あいとポッポパーティー

あいをさぐりながら、友人に発信。
あいとへいわのあいは、解せなかったけれど注目のテーマ。

沖縄の旅①-普天間基地をゆとり持って囲む

2005-05-22 19:35:31 | レポート
10月に開催する「ピースエッグ2005inおかやま」(10月8-10日)の準備のために、ただいま岡山に来ております。
岡山から、沖縄の旅レポート開始ー。

●5月15日(日)普天間。

沖縄の旅は2泊3日、普天間基地、名護市辺野古、下地島などをめぐります。本土からはツアーを組んでの参加です。
羽田空港に着いたら、学生時代を過ごした山梨からも、知り合いの若い病院職員、Sさんが来ていました。ますます旅が楽しいものになるぞ、との期待が膨らみます。

昼ごろ、那覇へ到着。
あちい。
と言うよりも、蒸す。
沖縄は現在梅雨です。

飛行機を降り、携帯電話に電源を入れて早々、都留文科大学時代からの仲間で沖縄在住のUくんから電話がありました。絶妙のタイミングで驚きましたが、とてもうれしい。
彼もこれから行われる普天間基地行動に参加したかったのだが、仕事が入って行けなくなった、でも父が参加するよ、とのこと。エールをもらいました。

バスに乗り、宜野湾市にある普天間基地へ向かいました。
この沖縄の旅の大きな目的の一つ、「普天間基地撤去、基地の県内移設に反対する県民大行動」に参加します。

普天間基地は宜野湾市のど真ん中に居座る米軍基地ですが、96年4月に日米両政府の間で、5~7年以内の返還が合意されています。しかし、返還のめどはまったく立っていません。
返還の条件に、代替施設として名護市辺野古沖への海上基地建設が挙げられましたが、辺野古ではこれに反対し、毎日座り込みで基地建設のための工事を止めています。
日米政府は、普天間基地の移転のめどを立てられないことを理由にずるずると返還を先送りにしていますが、住民は一刻も早く基地をなくしてほしいと切に願っています。

普天間基地の早期返還を求める包囲行動は、95年に始まり今回が4回目です。
去年5月の包囲行動では正面から掲げることのなかった「基地の辺野古移設反対」は、一向に返還が進展しない中、去年8月に起きた沖縄国際大学(宜野湾市)への米軍ヘリ墜落事故、そして辺野古でのたたかいを受け、今回は共通スローガンとして打ち出しました。
そうして迎えた今回の包囲行動は、過去最多の23,850人で実現しました。

普天間基地を人の手で一周させるためには17,000人、そして目標が20,000人でしたから、本当に大きな数です。
これだけの数がいれば、腕をゆるめながら基地をゆうに囲めるのです。

目立ったのは親子の姿です。宜野湾市内から、家族で歩いて来たという人も多くいました。いわゆる団体に所属していないような、普通の一市民も大勢いました。
地元のオバーが1人でトコトコとやってきて、さりげなくまぎれこんで一緒に手をつなぐ姿は、小さいんだけど大きい、そんはふうに見えました。
美しい。


場所を海浜公園に移し、県民大会へ。
7,500人が参加し、会場で呼びかけたカンパには130万円余りが寄せられました。すごい額!

宜野湾市の伊波洋一市長をはじめ、国会議員や労組、市民団体の代表などが次々と発言しました。

伊波市長は、「普天間基地返還アクションプログラム」というものを策定し、返還と跡地利用について計画を練っています。住民の代表として、返還が命にかかわる大事業として切実な思いを話しました。

民主党の岡田代表も普天間返還に協力する立場なのですが、彼が発言をすると会場から「憲法はどうするんだ!」といったヤジが飛びました。改憲を高らかにうたい、自国の軍隊を持つべきだと主張する彼らは、軍隊がもたらすもの、基地を抱える住民の苦しみが本当にわかっているのか疑問です。

辺野古からも数人が発言しました。
もうどこにも基地はいらない、ということを、お互いに確認しあう、よい大会でした。


大会後、私はツアーから離れて1人辺野古へ。
名護市からのマイクロバスに乗せてもらい、ゆらゆらと辺野古へと向かいました。
(つづく)

下地島はしもじじま

2005-05-19 01:46:48 | 日記
沖縄県の下地島は、「しもじしま」ではなくて「しもじじま」。
住民が話すと「しもじま」にも聞こえますが、あくまで「しもじじま」。

仕事がたて込んでいるので、宜野湾、辺野古、下地・伊良部の旅レポートをまとめることがいまだできていません。

しかしくやしいので、せめて下地だったか伊良部だったかの海の写真を載せます。
下地島と伊良部島はほぼ隣接しており、数本の橋でつながっています。

伊良湖(いらご、豊橋の海)も大好きですが、沖縄の海はまたべっくらこく美しさです。
思わず飲みたくなるほどの透明な海水。
特にこの島は山やビルがないので、空が広い。

時間がなくて、浜には5分程度しかいられませんでした。
しかし、やはり水に入らずにはいられませんでした。
急いでいたのでパンツ(ズボンを若者ふうに)のすそを上げ切れず、びしょびしょにしてしまいました。
浜の砂はさらさらで、寝転がったらさぞ気持ちいいことでしょう。

30人ほどのツアーでしたが、海に足を浸けたのは私ともう1人。
いつもお世話になっている添乗員のOさんには、「こういうとき必ず1割は海に浸かるんだけど、西村さん(私)は絶対入ると思ったよ!」と言われてしまいました。
そうそう。

あつい沖縄の旅から帰る

2005-05-18 00:25:35 | 日記
2泊3日の沖縄旅の日程を終え、本日東京へ帰ってきました。
沖縄は、暑く熱く篤く厚かった。

宜野湾、辺野古、宮古、下地へと行き、住民や平和運動に携わる方々と交流をしました。
ネットなどでいろんなことが瞬時にわかる時代ですが、微妙な空気感というのは、やはり現地に行ってこそわかるものです。

明日、あさってで、この内容を含めた「平和新聞」の記事を作ります。
またもや強行日程ですが、やらねばなるまい。
しかし記事にしないものも含め、音起こしなどをしつつこのブログへレポートをしていこうと思います。

今夜の夕食には、名護市・辺野古の、基地を作らせないための座り込みテント村で買ったもずくをいただきました。
1パック400円で、3分の2がカンパにまわるそうです。
塩をしっかりと流し、友人にもらった和歌山の梅の酢をかけたらかなり美味でした。


写真は、下地島での本日の昼食。
アロエベラ(右上)がうまかった。

沖縄へゴゴゴゴーー

2005-05-15 02:48:31 | 日記
明日から沖縄へ行く。

15日(日)は宜野湾市・普天間基地を「人間の鎖」で囲む。
夜は名護市・辺野古にお泊り。やぐらの上に寝るかどうか…。
16日(月)は辺野古で座り込みつつ、キャンプハンセン、嘉手納へ(私は行くかどうか決めかねているが)。
夜は宮古島へ。
17日(火)は伊良部島、下地島へ。
下地島は、最近自衛隊誘致の議会決定を、住民の力で撤回させたところ。

またレポートを書こう。


しかし昨日は体調を崩してダウンした。
今日は本調子でなかったのと、難問に対面したのとで、仕事帰りの電車でふらりと倒れてしまった。
乗り物にすぐ酔ってしまう。

何事にも動じない、強靭な肉体と精神がほしい。
それはウソ。
最近は、毎日少しずつ柔軟と腹筋運動をするようにしている。


せっかくお金をかけて行くのだし、しっかり自分の仕事を全うしなければ。


写真は、辺野古と下地島へ持っていく連帯メッセージ旗。

核兵器なくそう・世界青年のつどい―8月に広島・長崎で

2005-05-13 02:12:29 | 日記
アメリカレポートがひとまず完了。オマケを書くかどうか…。

それはさておき。
5月2日、ニューヨークで「核兵器なくそう・世界青年のつどいinニューヨーク」を行った。
私は参加できなかったのだが、日本から240人、アメリカ、フランスの青年も参加した。

このつどいは、核兵器をなくすためにどうするかをみんなで考える場で、日本で準備委員会を作って企画をしてきた。
私もその準備に関わっている。

発端は、去年の8月、広島・長崎での「原水爆禁止世界大会」に参加した「フランス平和運動」というグループのリーダーが、「来年の8月には、フランスから200人の青年を日本に連れてきたい」と発言したこと。
ヒバクシャの話と、広島市長の講演をフランスの青年に聞かせたい、との思いからだった。

この声に答えようというのと、この日本でも被爆から60年目の今年、核兵器廃絶に向け飛躍の一歩を遂げるために大きな運動を起こそうという思いもあり、2005年8月、広島と長崎で青年の大きな集会をもつことを決めた。

8月4日 広島で。
8月8日 長崎で。

そしてこれに向け、プレ企画として2月27日に静岡で「青年のつどいAct ONE」を開催した。
3・1ビキニデー集会(51年前の3月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁で行われたアメリカの核実験によって、多くの漁民が被ばくしたという事件を記念する集会)にあわせておこなったもの。

そして今回のinニューヨーク。

今日は、この青年のつどいの準備委員会の会議があった。
いよいよ8月へ。
フランスから130人余り、他にもアメリカ、フィリピン、韓国、ドイツ、フィンランド、スウェーデンの青年などもやってくるらしい。

受け入れる体制づくりはたいへんだと思う。
でも、しかし、これほどの国の青年が「核兵器を廃絶するために」日本へやってくることの意義の大きさといったら…。

本当に早いうちに核兵器をなくすにはどうしたらよいか、身のある議論をつくれるかどうか、そういう場を提供するため、これから相談して決めていく。

オノ・ヨーコさんからメッセージはもらえるかな?


写真は5月1日、国連近くの道端で記者会見している広島の秋葉忠利(右端)、長崎の伊藤一長(左から2人目)両市長。偶然通りがかった。


アメリカ7日目―最後の出会い

2005-05-13 01:40:55 | レポート
●5月2日(月)

7日目はない。
というのは言い過ぎで、日本へ帰る日。

核不拡散条約(NPT)再検討会議は、今日から始まる。
私は安いチケットを得るために、大連休の大盛り上がりよりも少し早く帰ってこなければならなかった。残念だが仕方ない。

帰りはノース・ウエスト航空。JFK空港へ向かう。
タクシーの運転手に名前を聞かれたので、「MISAKI」と答えたら、「ムズカシイネー」(英語で)と言われた。ステキな名前でしょ、と言っておいたら、あまりたいした反応は返ってこなかった。

私が乗る便は、日本人が多かった。
席に着くと、隣りもそのまた隣りも日本人。それぞれ違うグループだった。

世間話をした。
旅の目的を聞かれたので、NPT再検討会議があり、昨日は大行動をし、…という話をしたら二人ともテレビで見た、と言っていた。
そして核兵器廃絶と、そのための運動に共感してくれた。
とてもうれしくなった。

最後の最後で、よい出会いがあった。


写真は最終日の話ではなく、1日のパレードにいた人々。
チェイニーとブッシュを模したパフォーマンス。

アメリカ6日目(下)―NYで聞いたヒバクシャの証言

2005-05-12 02:14:34 | レポート
パレードはセントラル・パークに集結。
ここで集会が始まる。

集会は、多彩な人々が次々と登壇し、発言やパフォーマンスをした。

広島の秋葉忠利市長、長崎の伊藤一長市長も、それぞれ発言した。
他に、国際司法裁判所が核兵器使用の非合法性を認めた「勧告的意見」を出したときに副所長だった、クリストファー・ウィラマントリーさん、ベトナム戦争に関する極秘報告書「ペンタゴン・ペーパー」を暴露したダニエル・エルズバーグさん、9・11犠牲者の家族の会「ピースフル・トゥモローズ」の方、等々、本当にたくさんの方々が核兵器廃絶、戦争なくせと発言を続けた。

ヒロシマ、ナガサキの被爆者もそれぞれ発言した。
とても貴重な話で、聞きながらつい涙が…。
二人とも相当な体験をし、すでに高齢のため体も小さい。
けれど、本当に力強かった。

被爆者の証言を元にした劇を、演劇人集団が演じていたのも印象的だった。
丁寧にすくい取っているように感じた。
アメリカでも、こうして被爆体験を継承しようと取り組んでいる人々がいることを知り感激した。
私も、私のことばで、いろんな人に伝えなくては。

「いま、核兵器の廃絶を」という、2003年8月から集めている核兵器廃絶のための署名は、2日から始まる国連の核不拡散条約(NPT)再検討会議に提出する。
日本各地から、そしてアメリカに来てから懸命に集めてきた署名は、500万筆を超えた。
日本原水協の高草木博事務局長が、集会でこのことを報告すると大きな拍手が起きた。

本日の行動参加者は、「フォーティ・ハンドレッド」と主催者報告。
ええとええと、つまり…と必死で考える。
つまり4万人。
当初言われていた100万人には及ばないが、核兵器廃絶を求めてこれほど集まったのはやはり画期的だ。
そして500万を超える署名。

この数字を、誰が無視するのだろう。
わざわざアメリカに足を運んでアクションを起こした4万人のふるさとに、一体どれほどの人がこのアクションを支えているか、想像できるだろうか。

核兵器廃絶は、もう少し先の夢、ではない。
ヒロシマ・ナガサキの被爆体験は、過去の物語ではない。

2日から始まったNPT再検討会議。
アメリカの画策で、議題が決まらないまま始まった。
「強い国」の横暴に、めげずにいたい。


私は格安チケットのため、2日にアメリカを旅立った。
私のアメリカの旅は1日まで。

アメリカ6日目(上)―華やかなパレード

2005-05-12 01:45:09 | レポート
ようやく続き(しかもメイン)のアメリカレポート。

●5月1日(日)…時は労働者の祭典・メーデー

いよいよ今日が本番。メインイベント。
核兵器廃絶を、国連と世にアピールするための大行動。
日本からは日本原水協代表団の800人と、その他合わせて1,000人が参加すると言う。
全体では何人集まるのだろうか。

奇しくも朝から雨。
ホテルから、パレード出発地点の国連近くまで貸切バスで向かう。
走ること約40分。オヤ、雨が…。やんできた。

出発地点に到着。
パレード全体の集合時間は11時。まだ時間があるので、ウロウロしてみた。
ある者は国連見学(結局入れなかったが)へ、ある者は署名行動へ。

行動に参加する人々が、少しずつ集まってきた。
ピースマークを胸にでっかく描いたTシャツを着た女性集団(50~60代に見えた)がやってきた。
おお、あなたたちはCNDの方々ですね! と話しかける。
CNDとは、「イギリス核軍縮運動」というグループ。
いわゆる「ピースマーク」が、彼らのシンボル。
女性たちは、Tシャツだけでなく、イヤリング、ネックレス、指輪、などなどそこかしこにピースマークのアクセサリーを身につけていた。
とてもステキ。

道端で、横断幕に「Abolition of Nuclear Weapons」と描いている若い集団がいた。
こんなところで、こんな直前に…、と思いつつ、話しかけてみる。
「どちらから?」
「ドイツです」
聞けば、約50人の代表団で来ているらしい。そのうちなんと青年は45人。ほとんどだ。
どの国でも、青年を送り出そう、という動きは活発のようだ。
ドイツ青年に「今日は何人くらい集まるだろうね」と聞かれた。
「100万人が目標と聞いているよ」と答えたら、かなりびっくりしていた。
それは当初の目標で、たぶんそこまでは集まらないと思うよ、と言ったが、それでも100万という数字に驚き続ける姿が印象的だった。
18歳だというそのドイツ青年に、北朝鮮の核兵器保有問題についての見解を聞かれた。
ウ…。
「言いたいことはあるのですが、何しろ私は英語があまり話せまへん。でもトライします」と答えた。
そして「北朝鮮が本当に危険なのかどうかは判断しきれないが、たとえそうであっても私たちまでそれに乗っかって強硬姿勢に出たら糸口は見つからない。とにかく北朝鮮が答えやすいように、話し合いの場を確保すること。6カ国協議は重要だと思う。話し合いしか解決の方法はない」と話した。
「うむ。」とドイツ青年。
互いの国の運動の話や、よもやま話をして分かれた。
私は特にヒヤリングが苦手ですので、もう懸命に。
ダンケ、シェーン。

北朝鮮問題については、他にも数人の外国人(日本人でない人)から見解を聞かれた。
興味をもたれているのだと知った。

周りでは、他の日本人も「サイン、プリーズ」などと言って「いま、核兵器の廃絶を」署名をがんばって集めている。
私もその様子を見ながら、サインをしてくれた人々にその思いを聞いてまわった。
筆談を交えながら。

11時が近づいたので、集合地点に向かった。
途中、他国のいろんなグループがすでに集まっており、さまざまな服装、横断幕、デコレーションが並び、空気が熱くなるのを感じた。

パレード出発は12時。
歩き出す。
私は取材のため、ウロウロしまくった。

韓国青年の集団がいた。
太鼓、シンバルのような金属楽器、そして踊り。激しい動き。
彼らはニューヨーク在住だと言う。
北朝鮮への抑圧はやめろというアピールもしていた。
彼らはパレード中、最後までずっと演奏し、踊り続けていた。
とてもパワフルで、ステキだった。

パレードの先頭方面に向かった。
「フランス平和運動」という、私たちも日本へ何度か呼んだグループがいた。
その最前列に、「ソフィーだ!」!
ソフィー・レフィーズさん。笑顔が天使のような女性。フランス平和運動のスタッフ。
3月に静岡で開催した「3・1ビキニデー」に参加し、私の作る「平和新聞」にも登場してもらった。
彼女は5月末にNYに来ると言っていたので、てっきり会えないものだと思っていたのだが、思わぬ再会でとてもうれしかった。
そしてビズ(頬を触れ合わせるあいさつ)をしたら、ソフィーの頬はとてもやわらかくてまた興奮した。

他にもいろんな人々がいた。
太鼓、ギター、バグパイプ、サクスフォン、…。生演奏を聞くことができた。

もちろん日本人も。
着物、はっぴ、おそろいのTシャツ、…。
デコレーションもいろいろあって、非常に華やか。
日本でやるときも、これくらい張り切ったらきっと楽しいだろうな。

そうして、終点のセントラル・パークへと向かう。

(つづく)