あいとポッポパーティー

あいをさぐりながら、友人に発信。
あいとへいわのあいは、解せなかったけれど注目のテーマ。

みたままつりの靖国へ

2014-07-13 15:06:43 | レポート

久しぶりの靖国へ。
といっても1カ月ぶりくらい? あまり久しぶりでもないか。

今年は妊娠したので靖国ガイドはかなり断り、別の方にお願いするなどしてきた。わすがにお引き受けした中でも、今日はいよいよ当面最後のガイドをしてきた。昨日までの暑さにびびっていたが、午前中であり、曇りでもあってさほどつらい暑さでなかったのが救い。

比較的若い方がいっぱいの約25人の皆さんは熱心に聞いてくださった。やはり聞いてもらえると、こちらも元気になるのだ。
馬や犬も祀られているのか、戦死者名簿は今も国から提供されているのか、といった質問もいただいた。いいねー。

今日はちょうどみたままつりの初日であった。ちょうちんずらり、屋台ずらりで楽しそう。大村益次郎像は躍り舞台と化していた。益次郎もびっくりですな。
ガイドを終えた昼ごろには屋台が開き、浴衣姿の若者もたくさん来ていた。五平餅の店があったので食べたかったけど、ランチ前なので我慢した。

みたままつりに合わせ、おもしろ展示がたくさんある。

まずは恒例の、どなたがちょうちん献灯したのかをチェック。報道によれば、今年は5人の閣僚が献灯したそうな。
谷垣氏や稲田氏の名前を発見。


小泉純一郎氏は献灯と何やら文字も。息子氏も献灯していた。


田母神氏はさすがのお言葉。


ほか、猫ひろし氏やさまざまな芸人さんもお言葉を贈っていた。


撮影しそびれたが、「消費税はこわくない」とか、ユリオカ超何とかさんの「禿げてる人は大体友達」とか何とかのお言葉もあった。

[高江ヘリパッド]県民同士が闘う不条理

2011-02-25 10:45:02 | レポート
高江の現場に来る作業員や警備員は、
その日雇われた人も多い。

ブカブカの制服を着たあどけない顔が腕を組み、
住民と対峙させられる光景は本当に悲しくなる。

==

沖縄タイムス 2011年02月25日社説
[高江ヘリパッド]県民同士が闘う不条理

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-02-25_14834/

 「国民同士が戦争をしているのではと思った」。昨年暮れ、東村高江のヘリコプター着陸帯移設をめぐる訴訟の口頭弁論で、酒井良介裁判長が漏らしたコメントだ。そんな闘いがいま高江で激しさを増している。

 「エー、オトー、シナサリーンドー(おぃ、おじさん、懲らしめてやるぞ)」

 反対派住民らによると、沖縄防衛局が雇った若い土木作業員が乱暴な言葉遣いで迫ってきた。23日6時すぎ、まだ辺りは暗い。ダンプカーなど作業車両20台余りが道幅の狭い道路片側を占拠した。

 ヘリパッド建設予定地までの通用路(約3キロ)に敷き詰める砂利を運び入れようとするが、反対派が出入り口をふさいでいるためトラックで搬入できない。作業員は砂利を袋詰めにして、道のないやぶの中をバケツリレーで運び入れようとした。

 ダンプから道路脇に投げ降ろされた砂利袋の上に反対派が座り込む。十数人の反対派に対し、防衛局職員と作業員らは100人近くいた。

 怒声、罵声(ばせい)、悲鳴の中で砂利袋の奪い合いが繰り広げられる。現場に駆け付けた警察はその混乱を見かねて、双方を引き離す。

 そんな危ない小競り合いが何日も続いている。

 23日の「早朝の強襲」を受け、反対派はやぶに茂るヤンバル竹や木々を針金などで結び合わせバリアーを張った。さながらジャングル戦で敵の侵攻を阻止するワナを仕掛けているようだ。

 「国民同士の戦争」。政治の不条理そのものだ。

 闘争小屋で警戒する女性=那覇市=は、顔見知りになった若い作業員もいるという。「戦争につながるんだよ。なんでこんな仕事するの」と聞くと、若者は「職がないから仕方ない」と返したという。

 2度反対決議をした高江区は政府に歯向かえないとあきらめ、条件闘争に入った。

 見返りは、パイン畑を野生のイノシシの食害から守る猪垣を求めた。ほかは公民館改築、墓地・公園整備、防音装置など。

 被害防止策は住宅や学校上空を飛ばない、夜間の飛行禁止、騒音測定の実施と対策、区・村・防衛局の通報・連絡ルートを確立するなどだ。

 日本は米軍の運用に口出ししない。そう知りつつ区は苦渋の選択に追い込まれる。

 浦〓永仁区長は「(ヘリパッドは)いまも嫌だ。負担軽減のしわ寄せはごめんだが、果てしない闘いはできない」と苦悶(くもん)する。

 北部訓練場の返還予定地内のヘリパッド6基を高江集落の近くに移設する。訓練場内には既存のヘリパッドは十数基もある。なぜ移設が必要なのか説明がない。

 さらに言えば米海兵隊の沖縄駐留の理由さえ説明せず、乱暴な公共工事で米軍基地建設を進めるやり方はあまりにも非民主的だ。

 米軍普天間飛行場の県外移転要求は沖縄の民意だ。ヘリパッドの強行建設は、政府が県民同士を闘わせているようにも映る。

 公共性と必要性に疑義がある工事は即刻やめるべきだ。

※(注=〓はへんが「山」でつくりが「竒」)

がんばり続ける被爆者

2009-08-16 21:19:00 | レポート
8月6~10日、長崎へ行ってきました。
原水爆禁止世界大会に参加するため。

青年を対象にした企画準備とあわせて取材など、いつものことながらバタバタしました。
課題をたくさん残しながらも、感動の場面もたくさん。


ひとつは、9日の閉会総会で、被爆者である松谷英子さんと中山高光さんが壇上に上がって話したこと。

松谷さんの顔を拝見をするのは、実に久しぶり。
実は青年分科会にお呼びしたいとも考えていました。
でも閉会に登場されるとは知らんかった!

松谷さんは3歳のとき長崎原爆で被爆。爆風で飛んできた瓦が頭に当たり、右半身まひなどの障害を負いました。
原爆症認定申請するも2度に渡り却下、88年に国を相手に裁判を起こします。

多くの被爆者が原爆症による後遺症に苦しんでいるにもかかわらず、国はそれを原爆のせいだと認めず、彼らの暮らしを保障することを拒んできました。
現在たたかわれている「原爆症認定集団訴訟」のさきがけともなった、松谷訴訟。

長き裁判の末、2000年7月、最高裁で松谷さんの勝利。
当時大学4年だった私は、本当に感動した報でした。
直後8月の原水爆禁止世界大会で、これで夢だった赤いハイヒールを履ける―そう力強く、全身で話す松谷さんの姿に号泣しました。


松谷さんはあの小さな体で裁判を10年以上もたたかった。1・2審ともに松谷さんが勝利したのに、国が控訴・上告したためです。
現在の集団訴訟も、国は時間ばかり延ばしている。


松谷さんや中山さんの主張は、日本政府が始めた戦争によって、アメリカ政府が投下した原爆によって、多くの市民が原爆被害に遭った。それぞれの責任があるはずだ、と。

松谷さんは、国家補償の被爆者援護法をつくるべきだ、それが「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないよう」とする日本国憲法にふさわしい、と話しました。
中山さんは、日本の真珠湾攻撃やアジア侵略にも触れ、戦争被害者の連帯について話しました。

高齢でたくさんの病気を抱えながらも長年被爆者援護と核兵器廃絶の実現のために運動されてきたお2人は、「皆さんとともにがんばりたい」「がんばりまーす!」と、最後に付け加えました。


がんばってきた人が、なおもがんばると言う。
我が身に突きつけられる、じゃあ私は?と問わずにはいられない、2人の姿でした。

平和大会青年分科会で、おじいちゃんが輝く

2006-12-12 21:43:45 | レポート
77歳のおじいちゃんが、88歳のおじいちゃんに励まされる。
そんな場面を目の当たりにできた私は、本当に幸運だと思いました。

9日に岩国市で日本平和大会の青年分科会を開催しました。プログラム詳細は過去の日記より。

「歴史認識の共有をとおして未来をひらく」をテーマに開催しました。

■□■
本名で書きます。
中国戦線に参加した鹿田正夫さんは現在88歳。
中国帰還者連絡会山陰支部の会員です。

中国で、人間から鬼になる過程を話してくれました。
やはり刺突訓練。生きた人間を直に刺し殺すことが、人間の何かを超えさせるようです。もちろんそれまでに土台は作られていました。

数々の蛮行の中で、時間の都合上、一つだけ話してくれました。
明らかに病人を分かる娘を、父親が見る目の前で銃殺したこと。
身振り手振りを混ぜながら、苦しそうに、でも私たちに伝えようと必死で話してくれました。

帰国してから初めて自らの行いを話そうとしたのは、自分の娘の結婚式直前。
迷ったそうです。
でも自分が殺した中国の娘を思い出し、自問し、ためらってはいけないと決意をしました。

■□■
在日朝鮮人二世、李実根さんは現在77歳。
山口で生まれ、広島で入市被爆しました。
この人の人生はまたとにかく壮絶。逮捕やら裁判所奪還事件やら。この人の人生から、当時の時代というものを学べます。

日本が「唯一の被爆国」はありうるが、日本人が「唯一の被爆者」というのは間違っている、と。
置き去りにされた被爆者ですが、その権利回復のために奮闘されてきました。

戦争が民族を分断し、また恣意的な民族意識を作り出すのだと思いました。
迫害を受けてきた者にとっての「民族」概念は、私の想像をはるかに超えるものなのだろうと思います。

■□■
もうお一人は山口県内の日本史の教員・山根さん。近現代史の基礎的な講義を受けました。
案の定、参加者はほとんど近現代について学んでいません。
歴史認識の共有と言う前に、まずは自国でどう教えているかも知らないのです。
日中韓の三国共同の歴史教科書作りを参考に話してくださいました。

そいでいろんな話を聞き、小グループで議論をしました。
私は議論に加わっていませんが、歴史認識ってそもそも何? 誰が共有するのか? 加害と被害の経験は一致するのか?などなどの意見が出たようです。

■□■
冒頭に述べたこと。
77歳の李さんが、88歳の鹿田さんが自らの蛮行を語る姿に、「私も鹿田さんの年になっても証言を続けていたい、そしてその後も…」。

じゃあ28歳の私は!?と思わざるをえません。きっと参加者は、このおじいちゃんたちの姿に感激するとともに自らの歩み方を考えたことと思います。きっと!

最後に李さんが述べたことをここに記します。
参加した皆さんへお願い、と前置きして。

 ・今、日本は次に戦争する国にしようとしている。それを若者で阻止するのだと、一人ひとりが決意してほしい。
 ・マスコミの垂れ流しに流されないこと。主見を持つこと。考える力、見る力、知る力を身につけること。
 ・この会を機に、交流をもっと深めてほしい。その際、相手との違いを認めてほしい。自分の尺度で測らず、相手の苦しみ・喜びを分かち合う、それが共生への道へつながる。


写真は「認罪」の過程について語る鹿田さん(手前)。奥へ李さん、山根さん。

平和大会開会

2006-12-09 00:43:32 | レポート
本日は日本平和大会開会集会。
昨日から始まった国際シンポジウムには、結局まったく足を運べず残念でした。
でも開会集会は相当よいものでした。

参加者全員が一堂に会す全体集会がこんなに魅力的に思えたのは、実は初めて。

平和大会は就職してから参加したので、今回が4回目。
こんなんでおもろいのか…と、いつも舞台袖から不安を感じていました。

思い出せばいい場面もたくさんあるんだけど、今回は全部がいい雰囲気だった!

今日はプロジェクター担当として、客席から終始見ることができ、岩国基地をとり囲む岩国市や広島県西部、近隣自治体の運動がよく伝わってきました。
とにかく趣向をこらし、おらが町を愛し、運動の経験が自信になり、そして今回の参加者を歓迎しようとの気持ちがひしひしと伝わってきました。

全体としてすべてがよかったけど、やはりアメリカから参加したオリンピア市市議のTJジョンソンさんのトークは冴え渡りました。
地元でのイラク戦争反対の運動を丁寧に報告、アメリカ政府は核兵器をなくすべきだ、ときっぱり。
こんなアメリカ人、しかも市議会議員、いるんだね!
しかーも40歳そこそこ。
ワイフも息子も一緒に連れてきちゃう。

もうお一人。
今年の1月、横須賀で米兵に妻を殺された山崎さんの訴え。
米兵がお金ほしさに山崎さんの妻を暴行、殺害。
防犯ビデオから、そのときの様子が想定できたそうです。
殴る、蹴る、踏みつける。
「やめて」と泣き叫ぶ妻を、10分にわたって殴り続けた。
山崎さんは、一言一言、無念そうに発していました。

10月末に民事訴訟を起こした山崎さんは、こうした米軍を置く日本の施策の是正を訴えます。
そして訴訟への支援を呼びかけました。

そして山崎さんを支える一人、自らも1977年に横浜の米軍機墜落事故の被害者である椎葉さん(絵本「パパ、ママ、バイバイ」の事件)の話も胸に迫りました。

お二人が「泣き寝入りしない」と奮起するまで、どれほどの力が要ったろうとは、想像しきれません。
山崎さんの一言、一呼吸はあまりに重く感じました。

などなど。

日米安保条約に対する運動って、一番は基地問題が中心になっていますが、でも私の中でも基地や軍事問題についていまだに苦手意識があったりします。
米軍再編についても、今回のいろんな計画の中では住民・自治体ぐるみの運動が全国で起きていますが、それでも後追い的な印象がありました。

とにかく自分も勉強しないといけないし、安保についてどう多くの人の認識を深め合えるか、まだまだ検討が必要ですが、でも確実に運動が実っていることは実感できました。

これ以上の爆音には耐えられない。
嫌なものは嫌。

この単純な出発点から、連帯が広がり、さらに日米戦略やイラク戦争にまで発想が及ぶ。

その可能性を垣間見た気がしました。
走り書き文ですみまそん。書かずにいられんかったです。

ほいで明日は青年分科会。
主催者あいさつ(チックなもの)を考えなきゃー。
とっても楽しみです。

洛陽会…八路軍同窓会…に参加して。よかった!

2005-10-27 02:45:17 | レポート
26日から27日にかけて、洛陽会の河口湖温泉大会に参加しました。
洛陽会とは、中国・洛陽から日本へ帰国した元・八路軍の方々でつくる同窓会のようなものです。
八路軍とは、ウィキペディアによると、「旧日本陸軍にとって八路軍は大敵であった。民衆に根ざした八路軍は兵站の確保も容易であり、神出鬼没のゲリラ戦で大いに日本軍を悩ませた。また、抗日戦線を戦う過程で華北を中心に民衆に根ざした八路軍(=人民解放軍)はその後の中国革命戦争(国共内戦)において国民党軍よりも大衆の支持を集めたとされ、中華人民共和国設立に貢献した」とあります。
八路軍には「三大規律八項注意」という内部規律があり、これによりかなり統制が利いており、だからこそ民衆の支持を得られたようです。
温泉に浸かりながらかつてを懐かしみ、近況を話し合いました。

部外者の私が突如混ざって大丈夫だろうかと不安でしたが、皆さんはとても温かく迎えてくださいました。
参加者は私以外に9人(私が帰ってから2人ほど追加)。男性3人、女性6人です。
無知な私は、「軍」と言うならば当然男だらけだろうと思っていたので女性の多さに驚きました。

洛陽会は、かつては数十人単位で集まっていましたが、最近は高齢化のためになかなか集まることはできません。
けれど私がお会いした方々は、足が…、腰が…、なんて言いながら、お世辞でなくとても元気そうに見えました。
「お若いですね」と言ったら、「青春時代に返ってしまうからよ」と言っていました。20代の青春真っ只中すべてを、戦争に奪われた方々です。

彼らの話は止まりません。我も我もと、会話が続きます。
私は時に会話に割り込みながら、それでも質問にはとても丁寧に答えてくれました。
以下、雑多なまとまりですが、少しだけ?綴ります。

          ~・・~・・~・・~

八路軍に加わった経緯はさまざまですが、多くが敗戦後にソ連の捕虜となり、ソ連が引き揚げた後にそのまま八路軍の管轄下に置かれた、というものです。また、勤めていた病院がそのまま八路軍に接収された、という人もいます。前者は捕虜扱いですが、後者は従業員扱い、といった違いもあるようです。
そしてそのまま国民党・蒋介石との戦争に動員されていきますが、彼らのほとんどが医療部隊でした。
その間、家族とは離れ離れです。帰国後再会できた人もいますが、帰国できないまま栄養失調などで父やほとんどのきょうだいを亡くしたという人もいました。

前線にいた人は、次々とくる患者の治療にとても忙しかったそうです。
部隊について各所を転々とするのですが、そのときに一般住民の家を借りることがあります。
八路軍の「三大規律」は、民衆の糸一筋、針一本でも奪ってはならないというものです。民家を借りても、家には上がりません。土間を借り、あるときはそのまま、あるときは戸板を借りてわらを敷いた上に寝ます。

ある人は、戦時下では日本軍の下でも八路軍の下でも自分の意志などなかった、と言います。またある人は、八路軍の規律性・思想などに共感する人もいます。ある人は、新中国の成立に私たちも寄与した、と言います。
当然いろんな感じ方があります。部隊によって雰囲気が違った面もあるようです。

そして彼らは、仕事の合間を見ていろいろな学習も受けたそうです。中国の歴史、マルクス思想、等々です。
おもしろかったのは、ある人の次のことばです。
「中国共産党の『教育』によって私たちが洗脳された、なんて言う(日本)人もいるけど、私たちだって馬鹿じゃないからね、時が経っていろいろ学んで考えれば、かつて日本軍がやった侵略がいかに間違っていたか自分で自覚できるようになるのよ」

…などなど、尽きません。
他にも具体的な仕事の話、患者の話、死にジラミの話、冬季における死体の処理の話、敗戦前の日本兵とのやり取りの話など、いろいろ教えてもらいました。

          ~・・~・・~・・~

今回参加された方の中に、日本平和委員会を知る方も多くいました。
帰国後、今から50年近くも前になりますが、当時の新橋の事務所に何度か行ったことがあると言う人がいました。「まだあったのね!」と、何度も言われてしまいました。かなり驚いていました。平和委員会の歴史を実感。
また、平和委員会なんて聞いたことないがどんな団体なの?と、少しいかがわしそうに言っていた方も、「今度地域で『あたらしい憲法のはなし』で憲法を学習するのよ」と話していました。「あたらしい憲法の話」とは、日本国憲法制定直後に当時の文部省が出したテキストですが、これを当時の表紙の絵もそのままに復刻版を出しているのは、まさに我が日本平和委員会です。「そのテキスト、きっとうちで出しているものですよ!」と伝えましたが、なんとも身近でうれしく思いました。

          ~・・~・・~・・~

ついつい、ものすごく長い文章になってしまいました。
幹事のIさんは「今年が最後かも」と言っていましたが、実は皆さんは次回開催を望んでいる様子。来年も参加させてもらおうと思いました。

先頭の写真は、宿泊した温泉旅館前での記念撮影。
こちらは、なんだかドサクサ紛れにいただいてしまったたくさんのお土産。

中国7・8日目・北京~日本―忘れられない旅

2005-08-28 00:11:45 | レポート
●8月27日(土)~28日(日) 北京~日本

最後の2日は、ほぼ観光でした。
27日は明の十三陵、万里の長城、28日は故宮博物院、そして日本へ。

一度は行ってみたいと思っていた万里の長城は、実際に行ってみるとまるで富士山のようでした。
というのは、富士山は夏になると大行列の登山客で、ゴミもとても多いと聞きます。
万里の長城もまさに大混雑、イモ洗い状態でした。特にゴミが気になったわけではありませんが。

しかしたくさんの人の間を縫って人気の少ないところで壁から顔だけ乗り出して外を眺めると、山が美しく風も涼しく気分のよいものでした。

そして万里の長城は、その前後がすごかった。
駐車場からある程度の高さまで、滑車に乗って上り下りをするのですが、特に下りは衝撃でした。
まさにジェットコースター。に近い。
恐い乗り物は苦手ですが、恐怖を超えて笑いが止まりませんでした。
あまりの衝撃に、これまでのツアーの経験と感動が吹き飛んでしまうのではと危惧するほどでした。

実は26日に27年目の誕生日を迎えました。
26日は軍縮協会と食事をしたので特に何もなかったのですが、27日の全北京ダックの宴の際に、ケーキでお祝いをしていただきました。
添乗員さんとガイドさんなどの計らいだったと思うのですが、(わざとらしく)父からケーキを贈っていただき、ありがたかったです。

27歳はすっかり大人の年齢のイメージです。
中身が年齢に追いつけていない気がしてなりませんが、精進あるのみです。
特に就職して依頼、自分の成長を実感できずにきましたが、誕生日に一年の目標を立てることだけはやめず、達成に向けて努力しようと思います。


はてさて、中国ピースツアーは私にとって忘れられない旅となりました。
中国を思うと、望郷の念に近いような気持ちでキュンとします。
英語がほとんど通じないので、中国語を勉強する必要があります。
ツアーはすばらしい現地ガイドや添乗員、参加者の皆さんに恵まれました。参加者の皆さんにとってもよい旅だったようです。
私が何よりうれしいのは、旅が終わった後に何人かの方からお手紙をいただいたことです。
私も旅のはじめに事務局の自分の仕事として立てた、毎日ツアーニュースを出すという目標は達成できました。

実はこの日記を書いているのは9月11日(表示日時を細工しています)。
ツアー詳報は、平和新聞9月5日号(発行済み)、平和運動誌10月号(未発行)に掲載します。運動誌用のレポートはまだ書けていません。どうしやうかなー。

中国6日目―7・7から有名になった盧溝橋

2005-08-26 21:23:40 | レポート
●8月26日(金) 北京

盧溝橋事件の中国人民抗日戦争記念館へ行く、ハズ、だっ・た、が…。
昨日より記念館が無料開放されていたためにものすごい来場者数で、私たちが到着したときには混雑してとても入れる状況にありません。

仕方なく、盧溝橋だけ見学しました。

盧溝橋は、「燕京八景」の一つに数えられる、美しい橋です。
欄干には500体以上の獅子が、それぞれさまざまな表情を見せながら並んでいます。
800年以上の歴史をもつ橋ですが、獅子たちはあらゆる時代に作られ加えられてきたそうです。
獅子は現在501体と言われていますが、数えるたびに数が違う、との噂もあるらしい。
洪水を防ぐ構造と言い、見た目の美しさと言い、立派な橋です。
しかし、中国でもこの盧溝橋が有名になったのは、1937年の盧溝橋事件、中国で言うところの7・7事件(1937年)から。それまでは、北京の人以外には知られていなかったそうです。
かくいう私も、橋そのものについては今回初めて知りました。


天安門前広場で記念撮影をすませた後、隣接する国家博物館で開催されていた「12・13侵華日軍南京大虐殺史実展」を見学。
南京事件についての本をいくつか読んだことはありましたが、今まで見たこともないようなむごたらしい虐殺の写真が並んでおり、衝撃を受けました。
展示の最後に、日本における南京事件の研究者の紹介がされていました。その中に、我が母校(大学)の教授で、南京事件研究の先駆者とも言える笠原十九司先生もいて、うれしく思いました。私もとても尊敬している先生です。


そしてピースツアーの(平和委員会的な)大きな仕事の一つ、中国人民平和軍縮協会と懇談をしました。
軍縮協会の事務所の応接室を訪ねると、日本平和委員会の事務所とは大違いの、白を基調にしたきれいな部屋でした。お茶もお菓子もおいしく、「いいなあー」なんてうらやましく思ってしまいました。

軍縮協会の役員数人と、私たちツアー団30人の懇談。
日本から、代表して3人に発言していただきました。
日本原水協に代表される核兵器廃絶運動、草の根の平和運動、学校での平和教育の実践といったテーマです。
いずれも、日本の平和運動がいかに一人ひとりと結びついて丁寧に世論を作り上げてきたかがわかる、素晴らしい内容の発言でした。
学校での実践を話したのは私の学生時代からの友人ですが、日本の子どもの問題意識と教員の努力がよくわかるもので、中国軍縮協会の方々も真剣にメモを取り、感激の面持ちでした。

その友人が感想として、「中国の人も、日本には草の根で平和運動をやっている『普通の』人々がいることを知っているから、私たちにやさしいんだと思う」と話していていました。
なるへそ、と思います。
だからこそ、日ごろからの交流が必要なのですね。


写真は、夕食にまで来てくれた軍縮協会の方々。四川料理は辛かった。

中国5日目・北京―不可欠の条件としての日中友好

2005-08-25 20:16:42 | レポート
●8月25日(木) 北京

朝から夜まで、一日中会議です。
日中友好協会などが主催する、「日中平和友好交流北京集会」に参加しました。
主催団体のほかに、日本と中国のいくつかの団体が協賛しています。日本平和委員会も協賛団体の一つ、日本からは他に全日本民医連や全教などなどが協賛しました。

およそ300人ほどが参加し、うち1割が中国の人だったようです。
日本から参加する身としては、もっと中国の人に来てほしいとの望みもありましたが、しかし日本の人がこれほど集まって中国の地でこのような集会をもつということ自体が、意義のあることなのかもしれません。

集会はなかなか密度の濃い、というか休憩が少なくトーク続きで飽和状態になりかけてしまいました。私は中国の運動や世論についていろんな人から話を聞いてみたい、との希望をもっていたので、中国側の発言が思ったより少なかったことは残念でした。

しかし幾人かの発言に共通していたのが、「日中友好」がアジア、果ては世界の平和にとって、そして互いの経済発展にとって、不可欠の条件であるという主張です。
日中関係は政治的には冷え切っていますが、中国からはこれほど求められているのか、と感じました。
同時に60年前の日本の侵略とその後の日本政府の姿勢が、日中友好の足かせになっているのも事実です。
日本側の中国人戦争被害賠償請求弁護団の方の発言は、解決の具体的な仕方の一つの実践として勉強になりました。

ちなみに我がピースツアーの団長で、日本平和委員会事務局長も発言しました。
平和委員会が、現在すすむ米軍再編強化とそれに伴う自衛隊増強の動きを止める運動をしていること、しかもこれが日中友好にとっていかに障害となっているか、日本の立場から話しました。


その後、ツアーのオプション企画で京劇を見に行きました。
その前に、ツアー予定外でしたが楽しい夕食。
食事が予定通りとれなかったため、中国の地元民が行く食堂へ行きました。
椎茸&タケノコラーメンと餃子がかなりうまかったです。しかも観光客向けのレストランなんかよりも、よほど安い。
よい経験ができました。

私たちが訪れた京劇の劇場はおそらく外国人向けで、中国語と英語の字幕が舞台の両脇に映し出されていました。
笑いを交えながら、独特の発声と化粧、立ち回りなど、美しい舞台でした。

写真は、開演前に化粧をする京劇の俳優たち。

中国4日目・ハルビン―ぼーっと

2005-08-24 23:44:03 | レポート
●8月24日(水) ハルビン~北京

観光の1日でした。

午前中は、松花江(スンガリー)遊覧。
遊覧船に乗ってそよそよ。
乗り物に弱いので酔うかもしれないと心配しましたが、平気でした。
いただいたミニリンゴをしゃりしゃりと食べながら、そして時に写真を撮りながら、そして時に友人のCちゃんと学生時代の思い出話に花を咲かせながら、ボーっと過ごしました。

にごっている川ですが、たくさんの人が一生懸命泳いでいました。
思わず写真を撮る。

その後行ったソフィスカヤ寺院(=写真)は、見ごたえのある教会。
室内では、ここぞとばかりに撮影の練習をしました。
絞りの調節をするとどうなるかなどなど、マニュアルを読んでも覚えられないので実践するしかないのであります。

本日は飛行機で北京へ移動。
ハルビンの現地ガイド・房さんとは、空港でお別れです。
マイペースでおもしろい方でした。
房さんは、七三一部隊に強制連行された孫さんとの懇談の際に通訳をしてくれたのでした。ありがたいことです。

いわば中休み日。
が、実は昨日から始まった生理による腰・腹の痛みがはなはだしく、休みながらも体のキツイ日でした。
バファリンと気合でもって…。

瀋陽、ハルビン、北京と来て、だんだんとホテルがゴージャスになっていくように感じました。
いずれも広い部屋でしたが、いちばんきれいなのが北京のホテル。
でもネットが1分1元、コピーが1枚1.2元と、お高め。