26日から27日にかけて、洛陽会の河口湖温泉大会に参加しました。
洛陽会とは、中国・洛陽から日本へ帰国した元・八路軍の方々でつくる同窓会のようなものです。
八路軍とは、ウィキペディアによると、「旧日本陸軍にとって八路軍は大敵であった。民衆に根ざした八路軍は兵站の確保も容易であり、神出鬼没のゲリラ戦で大いに日本軍を悩ませた。また、抗日戦線を戦う過程で華北を中心に民衆に根ざした八路軍(=人民解放軍)はその後の中国革命戦争(国共内戦)において国民党軍よりも大衆の支持を集めたとされ、中華人民共和国設立に貢献した」とあります。
八路軍には「三大規律八項注意」という内部規律があり、これによりかなり統制が利いており、だからこそ民衆の支持を得られたようです。
温泉に浸かりながらかつてを懐かしみ、近況を話し合いました。
部外者の私が突如混ざって大丈夫だろうかと不安でしたが、皆さんはとても温かく迎えてくださいました。
参加者は私以外に9人(私が帰ってから2人ほど追加)。男性3人、女性6人です。
無知な私は、「軍」と言うならば当然男だらけだろうと思っていたので女性の多さに驚きました。
洛陽会は、かつては数十人単位で集まっていましたが、最近は高齢化のためになかなか集まることはできません。
けれど私がお会いした方々は、足が…、腰が…、なんて言いながら、お世辞でなくとても元気そうに見えました。
「お若いですね」と言ったら、「青春時代に返ってしまうからよ」と言っていました。20代の青春真っ只中すべてを、戦争に奪われた方々です。
彼らの話は止まりません。我も我もと、会話が続きます。
私は時に会話に割り込みながら、それでも質問にはとても丁寧に答えてくれました。
以下、雑多なまとまりですが、少しだけ?綴ります。
~・・~・・~・・~
八路軍に加わった経緯はさまざまですが、多くが敗戦後にソ連の捕虜となり、ソ連が引き揚げた後にそのまま八路軍の管轄下に置かれた、というものです。また、勤めていた病院がそのまま八路軍に接収された、という人もいます。前者は捕虜扱いですが、後者は従業員扱い、といった違いもあるようです。
そしてそのまま国民党・蒋介石との戦争に動員されていきますが、彼らのほとんどが医療部隊でした。
その間、家族とは離れ離れです。帰国後再会できた人もいますが、帰国できないまま栄養失調などで父やほとんどのきょうだいを亡くしたという人もいました。
前線にいた人は、次々とくる患者の治療にとても忙しかったそうです。
部隊について各所を転々とするのですが、そのときに一般住民の家を借りることがあります。
八路軍の「三大規律」は、民衆の糸一筋、針一本でも奪ってはならないというものです。民家を借りても、家には上がりません。土間を借り、あるときはそのまま、あるときは戸板を借りてわらを敷いた上に寝ます。
ある人は、戦時下では日本軍の下でも八路軍の下でも自分の意志などなかった、と言います。またある人は、八路軍の規律性・思想などに共感する人もいます。ある人は、新中国の成立に私たちも寄与した、と言います。
当然いろんな感じ方があります。部隊によって雰囲気が違った面もあるようです。
そして彼らは、仕事の合間を見ていろいろな学習も受けたそうです。中国の歴史、マルクス思想、等々です。
おもしろかったのは、ある人の次のことばです。
「中国共産党の『教育』によって私たちが洗脳された、なんて言う(日本)人もいるけど、私たちだって馬鹿じゃないからね、時が経っていろいろ学んで考えれば、かつて日本軍がやった侵略がいかに間違っていたか自分で自覚できるようになるのよ」
…などなど、尽きません。
他にも具体的な仕事の話、患者の話、死にジラミの話、冬季における死体の処理の話、敗戦前の日本兵とのやり取りの話など、いろいろ教えてもらいました。
~・・~・・~・・~
今回参加された方の中に、日本平和委員会を知る方も多くいました。
帰国後、今から50年近くも前になりますが、当時の新橋の事務所に何度か行ったことがあると言う人がいました。「まだあったのね!」と、何度も言われてしまいました。かなり驚いていました。平和委員会の歴史を実感。
また、平和委員会なんて聞いたことないがどんな団体なの?と、少しいかがわしそうに言っていた方も、「今度地域で『あたらしい憲法のはなし』で憲法を学習するのよ」と話していました。「あたらしい憲法の話」とは、日本国憲法制定直後に当時の文部省が出したテキストですが、これを当時の表紙の絵もそのままに復刻版を出しているのは、まさに我が日本平和委員会です。「そのテキスト、きっとうちで出しているものですよ!」と伝えましたが、なんとも身近でうれしく思いました。
~・・~・・~・・~
ついつい、ものすごく長い文章になってしまいました。
幹事のIさんは「今年が最後かも」と言っていましたが、実は皆さんは次回開催を望んでいる様子。来年も参加させてもらおうと思いました。
先頭の写真は、宿泊した温泉旅館前での記念撮影。
こちらは、なんだかドサクサ紛れにいただいてしまったたくさんのお土産。
洛陽会とは、中国・洛陽から日本へ帰国した元・八路軍の方々でつくる同窓会のようなものです。
八路軍とは、ウィキペディアによると、「旧日本陸軍にとって八路軍は大敵であった。民衆に根ざした八路軍は兵站の確保も容易であり、神出鬼没のゲリラ戦で大いに日本軍を悩ませた。また、抗日戦線を戦う過程で華北を中心に民衆に根ざした八路軍(=人民解放軍)はその後の中国革命戦争(国共内戦)において国民党軍よりも大衆の支持を集めたとされ、中華人民共和国設立に貢献した」とあります。
八路軍には「三大規律八項注意」という内部規律があり、これによりかなり統制が利いており、だからこそ民衆の支持を得られたようです。
温泉に浸かりながらかつてを懐かしみ、近況を話し合いました。
部外者の私が突如混ざって大丈夫だろうかと不安でしたが、皆さんはとても温かく迎えてくださいました。
参加者は私以外に9人(私が帰ってから2人ほど追加)。男性3人、女性6人です。
無知な私は、「軍」と言うならば当然男だらけだろうと思っていたので女性の多さに驚きました。
洛陽会は、かつては数十人単位で集まっていましたが、最近は高齢化のためになかなか集まることはできません。
けれど私がお会いした方々は、足が…、腰が…、なんて言いながら、お世辞でなくとても元気そうに見えました。
「お若いですね」と言ったら、「青春時代に返ってしまうからよ」と言っていました。20代の青春真っ只中すべてを、戦争に奪われた方々です。
彼らの話は止まりません。我も我もと、会話が続きます。
私は時に会話に割り込みながら、それでも質問にはとても丁寧に答えてくれました。
以下、雑多なまとまりですが、少しだけ?綴ります。
~・・~・・~・・~
八路軍に加わった経緯はさまざまですが、多くが敗戦後にソ連の捕虜となり、ソ連が引き揚げた後にそのまま八路軍の管轄下に置かれた、というものです。また、勤めていた病院がそのまま八路軍に接収された、という人もいます。前者は捕虜扱いですが、後者は従業員扱い、といった違いもあるようです。
そしてそのまま国民党・蒋介石との戦争に動員されていきますが、彼らのほとんどが医療部隊でした。
その間、家族とは離れ離れです。帰国後再会できた人もいますが、帰国できないまま栄養失調などで父やほとんどのきょうだいを亡くしたという人もいました。
前線にいた人は、次々とくる患者の治療にとても忙しかったそうです。
部隊について各所を転々とするのですが、そのときに一般住民の家を借りることがあります。
八路軍の「三大規律」は、民衆の糸一筋、針一本でも奪ってはならないというものです。民家を借りても、家には上がりません。土間を借り、あるときはそのまま、あるときは戸板を借りてわらを敷いた上に寝ます。
ある人は、戦時下では日本軍の下でも八路軍の下でも自分の意志などなかった、と言います。またある人は、八路軍の規律性・思想などに共感する人もいます。ある人は、新中国の成立に私たちも寄与した、と言います。
当然いろんな感じ方があります。部隊によって雰囲気が違った面もあるようです。
そして彼らは、仕事の合間を見ていろいろな学習も受けたそうです。中国の歴史、マルクス思想、等々です。
おもしろかったのは、ある人の次のことばです。
「中国共産党の『教育』によって私たちが洗脳された、なんて言う(日本)人もいるけど、私たちだって馬鹿じゃないからね、時が経っていろいろ学んで考えれば、かつて日本軍がやった侵略がいかに間違っていたか自分で自覚できるようになるのよ」
…などなど、尽きません。
他にも具体的な仕事の話、患者の話、死にジラミの話、冬季における死体の処理の話、敗戦前の日本兵とのやり取りの話など、いろいろ教えてもらいました。
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今回参加された方の中に、日本平和委員会を知る方も多くいました。
帰国後、今から50年近くも前になりますが、当時の新橋の事務所に何度か行ったことがあると言う人がいました。「まだあったのね!」と、何度も言われてしまいました。かなり驚いていました。平和委員会の歴史を実感。
また、平和委員会なんて聞いたことないがどんな団体なの?と、少しいかがわしそうに言っていた方も、「今度地域で『あたらしい憲法のはなし』で憲法を学習するのよ」と話していました。「あたらしい憲法の話」とは、日本国憲法制定直後に当時の文部省が出したテキストですが、これを当時の表紙の絵もそのままに復刻版を出しているのは、まさに我が日本平和委員会です。「そのテキスト、きっとうちで出しているものですよ!」と伝えましたが、なんとも身近でうれしく思いました。
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ついつい、ものすごく長い文章になってしまいました。
幹事のIさんは「今年が最後かも」と言っていましたが、実は皆さんは次回開催を望んでいる様子。来年も参加させてもらおうと思いました。
先頭の写真は、宿泊した温泉旅館前での記念撮影。
こちらは、なんだかドサクサ紛れにいただいてしまったたくさんのお土産。
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