逆進性について考察した結果として、新たな主張を加えたものです。

 「批判にもならない批判」をして、「ご自分のブログの価値を下げ」ているのは、「文理両道」さんではないかと思います。



 なお、「引用の範囲」については、「文理両道」さんの記事の書きかたからして、必要な部分のみを切り取ることが困難であるために、やむなく全文引用したものであり、とくに問題にはならないと思います。

省略

2010-10-28 | 日記
 私の意見に対し、「粗雑すぎる」「間違っている」という人がいれば、私は逆に他者の意見に対し、「粗雑すぎる」「間違っている」と考えるからこそ反対意見を書いているわけで、このように意見が「異なる」のはなぜなのか、考えてみました。



 「省略」

 これではないかと思います。

 人は自分にとって「当然」なことは、あえて書かずに (言わずに) 省略しますし、それが自分にとって「当然」であるからこそ、相手も「これぐらいのことは言わなくてもわかるはず」と考えたり、「これぐらいのことがわからないのなら、話にならない」と考えたりするのではないかと思います。

 もちろんいつまで続けても「キリがない」ということもあり得るわけで、「適当なところで切りあげる」ことは、かまわないと思います。というか、やむを得ないと思います。



 けれども、「省略」部分が「表現」されれば、「なるほどそうですね。私が間違っていました」ということもあれば、逆に、「そんなことですか。それなら~~ですよね」ということもあり得るわけです。

 じつは過去に、現実の人間関係において、「これぐらいのことは言わなくてもわかるはず」だとか、「これぐらいのことがわからないのなら、話にならない」などと言われ (あきれられ) たあとで、「その人の意見が間違っていた」ということがありました (その相手が弁護士だったこともあります) 。



 私の意見が「粗雑すぎる」「間違っている」のであれば、なぜアクセス数が減らないのかわかりませんが、もともとブログのアクセス数とは、そういうもの (減らないもの) なのかもしれません。



■追記
 これはあくまで一般論です。

意見を述べる際の私の考えかた

2010-10-28 | 日記
 一般に、「~~の問題 (是非) についてどう考える (べき) か」は、

   Aという観点からは是とすべき (肯定すべき) である
   Bという観点からは非とすべき (否定すべき) である
   Cという観点からは是とすべき (肯定すべき) である
   Dという観点からは非とすべき (否定すべき) である

と、「観点によって」答えが変わってくると思います。

 そして、現実社会の問題 (世の中の問題) は、さまざまな観点で考えることが可能であり、また、考えなければならないと思います。



 私は「~~の問題 (是非) についてどう考える (べき) か」について述べる際に、

 Aなり、Bなり、Cなり、なんらかの観点で意見を述べていますが、それはあくまでも、「その観点でみれば(考えれば)」の話です。同じ人間 (つまり私) が、

   ~~の問題(是非)について、
     Aという観点では是としつつ、Bという観点では否とすることに、
     なんら問題はない

と思います。問題がないどころか、このような態度こそが「公正な」態度であり、このような態度をとるべきだと思っています。



 ブログによっては、その運営者が「~~の問題(是非)について」すでに「最終結論」をだしていると思われるものもあります。その場合、都合の悪い観点については、まったく言及しない場合が多いのではないかと思います。

 このような態度は、ブログの運営者 (主張者) が、なんらかの利害関係によって、自分に都合のよい方向に世論を誘導しようとしているのではないか、といった疑いを生じさせます。

 もちろん、なかには、利害を考慮して「最終結論」を主張しているのではない、多様な観点を考慮したうえで、この「最終結論」こそが正しいと確信したからこそ、このような主張をしているのだ、という場合もあるでしょう。そしてこの場合、「正しい最終結論」を世間に訴えるためには、「余計な」観点、すなわち「都合の悪い結論」を導く観点については、まったく言及しないことが「正しい最終結論」を世間に理解させるためには重要であり、「余計な=都合の悪い」観点に言及しないことこそが「社会正義にかなう」という考えかたもありうるとは思います。そしてまた、「余計な=都合の悪い」観点を提示するコメント・トラックバック等は承認せず、読者に知らせないことこそが「社会正義にかなう」という考えかたもありうるでしょう。

 しかし問題は、「しかし、あなたの意見は本当に正しいのですか?」という疑問が生じることです。「たしかにあなたは、さまざまな観点を考慮したうえで、そのような結論が最終的に正しい、と判断したのかもしれない。しかし、あなたがもっと深く考察すれば、あなたの最終的な結論は正反対になるかもしれませんよ。どうしてあなたは、自分の意見が (さまざまな観点を総合的に考慮すれば) 正しいといえるのですか?」という問いに、どう答えるのでしょうか?



 私が考えるに、「さまざまな観点を総合的に考察・評価する過程」が提示されなければならないと思います。すなわち、Aという観点では是とすべきだがBという観点では非とすべきでありCという観点では…、と述べたうえで、最終的に、それぞれの要素を比較考量 (総合的に考察・評価) すれば「是とすべきである」、または「非とすべきである」と述べなければならないと思います。

 そしてこのような態度こそが、「公正な」態度だといえるのではないでしょうか。

 「公正さ」「(総合的な) 説得力」とは、都合の悪い観点・要素を無視する (隠す) ことによってではなく、都合の悪い観点・要素についても積極的に開示し、そのうえで比較考量しようとする姿勢によって、生じてくるのではないでしょうか。



 したがって私は、反対意見を読者に知らせない (コメント・トラックバック等を承認しない) ブログ運営のありかたには、疑問をもっていますし、私はそのような態度をとりたくありません。

 この場合、私の主張が「けちょんけちょん」に否定される (=完全に論破される) こともありうるわけですが、私は、それでもかまわないと思っています。結果として「正しい」結論に至るのであれば、私にとっても、読者にとっても、有益だと思います。



 というわけで、「おかしな」主張をしているときもあるかとは思いますが、そのような場合、批判・反論等していただければうれしいです。もちろん、私の主張に同意・賛成のコメントをしてくださっても、うれしく思います。

 今後ともよろしくお願いいたします。

消費税の逆進性

2010-10-27 | 日記
文理両道」の「消費税をめぐる議論

 ネットで、消費税をめぐる議論がアゴラなどを中心に活発化しているようだ。

 小飼弾氏は、彼のブログ「404 Blog not found」で「より高収入の人の方が貯蓄にまわす率が高められるので、消費性向は高収入な人ほど下がる」ために消費税は累進的だと述べている。

 これに対して、池田信夫氏は「アゴラ」で「人々が合理的に消費すると仮定すると、死ぬまでに所得をすべて使い切るので、生涯所得に対する消費税の比率は同じ」であると反論している。

 この池田氏の反論に対して、小倉秀夫氏は、「la_causette」で、国税庁のデータによれば、「ざっと計算して、一人あたり2億2~3000万円の遺産を残してなくなって」おり、どこにも合理人なんていないと指摘している。

 しかし、私にとっては、これらの議論は、物事の一面だけを強調し過ぎているように思える。

 まず、弾氏の主張であるが、これは課税のレンジをどう見るかということだろう。1世代で考えれば、貯蓄の割合が増えるほど、確かに当面の消費税の支払いは少なくなる。しかし、貯蓄は、いつかは出ていくものである。それが子孫による場合もあるだろうし、銀行の信用創造機能を使って、第三者である場合もあるだろう。その意味ではフラットな税制といっても間違いではないだろう。もちろんフラットだからいいと言っているわけではないので、誤解のないようにしてほしい。

 次に、池田氏の主張であるが、小倉氏の言うように、まさに仮定の世界である。経済学の人間はよく理論を構築するためにモデルを仮定する。しかし、それを絶対視するのも、また経済学系の悪い癖でもあるだろう。もうひとつ付け加えれば、たとえ、「平均的」にこのことが成り立ったとしても、問題になるのは、平均から外れている部分であるということを指摘しておきたい。

 小倉氏の主張については、確かに合理的な経済人と言う仮定に意味がないことは、上に述べたとおりだが、逆進性うんぬんというのは、私が弾氏の主張に対してコメントしている通りだ。

 もっとも、私が消費税増税に賛成しているわけではないのは、本ブログ過去記事「消費税の増税は本当に必要か」でも述べた通りである。要は、消費税が逆進的かどうかを決めつけることは、それほど本質的なことではないということである。


 消費税の累進性・逆進性は、消費税について考えるにあたって、それほど本質的ではない、と書かれています。



 上記ブログの主張は、要は、収入が多かろうが少なかろうが、(数世代先まで含めれば) 最終的にはすべての収入が消費にまわされるので、消費税の累進性・逆進性は問題にならない、というものです。

 しかし、「最終的にはすべての収入が消費にまわされる」と仮定した場合であっても、上記主張には問題があると思います。



 わかりやすくするために、例をあげて説明します。

 いま、年収(手取) 100 万円のAさんと、年収(手取) 1 億円のBさんがいるとします。そしてAさんもBさんも、収入の全額を消費にまわすとします。消費税が 5 %であるとすれば、

   Aさんは消費税 5 万円を負担して 95 万円分の消費をし、
   Bさんは消費税 500 万円を負担して 9500 万円分の消費をする

状況を想定していることになります。

 この状況においては、AさんもBさんも、どちらも、(収入を全額消費にまわしているので) 収入のうち、5 %分の消費税を負担していることには変わりありません。



 さて、ここで問題です。AさんとBさん、どちらの税負担が大きいでしょうか?

 もちろん上記ブログ主は、どちらの税負担も同じ大きさである、と答えると思います。どちらも 5 %という「同じ大きさ」の消費税を負担しているからです。

 しかし、ここで重要なのは、「人間が生きていくうえで、どうしても必要な消費がある」ということです。人間には、お米 (コメ) や電気・ガス・水道など、どうしても必要な支出 (消費) があります。

 そして、これらの「どうしても必要な消費」を考慮にいれると、AさんとBさんとで、「消費税負担の大きさ」が異なってくることになります。同じ 5 %の消費税を負担しているAさんとBさんですが、「人間が生きていくうえで、どうしても必要な消費」を考慮すると、

   あきらかに、Aさんの消費税負担が大きい

といえます。Aさんは (たとえ消費税負担がゼロであっても) 生きていくのが精一杯、「カツカツ」の状況だといってよいでしょう。しかし、BさんはAさんと同じ消費税率を負担しているにもかかわらず、消費税は「余裕をもって」支払えます。

 したがって、消費税における累進性・逆進性を論じる際には、たんに同じ割合で税を負担しているから公平である (問題はない) とはいえないのであって、場合によっては、収入の多い者ほど、消費税率を高くしなければ公平ではない、と考えなければならないことになります。



 もちろん、消費税を課すにあたって、小売店などでいちいち、「相手の収入を調べて、消費税率を変える」ことは不可能です。すくなくとも、現実的ではありません。また、このような問題は、すでに所得税の累進税率によって調整されていると考える余地が、まったくないわけではありません。

 しかしながら、消費税における逆進性は、「最終的にはすべての収入が消費にまわされる」ので問題にならない、とはいえないことは、あきらかだと思います。



 消費税には逆進性の観点で問題があり、所得税とは異なり、それが構造的に解消不可能であるために、逆進性の問題は「強く現れる」と思われます。

 したがってこの観点でみた場合、消費税に比べ、所得税のほうが公平であり優れている、といってよいと思います。

円高による日本経済への影響

2010-10-27 | 日記
三橋貴明 『高校生でもわかる日本経済のすごさ!』 ( p.73 )

 さて、円高が一気に進展したリーマン・ショック以降、マスメディアでは、
「外需依存の日本経済は、円高で破滅する」
 なる論調が流行りました。エコノミストと自称される方々が、連日デレビの画面に登場し、もっともらしく、
「日本経済は外需依存が大きいんですよ。円高は大ダメージです」
 などと、したり顔で繰り返したものでした。
 そんな中、わたくしは週刊誌のインタビューで、
「通貨高で破綻した国など、これまでに一つもありませんので、大丈夫です」
 などと発言したところ、意外にもその後、円調者が大勢現れ、驚いた記憶があります。
 そうなのです。実は人類の歴史上、通貨暴落で破綻した国は、ロシアやアルゼンチンを筆頭に山ほどありますが、通貨高で破綻した国など一ヵ国たりとも存在しません。そもそも、通貨が買われるということは、その国の経済の評価が「相対的に」高まっているということを意味しているわけです。評価が高くなっている国が、世界に先駆けて破綻するというのも妙な話です。
 実際、その後も日本円の高騰は続いていますが、日本経済は幸いにも破綻する兆候は一切見せておりません。
「そんなことはない! 輸出企業の決算は惨澹たる状況で、失業者も増えているじゃないか!」
 と、反駁されそうですが、現在、主要国の中で最も失業率が低いのは日本です。09年6月時点における各国の失業統計を見てみますと、アメリカが9・5%、イギリスが7・8% (4月~6月期ILO基準) 、ユーロ圏が9・4%となっています。ユーロ圏の中でも、特にスペインの状況は凄まじく、直近の失業率は何と18・1%にまで達しているのです。
 また、中国は「都市部の登録失業者」のみをカウントし、2009年は登録失業率を4・6%以内に抑える (2008年は4・2%) と発表しています。しかし、この中国の「登録失業率」には、農村出身の膨大な出稼ぎ労働者、通称「民工」は含まれていないのです。
 中国社会科学院の「社会青書2009年」によると、民工を含めた都市部の失業率はすでに9・4%に達しているとのことです。中国ほどの労働人口を抱えながら、失業率が二桁近いのです。失業者総数は、実際のところ何千万人に達しているのでしょうか。
 米英欧中などが軒並み二桁近い失業率に苦しむ中、日本の完全失業率は直近で5・4%です。もちろん派遣契約を切られる、あるいはリストラされるなどして、塗炭の苦しみを味わう方々が増えているのは事実です。しかし、現在の世界では「これでも他国に比べれば、圧倒的にマシ」であることは、紛れもない事実なのです。
 また、トヨタ自動車やソニーに代表される大手輸出企業は、確かに過去に類例のないレベルの決算悪化に苦しんでいます。
「円高は日本の輸出製品の現地価格を吊り上げ、競争力を低下させます。外需依存、すなわち経済に輸出が占める割合が大きい日本経済を円高が直撃し、日本経済は破滅の淵に追い込まれることになるのです」
 などと新聞記事に書かれると、つい頷いてしまう方は多いと思います。しかし、実際のところこの種の論調は、二重三重に間違いを含んでいるので、ご注意ください。
 まず、「日本経済に輸出が占める割合が大きい」(という説) ですが、実はこれは根拠が全くない嘘なのです。経済に輸出が占める割合を比べた場合、日本は主要国の中で「下から二番目に小さい」という結果になります。

(中略)

 断っておきますが、わたしは別に日本の輸出製造業の価値を過小評価する気も、否定する気も全くありません。日本の輸出は年間に80兆円近く (2007年) を稼いでおり、日本経済の一翼を充分以上に担っている巨大産業です。国際競争力もまだまだ高いです。
 とは言え、日本の輸出依存の状況、すなわち輸出産業を日本経済全体と比較すると、他国よりは割合が小さくなります。と、単純に事実を述べているだけです。日本の輸出産業が小さいわけでも何でもなく、単に日本経済の規模が大きすぎるのです。
 ちなみに、日本の輸出対GDP比率がわずかに15・5%で、主要国の中ではアメリカについで低いと「事実」を書くと、以下の反論をされる方がいます。
「いや、日本の輸出は確かにGDPの15%規模かも知れないが、例えばトヨタ自動車などに部品や資材を納入している下請け、孫請けの企業も多い。そういう企業分も含めれば、実は日本の『外需依存』はもっと高いのだ」
 残念ながら、この手の主張をされる方は、GDP統計について基本すら理解していません。GDPとは、各企業が生産した際の「付加価値」の積み重ねとしても集計されます。
 すなわち、トヨタから輸出された自動車の部品として納品された付加価値分は、始めからGDPの「輸出」(正確には「純輸出」) 項目にカウントされているのです。GDPは最終需要者、すなわち「最後に買うのは誰なのか」で支出項目別に分類されますので、当然、そうなります。


 日本経済は外需依存であると言われているが、じつは日本経済の外需依存度は低い。また、日本の失業率は他国に比べて低い、と書かれています。



 日本経済の外需依存度が低いというのは、たしかにその通りだと思います。そしてまた、日本の外需依存度が低いことは輸出産業の規模が小さいことを意味しない、たんに日本経済の規模が大きすぎるために、「相対的に」 (日本経済全体に占める) 輸出産業の規模が小さいのである、ということも、その通りだと思います。

 しかし問題は、それなら輸出産業が重要ではないといえるのか、ということです。

 輸出とはすなわち、他国に何かを売って「お金」を得ることですから、そこに利潤が上乗せされているかぎり、輸出は日本の富を増大させる活動だといえます。いかに日本経済全体の規模が大きくとも、「さらに」富を増す活動たる輸出が重要ではない、とはいえないでしょう。

 また、日本の輸出産業とはすなわち製造業ですが、製造業は国家の根幹であると考えてよいと思います。製造業があるからこそ、日本の科学技術水準が維持され、向上するのであり、このことはまた、日本が他国から攻撃・侵略されにくい状況をもたらしていると考えます (科学技術の水準が高ければ、防衛兵器を製造する能力も高くなります) 。

 したがって、日本経済全体の規模からすれば輸出産業の規模は相対的に小さいが、製造業のもつ性質上、日本は製造業を重視せざるを得ない、と考えます。



 著者は、「通貨高で破綻した国など、これまでに一つもありません」と述べ、日本経済は問題ない、と主張されていますが、

 通貨高は国内産業の空洞化をもたらし、雇用を失わせるので、大問題である、と考えるべきではないかと思います。だからこそ、いま、アメリカもヨーロッパもアジア諸国も中国も、「通貨安を望んでいる」のではないでしょうか。通貨高が「よいこと」であるなら、これらの国々は通貨高を望み、通貨安を望むはずがないと思います。

 著者の主張するように、たしかに通貨高は相対的に国の価値を高めます。また、国の価値が高まっているからこそ、通貨高になるともいえるでしょう。しかし、だからといって「通貨高は問題ないとは言えない」と思います。



 次に、日本経済は破綻する兆候を一切見せていない、現に日本の失業率は世界最低レベル (=状況がよい) である、という点についてですが、

 日本の企業、とくに製造業が海外に流出するならば、日本経済が破綻する兆候を「一切」見せていないと考えてよいのか、疑問が残ります。工場が海外に移転すれば、関連会社・下請け・孫請け等は破綻し、倒産する可能性が高くなりますし、その分、雇用が失われ、失業率が高くなる (=悪化する) ことになります。

 たしかに、世間で言われているほど日本経済の状況は「悪くない」とはいえるのでしょうが、だからといって、「日本経済は破綻する兆候を一切見せていない」などと言えば、言いすぎでしょう。日本経済は、危機に瀕している、あるいは、危機へと向かっている、と考えるのが、適切ではないかと思います。



 したがって、円高は問題ない、とはいえず、円高には利点もあるが問題点もある、そして問題点は無視しえない、と考えるべきではないかと思います。