あいとポッポパーティー

あいをさぐりながら、友人に発信。
あいとへいわのあいは、解せなかったけれど注目のテーマ。

父が祀られている人

2013-07-24 23:51:57 | 日記
本日24日、またまた靖国へ。
山梨の皆さんにガイドした。

参加者には高齢者も多くいて、おじが、父が合祀されている、という方もいた。
ガイドの合間にこちらからもいろいろ聞け、非常に有意義だった。


父が祀られているというYさんに話を聞いた。

陸軍に所属し、南方に行くため横須賀から出港してすぐ、爆撃に遭って亡くなったそうだ。戦死の公報は来たが、お骨はない。多くの人がそうだったように。白木の箱には、割りばしのようなものが入っていたという。

Yさんの兄である長男は、弟たちを「食べさせるために」自衛隊に入った。そのため、父が靖国に祀られていることについて、賛否を話し合うことはなかった。遊就館に遺影は置いていない。

そんな兄が、ベトナム戦争などで平和運動に頑張っていたYさんに対し、「おまえが戦争に反対したおかげで、自分は戦地に行かずに済んだ」とポロッと話したことがあったそうだ。
Yさんは、古くからの平和委員会の会員でもあった。


他にも戦時中の話を数人から伺うことができた。

金属供出の話を私がした後、ある人が話し出した。当時非常に貧しく、鍋釜をとられ、石鹸もなかった。だから川の泥で洗濯をした。

「恥ずかしいことだけど」と切り出した別の人の話。敗戦直後、進駐軍が数日だけやってきた。彼らはパンの耳を我々に向け拾わせるために落とす。それを拾って食べたら、翌日は手で渡してくれた。

などなど。
まだまだ埋もれたエピソードはたくさんあるだろうな。

「慰安婦」はまつられているか

2013-07-23 23:56:14 | 日記
17日、靖国神社ガイドへ。

医療系の女性ばかり10人ほど。午前中に仕事してからだそうで、なんとなくグッタリモードに見えた。
私の方もこのところ忙しく寝不足でくたびれていたので、あまり張り切りすぎずに抑え気味でガイドしようかと思っていたけど、グッタリさんを前についテンションを上げて頑張ってしまった。ついて来いやー!みたいな気分で。

最後に質問が出された。

「慰安婦」はまつられていないのですか? 給料をもらっていたんですよね?

とな。

正解はまつられておりません。いつもはこれでクイズを出すが、このたびは割愛したので思わぬ問いであった。

いろいろなテーマが入り込んだ、絶妙な質問だったので印象的であったのだ。


写真は遊就館ロビーに展示されていたノンタン。寄贈されたそうな。他にも長谷川町子や手塚治虫などなど、偉大な作家の色紙が並んでいた。ほえ~

日本国憲法(前文)リーディング@沖縄県東村高江

2013-07-18 14:16:05 | 日記
米軍施設建設に反対して座り込みを行う住民を、国が訴えるというスラップ訴訟が、沖縄県東村高江で行われている。

本日(7月18日)の東京新聞が1面で取り上げてくれた。
まさに、憲法が問われている。
裁判所は、憲法にもとづく判断をすべきだ。


高江の皆さんや非戦を選ぶ演劇人の会、フォトジャーナリストの森住卓さんらが憲法前文を読み上げた。
プロダクションノート https://docs.google.com/document/d/1Vo3higIdc0yao8OEqrjAYnE9sC0Rovzf1oicOm4dJ64/edit も参考になる。


大西照雄「『沖縄の太陽』物語」を読んで

2013-07-09 23:11:17 | 日記


名護の大西照雄さんが亡くなったのは6月19日だった。
立て続けに、師匠のような憧れのような、尊敬する諸先輩が亡くなった。

大西さんはがんを患い、長らく闘病生活を送っていた。
その中で4月28日、自著「『沖縄の太陽』物語」を緊急復刊させていた。大西さんが亡くなって初めて、その本を手にした。

1955年、本土における占領状態よりもなおもひどい、米軍による土地強奪、人権侵害が行われていた伊江島に思いをはせ、「実情を知らせてください。どんな小さいことでもお手伝いします」という手紙を伊江島の人々宛てに書いたある高校生をめぐる話だ。
その女性―黒田操子さんはその後、住民と手紙の交換を続け、書籍を送る運動にも取り組み、そして伊江島訪問を実現する。
伊江島の島民だけでなく、沖縄県民が励まされ、彼女は「沖縄の友」「沖縄の天使」「沖縄の太陽」とも呼ばれたらしい。

沖縄では、「太陽」のことを「ティーダ」と言う。
ティーダとは、単に太陽のみを意味するのではなく、「最高の尊敬」の念を示すものだそうだ。これを一高校生を指して呼ぶことは、めったにないことだったと、大西さんは指摘している。

本書の最後の方だが、大西さんはこう述べている。
「昨年(96年8月)、私は、沖縄で初めて開いた全国高校生平和集会を手伝いし、現代の〝沖縄の太陽〟たちを発見した」

96年、私は高校3年生だった。私は行かなかったが、同年代の仲間、そして高校1年だった私の夫もこれに参加している。

大西さんが、「最高の尊敬」の念を込めて呼んだ新たな世代に、きっと私も含まれる、そう思うと、また胸が熱くなった。

山口仙二さんの悲報に触れ

2013-07-08 20:25:08 | 日記
山口仙二さんが亡くなった。
大手新聞も、それぞれ1面と社会面で報じている。
私にとってとても偉大な人だが、多くの人にとってもそうなのだと実感した。

長崎で被爆した山口さんは、被爆者運動、反核運動、平和運動のリーダーと言ってよいと思う。叫びにも近い山口さんの訴えは、胸にぐさっと刺さる。そして自分は何をしたらよいだろうと考えずにはいられない。

写真は2005年8月9日、原水爆禁止世界大会閉会総会でスピーチされた山口さんの記事(平和新聞2005年8月25日付)。カメラを構えながら、涙で目の前がにじんで困ったのをよく覚えている。

「核兵器はいらない」という被爆者の皆さんの願いが私自身の願いにもなったと思えるのは、山口さんをはじめとする被爆者の皆さんのすさまじい叫びに触れてきたからだ。

悲報に触れ、胸が張り裂けそうになった。でも「思いを継いでがんばる」としか言いようがない。

体調を崩され、これ以降はほとんど表舞台に出てはみえなかった。実は05年より後に、ごく短い挨拶に触れた気がするのだが、その記録が見当たらない。短い中に凝縮された、絶叫のような訴えだった(と思う)。