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李克強の下放時代

2011-12-10 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.158 )

 李克強とは北京大同窓の「老朋友(=大の親友)」であり、89年の天安門事件後、民主化運動に関わったとして逮捕・投獄され、「病気療養」の名目で事実上、米国に亡命したジャーナリストの王軍濤氏は、「李克強は見るからに秀才タイプで、自身の才を前面に出して能力を誇示する。これに対して、習近平は態度そのものが泰然自若としており中国的な指導者タイプと言える。習近平のほうが次期総書記になる可能性が高い」と言い切る。
 さらに、王氏は「2人の差は育ち方にある」とも指摘する。
 近平は幼少時代、大幹部の息子として何不自由ない生活を送っていたが、李は内陸部の安徽省の県長(日本で言えば市長)という地方幹部の息子として育てられた。父親の李奉三は県長のあと、安徽省の統一戦線部の処長(課長級)を経て安徽省の市中級法院(高等裁判所に相当)院長、安徽省地方誌弁公室副主任(局長級)と、典型的なうだつの上がらない地方官吏の道を歩んでいる。ただ、息子の李克強は小さい頃から勉強では常に学年で1番と、聡明さで群を抜いていたという。
 しかし、李が小学校4年生の年、文化大革命(66-76年)が始まり、教師らが知識分子として批判や吊るし上げを受けるなどして学校も混乱し、中学教育は機能しなくなった。そのため李らの中学校進学が1年遅れてしまった。この結果、李らは「小学7年生」を経験している。また、中学校に進学しても文革の影響で、「ソ連との全面戦争に備える」というスローガンの下、軍事演習をさせられるなど、満足のいく教育は受けることができなかった。さらに高校卒業後の74年、19歳だった李は当時の高校生の大半が経験したように、地方の農村に下放され、労働に従事しなければならなかった。
 教育環境の荒廃は同世代の習近平も同じだったが、李との違いは、近平の父母が大幹部で「打倒」の対象になっていたことだ。李の親は典型的な地方の末端幹部であり、いわば打倒する側に回っていた。このため、李は近平のように下放先の幹部から差別を受けることもなく、共産党への入党についても何ら支障はなかった。
 李は安徽省鳳陽県東陵村に下放された。村の人口は2100人で430世帯と、村としてはかなり大きな自治体だった。李は他の20人の知識青年とともに下放され、毎朝7時から夕方まで農作業に従事した。当時の李を知る村人は、「李克強は非常に聡明で、ふざけたところがなく、仕事もまじめで、昼休みに30分の休憩をとるだけで、農作業に手を抜くこともなかった」などと証言している。

(中略)

  それでは李は労働がない時は何をしていたかというと、李らしいエピソードが残っている。一緒に下放されていた知識青年が文学、歴史、自然科学など各種の蔵書を1万冊あまり備えていたことから、李はその青年に頼んで閲読、借り出しの許可を得て、暇さえあれば本を読んでいたというのだ。李は5年間の下放生活で、農作業をしながら、その合間にそれらの本を読みあさり、知識を蓄えていた。まさに勤勉であり、努力を絵に描いたような話だ。
 その半面、下放時代に地方の生活や政治に通じる経験はあまり熱心にしなかったようで、李は76年に共産党員となり、北京大入学までの間、鳳陽県のある大隊の支部書記として農民を指導する立場になったものの、北京大に入学するために村を離れる際、農民はだれ一人として李を見送る者がいなかったという。そして、その後、李が村を訪れることは一度もなかった。
 習近平も陜西省で大隊の支部書記を経験しているが、近平の場合、村を離れる際、農民が多数見送りにきて、別れの辛さで互いに涙を流し、名残惜しさで農民がなかなか立ち去らず、旅館に1泊して、記念写真まで撮ってようやく別れたというエピソードを第二章で紹介した。また、近平はその後、村を再訪し、下放経験がその後の幹部生活の基礎を形づくったと述懐している。この点では、李克強が下放生活への感慨を語ることがなく、同じ下放経験でも近平とはまったく違う記憶になっていることが印象的だ。こういうところに、同時代を生きた2人の人生の歩き方の違いが色濃く出ていて極めて興味深い。
 文革も終わった翌年の77年、混乱もようやく収まり、8月に復活を果たした小平が、10月に11年ぶりに大学入試の再開を決定した。翌年1月に入学試験があり、570万人が受験した。合格したのは約27万人で、倍率は約21倍という狭き門であった。
 そのなかでも、李は日頃の勉学のおかげで、ほぼ満点をとって北京大学法学部法律学科に入学した。

(中略)

 李は大学でも勉強に妥協はせず、同期生でトップクラスの成績を維持した。特に英語は得意中の得意で、ほとんどの学生がアルファベットを覚えるところから始まったという当時の英語教育のレベルにもかかわらず、李は卒業時には米国の法律専門書を中国語に翻訳するほどの能力があった。また、北京大の同窓生で李の学生時代をよく知る前出の王軍濤氏は、「李は野心家で、政治討論でもかなり激しい意見を出して、人々の注目を浴びようとしていた」と証言する。


 李克強の下放時代について書かれています。



 要は、李克強は「努力の人」であり、「秀才タイプ」だということですね。習近平とは対照的です。

 李克強について、今回の引用部分を整理しておきます。



 李克強は
  1. 下放時代、課せられた農作業をまじめに続け、空き時間には勉強をしていた。努力の人である。
  2. 秀才であり、(農作業のかたわら勉強していたにもかかわらず)北京大学法学部法律学科に「ほぼ満点」で合格した。
  3. 英語は得意中の得意。
  4. 人間関係は苦手。北京大に入学するために村を離れる際、農民はだれ一人として李を見送る者はいなかったし、その後、李が村を訪れることは一度もなかった。
  5. (李克強と北京大同窓で大親友の)王軍濤氏によれば、「李は野心家で、政治討論でもかなり激しい意見を出して、人々の注目を浴びようとしていた」。
  6. 内陸部の安徽省の県長(日本で言えば市長)という地方幹部の息子。父親の李奉三は県長のあと、安徽省の統一戦線部の処長(課長級)を経て安徽省の市中級法院(高等裁判所に相当)院長、安徽省地方誌弁公室副主任(局長級)と、典型的なうだつの上がらない地方官吏の道を歩んでいる。


 著者は、李克強の父親は、
「安徽省の市中級法院(高等裁判所に相当)院長」などを歴任し、「典型的なうだつの上がらない地方官吏の道を歩んでいる」
と書いています。

 これを日本の弁護士が読んだら、どういう反応をするでしょうか? 日本の弁護士のなかには、なぜか「オレはエライ」と思っている人もいるようなので、すこし興味があります。



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