あいとポッポパーティー

あいをさぐりながら、友人に発信。
あいとへいわのあいは、解せなかったけれど注目のテーマ。

「被害者」の証言を聞くこと

2006-05-30 00:53:03 | 日記
昨日書いた日記「女たちの戦争と平和資料館―共感と怒り」に、コメントをいただきました。
本来なら私もコメント欄で答えるべきかもしれませんが、けっこうな分量になりそうだったのと、私なりに思うふしもたくさんあるので本日の日記にさせていただきます。

いただいたコメントの主な中身は、「慰安婦」問題や南京大虐殺は本当に真実なのか、証拠が不十分ではないか、ということだと思います。

以下、(勝手に)引用させていただくことをお許しください。(お気を悪くされたらごめんなさい。)

「慰安婦の心情を思いやる気持ちがあるのなら、冤罪を着せられている元日本兵たちの心情も思いやってほしいものです」
「検証もなしに事実として宣伝され、一人歩きしていくことの方がよほど恐ろしいとは思いませんか」
「何を信じるかは個人の自由ですから」
「ただ、よく調べもせずにイメージだけで一方的に断罪するような態度は控えた方がよろしいと思いますよ」

つまり、「被害者」とされる当人の証言しかないのに、それを事実として認められるのか、元日本兵に失礼ではないか、といったところでしょうか。


私は、「被害者」の証言がいかに重要であるか、と強く言いたい。

私は中学・高校生のころから、日本人の戦争被害者、つまり空襲体験者や被爆者の体験を聞く機会がたびたびありました。
実にさまざまな体験があります。
一つの爆弾により、家族をすべて失った人、友人を亡くした人、半身不随になった人、自分だけ生き残ったことに苦しむ人、…。いずれも真実です。
私は慣れ親しんだ日本語でその証言を聞いたことにより、自分に理解できる言葉で、戦争という巨大な暴力が一個人に何をもたらすのかを学んできました。

こうした話を聞いたことが、私が戦争や平和の問題に関心を持ち出したきっかけです。

その後、それまで日本語で聞いてきた戦争の記憶が、実は中国語や韓国語でも語られているのだと気づきました。
通訳を介さなければ理解できない言葉で、彼らは日本の戦争被害者と同じように、自身や家族が傷つけられた経験を話すのです。
けれどその場合の「被害者」に対し、「加害者」は日本人です。
一個人としては同じ戦争の「被害者」であっても、構造的には侵略された者とした者という関係がここにはあります。

日本は先の戦争に関して、良くも悪くも「被害者」意識の方が強く存在します。
東京裁判で、天皇の戦争責任が免責されたことも一つの要因なのでしょうか。
よく日本と比較されるのが、ドイツにおける戦争責任の追及の仕方です。かつてのナチス・ドイツを鋭く断罪し、時効もないために60年以上経てもなお、戦争犯罪人として起訴されることもあるとか。
日本は、こうした徹底した戦争責任の追及はしてきませんでした。
しかし良くも悪くも、と言ったのは、日本では一個人の戦争体験(被害)を記録することで、戦争が人類と共存できないということを学んできたということです。

確か去年あたりに聞いた、あるドイツの平和活動家の言葉が印象的でした。
日本では、戦争の被害を記録することを平和運動の一つにすえていることを学んだ、と(いうような感じだった気がする。たぶん)。
もちろんそのドイツ人は、そうした日本のやり方について積極的に捉えていたと思うのですが、そうした感想は少し新鮮でした。ドイツでは自国民の被害体験についてどれほど語られているのかよく知りませんが。

だからつまり、日本ではあまり真剣に耳を傾けられなかったアジア諸国の「被害者」の証言は、日本国内の戦争体験証言よりも信頼されにくいのかな、という気はしています。
しかも日本政府自体が、積極的にその事実を記録しないばかりか、「証拠がない」ことを理由に「だからその事実はない」のだと決める態度なのです(それは言いすぎかな? 「証拠がないから事実はない」と主張する人に、与党議員も同調している、と言うべきなのかな?)。


しかし、「従軍慰安婦」問題や南京虐殺、等々について、決して「被害者」当人の証言だけがその証拠として挙げられるわけではありません。

たとえば当時現場にいた外国人の証言、「慰安所」設置を請け負っていた会社の書類、軍人自身の日記、軍通達などの書類、等々が残っています。
ただし公式書類の存在はきわめて少ないのも事実です。それはもちろん、旧日本軍が敗戦時、証拠隠滅のために多くの書類を焼却したためです。
このことで今、証拠不十分だからと言って事実はなかったとするならば、日本軍の行為が功を奏したということでしょうか。

そして実際に手を下した元兵士の証言もいくつもあります。
もちろん「自分は慰安所など見たこともない」「強姦なんてとんでもない」と話す方もいます。

だからこそ、「加害者」側からの証言・証拠とともに、「被害者」の証言に静かに耳を傾けることが重要だと思うのです。
証言者は、朝鮮や台湾、中国や東南アジア、太平洋地域、そしてオランダにまで及びます。公式書類には残っていない「慰安所」は、部隊誌や元兵士らの証言により、広大なアジア地域、そして日本にもあったことが示されています。

これほど広大な規模で、かつ深刻な中身を示されている問題であれば、一事件としてあったかなかったかの論争は論外として、組織的(軍・国家ぐるみ)な行為であったと言えるのではないかと私は思います。




いや、初めのコメントに対し真正面から答えきれていないかもしれません。
文章ばかり長くなっています。

私は、この問題を明らかにするのは歴史学の仕事だと思います(これ以上追及しない、という意味ではありません)。
歴史学を担う者でも何でもない私が言うのもおこがましいかもしれませんが、歴史学の仕事は、さまざまな証拠に基づいて事実を明らかにし、これを後世に生かすことだと思います。たぶん。

そして明らかになった事実に対し、どう向き合い、どう対処するかは政治の課題であったり、私たち市民の課題であると思います。


否定派の意見も聞いたか、と問われました。
私がこの問題に関して読んできたものは、学者やジャーナリストで言うと笠原十九司、吉見義明、藤原彰、山田朗、吉田裕、家永三郎、本田勝一、等々です。他にさまざまな論文や、「被害者」「加害者」の証言にも触れてきました。
そしていわゆる「否定派」の意見で私が触れてきたのは、小林よしのりや泰邦彦、加藤典洋(否定派に入れちゃうかな?)や「諸君!」などの雑誌でしょうか。

まだ読むべきものはたくさんあるかもしれません。
しかし「否定派」の主張にありがちなのは、「証拠がないから事実はない」というもの。この主張こそが、事実に基づかないものだと思います。

事件そのものの存在の「否定派」「肯定派」、下手すると「右翼」対「左翼」なんて構図を持ち出す人もいたりしますが、それこそ不毛です。

これからさらに「被害者」が減ります。
被害者が増えるよりは良いことですが、しかし問題を清算しないままに、「被害者」の思いに多くの人が一度も共感することなしに本人がいなくなることが、私はとても不安です。


写真は、以前に入った沖縄料理店。命どぅ宝の文字が。

女たちの戦争と平和資料館―共感と怒り

2006-05-29 01:00:45 | 日記
28日(日)は、早稲田にある「女たちの戦争と平和資料館」へ行きました。

ここは「戦争性暴力の被害と加害の資料を集めた日本初の資料館」で、去年夏に自立運営によってできたばかりの新しい施設です。
時期ごとに興味深い企画展や講演会などを開催しており、一度行きたいと思いつつ足を運べずにいました。

来月、ある労働組合女性部が東京で平和ツアーをやるというので靖国神社のガイドを依頼されていたのですが、他に見所はないかと聞かれここを紹介しました。それでも一度下見をしておこうかなと思い、急遽行こうと思いついたのですが、せっかくなので何人かで見ようと周りに声をかけたところ8人で行くことになりました。
一人で行くよりも刺激があり、よい学習になりました。

現在は『置き去りにされた朝鮮人「慰安婦」展』を開催中です。
名前を公表した元「慰安婦」の方々の証言を中心に、「慰安所」設置への軍部の関わり、元「慰安婦」の方々の戦後の暮らしの状況など、丁寧な解説でした。

その場で
「沈黙の歴史をやぶって 女性国際戦犯法廷の記録」DVD(64分)、
「戦時性暴力をなぜ記録するのか」(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編)、
「女性国際戦犯法廷のすべて―「慰安婦」被害と加害責任―」(同資料館編)
を購入しました。
そのために財布の中身が500円になってしまいましたが、よいお買い物をしたと思います。

その後友人宅へ移動し、感想交流&さきほどの「女性国際戦犯法廷のすべて」DVDと「証言―20世紀からの遺言~若者が問う侵略戦争」ビデオ(日本中国友好協会企画、38分)を見ました。

戦時性暴力の問題は、戦争という非常な状態でこそまさに起こりうる、本当にひどい人権侵害の問題です。
初めに日本で元「慰安婦」の方々に寄り添い、その権利回復の運動を支援したのは多くが女性だったと思います。けれどこれは当然、ジェンダー問題の枠に収まるものではありません。
戦争と、根深い性差別意識。
これを克服しきれていない今の時代を生きる私たちの課題でもあると思います。

戦時中、日本軍に「だまされて」連行され、「慰安婦」にさせられた女性はアジアどころかヨーロッパ、そして日本人にもいます。
日本が戦争に負けるとその場に「置き去り」にされ、故郷から遠く離れた地でなんとかして生き抜こうとした女性、そして近年になりようやくこの事実を日本政府に認めさせ、謝罪を求めようと声をあげると政府に無視されるどころか、極力「なきもの」にしようとする始末(例えば教科書での削除など)。
二重、三重の意味で「置き去り」にされ、被害を受けているのです。

元「慰安婦」たちの証言は、本当に悲壮です。
刀で切り付けられ抵抗などできなかった、朝昼夜と20人ずつの男性を相手にさせられた、夫に「使い古しの人間」とさげすまれた、…など聞くに堪えません。
もし自分の身に起こったら、と懸命に想像しますが、考えられない、の一言に尽きます。

私は、人間の「いやだ」という気持ちはとても大事だと思います。
国のために(まして植民地の人間にとっては押し付けられた「国」)この身を捧げることが「いや」なのは、正当な感情だと思います。

女性国際戦犯法廷のDVDでも、元「慰安婦」たちは怒りと悲しみの感情をあらわにして訴えていました。卒倒するほどに。

私はこの映像を見て、それでもなおこの問題がなかったとか、女性が自ら金儲けのために望んだだとか、賠償金がほしいだけだとか、日本政府を攻撃したいだけだとか、…こんなふうに一歩離れたところでさも冷静に批評しているかのような発言には腹が立ちます。
実は日本政府自身が、そのような態度なのかもしれません。

私の母校である都留文科大学で、南京事件の掘り起こしの先駆者でもある笠原十九司さんの講義を受けたときのこと。
南京大虐殺は歴史学上は事実として解明されているにもかかわらず、それでも事件はなかったと言う人々というのは、被害者に対し二重の被害をもたらしている、ということを怒りをもって語っていました。
同じく大学で、女性国際戦犯法廷にも関わった(たぶん)前田朗さんの授業で、法廷のビデオを流したときのこと。
前田さんも二重被害について指摘しつつ、元「慰安婦」の証言の場面では学生のすすり泣く声がちらほらと聞こえました。

共感するというのは、とても大事な行為だと思います。
親身になり、人間を大切にできるような人間に、私もなりたいものです。

それとともに、共感したその相手をそうした境遇に貶めるものに対しては、怒りをもって立ち向かえるような人間になりたいものです。

「戦場のアリア」 対等な「敵」

2006-05-27 23:04:04 | 映画
戦場のアリア」を観ました。

第一次大戦下のクリスマスイブ、スコットランド・フランスの連合軍とドイツ軍とが対峙する前線において、音楽とクリスマスを祝う思いとが、敵同士を引き合わせ人間同士の交流を実現させたという奇跡的な実話を再現した映画です。

互いを知りもせず、相手国はこんなにひどい国なのだとあおられ憎しみを増して戦場へ行く青年たち。
そして実際の前線においては友人を殺され、兄を殺され、憎しみはよりリアルに迫ります。

そうした状況の下で、イブの夜に音楽が互いを結びつけ、初めは互いを探りあいながらも敵同士が率直な交流を交わすのです。

戦前は互いの国を行き来したこともあったのに、いざ戦争が始まったために決して往来はできず、そこに生きる者はとんでもない「敵」だと教えこまれる。
結局前線に出る者は貧しい者であり、一市民同士であり、同じ人間である。

けれど互いに人間的交流を深める傍らで、兄を目の前で殺された青年は決して「敵」と触れ合おうとはしません。
戦争とは、当然殺し合いが目的であり、決して「敵」同士ではなかった者が殺し合うことによって本当の「敵」になるのだと思います。

途中には心地よい笑いも交えつつ、決してこの出来事を空想的な奇跡とのみ描いていないあたりは、戦争を批判する映画としてさわやかな気持ちで観ることができました。

ただ物足りなさはぬぐえません。
オペラがいかにも口パクだったというのも一つの理由ですが…。
ヨーロッパの戦争と日本の戦争、そして第一次大戦と最近の戦争とは違うのかもしれませんが、日本がアジアで起こした戦争、そして最近では米軍などによるイラク戦争においては、決して「前線」でこのような奇跡は起こらないと思います。
この映画では、敵同士は対等でしたが、日本やイラクでの戦争では決して対等ではありません。基本的に加害者として、絶対的に強い者として日本軍や米軍が現地に入り、市民生活の中にまで入り込んで「戦場」を広げていったのだと思います。

この映画を観て、戦争はいけない、結局犠牲となるのは市民なのだと、多くの人は思うと思います。
でも一度戦場に送られたら抗うことは困難です。このことは、この映画においても示されていました。

戦争に行かずにすむには、戦争の準備をさせないことです。
戦争の準備が着々と、しかもコソコソと進められているこの日本で「戦場のアリア」が上映されることの意味を考えると、あともう一声!がほしいところだなと思いました。

「〈私〉の愛国心」(香山リカ)

2006-05-25 01:11:23 | 日記
日記書きをさぼりまくりました。

先々週の土日は、大阪で平和委員会の青年会員が集まっての「青年研修会」を開催しました。「改憲」すべきか否かが世間でも話題になりつつありますが、改めて憲法の中身を学ぶとともに、現在政府が進める改憲の狙いや背景を学びました。
本来政府が守るべき9条は、今でははるか先の理想のようにも見えます。9条とかけ離れている現実社会というのは、日米安保条約に基づく日米一体の軍事体制・監視社会のように思います。
ジャーナリストの松尾高志さんも言っていましたが、今ここで、どちらの社会を選びとるかだと思います。
現実がすでにここまで来たから憲法をすり合わせるのではなく、私たち自身が主体的に選択をすべき問題なのだと思います。


と言いつつ。
読んでから少し時間が経ってしまったのですが、おもしろかった本の感想を少し綴ります。

香山リカ 著
〈私〉の愛国心 (ちくま新書、04年8月)

心理学をきちんと学んだことのない私にとって、心理学を論じる人が社会的な問題までをもごく個人的な、私的な問題に矮小化させているのではないかと感じることがまま(すべてではありません)あります。
その個人が抱くいろんな思いが、社会が影響しているのか、その個人の心理状態によるものか、どちらが比重が重いかなどわかるものではありません。
もちろん両方がそれぞれに影響しているのだと思います。今自分が考えていることが決して自分の中だけで生まれているのではなくて、外的(しかも大きな社会的)影響がはたらいているのだ、と私は思うのですが、多くの人は日常ではあまり意識していないような気もします。

という認識を持ちながら読みましたが、とてもおもしろかったです。

もともと「憲法を変えて日本も軍隊を持てるようにする」と言ったり、「個人の自由ばかりを尊重したために、日本は勝手気ままな人間ばかりが育って犯罪が増えた。本来の日本人の姿を取り戻すため、日本を愛する心を育てるべきだ」と言ったり、「教育基本法に愛国心の明記を」と言ったりしてきたのは、政府(自民党与党)発です。これらの主張が連動しているのも特徴的です。

けれどこれに対し、一定の人たちが共感していることも事実です。
極端な右翼の人々は別にしても、「愛国心」だとか「ナショナリズム」などという単語を意識せずとも漠然と、日本をもっと愛し、国民によって確固たる日本を作り上げよう、というような。もっと複雑な思いが入り混じっているとは思いますが。

香山さんは、今の日本の現象を、自身の臨床経験とも併せながら人々(特に若い人々)の心理、例えば不安などが支えていると言います。

確かに日本人の不安は、かなりのものだと思います。
先日、新聞に載ったマンションの広告を見ました(写真)。不安をあおるだけあおり、だから借り上げ保障のマンションだ!というものです。

大事なのは、その不安の原因です。
国内的には社会保障への不安やら格差社会の広がりやら。対外的には隣国との緊張関係やら進行中の戦争やら。こうした現象が不安の元にあり、そしてその現象にはまた原因がある。


ちょっと雑に書きすぎて、とても読みにくい中身になってきました。
以下、いくつか抜粋させていただき、本の紹介としてしまいます。

要は、自分の不安と真剣に向き合うことが大事なのかな、との感想を持ちました。あまりに単純な一言感想になってしまいましたが。

===
「問題は、〈私〉を大切にするあまり公の意識を失ったことにあるのではなく、それぞれが本当の意味で〈私〉に向き合ってこなかったことにこそ、あるのではないか。」
「積み残したまま発車した〈私〉の問題が、逆に公へと人々の関心を向かわせる。そして、それがただの流行現象や消費行動に結びつくだけではなくて、教育基本法を変え、有事法制を作り、いま憲法までが変わろうとしている。
 それで、果たしていいのか。…」

「…若い人の、この過剰なまでの自己の内面への志向が強まれば強まるほど、社会全体では、逆に過剰なまでの外面への志向、つまり身もフタもないネオリアリズムも進行していくのではないか。」

「境界性人格障害の場合、事実よりも感情が優先されることにより形成される「好き・嫌い」「善・悪」の二元論的世界の原因になっているのは、その人の「中核のなさ」だと考えられている。何があっても私は私、といったよりどころが自分の中にないからこそ、周囲の状況に過敏に反応し、それにともなって沸き起こる激しい感情に振り回されて自分の気持ちや意見を決定してしまうのである。」

「…本質にあるのは「自分を肯定したい」「不安を打ち消したい」「せめて普通と思っていたい」という欲求であるのだが、その人たちが自分の外部にある何を「悪」「敵」と見定めるかによって、ある人は「北朝鮮の脅威から国を守るためには有事法制も必要」と言い、またある人は…。
 …しかし、アウトプットの形は違っても、これらはすべて「内なる不安を打ち消して、自分はだいじょうぶ、負けていない、と安心したい」という思いが分節化したものだと言えるのではないだろうか。」

「どこまでが個人の不安や不全感の否認で、どこからがそれを超えた社会的な見解であるのか、区別はむずかしい。
 …しかしその場合も、人はある程度、「これは私の内なる問題に端を発した見解であり、決定である」という自覚を持つべきだ。つまり、どんな社会的、公的発言や自己犠牲的態度も、それが個人の言動である限りは、これは〈私〉の考えであり決断なのだ、という意識をどこかで持っておくべきだ…
 …日本が軍備をして強くなってほしい、と思っているのは、愛国心を持つべきだ、と願っているのは、ほかのだれでもない、この〈私〉なのではないだろうか。これは、社会全体の流れである前に、この〈私〉のなかにあるごくごく個人的な何らかの感情―不安や不信感、自己不全感や理不尽さへの怒りなど―の裏返しである可能性はないだろうか」

===
疲れた。
部分的な引用のみでは非常にわかりにくいかもしれません。すみませぬ。
私はこれを読み、香山さんの「視点」に目からうろこほどではありませんが結構な驚きを感じました。

憲法をどうするか

2006-05-08 01:46:48 | 日記
大連休中、またもや日記書きをさぼりました。
特に遠出するわけでもなく、合間に仕事しつつもそれなりに充実したゴールデンなんとかを過ごすことができました。

3日は、東京・日比谷公会堂で開催された「憲法集会」に参加しました。4000人ほどが参加したそうです。
映画 日本国憲法」監督のジャン・ユンカーマンさんは、憲法を読めば読むほど、これを変える必要がないことがわかってくる」「世論調査を見ても、改憲勢力が伸びるのはここまでじゃないかな、と思えてくる」などと話していました。

集会後は、東京駅の向こう側までパレードしました。
友人たちに依頼をし、「サウンドカー」を出してみました。
毎年続けられている憲法集会ですが、例年は団体などが持っている大きな宣伝カーを出すのみです。サウンドカーは初めての試みなので、集会の実行委員会に企画書提出を求められるなどしましたが、無事に出動させることができました。あー楽しかった。


ほいで、6日は「国民平和大行進」のライブ&出発式&行進に参加しました。
平和行進とは、原水爆禁止世界大会実行委員会が主催するもので、毎年5月6日から8月までヒロシマ・ナガサキに向けて3ヶ月間歩き通すというものです。通しで歩く人数名を中心に、いろんな自治体を通るコースを設定し、各地で多くの人が参加します。土地ごとに被爆者援護のカンパ集めをしたり、チラシを配って核兵器廃絶を訴えたり。平和行政を推進するよう、自治体要請もします。かなり長い歴史があり、いろんなドラマがあります。

ヒロシマ・ナガサキの被爆から61年目の今年、憲法9条を守ろうというメッセージも込めながら、平和行進が始まったのでした。

6日は夢の島から芝公園までの10数キロ(?)を約4時間(?)かけて歩きました。
ここでもサウンドカー登場。炎天下を長い道のりなのですが、心地よい音楽とともに最後まで張り切って歩くことができました。
ピースサインに答えてくれる人がいると、うれしいものです。
9条守ろうという単純なメッセージが伝わったでしょうか。

若い母たちも参加。お母さんってスゴイ!こんな姿を見たら、尊敬せずにはいられません。



ほんで少し長くなりますが、いくつかの世論調査結果を羅列します。(それぞれ要旨)

朝日新聞2006年05月03日
憲法9条「変える」43%、「変えぬ」42% 世論調査

 憲法全体をみて「改正する必要がある」は55%で、05年の前回調査の56%と同水準だった。「改正する必要はない」は32%(前回33%)。9条改正を巡っては、1項(戦争の放棄)、2項(戦力の不保持)とも「変えない」が42%。「変える」は「1項、2項とも」18%、「1項だけ」9%、「2項だけ」16%を合わせて43%だった。
 国民投票法に対しては「憲法改正の議論が不十分なうちに決める必要はない」が53%と過半数で、慎重な見方が多数を占めた。「早く決める方がよい」は32%にとどまった。

 憲法改正については97年以降、同じ質問を重ねている。「必要」は46%(97年)→47%(01年)→53%(04年)→56%(05年)→55%(今回)で、「必要ない」は39%→36%→35%→33%→32%。「必要」は3年連続で半数を超えたが、今回は伸びが止まった。
 「必要」と答えた人のうち、憲法改正は「日本の社会を大きく変えたいから」という人は38%で、「それほどではない」が57%と上回った。憲法改正で社会の変革を望むというよりも、憲法を社会の現状に合わせるという意識が、改憲派には強いようだ。
 9条については、今回初めて、条文を読んでもらったうえで、1項と2項に分けて改正の是非を聞いた。
 前回は、9条を「変える方がよいか。変えない方がよいか」と質問し、「変える」36%に対し、「変えない」が51%と多かった。今回、「変える」43%、「変えない」42%と拮抗(きっこう)したのは、戦争放棄の1項を堅持したい人が、前回は「変えない」を、今回は「2項だけを変える」を選んだ可能性もありそうだ。

 自衛隊の存在を憲法に「明記する必要がある」は62%で「必要はない」は28%。「明記が必要」という人にその方法を聞くと、「9条を残し、新たな条文を追加する」が64%で、「9条を変える」の31%を上回った。
 自衛隊を軍隊と位置づけることには、「明記が必要」という人の54%が「反対」と答え、「賛成」は38%だった。

読売新聞2006年4月3日
改憲賛成が9年連続で過半数、「自衛組織」明記71%

 また、現行憲法では触れられていない、自衛のための組織を持つことについて、憲法上明確にすべきだとする人が71%に達した。
 憲法を改正する方がよい理由では、「国際貢献など今の憲法では対応できない新たな問題が生じているから」47%が最も多かった。
 今の憲法を「改正しない方がよい」は32%だった。

 9条に関しては、「解釈や運用で対応するのは限界なので、改正する」が39%で5年連続最多だった。「これまで通り、解釈や運用で対応する」が33%、「9条を厳密に守り、解釈や運用では対応しない」は21%だった。
 「集団的自衛権」については、「憲法を改正して、集団的自衛権を使えるようにする」27%、「憲法の解釈を変更して、使えるようにする」23%を合わせた行使容認派が50%に達した。「これまで通り、使えなくてよい」は44%だった。
 憲法のどんな点に関心を持っているか――では、「戦争放棄、自衛隊の問題」49%が5年連続でトップ。これに、最近論議を呼んだ「天皇や皇室の問題」31%や「靖国神社への公式参拝の問題」28%が続いている。

京都新聞2006年5月1日
京大新入生、6割が護憲派 
平和維持へ9条守れ

 憲法記念日を前に、京都大の学生が新入生121人を対象に、戦争放棄と戦力不保持を規定した憲法9条に関する意識調査を行った。改正に対する考え方では「変えない」が61%、「変える」は22%で、護憲派が改正派を大きく上回った。
調査したのは京大工学部の佐藤大さん(26)。

 「変えない」の理由を尋ねたところ、平和維持のため▽世界に誇れる▽国際貢献のため-の順で多く、「変える」の理由は、自衛隊の現状に合っていない▽国際貢献のため-が多くを占めた。
一方、合わせて集団的自衛権や国民投票法案などに対する知識を問うと、9条を変える」と答えた学生の方が「変えない」と答えた人と比べてよく知っており、「改正派の方が現状維持の人よりも問題意識が高い傾向がみられた」という。

 佐藤さんは「変えると答えた人の中にも自衛隊の海外派遣など違憲状態に歯止めをかけようという意見が多い。改憲論議が盛んだが、9条をいま変える必要性を感じないというのが京大生の正直な感想では」と話す。

【愛知県平和委員会青年・学生部による調査5月3日】
 愛知では、憲法記念日恒例の「若者100人に聞きました 突撃アンケート」を実施しました。実際は103人(平均年齢17,9歳)。
 改憲賛成は28%、改憲反対は21%という結果でした。しかし、憲法9条につ
いて問うと、「守りたい」が73%、「一部変えたい」が20%、「全面的に変えたい」が1%でした。政府・与党が狙う改憲の本質である9条の改定は、若者の間では到底受け入れられないという結果が示されました。