1月28日に(日)に、日本中国友好協会の方に声をかけていただき、「加害証言」ビデオ総見会に参加しました。
と言っても比較的内輪の、ごく少人数によるものです。
日中協会が発行するビデオ「証言」三部作というものがあります。
→『証言-侵略戦争~人間から鬼へ、そして人間へ』
『証言-中国人強制連行』
『証言-20世紀からの遺言~若者が問う侵略戦争』
62年前までの戦争で、中国における加害体験を、当事者である元兵士たちが赤裸々に告白しています。
それぞれ40分前後にまとめられているのですが、これを再構成してDVD化するために改めて編集する前の証言を全てを見直し、現代にどのような編集が必要なのかを相談する会なのでした。
総見会は3回行い、今回は2回目。
見たのは、元特務機関員の永富博道さん、湯口知正さんの証言。
ナント朝9時から夕方6時まで、たまに休憩を挟みつつもひたすらビデオを見続けました。
相当に疲れましたが、しかし参加してよかった。
お2人とも、すでに亡くなっています。
たくさんのおじいちゃんたちがかつて前線へ出ましたが、人を殺した人、殺していない人、それぞれいたとは思います。しかしこの証言ビデオにあるようなひどく残虐な行為が、本人でさえ抗えない状況で行われたことは否定できないと思います。
以下にやや報告。
==
■永冨博道さん(1916年、大正5年・熊本生まれ)
愛国学生連盟の代表として、1937年に中国へ。
いわゆる「南京大虐殺」は1937年。
ここで捕虜の虐殺に加わります。
大学卒業後は特務機関員として中国にて諜報活動に従事。
41年、初年兵として山西省に駐屯、「三光政策」を実施。
「人間から鬼へ」、さまざまな葛藤を経て再び「鬼から人間へ」戻った永冨さん。
「再び自身が人間から鬼へ戻る可能性はあると思うか?」との質問に対し、「(戻らないという)保障はない」と答えました。
仮に拷問などを受けたら、最後まで戦争に反対しきれるかわからない、と。
しかし―
アジアへ出て弓を引くことはない、と言います。
それぐらいならば自らの血を選ぶ。その確信は持っている。
迷いながら、ゆっくりと永冨さんは答えていました。
==
■湯口知正さん(1914年、大正3年・樺太生まれ)
この人もまたすごい。
シリーズ「証言」ビデオでは、自身の行動を淡々(と見える)と語っているのですが、ある赤ん坊を踏み殺したときの話をする際、突如顔を真っ赤にし、顔を伏せ、吐き出すように自らの行為を話す姿が印象的でした。
編集でカットされた部分では、そのときに更に詳しい様子を話しています。
赤ちゃんは仰向けに寝ていた。うつ伏せになっていたら、自分は一体どう思ったのだろうか。
仰向けの赤ちゃんの目が、自分のことを「東洋の鬼」と言っているようだった。
まるで中国全人民の憎しみを代表しているような目をしていた。
私は威嚇されているように思い、「負けてたまるか、この赤ん坊め」と、踏み殺したのだ。
どう考えたらよいのかよくわからないが…自分は殺人機械の部品のようになっていたと思う。
戦後、夢の中に出てくる赤ちゃんは柔和な表情で、「自分ひとりでそんなに悩むことはないでしょう」という顔に見えた。
恨み言も言わない。
だから余計に苦しかった。
しかし証言を続け、あるとき本当の意味で自分の罪業に気付き、平和と反戦のために生涯を捧げようと心に決めてからは赤ちゃんの夢を見ることも減った。
また別の中国人の青年の首を切ろうとしたとき。
中国人はかっと見開いた目で睨んでいた。
反抗的な目ではなく、なぜ俺はここで殺されなければならないのかという、理不尽な思いに満ちた目だった。
私が証言活動をするときは、こうした人格・人間の尊厳を否定された人々の思いに寄り添えているかどうかを問い続けたい。
そして常に自分が侵略者であることを自覚しながらでなければ、真実は話せないのだ。
==
ちなみに、タイトルには「加害証言」と書きましたが、私は単純に「加害」と括ることはしないようにしています。普段は。
次回は元軍医の湯浅謙さんのビデオです。予定を調整し、また参加したいと思います。
と言っても比較的内輪の、ごく少人数によるものです。
日中協会が発行するビデオ「証言」三部作というものがあります。
→『証言-侵略戦争~人間から鬼へ、そして人間へ』
『証言-中国人強制連行』
『証言-20世紀からの遺言~若者が問う侵略戦争』
62年前までの戦争で、中国における加害体験を、当事者である元兵士たちが赤裸々に告白しています。
それぞれ40分前後にまとめられているのですが、これを再構成してDVD化するために改めて編集する前の証言を全てを見直し、現代にどのような編集が必要なのかを相談する会なのでした。
総見会は3回行い、今回は2回目。
見たのは、元特務機関員の永富博道さん、湯口知正さんの証言。
ナント朝9時から夕方6時まで、たまに休憩を挟みつつもひたすらビデオを見続けました。
相当に疲れましたが、しかし参加してよかった。
お2人とも、すでに亡くなっています。
たくさんのおじいちゃんたちがかつて前線へ出ましたが、人を殺した人、殺していない人、それぞれいたとは思います。しかしこの証言ビデオにあるようなひどく残虐な行為が、本人でさえ抗えない状況で行われたことは否定できないと思います。
以下にやや報告。
==
■永冨博道さん(1916年、大正5年・熊本生まれ)
愛国学生連盟の代表として、1937年に中国へ。
いわゆる「南京大虐殺」は1937年。
ここで捕虜の虐殺に加わります。
大学卒業後は特務機関員として中国にて諜報活動に従事。
41年、初年兵として山西省に駐屯、「三光政策」を実施。
「人間から鬼へ」、さまざまな葛藤を経て再び「鬼から人間へ」戻った永冨さん。
「再び自身が人間から鬼へ戻る可能性はあると思うか?」との質問に対し、「(戻らないという)保障はない」と答えました。
仮に拷問などを受けたら、最後まで戦争に反対しきれるかわからない、と。
しかし―
アジアへ出て弓を引くことはない、と言います。
それぐらいならば自らの血を選ぶ。その確信は持っている。
迷いながら、ゆっくりと永冨さんは答えていました。
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■湯口知正さん(1914年、大正3年・樺太生まれ)
この人もまたすごい。
シリーズ「証言」ビデオでは、自身の行動を淡々(と見える)と語っているのですが、ある赤ん坊を踏み殺したときの話をする際、突如顔を真っ赤にし、顔を伏せ、吐き出すように自らの行為を話す姿が印象的でした。
編集でカットされた部分では、そのときに更に詳しい様子を話しています。
赤ちゃんは仰向けに寝ていた。うつ伏せになっていたら、自分は一体どう思ったのだろうか。
仰向けの赤ちゃんの目が、自分のことを「東洋の鬼」と言っているようだった。
まるで中国全人民の憎しみを代表しているような目をしていた。
私は威嚇されているように思い、「負けてたまるか、この赤ん坊め」と、踏み殺したのだ。
どう考えたらよいのかよくわからないが…自分は殺人機械の部品のようになっていたと思う。
戦後、夢の中に出てくる赤ちゃんは柔和な表情で、「自分ひとりでそんなに悩むことはないでしょう」という顔に見えた。
恨み言も言わない。
だから余計に苦しかった。
しかし証言を続け、あるとき本当の意味で自分の罪業に気付き、平和と反戦のために生涯を捧げようと心に決めてからは赤ちゃんの夢を見ることも減った。
また別の中国人の青年の首を切ろうとしたとき。
中国人はかっと見開いた目で睨んでいた。
反抗的な目ではなく、なぜ俺はここで殺されなければならないのかという、理不尽な思いに満ちた目だった。
私が証言活動をするときは、こうした人格・人間の尊厳を否定された人々の思いに寄り添えているかどうかを問い続けたい。
そして常に自分が侵略者であることを自覚しながらでなければ、真実は話せないのだ。
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ちなみに、タイトルには「加害証言」と書きましたが、私は単純に「加害」と括ることはしないようにしています。普段は。
次回は元軍医の湯浅謙さんのビデオです。予定を調整し、また参加したいと思います。