美津島明編集「直言の宴」

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三酔狂人テレビ倫理問答、「明日ママ」騒動をめぐりまして (その2) (由紀草一)

2014年03月09日 03時38分20秒 | 由紀草一
三酔狂人テレビ倫理問答、「明日ママ」騒動をめぐりまして (その2)

由紀草一




草一 前回に引き続きまして、「明日ママ」(正式タイトルは「明日、ママがいない」)騒動について、より掘り下げて、ただしあくまで自由闊達に語っていただきたいと思います。語り手は道学先生(以下、道学)と文芸書生君(以下、文芸)、それに私、草一めです。

道学 一番根本の問題はだ、重要な社会問題を扱うというのに、日本テレビが、きちんと実態を調査せず、従って非常にいいかげんな描き方しかできなかったところなんじゃ。

一応、慈恵病院や全養協に話は聞きに行ったようだがな。前者もまた、昨年の段階で1・2話目の台本を見せられ、すでに改善要求を出していたにもかかわらず、完全に無視された、とHPにある。また、児童養護施設の元施設長だった岡本忠之氏も「監修」を頼まれ、いろいろ実態に即した意見を言ったが、なんら反映されていない、とこれは『週刊文春』1月30日号の記事に出ている。

従って、エンドロールのクレジットに「児童養護施設監修」とあること自体が嘘であり、欺瞞なんじゃよ。これについては日本テレビも、「取材不足」は認めておるんじゃから、反論はなかろうな?

文芸 取材不足、ということに関しては反論はないよ。ただ、このドラマは、社会問題と取り組むことを第一の目的とはしていないからな。そこでは欺瞞、とまで言えるかどうかだな。

道学 往生際を悪くするとかえって自分の首を絞めることになるぞ。しかし、どうしても言いたいのじゃろうから、言ってみるがいい。社会問題に取り組むのでなかったら、「明日ママ」の眼目はなんじゃ?

文芸 どんな社会だろうと、制度だろうと、幼児期に親の愛を受けられなかった子どもは必ず一定数いる。そこを視点にして、親子の情愛とはなんなのか、それを知らずに育った子は何を支えに生きるのか、考えてみる。それが眼目というか、テーマだろ。
第一話の最後近くで主人公のポスト(芦田愛菜)が言う、「絶対幸せになってやる。けど、実の親に愛される以上の幸せって何だ?」、これは人類永遠の問の一つであり、社会制度で根本的に解消され得ない、それこそ書物から映像作品まで含めた、最広義の文芸が扱うべき問題なんだ。

道学 思いっきり大きく出おったな(笑)。
はっきり言わせてもらうが、近頃のテレビ屋に、そんな高い志なんてごく例外的にしか感じられんぞい。「明日ママ」もあれじゃないか、自分とこが育てたつもりの子役二人「芦田愛菜と鈴木梨央を使ってドラマを作れば評判になるんじゃないか、それに、日本テレビは昔、「家なき子」で大当たりを取ったんだから、あの路線でいこう」「じゃあ、孤児院が舞台では?」「おい、今は孤児院なんて言わない、じどうようごなんたら言うみたいだぞ」「そうか、それじゃ一応調べておくか」……ぐらいで始まったんじゃないか?

あとはもう、子役が泣いて見せれば視聴者も泣いてくれる、そういう場面をほとんど脈絡なく並べて、そこに、前回君たちが言ったユーモアも散りばめてせめてのサービス、これで視聴率が取れさえすれば万事めでたし、すべて終わり、のつもりじゃないか?

文芸 まず視聴率ということだが、高い視聴率を得ること、つまりはできるだけ多くの人に見てもらうことを目指して、工夫すること、それは、テレビマンに限らず、表現者なら当たり前のことでしかない。ここにいる草一つあんにしても、自分の文章が一人でも多くの人に読んでもらうことを念願しているだろ? なかなかそうならんのは、工夫が足りないか、工夫する能力が足りないからで、何も高尚だからではないよね?

道学 工夫、か。不思議なことに、また残念なことに、悲惨な境遇は多くの人の興味を呼ぶようじゃな。そこで、悲惨な境遇の登場人物を出す。

昔の縁日には、「因果者」というのがあって、特徴的な身体障害(扮装した、つまりインチキもあり)を見世物にしたようじゃな。「親の因果が子に報い、可哀想なのはこの子でござ~い」という口上で。こういう工夫かな?

文芸 そっちはそっちで、思い切って汚く言うねえ(笑)。

もちろん悲惨は、古来多くの文芸の題材になってきたよ。そこにはあなたの言うような、決して健全とは言えない好奇心もあることは、敢えて否定すまい。ゴシップや下ネタに関する興味もまた同じ。もちろんそれ自体では文芸の価値は決まらない。表現である以上、問題はその取り上げ方、描き方なのだよ。これは描かれた題材によって絵画の価値が決まらないのと同じことだ。

道学 だからさ、悲惨を世人に訴えて、できるだけ減らそうとする意欲があるなら、ワシも文芸とやらの価値を認めるに吝かではないんじゃ。それが、悲惨な実態への取り組みがこういい加減なんでは、取り上げ方というのも、いわゆる興味本位だとしか思いようがないではないか。

草一 そこでちょっと面白い話があります。「児童福祉 考察…児童養護施設で働く」というサイトhttp://kudohp.essay.jp/がありましてね。ここで児童養護施設の現場にいる人(なんでしょう)の立場から見た、一番詳細な「明日ママ」考察が読めます。施設長・魔王(三上博史)の舌打ちが耳障りで、無駄に威圧的だと言うんで、その回数を数えたりすり粘着ぶりで、実はこの人、批判的なことを言ってるけど、「明日ママ」ファンなんではないかと思えるぐらいなんですが。ともかくここで、ドラマ中で「コガモの家」と呼ばれる自称グループホームは、制度的に、とてもそう言える場所になっていないことは、よくわかるように書かれています。

それに対して、ではなく、一方で、養護施設出身者だという人々の書き込みもけっこうネット上にあって、これがけっこうドラマに対して好意的な意見が多いんです。代表的なのは、自身が出身者の漫画家りさり氏がツイッター上の書き込みをまとめた「「明日、ママがいない」施設出身者の方々の反応」http://togetter.com/li/617131でして、もっともこれ、ドラマの3話に関連するところまでで、あとはあきちゃったのか、更新されていないんですが、最初のほうのにこんなのがありました。

「「明日、ママがいない」について、「施設の実情はうんたら~」とか「施設というものが誤解される」とか言ってる大人ども! 施設育ちのわたしからしたら、そんな事どうだっていいんだよ!/そんなところに着目しているようじゃ、まだまだ子どもの気持ちなんてわかってないね」

なるほど、そうだな、と思いましたね。施設の子どもの定員とか、職員数とか、部屋の面積がどうたらとか、里親と養子縁組はうんたらとか、個人情報の保護がかんたらとか、そういう制度上のこと、子どもにとって第一の関心事であるわけはない。施設内での他の子や職員との人間関係、それから施設全体の雰囲気かな、これこそ大事なんで。そこからすると、主役の少女たちの気持ちは、けっこう自分が体験したものに近いように感じられる、という意見も見かけます。

道学 すると、その部分はきちんと描いている、と言いたいのかな?

草一 いえ、制度の描き方が不適当だからといって、直ちに、ドラマとして価値がない、とまでは言えないと申したかっただけでして。ではどの程度に価値があるのかということになると、ちょっと微妙です。

このドラマの登場人物たちへの共感は、どこから出てくるのか。それはやっぱり、生身の人間が出てきて、いわゆる真に迫った演技で、ある特定の境遇を示した場合には、ただそれだけでリアリティが感じられる、ということが大きいんじゃないかと思います。これが実写ドラマの特性であり、また半面、怖いところでもあるわけでして。

でも、ともかく、「明日ママ」に多くの人が共感し、感動している事実はありますし、どうやらネットでは、回を追うごとに、「明日ママ」否定派より、肯定派のほうが数と勢いを増しているようです。

道学 しかし、草一つあんにも少しはわかっておるようだが、その共感も感動も、非常に浅い、いわゆるお涙頂戴レベルのものだ。それだけならまだいい。問題は、テレビ屋が非常に重大かつデリケートな領域に安易に首を突っ込んだ結果、その共感とやらが新たな弊害を呼ぶことがある、わしはそこを言っとるんじゃよ。

子どもを離れて、親のほうを見てみようか。ドンキの母(酒井美紀)やオツボネ(大後寿々花)の母(西尾まり)の描き方の酷さはどうだ。典型的な悪役で、人間のクズだ。それ以外のなんでもない。視聴者のある者は、他の登場人物といっしょに、彼らを罵って、自分も正義漢になったつもりになれる。時代劇やメロドラマによくある構図じゃな。

では、こういうひどい親がいなくなれば、現実はよくなるのか? 

もちろん、よそ目にはひどいとしか見えない親は現実におる。が、実態はそう単純ではない。親が子を捨てる場合には、必ず、言うに言われぬ複雑な思いがあるじゃろう。全くよんどころない気の毒な理由で、泣く泣く子どもを施設に預ける親も少なくない。その人々が全部、ドラマに出てきたような鬼親だ、と思われるとしたら、全く気の毒だし、ここでも無用な差別と偏見を呼んでいる、と言えるのではないかな。

文芸 おいおい、ドラマの中心になる四人の少女(ポスト、ドンキ、ボンビ、ピア美)のうち、ボンビ(渡邉このみ)の両親は事故で亡くなった(どうやら東日本大震災の時、津波に飲まれた設定だったようだが、それはまた新たな抗議を呼びそうなので、ぼかされたようだ)んだし、ピア美(桜田ひより)の父親(別所哲也)は、二代目社長だったが会社が倒産し、食うのがやっとの状態になった。「そんなことでは、いっしょにいては、せっかくの娘のピアノの才能を伸ばす邪魔になるばかりだ」というので、敢えて彼女から離れた。しかし、最後には、娘からの必死の呼び掛けで、またいっしょに暮らすようになる。実親全部が、鬼に描かれているわけではないよ。

それに、あなたがさっき言った二人の母親にしろ、娘と決定的に別れるときには、複雑な表情をしている。文字通り、「言うに言われぬ」だから、文字ではなんとしても表現できない、実の娘を捨てた/捨てられた親の表現は、一瞬でも、あったんだよ。

道学  自分で言っていて恥ずかしくならないか?(笑) 一瞬の表情はまあいいとして、その、ピア美の父親の話が、よんどころない理由になるか? 会社が倒産して貧乏になって、娘にピアノを習わせることはできない。だから施設に預ける? そうしたらピアノを習えるようになるのかね? まるっきり辻褄が合わんじゃないか。

草一 ピアノのレッスン料ぐらいは出してくれるお金持ちの家に、里子あるいは養子としてもらわれることを期待して、ですかね。これも都合のよすぎる話で、そんなことを期待していたとすれば、この父親はやっぱりダメ親だ、ということになりますね。

文芸 それはもっとよく考えれば、辻褄の合う話は作れるかもしれん。が、結局は辻褄合わせでしかない。そんなの、退屈だし、誰も後まで覚えてやしないんだから、思い切って省略したほうがいい。それがTVドラマに限らず、最近の映画や演劇の常道なんだよ。

道学 文芸をこよなく愛する文芸書生君の言葉とも思えんな。人物の背景まできちんと描き出し、ただしそれが単なる説明に終わらず、それ自体も劇として興味が持てるように作りあげるのが、小説や劇を作る人間の腕の見せ所ではないのか? またそれだからこそ、クライマックスが本当に盛り上がるのではないか?

文芸 道学先生から文芸に関するご高説をうけたまわるとはな(笑)。いや、先生だからこういう場合でも正論を言うんだな。お説ごもっともではある。私もそう思っていたし、今も思っている。だから、現在の演劇・映画には好意が持てない場合が実際多い。しかし最近、それに凝り固まるのもどうかな、と思えてきたんだ。

手っとり早く感動を伝えるのがそんなにいかんのか? それが文芸としては価値が低いと言って貶めるのはいいが、そして私だって価値が高いとは思わんが、それを求める層は確実にいるんだよ。ピアノコンクールで優勝して、有名なピアニストになることが夢だった少女が、コンサートの最中に、演奏やめて、会場に来ているはずの父を求めて泣き叫ぶ。「名声なんていらない、パパと暮らしたい」とな。

そんな顔をするなって。メチャクチャな設定であることぐらいわかってる。実際にやれば、コンクールの主宰者にも他の出場者にもたいへんな迷惑をかける、という点で、非道徳的であるしね。でも、だからこそドラマチックになるんだよ。演技や映し方でその涙に真実味を持たせることができれば、それで充分、なんせドラマだから。因みに、こんなのを真似する奴は、まずいないだろ? という意味では無害だ。またそれくらいだから、昔ピア美と実親とが離れなければならなかった事情なんて、もうどうでもいい。

いや、これは何も最近の作品に限ったことではない。浄瑠璃や歌舞伎にはそれに近いものがずいぶんあるし、大衆演劇はみんなそうだ、と言ってもいい。どっかで見たか聞いたかした話がどかどかと展開し、立ち廻りとかあって、主役が、「俺には生涯てめえとういう、強い味方があったのだ」とかなんと名セリフを名調子で唸って見せれば、それで見てる人が満足する世界はあるんだ。それを低級だと一概に遠ざけなくてもいいのではないかな。昔からある、高級ぶらない劇の、王道を歩んでいる、と言ってもいいんだよ。

草一 ただ現代的なのは、ちょっとしたしぐさや表情にこめられたものを察知する感性で、これは主にTVの、映像文化のおかげででしょう、一般の人もずいぶん磨かれているようですね。先ほど言われた、子を捨てる時の母の複雑な表情もそうですが、心を病んだドンキの不気味な薄笑いとか、母(とよた真帆)を亡くしたロッカー(三浦翔平)の手をポストと児童相談所の女性(木村文乃)がそっと握るシーンとか、実親の暴言が聞こえないようにとドンキの耳をやさしく塞ぐ里親候補の父(松重豊)の仕草とか、そういうところは皆さん、見逃しません。またそういうところでは、ちゃんと考えてツボを抑えた、よいドラマになっていて、だからこそここへきて支持が高くなったのかな、と思えます。

道学 それでどうなるのかね? そういうものの総体が、この社会に何をもたらすのかね?

文芸 何もない(笑)。直接の役に立たないのが文芸なんだとしか言いようがない。シェイクスピアがなんの役に立つのか、言える人はいないだろ?

道学 いろいろ言った挙げ句が開き直りか。まあ、いわゆる娯楽なら娯楽でいいよ。しかしそれならせめて、水島宏明氏が言うように、誰も傷つけないように配慮すべきではないか。文芸家でも、それぐらいのモラルはもつべきだろう、とワシは言っておるのじゃよ。

草一 文芸というのは本来罪深い、道徳のためにはないほうがいいものかも知れないのです。二千四百年ほど前に、プラトンがすでに、そういうことを言ってますし。まあ今回そこまで話を広げる必要はないので、今日的な問題を最後に申しましょう。

設定とか伏線にあまり拘泥することなく、ドラマ中のある場面に敏感に反応して感動する、ということは、逆にある言葉や場面に、それがドラマ全体の中でどういう意味を持っているのかあまり考えずに、ショックを受ける場合もある、ということです。それは最近、きっと増えているのでしょう。

しかもインターネットのおかげで、感動もショックも短期間で、非常に広く伝わり、また新たな共感やら反感をもたらします。人は、自分が複数の人に支持されているんだと思ったら、ずいぶん強硬な態度にもなれますからね。昔いやなあだ名をつけられていじめられていたという高校生が、ネットで七千人の署名を集めて、日本テレビに「明日ママ」の放送中止を求めた、というのも少し話題になりました。

クレーマーって悪い意味のようだからそうは言いませんけど、こういう、新しい形の社会からの反響にも、今後TV、のみならずすべてのフィクションの作り手さんたちは、対応しなければならない可能性は高くなりましたね。それがドラマなど、フィクション作品そのものにはどう反映されるのか。「明日ママ」騒動は、この新しい局面の幕開けを告げるものかも知れません。

お二人とも、つきあってくださって、ありがとうございました。話題を変えて、後しばらく飲みましょう。

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