茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.36 )
習近平の父、仲勲が毛沢東によって「打倒すべき対象」とされ、理由も告げられずに副首相を解任されて権力の座から滑り落ちた。そのときのことを近平は「人は変わりやすく、人情など信じられないもの。人間とは何と薄情なのか」と回想している、と書かれています。
著者は、「理由も告げられずに副首相を解任され」た、「法的な手続きもなしに解任された」、などと書いていますが、
これは問題とするにはあたらないと思います。
中国の(当時の)法制度については知りませんが、通常、閣僚などを罷免する際には、理由の説明や、法的な手続きは必要ないと思います。極端なことを言えば、「気に入らないから解任する。反論は認めない」であってもよいわけです。
この点は、一般のサラリーマンなどとは異なります。
さて、著者によれば、
近平の「人は変わりやすく、人情など信じられないもの。人間とは何と薄情なのか」という感想には、とくに意味はないでしょう。たんに、「当然のこと」を述べているにすぎないと考えられます。
これをもとに、近平は「人間を信じなくなった」という解釈もあり得るとは思いますが、
たんに、習近平が「世間を知った」という程度に捉えておけば十分だと思います。
けれども、私なら…、
ここで、はっきり宣言しておきます。(キッパリ)
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「江沢民と曾慶紅の対立と、両者の裏取引」
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「習近平の父、仲勲の教育方針」
だが、そのような幸せな生活は長く続かなかった。近平が9歳の時、62年秋に、当時副首相だった父の仲勲が権力闘争に巻き込まれ、家族の生活は暗転する。
(中略)
中国のようなコネクションや人間関係が極めて重視される社会にあっては、他人同士の権力闘争に巻き込まれて粛清されることはままある。仲勲も知らず知らずのうちに、そのような危険な道に引きずり込まれていったのである。
きっかけは何でもないことだった。62年秋、かつての同志で、すでに死去していた劉志丹の功績を称えるために劉の弟の劉景範・党監察部副部長とその夫人・李建彤が書いた小説『劉志丹』が仲勲のともに持ち込まれ、出版を依頼された。かつての同志である劉のためならと、仲勲は同意した。しかし、これを知った毛の腹心で、「特務の親玉」「粛清王」「中国のベリア」などいくつも異名を持つ康生・党中央書記処書記が、
「劉志丹の名を借りて高崗事件の名誉回復を狙うもの」
と批判したことで、出版事業が一気に政治問題化した。
彭徳懐失脚から3年しか経っておらず、復権を模索していた毛にとって、彭に近い仲勲も「打倒すべき対象」だったのだ。
仲勲はこの小説の執筆を勧めた首謀者とされ、外部には何の発表もないまま副首相を解任された。
毛は62年、第8期中央委員会第10回総会における講話で、
「小説を反革命に利用するとは一大発明だ。政権を倒そうと企み、まずは世論を誘導して意識形態をつくり、上層建築をこしらえる反革命階級とは、このようなものなのだ」
と口を極めて仲勲を批判した。毛の発言で、直ちに法的な手続きもなしに副首相を解任された点で、後の文化大革命の予行演習とも受け取られる事件である。
また、康生も仲勲について、
「毛沢東・主席と党に反対する大野心家、大陰謀家だ」
と自らのでっち上げを正当化した。これにより仲勲は、76年までの14年間の大半を獄中で過ごす悲惨な時代を送ることになる。
仲勲を巻き込んだ一連の事件は小説の名前をとって「劉志丹事件」と呼ばれるが、79年頃から、この事件の関係者が名誉回復され、回顧録が発表されるなど、結局、仲勲が彭に近い存在だったことから事件は康生によって巧妙に仕組まれた可能性が高いとみられるようになった。
(中略)
副首相まで務めた父・仲勲が康生の謀略にひっかかって失脚、逮捕されたことで、何不自由なく暮らしてきた習近平の生活も一変した。
「人は変わりやすく、人情など信じられないもの。人間とは何と薄情なのか」
近平は父・仲勲が理由も告げられずに副首相を解任され、権力の座から滑り落ちた後の周囲の豹変ぶりを、当時を回想した文章で、このように述べている。
父がまだ最高幹部として権勢を振るっていた頃、にこやかに笑いかけてくれた隣近所の住人たちのほか、習家のお手伝いさんや運転手、あるいは警備の兵士までも、近平を見ると表情を引きつらせて避けるようになった。小学校では、幹部の子弟ばかり集まっているせいか、「習仲勲・副首相失脚」のニュースが知れ渡っており、教師やクラスメートですら、近平に厳しい視線を向けた。9歳の近平少年にとって、初めて世間の冷たさを思い知らされた経験だった。
(中略)
仲勲が党組織部長や副首相時代はひきも切らなかった来客が、失脚した後は門をくぐる者もおらず、習家には閑散と寒々しい雰囲気が漂っていた。
「まさに天国から地獄に落とされた変わりようだった」
近平はこう書いている。
習近平の父、仲勲が毛沢東によって「打倒すべき対象」とされ、理由も告げられずに副首相を解任されて権力の座から滑り落ちた。そのときのことを近平は「人は変わりやすく、人情など信じられないもの。人間とは何と薄情なのか」と回想している、と書かれています。
著者は、「理由も告げられずに副首相を解任され」た、「法的な手続きもなしに解任された」、などと書いていますが、
これは問題とするにはあたらないと思います。
中国の(当時の)法制度については知りませんが、通常、閣僚などを罷免する際には、理由の説明や、法的な手続きは必要ないと思います。極端なことを言えば、「気に入らないから解任する。反論は認めない」であってもよいわけです。
この点は、一般のサラリーマンなどとは異なります。
さて、著者によれば、
副首相まで務めた父・仲勲が康生の謀略にひっかかって失脚、逮捕されたことで、何不自由なく暮らしてきた習近平の生活も一変した。とのことですが、
「人は変わりやすく、人情など信じられないもの。人間とは何と薄情なのか」
近平は父・仲勲が理由も告げられずに副首相を解任され、権力の座から滑り落ちた後の周囲の豹変ぶりを、当時を回想した文章で、このように述べている。
父がまだ最高幹部として権勢を振るっていた頃、にこやかに笑いかけてくれた隣近所の住人たちのほか、習家のお手伝いさんや運転手、あるいは警備の兵士までも、近平を見ると表情を引きつらせて避けるようになった。小学校では、幹部の子弟ばかり集まっているせいか、「習仲勲・副首相失脚」のニュースが知れ渡っており、教師やクラスメートですら、近平に厳しい視線を向けた。9歳の近平少年にとって、初めて世間の冷たさを思い知らされた経験だった。
(中略)
仲勲が党組織部長や副首相時代はひきも切らなかった来客が、失脚した後は門をくぐる者もおらず、習家には閑散と寒々しい雰囲気が漂っていた。
「まさに天国から地獄に落とされた変わりようだった」
近平はこう書いている。
近平の「人は変わりやすく、人情など信じられないもの。人間とは何と薄情なのか」という感想には、とくに意味はないでしょう。たんに、「当然のこと」を述べているにすぎないと考えられます。
これをもとに、近平は「人間を信じなくなった」という解釈もあり得るとは思いますが、
たんに、習近平が「世間を知った」という程度に捉えておけば十分だと思います。
けれども、私なら…、
にこやかに笑いかけてくれた隣近所の住人たちのほか、習家のお手伝いさんや運転手、あるいは警備の兵士までも、近平を見ると表情を引きつらせて避けるようになったという態度はとりませんね。
ここで、はっきり宣言しておきます。(キッパリ)
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