あいとポッポパーティー

あいをさぐりながら、友人に発信。
あいとへいわのあいは、解せなかったけれど注目のテーマ。

中国7・8日目・北京~日本―忘れられない旅

2005-08-28 00:11:45 | レポート
●8月27日(土)~28日(日) 北京~日本

最後の2日は、ほぼ観光でした。
27日は明の十三陵、万里の長城、28日は故宮博物院、そして日本へ。

一度は行ってみたいと思っていた万里の長城は、実際に行ってみるとまるで富士山のようでした。
というのは、富士山は夏になると大行列の登山客で、ゴミもとても多いと聞きます。
万里の長城もまさに大混雑、イモ洗い状態でした。特にゴミが気になったわけではありませんが。

しかしたくさんの人の間を縫って人気の少ないところで壁から顔だけ乗り出して外を眺めると、山が美しく風も涼しく気分のよいものでした。

そして万里の長城は、その前後がすごかった。
駐車場からある程度の高さまで、滑車に乗って上り下りをするのですが、特に下りは衝撃でした。
まさにジェットコースター。に近い。
恐い乗り物は苦手ですが、恐怖を超えて笑いが止まりませんでした。
あまりの衝撃に、これまでのツアーの経験と感動が吹き飛んでしまうのではと危惧するほどでした。

実は26日に27年目の誕生日を迎えました。
26日は軍縮協会と食事をしたので特に何もなかったのですが、27日の全北京ダックの宴の際に、ケーキでお祝いをしていただきました。
添乗員さんとガイドさんなどの計らいだったと思うのですが、(わざとらしく)父からケーキを贈っていただき、ありがたかったです。

27歳はすっかり大人の年齢のイメージです。
中身が年齢に追いつけていない気がしてなりませんが、精進あるのみです。
特に就職して依頼、自分の成長を実感できずにきましたが、誕生日に一年の目標を立てることだけはやめず、達成に向けて努力しようと思います。


はてさて、中国ピースツアーは私にとって忘れられない旅となりました。
中国を思うと、望郷の念に近いような気持ちでキュンとします。
英語がほとんど通じないので、中国語を勉強する必要があります。
ツアーはすばらしい現地ガイドや添乗員、参加者の皆さんに恵まれました。参加者の皆さんにとってもよい旅だったようです。
私が何よりうれしいのは、旅が終わった後に何人かの方からお手紙をいただいたことです。
私も旅のはじめに事務局の自分の仕事として立てた、毎日ツアーニュースを出すという目標は達成できました。

実はこの日記を書いているのは9月11日(表示日時を細工しています)。
ツアー詳報は、平和新聞9月5日号(発行済み)、平和運動誌10月号(未発行)に掲載します。運動誌用のレポートはまだ書けていません。どうしやうかなー。

中国6日目―7・7から有名になった盧溝橋

2005-08-26 21:23:40 | レポート
●8月26日(金) 北京

盧溝橋事件の中国人民抗日戦争記念館へ行く、ハズ、だっ・た、が…。
昨日より記念館が無料開放されていたためにものすごい来場者数で、私たちが到着したときには混雑してとても入れる状況にありません。

仕方なく、盧溝橋だけ見学しました。

盧溝橋は、「燕京八景」の一つに数えられる、美しい橋です。
欄干には500体以上の獅子が、それぞれさまざまな表情を見せながら並んでいます。
800年以上の歴史をもつ橋ですが、獅子たちはあらゆる時代に作られ加えられてきたそうです。
獅子は現在501体と言われていますが、数えるたびに数が違う、との噂もあるらしい。
洪水を防ぐ構造と言い、見た目の美しさと言い、立派な橋です。
しかし、中国でもこの盧溝橋が有名になったのは、1937年の盧溝橋事件、中国で言うところの7・7事件(1937年)から。それまでは、北京の人以外には知られていなかったそうです。
かくいう私も、橋そのものについては今回初めて知りました。


天安門前広場で記念撮影をすませた後、隣接する国家博物館で開催されていた「12・13侵華日軍南京大虐殺史実展」を見学。
南京事件についての本をいくつか読んだことはありましたが、今まで見たこともないようなむごたらしい虐殺の写真が並んでおり、衝撃を受けました。
展示の最後に、日本における南京事件の研究者の紹介がされていました。その中に、我が母校(大学)の教授で、南京事件研究の先駆者とも言える笠原十九司先生もいて、うれしく思いました。私もとても尊敬している先生です。


そしてピースツアーの(平和委員会的な)大きな仕事の一つ、中国人民平和軍縮協会と懇談をしました。
軍縮協会の事務所の応接室を訪ねると、日本平和委員会の事務所とは大違いの、白を基調にしたきれいな部屋でした。お茶もお菓子もおいしく、「いいなあー」なんてうらやましく思ってしまいました。

軍縮協会の役員数人と、私たちツアー団30人の懇談。
日本から、代表して3人に発言していただきました。
日本原水協に代表される核兵器廃絶運動、草の根の平和運動、学校での平和教育の実践といったテーマです。
いずれも、日本の平和運動がいかに一人ひとりと結びついて丁寧に世論を作り上げてきたかがわかる、素晴らしい内容の発言でした。
学校での実践を話したのは私の学生時代からの友人ですが、日本の子どもの問題意識と教員の努力がよくわかるもので、中国軍縮協会の方々も真剣にメモを取り、感激の面持ちでした。

その友人が感想として、「中国の人も、日本には草の根で平和運動をやっている『普通の』人々がいることを知っているから、私たちにやさしいんだと思う」と話していていました。
なるへそ、と思います。
だからこそ、日ごろからの交流が必要なのですね。


写真は、夕食にまで来てくれた軍縮協会の方々。四川料理は辛かった。

中国5日目・北京―不可欠の条件としての日中友好

2005-08-25 20:16:42 | レポート
●8月25日(木) 北京

朝から夜まで、一日中会議です。
日中友好協会などが主催する、「日中平和友好交流北京集会」に参加しました。
主催団体のほかに、日本と中国のいくつかの団体が協賛しています。日本平和委員会も協賛団体の一つ、日本からは他に全日本民医連や全教などなどが協賛しました。

およそ300人ほどが参加し、うち1割が中国の人だったようです。
日本から参加する身としては、もっと中国の人に来てほしいとの望みもありましたが、しかし日本の人がこれほど集まって中国の地でこのような集会をもつということ自体が、意義のあることなのかもしれません。

集会はなかなか密度の濃い、というか休憩が少なくトーク続きで飽和状態になりかけてしまいました。私は中国の運動や世論についていろんな人から話を聞いてみたい、との希望をもっていたので、中国側の発言が思ったより少なかったことは残念でした。

しかし幾人かの発言に共通していたのが、「日中友好」がアジア、果ては世界の平和にとって、そして互いの経済発展にとって、不可欠の条件であるという主張です。
日中関係は政治的には冷え切っていますが、中国からはこれほど求められているのか、と感じました。
同時に60年前の日本の侵略とその後の日本政府の姿勢が、日中友好の足かせになっているのも事実です。
日本側の中国人戦争被害賠償請求弁護団の方の発言は、解決の具体的な仕方の一つの実践として勉強になりました。

ちなみに我がピースツアーの団長で、日本平和委員会事務局長も発言しました。
平和委員会が、現在すすむ米軍再編強化とそれに伴う自衛隊増強の動きを止める運動をしていること、しかもこれが日中友好にとっていかに障害となっているか、日本の立場から話しました。


その後、ツアーのオプション企画で京劇を見に行きました。
その前に、ツアー予定外でしたが楽しい夕食。
食事が予定通りとれなかったため、中国の地元民が行く食堂へ行きました。
椎茸&タケノコラーメンと餃子がかなりうまかったです。しかも観光客向けのレストランなんかよりも、よほど安い。
よい経験ができました。

私たちが訪れた京劇の劇場はおそらく外国人向けで、中国語と英語の字幕が舞台の両脇に映し出されていました。
笑いを交えながら、独特の発声と化粧、立ち回りなど、美しい舞台でした。

写真は、開演前に化粧をする京劇の俳優たち。

中国4日目・ハルビン―ぼーっと

2005-08-24 23:44:03 | レポート
●8月24日(水) ハルビン~北京

観光の1日でした。

午前中は、松花江(スンガリー)遊覧。
遊覧船に乗ってそよそよ。
乗り物に弱いので酔うかもしれないと心配しましたが、平気でした。
いただいたミニリンゴをしゃりしゃりと食べながら、そして時に写真を撮りながら、そして時に友人のCちゃんと学生時代の思い出話に花を咲かせながら、ボーっと過ごしました。

にごっている川ですが、たくさんの人が一生懸命泳いでいました。
思わず写真を撮る。

その後行ったソフィスカヤ寺院(=写真)は、見ごたえのある教会。
室内では、ここぞとばかりに撮影の練習をしました。
絞りの調節をするとどうなるかなどなど、マニュアルを読んでも覚えられないので実践するしかないのであります。

本日は飛行機で北京へ移動。
ハルビンの現地ガイド・房さんとは、空港でお別れです。
マイペースでおもしろい方でした。
房さんは、七三一部隊に強制連行された孫さんとの懇談の際に通訳をしてくれたのでした。ありがたいことです。

いわば中休み日。
が、実は昨日から始まった生理による腰・腹の痛みがはなはだしく、休みながらも体のキツイ日でした。
バファリンと気合でもって…。

瀋陽、ハルビン、北京と来て、だんだんとホテルがゴージャスになっていくように感じました。
いずれも広い部屋でしたが、いちばんきれいなのが北京のホテル。
でもネットが1分1元、コピーが1枚1.2元と、お高め。


中国3日目・ハルピン―731部隊、生きていてよかった

2005-08-23 23:41:47 | レポート
●8月23日(火) ハルビン

午前中、侵華日軍第731部隊遺跡へ。

日本軍の731部隊とは、細菌兵器や凍傷実験など、生きた中国人を連れてきて人体実験をした部隊でした。
日本軍は敗戦間際になると、国際社会に事実が暴露するのを恐れ、細菌兵器を現場に遺棄して逃げ去りました。
この日本軍が残したものが、今なお中国で新たな犠牲を生み続けています。

資料館には、相当な数の写真、資料が並べられていました。
731部隊で3000人以上が殺されましたが、名前がわかったのが300人。
うち、写真が残っていたのが10人足らずでだったそうです。

731部隊に強制連行された、孫伝本さんの話を聞くことができました。
当時、1000人の中国人が工場へ強制連行されました。
731では、日本軍が何をしているのか、見ても聞いてもいけない。もし作業内容を知ることがあれば、日本軍に殺されるのです。
8月15日の1週間前、工場は日本軍によって爆破され、日本軍は資料すべて持って逃げていきました。
731の任務内容を知る中国人は、殺されたり腕を切り落とされるなどしたそうです。

日本軍が遺棄した毒ガス兵器により、生涯働けなくなったり、亡くなった人も大勢います。
被害者は日本政府に補償を求めて裁判を行っていますが、中国側に敗訴の判決が出ました。
孫さんは、被害者に対し賠償すべきだと話しました。
孫さんは強制労働させられる間、賃金はいっさいもらっていません。孫さん自身も告訴したいが、当時私が731で働いていたことを証明する人間がいないため、できないと言います。

孫さんが、最後に自ら確認するように、じっくりと話した言葉が胸に残りました。

だが、私は生き残ることができて、本当によかったと思っている。


写真は、孫さん(旗と旗の間)を囲むピースツアーの面々。

中国2日目・瀋陽、撫順―もっとも会いたかった人

2005-08-22 23:24:21 | レポート
●8月22日(月) 瀋陽~撫順~ハルビン

1932年日本軍による中国人大量虐殺の現場、平頂山惨案遺跡記念館へ行きました。

緊張する。
話には聞いてきました。
日本軍が住民をだまして一ヵ所に集め、大殺りくを行ったという。
発掘された遺骨が、当時のままの状態で保存されているという。
どんな顔をして対面できるのだろう。
不安でした。

記念館では、職員の女性が当時の町の様子の模型を前に、事件の概要解説をしてくれました。
遺骨とともに、お金、目覚まし時計、月餅、リンゴなども一緒に発掘されたといいます。住民が、死などまったく想像していなかったことが伺えます。

平頂山事件の数少ない生存者である、楊さんの話を聞きました。
今回の旅で、私がもっとも会いたかった方の一人です。
日本でビデオ「未だ癒えぬ傷」を見てから、楊さんのことが忘れられませんでした。
部屋に入って楊さんを見たとき、すでに胸ははちきれそうでした。
すでに涙があふれそうでした。

事件から、すでに73年も経ちました。当時10歳だった楊さんは、現在83歳。
しかし、傷は癒えない。

楊さんは、訴訟のために5回も日本へ行きました。
そのとき、たくさんの若い人が楊さんを囲み、涙を流しながら話を聞いたそうです。
日本政府は、この事実を認めようとしません。
しかしそれについて、日本の人たちが「不当な裁判だ」と言ってくれることには、とても感謝をしている、と話してくれました。

私は、最後に発言の機会をもらいました。
ビデオの楊さんと、目の前の楊さんとが重なり、涙があふれて止まりませんでした。
せっかく発言時間をいただき、しかも楊さんというまさに当事者を目の前にして、私が泣く筋合いなどありません。
でも楊さんの悲しみと悔しさ、そして日本政府の横暴さ、そして自分のふがいなさが入り混じり、涙ばかりが流れ出ました。
なんとか、自分の思いを言葉にし、楊さんに聞いてもらいました。
もらい泣きか、思い出したのか、楊さんもときどき涙をぬぐっていました。
日本から押しかけた私たちに、つらい体験を話してくれた楊さんに、心から感謝します。

詳しい証言の内容は、ぜひ平和新聞で紹介させていただきたいと思っています。


次に、撫順戦犯管理所へ向かいました。
日本軍の元「戦犯」たちが収容された施設です。
中国政府の「重い刑罰を与えるのではなく、人間的な教育を施すことが、将来の中日の友好関係にも有益だ」との方針から、「戦犯」たちは人間として回復のチャンスを与えられました。
元戦犯たちが日本へ帰国してから結成した、「中国帰還者連絡会」という団体がありますが、管理所の資料館には、この中帰連の活動も詳しく紹介されていました。

その後、9・18事変博物館へ行きました。
9・18事変とは、日本では柳条湖事件といいます。
博物館は、中国人の怒り、くやしさが満ち満ちています。
石原東京都知事や日本政治の動きを警戒し、中日の友好関係への障害となると警告していました。

中国1日目・瀋陽―自分のルーツを訪ねる旅

2005-08-21 23:10:12 | レポート
●8月21日(日) 成田~瀋陽

ニイハオ。
午前10時過ぎに成田を飛び立ち、お昼に中国は瀋陽へ到着しました。
今日から、7泊8日の中国ピースツアーが始まります。

今日はほぼ観光でした。
瀋陽市内にある、瀋陽故宮博物院と張氏師府(張学良旧居陳列館)。
それぞれ歴史を抱えつつ、建物自体はとても豪華でした。精巧なつくりが、見ていておもしろかったです。

晩餐は、瀋陽で有名な老辺餃子へ。
門外不出の技、そのお味は…うまかったです。
いろんな種類があり、ついパクパク食べてしまいました。紹興酒には梅干と氷砂糖を入れ、これが餃子とよく合いました。ハオチー!


食事をしながら、今回のツアー参加者の自己紹介をしました。
事務局2人を足すと、総勢30人。
平均年齢高し。

自己紹介というのは、一人ひとり思いのたけを話しているとなかなか終わりませんが、まさに今夜はそれでした。
しかし、思いの深さはうなずけます。
まさに平和委員会主催の中国ツアーらしい、そんな参加者が勢ぞろいしました。

多かったのは、自分のルーツを訪ねる旅であるということ。
戦前、中国で生まれ育ち、その後日本へ戻ってきたが、なかなか中国へ来ることはできなかった。しかしなぜ自分はそこで生まれたのか、自分のルーツを探ることが歴史を明らかにすることにもつながっています。
他にも親が、兄弟が、中国で生まれた、中国で戦争をした、…。
そんな人が非常に多かった。

また、20代が私の他に2人参加しました。
1人は私の学生時代の仲間で、彼女が友人を連れて参加してくれました。
高校で社会を教える教員として、真実は何なのか、自分の目で、耳で確かめるよい旅になると思います。

実は父も参加しています。
なかなか親孝行できていなかったのでよい機会だと思い、お誘いをしました。
父の妹のハズバンドが戦前にハルピン辺りにいたことがあり、その後シベリアに抑留され凍傷によって手の指がないということも、今回初めて聞きました。
そのハズバンドには、お土産としてハルピンの写真を頼まれたそうです。さらにそれを私が依頼されました。どちらにしろ写真はパシャパシャ撮るので、ぜひプリントして送ってあげようと思いました。

明日は撫順へ行きます。
今から緊張しています。

中国へピースツアー

2005-08-21 00:40:50 | 日記
今日は友人の結婚を祝う会がありました。
仕事の都合でほんの少ししか参加できませんでしたが、ノリノリ?で幸せそうなお二人を見ていて、こちらもうれしくなりました。


明日から、日本平和委員会主催のピースツアーで、中国へ1週間行ってきます。
私は事務局として、取材もしつつなので忙しいかもしれませんが、貴重な体験なのでしっかりと身に付けてきたいと思っています。

まずは瀋陽へ。
そしてハルピン、北京へ。

かつての日本による中国への侵略の爪跡、そして今も傷が癒えない中国の人々。
いろんな博物館を見たり話を聞けると思います。

北京では、日中友好協会主催の集会に参加します。
日本からも、私たちのツアー以外に大勢が参加するようです。
中国の平和運動と日本の平和運動。
こぞって出会う場面に、私ははじめて参加します。

期待は膨らみます。
目標は、一日のレポートを毎日まとめること。
環境があれば、ブログを更新すること。
なんつって。
できるかな? どうかなー?
どちらにしろ、帰ってすぐに平和新聞作りやら平和運動誌への原稿やらが待っているので、ある程度はやらねばなるまい。
本多勝一も、一度の旅でノートが何十冊にもなったと言っていた。うむ。

準備は万端。髪も切ったし。パソコンも持ったし。カードリーダーも買ったし。コンセントのマルチ差込み口も買ったし。パスポートも持ったし。ミニトマトの水遣りもまかせたし。
楽しみだなあーー。

鮮やか! 平和新聞カラー版

2005-08-20 18:57:44 | 日記
歴史上初めての、「平和新聞」カラー版が今日刷り上りました。
うつくすいー!
キレイー!
あ・ざ・や・かーーー!

平和新聞とは、私が勤める日本平和委員会の機関紙です。
今号は、8月2日~9日に広島・長崎で開催された原水爆禁止世界大会の特集です。

HIBAKUSYAの証言を初めて聞いた海外青年の心の変化が、手に取るようにわかります(のハズ!)。
他にも広島市長の講演や、被爆者の証言、フランスと日本の青年との討論のもよう、などなど満載です。

よい話ばかりで、感動のあまり涙を流しながら作りました(誇張)。

日本平和委員会代表理事で、この世界大会の運営委員会代表の佐藤光雄さんの発言「決意と行動提起」も載せています。
私は、佐藤さんの話は胸に迫りました。
佐藤さんは広島出身で、原爆によって身内13人を亡くし、13歳から一人での生活を余儀なくされたそうです(詳しくは本も出版されています)。
1955年の第一回の世界大会から51回目の今年まで、すべての大会に参加してきました。
そんな佐藤さんだからこそ、今年の大会で感激した、という言葉には重みを持ちます。

カラー版は年に4回の予定です。
どしどし読んでほしい新聞です。


辺野古移設反対82%

2005-08-20 03:59:08 | 日記
次の平和新聞は、歴史上初のカラーです。
カラー!
今日(昨夜?)、その新聞作りが完了する…ハズでしたが、私の担当している箇所だけ明日(今日?)に延びてしまいました。最終チェックをしたら、すぐに印刷されます。
写真はばっちり。色の指定などはまだ慣れませんが、とにかく出来上がりが楽しみです。

そして21日から28日まで、仕事で中国へ行きます。
ピースツアーと言って、日本平和委員会が毎年主催する企画ですが、今年はなんと言っても戦後60年。
日本の侵略の事実を直視し、新しい関係を築くには何が必要なのか、考えるよいきっかけにしたいです。


さて、最近「オオー」と、感心したニュース。
職場で購読しているでわかったことですが、本土ではなかなか報道されません。

8月13日の沖縄タイムスに載った、沖縄県宜野湾市にある普天間基地の移設などに関する世論調査です
普天間基地は米軍の基地なのですが、すでにその返還が合意されています。しかしなかなか実行に移されません。
普天間の返還の条件とされた代替案として、名護市の辺野古(へのこ)沖に巨大な海上基地を建設するというものがありました。
地元・名護住民はこれに反発。
1997年に基地建設の是非を問う住民投票が行われましたが、過半数が「反対」でした。

しかし名護市長はこの住民意志を無視し、99年に基地建設受け入れを表明。辺野古には、基地建設を阻止しようと、オジー・オバーはじめたくさんの人が毎日座り続けていました。

そんな中、去年8月13日、当の普天間基地を飛び立った米軍ヘリが、宜野湾市内の沖縄国際大学に墜落・激突するという大事故が起こりました。
住民や宜野湾市長の怒りは頂点に達し、とにかく基地はなくなってもらわないと困るという、命に関わる切実な思いが噴出しました。

当初は、辺野古への基地建設反対の声は決して目に見えては多数派ではなかったのですが、今回の調査では「辺野古移設に反対」が82%でした。
普天間返還問題の最も望ましい解決方法を聞いたところ、「ハワイやグアムなど米国へ移設」が72%を占めたそうです。

沖縄戦ではっきりしたことは、「軍隊は住民を守らない」ということでした。
前回の日記にも書いたのですが、戦争は結局、国家権力・対・民衆という図式なんだと思います。

辺野古のたたかいはまだ続いています。
けれど、出すべき答えははっきりしていると思います。
民意が、数字によってたびたび明らかにされながら、アメリカの軍事戦略?日米安保の円滑な遂行?のために無視され続ける。
こんなにバカにした話はないと思います。