言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

弁護士増員反対論に対する反論

2010-03-29 | 日記
当ブログの「日弁連会長選挙と、弁護士にとっての「改革」」のコメント欄

 あと、今まで見聞きした増員反対論の理由として、
(1)弁護士が増えすぎると訴訟が乱発する。
(2)合格者が増えて法律事務所に就職できなかった場合、オンザジョブトレーニング(OJT)を受けることができず、そのようなOJTを受けていない弁護士を利用する市民に不利益が及ぶ
(3)合格者が増えて就職できないと、その人たちはワーキングプアになり、社会問題化する。
(4)弁護士が増えるとモラルハザード(一般的な意味の)が生じる。不祥事が増える。
(5)弁護士が増えて競争が激しくなると、弱者救済や人権擁護活動などのお金にならない仕事ができなくなる。 
 というものがありました。
 これらの理由は、そういわれればそういうことも起きるかもしれないし、そんなことは絶対ないとはいいきれないし、逆に絶対に起きるとも言えないし、正直言って、どうなのか私はわからないです。


 弁護士増員反対論の根拠がいくつか挙げられています。



 これらの根拠について、私の意見を述べます。



(1)弁護士が増えすぎると訴訟が乱発する、について。

 この主張は、結論を「先取り」しています。なぜ、「増える」ではなく、「増えすぎる」・「乱発する」と表現されているのか、それが気になります。



 「乱発する」と言われると、いかにも、「訴訟が増えること」が「よくないこと」であるかのような印象を与えます。

 しかし、訴訟が増えるということは、「これまで弁護士に依頼する機会に恵まれなかった人々に、弁護士に依頼する機会が与えられる、ということ」にほかなりません。「訴訟が増えることそのものは、悪いことではなく、よいことである」と考える余地があります。

 それでは、訴訟が増えることは、よいことなのでしょうか。悪いことなのでしょうか。この点について考えれば、

 実際問題として、費用などの点で、「やむなく」「泣き寝入りしている」人々も多いと思われます。したがって、訴訟が増えることそのものは、悪いことではなく、( むしろ ) よいことである、と考えてよいと思います。



 次に、上記を前提として、

   「弁護士が増えると訴訟が増える」( よいこと )
   「弁護士が増えすぎると訴訟が乱発する」( 悪いこと )

の相違を考えます。これは程度問題であり、「どの程度が好ましいか」は、判断が難しいと思います。私は、「この程度が好ましい」と「上から」決めてしまうのではなく、当事者 ( 市民ひとりひとり ) の選択に委ねるべきではないかと思います。そして、それこそが、「市場原理の導入」であり、「改革」ではないかと思います。



 なお、弁護士が事件を受任するために「強引な」営業活動を行って、当事者が「不本意に」委任する ( 訴訟を提起する ) 羽目に陥ったりするのであればともかく、そうでないかぎりは、訴訟が増えることを、とくに問題視する必要はないと思います。

 たしかに、弁護士の「強引な」営業活動によって市民が「不本意に」訴訟を提起させられることもあり得るとは思います。しかし、この弊害については、弁護士懲戒制度によって対応・抑制すれば足ります。そしてそのためにも、弁護士懲戒制度の改善が望まれます。弁護士懲戒制度の問題点については、最高裁も指摘しているところであり、早急な改善が必要だと思われます ( 「弁護士懲戒制度は不公平である」・「弁護士自治を弱めてもよいかもしれない」 参照 ) 。



(2)合格者が増えて法律事務所に就職できなかった場合、オンザジョブトレーニング(OJT)を受けることができず、そのようなOJTを受けていない弁護士を利用する市民に不利益が及ぶ、について

 そもそも、法科大学院での教育は、まったく役に立たないのでしょうか。また、OJTに代わるものとして、弁護士会で ( 有料または無料の ) 講習を行ってもよいとよいと思います。

 なお、どうしても旧来のOJTが必要である、ということであれば、( 私がそういう立場の弁護士なら ) 知り合いの弁護士に頼み込んで、( 無報酬、または少額の報酬で ) 「OJTとして必要な事件に」参加させていただく、などの対応をとると思います。就職せずとも、OJTは可能だと思います。



 次に、利用者 ( 市民 ) の立場に立って考えてみます。市民は、依頼する弁護士の雰囲気、事務所の雰囲気などから、「事前に」ある程度のことはわかると思います。とすれば、市民にとって、とくに不利益になることはないと思います。

 なお、この観点から、弁護士についての情報発信は、広く許容されるべきだと思います。「特定の方 ( 特定の弁護士 )」について言及するのは非常識である ( 実名をあげて、実体験を書いてはいけない )、という批判を「こぐま弁護士」さんからされたことがありますが、市民に情報を発信してはいけない、市民は弁護士についての情報を知る必要はない、といわんばかりの「こぐま弁護士」さんの主張は、いかがなものかと思います ( 「日弁連会長選挙と、弁護士にとっての「改革」」・「実名表記の是非と納得」・「弁護士自治を弱めてもよいかもしれない」 など参照 ) 。



(3)合格者が増えて就職できないと、その人たちはワーキングプアになり、社会問題化する。

 これは ( 批判としては ) 論外だと思います。

 「弁護士として」就職できなければ、「普通の労働者として」就職すればよいだけの話です。そんなことを言っていたら、「すべての業界で」参入規制を行わなければならなくなります。これは計画経済の発想であり、( 共産主義国のように ) この道を選べば、市民へのサービスの質は低下するのではないかと思います。

 また、弁護士の場合、就職せず、「即」座に自分の事務所を開設して「独」立する道 ( 即独 ) もあります。



 そもそも、「合格者を減らせば、合格しなかった人たちはワーキングプアになり、社会問題化する」という論理も成り立ちます ( むしろ、こちらのケースのほうが深刻だと考えるのが自然でしょう。弁護士資格を持っていないのですから ) 。司法試験を行うこと自体は、増員反対論者も肯定しているはずです。司法試験を行えば、必然的に不合格者が現れ、ワーキングプアになる可能性が生じます。したがって、

   不合格者がワーキングプアになるのは「かまわない」が、
   合格者がワーキングプアになることは「絶対に許されない」、

とでも考えないかぎりは、このような反論は成り立たないでしょう。スレスレの成績で合格した人の立場に立って考えれば、

   不合格になるよりも、合格して弁護士になるほうがよい

のではないでしょうか。資格があれば、( 即独であっても ) 実務で能力を発揮するチャンスがあります。ワーキングプアになるとは限りません。資格がなければ、実務で能力を発揮するチャンスもありません ( 「新司法試験合格者数に関する嘆願書」 参照 ) 。



 この批判は論理が破綻していると思います。したがって、これは増員反対論の根拠としては、論外だと思います。



(4)弁護士が増えるとモラルハザード(一般的な意味の)が生じる。不祥事が増える。

 これについては、「弁護士業務広告について」に、私の意見を記載しています。



(5)弁護士が増えて競争が激しくなると、弱者救済や人権擁護活動などのお金にならない仕事ができなくなる。 

 弱者救済との関連では、「弱者にも法的救済が必要」に、私の意見を述べています。当該記事のコメント欄には、増員反対派・賛成派双方の意見が書かれています。( 私の意見よりも ) コメント欄のほうが重要だと思います。



 私としては、弁護士が増えれば、弱者に有利になると思います。

 現に、ブログで、法律知識を社会に発信する弁護士は増えています。これらは、弁護士の社会貢献であると同時に、( 事件の受任に向けた ) 営業活動としての側面もあるのではないでしょうか。弁護士が増えたことで、弱者が救済されやすくなっていると思います。

 また、法律知識の発信そのものが、弱者保護になっていると思います。社会に法律知識が発信されることによって、( 弁護士に依頼しない場合であっても ) 対策を立てやすくなります。



 次に、「弱者救済や人権擁護活動などのお金にならない仕事」に割ける時間についてですが、

 たしかに、「弁護士一人あたり」でみれば減るかもしれません。しかし、弁護士の人数が増えるのですから、「弁護士一人あたり」の時間は減っても、「社会全体でみれば」減るとは限りません。つまり、

   「弁護士一人あたりの活動時間」×「弁護士の人数」でみた場合には、
   「弱者救済や人権擁護活動などのお金にならない仕事」に割ける時間が増える、
      ( したがって、社会全体では有益な結果になる )

という可能性が考慮されていません。

 この可能性をも考慮したうえで反論しなければ、これは、増員反対論の根拠とはなり得ません。



 私の意見は上記のとおりです。

 私は増員政策を支持していますが、反論の内容によっては、( 当然 ) 増員反対論に鞍替えすることもありえます。批判などありましたら、よろしくお願いいたします。

粗債務と純債務

2010-03-24 | 日記
高橋洋一 『日本は財政危機ではない!』 ( p.26 )

 財務省は「日本は八四三兆円もの債務を抱えている。これはGDPの一六〇%にもあたる危機的数字だ」と財政危機を盛んに喧伝し、増税の必要性を強調している。しかし、これは財政タカ派の増税キャンペーンであり、数字の扱いには注意が要る。裏にはトリックが隠されているからだ。
 私から見れば二つの点でおかしい。第一点は、債務だけを強調し、日本政府が保有する莫大な資産については、触れていないことである。
 財務省のいう八三四兆円は「粗債務(あらさいむ)」と呼ばれるもので、民間企業に置き換えれば、銀行などから受けている融資や取引先への原材料費の未払い金などの負債である。
 確かに八三四兆円の債務は国際的に見ても群を抜いて多い。この額だけを見れば、日本は世界一の大借金国という見方も成り立つ。
 だが、粗債務の大きさだけでは、財政は評価できない。粗債務の数字にも意味はある。ただし、国際的にしばしば使われている、もうひとつの指標「純債務」のほうがはるかに重要だ。
 企業は内部留保や土地などの資産を保有しているので、必ずしも負債の総額がそのまま債務とはならない。そうした金融資産を差し引いた数字が「純債務」だ。
 たとえば、一〇〇〇億円の負債を抱えている企業があったとしよう。この企業が、一方で五〇〇億円の資産を保有しているとしたらどうか。普通、企業の財務内容は、粗債務ではなく、純債務で見るので、この企業の負債は五〇〇億円となる。
 日本過府も、現金・預金や有価証券のほか、特殊法人などへの貸付金や出資金、および年金資金運用基金への預託金などの金融資産と、国有財産や公共用財産(道路、河川など)などの固定資産を保有している(図表1参照)。
 しかも、日本ほど政府が多額の資産を持っている国はない。政府資産残高の対GDP比で先進諸国と比べてみるとわかる。日本は一五〇%程度なのに対し、アメリカは一五%程度。一桁違う。EU諸国と比較しても、イギリス三〇%台、イタリア七〇%台と、日本の政府資産は桁外れに大きい。
 二〇〇五年末に発表された額では、日本の政府資産は五三八兆円にも上っている。これを粗債務から差し引くと、純債務は約三〇〇兆円まで減る。
 ところが、財務省の発表する数字は常に粗債務で、これら政府が保有する資産を差し引いてはいない。
 たとえ膨大な政府資産を保有していても、換金できない性質の(あるいは処分する気がない)ものなら、粗債務がそのまま借金の額になるから、粗債務という概念もまったく無意味だとはいわないが、約五〇〇兆円のうち、換金できるものは相当ある。財務省が粗債務だけを強調するのは、「保有している資産はすべて手放す気がありません」といっているに等しいのだ。


 財務省は財政危機を盛んに喧伝しているが、裏にはトリック(増税キャンペーン)が隠されている。日本は、桁外れに膨大な政府資産を抱えており、実質的に意味をもつ「純債務」でみれば、日本は財政危機だとはいえない、と書かれています。



 この主張は、「財務省の財政赤字削減スタンス」と結びついて、「日本は財政危機ではない」という著者の主張となっているものと思われます。

 たしかに、この主張には説得力があります。



 通常、この種の見解に対しては、「売れない資産」を持っていても意味がない、といった批判が存在します。「売れる」資産であっても、いざ売ろうとすると、(取得時に比べ)価格が著しく下落してしまうものもあると思います ( たとえば旧国鉄の線路用地などは、土地が細長い形状をしているため、あまり高くは売れないでしょう ) 。

 この批判にも、説得力があるのですが、

 諸外国も、同様の資産を有しているはずであり、それらの「総計」を比べたとき、日本が桁外れに大きな資産を抱えているのであれば、それなりの評価をしてもよいのではないかと思います。

 つまり、資産は「やや少なめ」に見積もるとしても、相当の評価額になるのではないか、と思います。



 とすれば、日本の純債務は、公表数字の半分、とまではいかなくとも、3 分の 2 くらいと考えてよいのではないか。現在、1000 兆円ならば、3 分の 2 として 666 兆円くらいと見積もってよいのではないか。とすると…、

 日本は財政危機ではない、とまでは言えないとしても、マスコミ等で喧伝されているほどの危機ではなく、実際には少し余裕があるのではないか、と考える余地があるのではないかと思います。

日弁連会長選挙と、弁護士にとっての「改革」

2010-03-11 | 日記
asani.com」の「日弁連会長に宇都宮氏 再投票、改革訴え主流派破る」(2010年3月10日22時56分)

2月の投票で当選者が決まらず、史上初の再投票となった日本弁護士連合会(会員約2万8千人)の会長選の投開票が10日、改めて実施された。多重債務問題への取り組みで知られ、08年末の「年越し派遣村」で名誉村長を務めた宇都宮健児氏(63)=東京弁護士会=が当選を決めた。任期は4月からの2年間。

 ほかに立候補していたのは、会員が多い東京・大阪の弁護士会の主流派閥が推し、現執行部の路線継承を訴えた元日弁連副会長山本剛嗣(たけじ)氏(66)=同。宇都宮氏は無派閥で立候補したが、全国52の弁護士会のうち46会で得票数が1位となり、当選に必要な条件である「3分の1以上の会(18会以上)での勝利」を確保。前回は2位だった大阪弁護士会で逆転したほか、山本氏が2度とも1位となった東京の三つの弁護士会でも票差を縮め、総得票数で山本氏を上回った。

 前回の投票では、総得票数で山本氏が宇都宮氏を上回ったものの、山本氏は「18会以上の勝利」を得られず、再投票となっていた。

 選挙戦を通じて宇都宮氏は、司法試験合格者を年間3千人とする政府計画に反対して「1500人程度に減らす」と明言し、弁護士の増加で就職や仕事探しに苦労する地方の会員や若手会員に浸透した。

 今回の当選は法務省、最高裁との「協調」を重視してきた執行部の姿勢に批判が集まった形で、今後の改革論議にも影響を与えるのは必至だ。

 宇都宮氏は今後、貧困や格差拡大を「最大の人権問題」と位置づけ、日弁連をあげて取り組むとしている。執行部の事務をとりまとめる事務総長には海渡(かいど)雄一氏=第二東京弁護士会=を充てる方針。海渡氏は社民党党首の福島瑞穂・消費者担当相の夫。(延与光貞)


 宇都宮健児弁護士が、「改革訴え主流派破る」ことによって、日弁連会長に当選した、と報じられています。



 「改革」には、弁護士増員も含まれる、というのが、世間一般の考えかただと思います。

 しかし、弁護士さんの感覚では、弁護士増員は改革ではなく、弁護士増員計画に反対して改革を逆行させることが、「改革」となるようです。弁護士さんの感覚は、世間の感覚とはズレているのではないかと思います。


 もっとも、弁護士増員「以外」については、改革される、ということなのかもしれません。そうであるならば、増員反対であっても、「改革」といえなくもありませんが、弁護士の増員は、改革の「かなり大きな」要素だと考えるべきではないかと思います。



 この報道には、

   「選挙戦を通じて宇都宮氏は、司法試験合格者を年間3千人とする政府計画に反対して「1500人程度に減らす」と明言し、弁護士の増加で就職や仕事探しに苦労する地方の会員や若手会員に浸透した。」

とあります。この記述は、「弁護士増員に反対する弁護士の本音」に記した私の主張が「正しい」と、示しているとみてよいと思います。すなわち、弁護士が増員に反対するのは、「弁護士の増加で就職や仕事探しに苦労する」のが嫌だからである、というものです。

 仕事探しに苦労しているのは、なにも弁護士だけではありません。仕事探しに苦労するのが嫌だから増員反対、というのでは、世間の理解は得られないのではないかと思います。一般の感覚からすれば、弁護士は「甘えている」ということになるだろうと思います。

 なお、弁護士の「就職」については、一般的な「就職」とは意味合いが異なることに、注意が必要だと思います。すなわち、彼ら(新人弁護士)は、弁護士増員(合格者数増加)の恩恵を受けて合格しているのであり、その意味で、世間で一般的にイメージされている「就職」とは、意味合いが異なります。この問題については、「新司法試験合格者数に関する嘆願書」に記していますので、ご参照いただければと思います。



 なお、ブログ「弁護士こぐまの日記」を開設しておられる「こぐま弁護士」さんは、「日弁連会長選挙」について、ブログに記事を書かれていますが、

 ブログに記事を書く暇(ヒマ)はあっても、私の「実名表記の是非と納得」における問いには、答える暇はない、ということなのでしょうか?

 「弁護士自治を弱めてもよいかもしれない」に書いた内容から推測すると、「こぐま弁護士」は、「誰かから怒鳴りつけられて」「びびっている」のかもしれない、とも考えられるのですが、「こぐま弁護士」さんには、弁護士として、「公正な態度」をとっていただきたいと思います。そこで、再び、トラックバックを送ってみます。「弁護士こぐまの日記」の最新の記事、「日弁連会長選挙」にトラックバックを送ります。

財務省の財政赤字削減スタンス

2010-03-08 | 日記
高橋洋一 『日本は財政危機ではない!』 ( p.24 )

 財務省内で増税を強く望んでいるのは主計局である。財務省が強い力を保持できているのは、政治家に予算を配分する立場にあるからだ。その役割を担っているのは主計局。永田町を支配するためにも、主計局は予算を配れるよう常に自分たちの財布をいっぱいにしておきたい。だから、増税を主張する。
 小泉改革で景気は回復して税収が五兆円の自然増になった。それを全部、財政赤字の穴埋めに使えば、その分赤字は減るので、税収増は本来なら歓迎すべきことである。だが、財務省主計局はそうは考えない。
 二〇〇六年度の財政赤字は、当初予算で二九兆九七三〇億円、約三〇兆円だった。仮にその年度に見込まれる五兆円の自然増収を全額、赤字減らしにあてれば、二〇〇六年度の赤字は二五兆円まで減る。すると、次の年度は、二五兆円を上回る赤字予算は組めない。もし、そんなことをすると、マスコミから安倍政権は財政再建を真剣に考えていないと批判される。歳出削減というハードルも一層高くなり、主計局は苦しめられる。
 そこで増収分のうち一・五兆円を補正予算で使う。すると、二〇〇六年度の赤字は、約二七兆円となって、翌年の歳出削減のハードルは下がる。
 主計局にとって経済成長による税収増はしょせん臨時ボーナスのようなものでしかない。彼らが狙っているのは、あくまでも、恒久的に自分たちの財布を確実にパンパンにしてくれる増税だ。赤字の額を減らせなければ、増税の議論を持ち出しやすくなる。しかも、一・五兆円の補正予算を組み、カネをバラ撒けば、永田町への影響力も保てる。
 さらに、大型補正予算の編成で安倍内閣の支持率が下がれば、改革路線の内閣を潰せる。一・五兆円の補正予算は、どう転んでも、主計局にとってうまみがあった。


 財務省は本気で、財政赤字を削減しようとしていない。財務省は予算に余裕があれば、補正予算でバラ撒き、永田町への影響力を保とうとする、と書かれています。



 たしかに、本当に財政赤字を削減しようとしているなら、自然増収分は全額、赤字減らしにあてたはずである、ということになるでしょう。



 それでは、財務省が増収分を全額、財政赤字の削減にあてなかったのはなぜか。

 上記引用部を読むかぎりでは、財務省が本当に望んでいるのは、政治への影響力の維持・拡大、あるいは、既存の官僚機構の維持ではないか、と推測されます。



 ところで、この本のタイトルは、『日本は財政危機ではない!』です。このところ、日本の国家財政は大ピンチである、という意見が多くなってきていますが、上記、財務省の行動が示唆しているのは、「日本の国家財政には余裕がある」、ではないかと思います。

 財政に余裕がなければ、財務省は、財政赤字の削減を、もっと真剣に行っているはずである、と考えられます。

 「財務官僚は無能、あるいは無責任である」と考えれば話は別ですが、そのように考えないならば、「財務省が自然増収分の一部をバラ撒いたのは、財政に余裕があるからである」と考えてよいと思います。



 いまとなっては、2006 年度の財政赤字が約 30 兆円だった、と言われても、「小さな金額」だと感じてしまいますが、当時は、「大きな金額」だと感じていたはずです。本当に財政に余裕があるとするならば、いま、税収をはるかに超える国債が発行されても、「どうってことはない」のかもしれません。

 「かもしれない」と書いているのは、論理的には、「財務官僚は無能、あるいは無責任である」という可能性もありうるからですが、財政の現状を誰よりも詳しく知っている財務官僚の行動から考えるかぎりでは、この可能性は「まず、ありえない」と考えてよいのではないかと思います。



 しかし、このような根拠では、安心感は得られないと思います。

 そこで、今度はこの本、『日本は財政危機ではない!』を読みつつ、本当に「日本は財政危機ではない」のかを、考えたいと思います。

アドバイスには裏がある?

2010-03-06 | 日記
高橋洋一 『日本は財政危機ではない!』 ( p.20 )

 ところが、日本では変動相場制に移った後も、固定相場制時代の「景気には公共投資が一番」という幻想がずっと残っており、財政政策による景気対策を続けた。
 それどころか、一九七八年のボン・サミットでは、先進各国によって日本と西ドイツが先頭に立って世界の景気を牽引して欲しいという「機関車論」が唱えられ、おだてられた日本は、これに乗ってしまう。
 以来、日本政府は、一九八〇年代、一九九〇年代と底なしの公共投資を続け、内需拡大に突っ走った。景気が低迷した一九九〇年代には、公共投資を惜しみなく行い、財源捻出のために毎年、国債を乱発、一九九二年から二〇〇〇年まで、公共事業を中心に補正予算の事業規模は総額一三〇兆円を超えた。
 その結果はどうだったか。景気は一向に上向かず、国債残高が急速に膨張しただけである。
 結局、この日本の無知な経済政策を喜んだのは、諸外国だった。日本の公共投資は、先ほど述べたように、自国の輸出減、すなわち他国の輸出増につながる。
 諸外国にとっては、大きなメリットがあるので、どの国も日本に「それは間違った政策だ」などとはアドバイスしてくれない。腹のなかではバカな国だと、せせら笑いながら見ていたはずである。
 国際社会は弱肉強食だ。どの国も自国の国益を最優先に、闘っている。アメリカは同盟国のくせに、一言も忠告してくれないのはおかしいなどと憤るのはお門違いだ。経済に無知だった当時の政権が悪い。
 蛇足だが、日本で公共投資を行うと円高になるので、円建の給料をもらう外国人にとっても実質給料アップになる。外国人エコノミストから公共投資を提言されることが多いと思うのは、私の思い過ごしだろう。経済政策の過ちについて、財務省も日銀もマスコミも指摘しなかったのも問題だ。日銀は当時、独立性を確保したばかりで、金融政策には及び腰だった。
 財務省は財務省で、マスコミから「財務政策から逃げている」と非難されるのが怖かったのだろう。公共投資を要求する政治家に、積極的に間違いを正そうとはしなかった。
 こうして、本来、取るべき金融政策をやらず、無駄な財政政策に終始した挙句、借金だけが積み重なり、景気は一向に回復しないという最悪の状態が続いてしまったのだ。
 景気を回復させ、経済成長を促し、しかも財政再建をしたいのなら金融政策しかない。ほとんど無意味ともいえる公共投資のバラ撒きは、百害あって一利なし。今後も極力、歳出カットに努めるべきである。


 どこの国も自国の国益を最優先に考えている。したがって、他の国が、本当に「日本のために」アドバイスをすることはない。「腹のなかではバカな国だと、せせら笑いながら見ていた」りするのが国際社会であり、「同盟国のくせに、一言も忠告してくれないのはおかしいなどと憤るのはお門違い」である、と書かれています。
 また、外国人エコノミストも、自分の利益を最優先に考えている、外国人エコノミストのアドバイスには「裏がある」、と暗示されています。



 経済学の分野については、
  • 「景気には公共投資が一番」だ、
  • いや、「それは間違った政策だ」。効き目があるのは金融政策だ、
  • 公共投資も金融政策も効かない。構造改革が必要だ。

などと意見が分かれており、まさに、「どれが本当かわからない」状況になっているのではないかと思います。学者・論者によって、意見が分かれているのが現状だと思われます。



 したがって国民(読者)としては、どれを信用してよいのかわからない、ということになるのですが、なんらかの「権威」を信用するのではなく、「自分で」考えれば、それでよいのではないかと思います。つまり、

   「誰が言っているか」ではなく、「何を言っているか」で判断すればよい

と思います。



 他国や他人が、「日本のために」アドバイスをすることはなく、「腹のなかではバカな国だと、せせら笑いながら見ていた」りするのかどうか、それは、私にはわかりませんが、たとえ「裏がある」としても、「誰が言っているかではなく、何を言っているか」で判断するなら、

   そんなことは、どうでもよい

のではないか、と思います。相手を信用するかしないか、これは、とても難しい問題ですが、「誰が言っているかではなく、何を言っているか」を「自分で」判断するなら、それでよいのではないかと思います。



 したがって、「同盟国のくせに、一言も忠告してくれないのはおかしいなどと憤るのはお門違い」であるのは当然だとは思いますが、「同盟国のくせに、一言も忠告してくれないのはおかしいなどと憤る」人が、本当にいるのでしょうか?

 もしいるとすれば、その人は、「甘えている」のでしょう。



 さて、私は上記のように考えますが、

 アドバイスを求めてもいないのに、「勝手に」「トンチンカンな」「アドバイス」をして、こちらがその「アドバイス(?)」に従わないと、

   「アドバイスしてやってるんだ!!」

と怒鳴る人がいるのが、困ります。これはおそらく、アドバイスを「装って」、「自分に有利な状況にしようとしている」のではないかと思われるのですが、すくなくとも、このような人は「アドバイスを装って、自分に有利な状況にしようとしている」と疑われても、「やむを得ない」でしょう。これが弁護士さんなのですから、国民としては、困ってしまいます。また、この弁護士さんは、こちらが「求めている」問いには、まったく答えようとしない、というのも、奇妙です。ますます、「アドバイスを装って、自分に有利な状況にしようとしている」のではないか、と「疑って」しまいます。



 この弁護士さんとのやりとりについては、ときおり、書き記しておりますが、こんな「アドバイス」をされたりもしました。私(筆者)が「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした」ので、その弁護士さんとの「会話」等の

   経緯・内容等について、「誰にも言わないほうがいいと思う」

と、私が「アドバイスを求めていないにもかかわらず」「勝手に」アドバイスをされたりもしたのですが、私が、「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした」のであれば、私は警察に自首するなどして、「罪をつぐなうべき」ではないか、と思います。
  • なぜ、この弁護士さんは、「隠せ」というアドバイスをされたのか、
  • また、弁護士ともあろう者が、「隠せ」というアドバイスをしてもよいのか、問題はないのか、

などと考えてしまいます。とくに後者については、法的・倫理的な問題はないのか、とても気になります。

 前者については、「それなら警察に行って自首しようと思いますが、警察に行ってもかまいませんか?」と私が尋ねた際、「なぜ、警察に行く必要があるのか」「警察に行く必要はない」と、「しつこく」言われたが、「警察に行ってもよいのかどうかについては、まったく答えていただけなかった」ことも、

   「???」

に思っています。これは、この弁護士さんが「アドバイスを装って、自分に有利な状況にしようとしている(事実を隠そうとしている)」と考えれば、合理的に説明できるのですが、しかし、本人に確かめてみないことには、これが本当かどうかは、わかりません。私には思いもよらない、奇想天外な説明が、あり得るかもしれないからです。



■追記
 「実名表記の是非と納得」に記載のとおり、実名表記をしても問題ない(むしろ実名で表記すべきである)、と考えておりますが、「弁護士こぐまの日記」を開設されている、「こぐま弁護士」からの反論を待っているために、とりあえず今回は、実名を表記せずに記載しています。