「ボクと契約して、フェミニストになってよ!」
兵頭新児
『魔法少女まどか☆マギカ』のキュゥべえ
――前回、ぼくは「ホモ雑誌の編集長が小児愛者と子供とのセックスを称揚している」こと、「フェミニストがそれを指摘されても目を背けるどころか、編集長を擁護し、指摘した側を攻撃してきた」ことについて述べました。そんなフェミニストたちが揃いも揃って腐女子(BLを愛好するオタク女子)であったことから、論調は「オタク批判」とも言えるものになっていったかと思います。
*Wikipedia によれば、″BLは「ボーイズ・ラヴ」の略で、ボーイズラブ(和製英語)とは、日本における男性(少年)同士の同性愛を題材とした小説や漫画などのジャンルのこと。書き手も読み手も主として異性愛女性によって担われている″とあります。(編集者注)
が、正直ちょっと駆け足で説明不足だったかなとの反省もあります。恐らくお読みくださっている方々にしてみれば、オタク文化などなじみのない方がほとんどでしょうし。
そんなことから今回、それらの事情についての補足説明をすると共に、もうちょっと話を広げてみたいと思います。
その前に本件のタイトルですが、これは『魔法少女まどか☆マギカ』に登場するキャラクター、キュゥべえの「ぼくと契約して、魔法少女になってよ!」という名セリフのもじりです。
『魔法少女まどか☆マギカ』(以降、『まどマギ』)とは2011年にテレビ放映を開始し、オタクの間で大ヒットしたアニメです。
『新世紀エヴァンゲリオン』は従来のスーパーロボットアニメのパロディのような世界観の中、主人公が最後まで戦うことを拒否し、現代社会でぼくたちが抱えている虚無感を描き出しました。
一方『まどマギ』は、言わば従来の魔女っ子アニメのパロディです。妖精のような不思議な生物・キュゥべえと「契約」し、魔法少女となった少女たちが、悪い魔女を相手に戦うお話なのですが、これもまた、『エヴァ』的な仕掛けが施されていました。キュゥべえは善意からヒロインたちを魔法少女にしたわけではなく、少女たちが魔力を使い続けるうち、次第に魔女(つまり、悪役ですね)と化していくことを見越して、それこそを目的としていた存在だったのです。
この「魔法少女」が「魔女」と化していくことが必然だとの設定は、成長することそのものが汚れること、悪くなること、というぼくたちの成長忌避的な心理を表現しているとも言えますし、またこの少女たちを勧誘し、魔法少女にしていくキュゥべえはまさに「ブラック企業」のメタファーだ、といった批評もさかんになされました。
今回は現実世界でもこのキュゥべえが暗躍しているのではないか……というお話です。
ぼくは前回、「オタク界には左派の勢力が強い」「しかしオタクのマジョリティは必ずしも左派とは言いにくい」と書きました。この辺りをもう少し詳しくお話ししたいと思います。
オタク文化の発祥が何かとなると議論は百出するでしょうが、80年代の初期、70年代的な「エロ劇画」が廃れ、今で言う「萌え」的な美少女のエロ漫画、いわゆる「美少女コミック」というものが流行し、「ロリコンブーム」などと言われていたことは事実です。つまり、オタク文化の源流の一つには、明らかにこの種のエロ漫画があったわけです。
さて、その「エロ劇画」ですが、ウィキペディアの「エロ劇画誌」の項を見てみると、「三流劇画ムーブメント」という小見出しが作られ、
>これは、当時の三大エロ劇画誌と言われた『漫画大快楽』『劇画アリス』『漫画エロジェニカ』の編集者(亀和田武、高取英ら)によって打ち上げられたもので、言わば学生運動のような革命思想をマンガ雑誌の世界に持ち込んだもので「劇画全共闘」とも呼ばれた。
などと描かれています。
つまり、元からエロ漫画界は左派的な勢力が支配的だったわけです。
が、「美少女コミック」はそうした「エロ劇画」の影響があるとは言い難く、全く別な場所、つまりアニメなどを源流に発生してきた表現としか言いようがありませんでした。
この時期の美少女コミック界を戯画的に表現するならば、
ぼくたちがコミケで美少女コミックの同人誌を売っていたら、雑誌の編集者がスカウトに現れた。喜んでほいほいついていったら「体制と戦え!」みたいなウザいお説教をされてウンザリ……。
といった事態がそこかしこで起きていたと、そんなわけです。
もっとも、とは言え、オタク文化の歴史は性描写規制、児童ポルノ法との戦いの歴史といった側面もあります。古株のオタクであればあるほど、こうした左派の影響を色濃く受けざるを得なかった状況があったわけです。今では「萌え」一辺倒のエロ漫画業界ですが、それでも「登場人物がアンドレア・ドゥオーキンの主張をそらんじながらセックスする」といったモノスゴい漫画を描く、「東大法学部出身」を売りにした「砂」という漫画家さんなんかがいらっしゃったりもします。
*故アンドレア・ドゥオーキンは、ラディカル・フェミニズムの象徴的な人物。詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3 をご覧ください。(編集者注)
前回のフェミニストたちがぼくのことを「漫画の敵」と短絡的に勘違いしてしまったのも、そうした歴史故のことだったのですね。
そしてまた、90年代にもオタク界は大きなターニングポイントを迎えました。そう、先にも挙げた『エヴァ』が注目され、ある種、オタク文化が市場と市民権を得たのです。この頃、東浩紀氏に代表されるようなオタク系文化人の姿も目立って来ました。
が、こうした(揃いも揃って左寄りの)文化人たちは今でこそオタクの味方のようなポーズをしきりに取っていますが、この当時、彼らは『エヴァ』に飛びつくのとは裏腹に、オタクそのものは見下して批判しておりました。
1998年に出された雑誌『Quick Japan vol.21』を見ると*1、東氏は
> たとえばコアな男性オタクには、妙な硬派意識があるでしょう。現実の女とチャラチャラ飲みにいったり、イタリア料理食いに行ったりはバカにして、むしろプレステで格ゲーやってるほうが「かっこいい」、みたいなね。エロ同人誌を描いていて硬派とはどういうわけか、僕は長いあいだ謎だった。ホモソシアル、がその答えではないか。
などと語っています。ぼくは何十年とオタクをやってきて、そんなふうに感じたことは一度もないのですが。しかし彼の妄想はそれでも止まらず、オタクはナショナリストだとも(無根拠に)言い出します。
「オタクはマッチョである」
「オタクはホモソーシャルである」
「オタクはミソジニーである」
「オタクはネトウヨである」
左派寄りの人々はオタクにいろいろなレッテルを貼りつけることが実に大好きですが、その元祖は東氏にあったわけです(そのくせ、BLは「男たちのホモソーシャル性をからかった高度な批評である」と強弁し、称揚しています。もう見ている方が赤面してしまうような腰巾着ぶりですね)。
極端に言えば、彼らは『エヴァ』をきっかけにオタクたちの上に君臨したかったわけです。東氏以外にも、今はオタクの味方であるかのように振る舞っている文化人が、やはり当時『エヴァ』に飛びつきつつもオタクのことは見下し、古株のオタク系の評論家が『エヴァ』を語るのを悪し様に罵っているのを見たこともあります。
彼の『動物化するポストモダン』など初期の著作についても、既にオワコン(流行遅れ)である「ポストモダン」を「オタク文化」に絡めて語ることで読者を幻惑し、延命させようとしたもの、という以上の印象を持つことができません。論壇の人たちにしてみればいまだ暗黒大陸である「オタク文化」をネタにすれば反論しにくかろう、といった計算があったのでは……といった勘繰りもつい、してしまいたくなります。
むろん、これは一種の極論です。東氏は「利益のためにオタクを装っている」わけでは別になく、ご本人もコアなオタクであることは事実です。
ただ、ぼくとしては、
ぼくたちが『エヴァ』について熱く語っていたら、文化人たちがまるでアメリカ大陸を「発見」した欧米人のようにずかずか上がり込んできて「俺たちの方が『エヴァ』をよくわかっている!」と我が物顔で暴れ出した。ぼくたちは食うためにやむを得ず、彼らにインチキインディアンダンスを踊ってみせるハメに……。
といった感想をつい、抱いてしまうのです。
さて、ここでちょっとしたねじれが生じました。
左派寄りである彼らオタク系文化人は、ことに性的な事柄についてはリベラル寄りの考えが強い。同時にまた彼らはフェミニストと非常に親和的で、フェミニストたちも前回挙げた人々が代表するように、腐女子率が大変に高い。
しかしフェミニストたちはポルノや「萌え」的な表現を嫌っているのではないか……といった疑問が、当然湧きますよね。
むろん、フェミニストといっても一枚岩ではなく、むしろ最近のフェミニストは性的なものに対してオープンな姿勢をアピールする人々が主流になっているように思います。上野千鶴子氏からして「うぐいすリボン」という「表現の自由を守る」ことを目的とするオタク寄りのNPOの講演会で、
>「フェミニズムは敵ではありません」と、ジェンダーの話題を怖がるオタクたちへのメッセージを、印象的な言葉で語っていました。
>上野は一貫して「表現の自由」擁護の立場。「想像力は取り締まれない」と壇上で発言したら拍手を受けた。
といったスタンスを表明していました*2。
近著である『女ぎらい』を見ても、妙にオタクに対して親和的なスタンスをアピールしている様子が見て取れます。
が、しかしながら、彼女は同時に、
> 対価を払って同意を得ているから買春してもいいという人がよくいるが、カネを払えば女性の身体を自由にしていいのか。資本主義だって何でも商品にしていいわけではない。
>やはり、風俗は完全になくすべきだという結論以外にない。
とも言っているのです*3。先の『女ぎらい』を見てもやはり、
> 売買春とはこの接近の過程(引用者註・男女のおつきあい)を、金銭を媒介に一挙に短縮する(つまりスキルのない者でも性交渉を持てる)という強姦の一種にほかならない。
とまで断言しています。
おかしな話です。そんなことを言い出したらAVだって「売買春記録物」に他ならず、「強姦」であり、「完全になくすべきだという結論以外にない」はずです。
むろん、彼女がオタクに親和的なのは「エロ漫画など、架空の美少女を性の対象にしている」との理由があり、彼女の中では矛盾はないのかも知れませんが、非オタクにしてみればやはり、納得のできる論理ではないでしょう。
正直、彼女らのホンネがいかなるものか理解に苦しむのですが、彼女の弟子筋である千田有紀氏の著作を見ると、「体制側の規制は反対、しかしポルノそのものは女性差別であり、(自分たちの手によって?)改革されていかなければならない(大意)」といったことが書かれていました。彼女らのリクツでは、ポルノは「ヘイトスピーチ」の一種だと言うのですから、恐れ入ります。そうなると、彼女らのお眼鏡に適うポルノはBLのみ、なんてことにもなりかねないような気がしますが……。
しかしそうしたフェミニストたちの欺瞞に対して、オタク系文化人たちは全く頓着する様子がありません。「表現の自由」のためにはどんな犠牲でも払おうという人たちが、自分の仲間の欺瞞には徹底的に甘い。これはとても不思議なことと言わねばなりません。考えてみれば、彼らがあれだけフェミニズムに服従しつつ、一方では幼い子供を拉致監禁し、レイプして精神をずたずたに破壊するような凄惨なポルノを絶賛し続けること自体、ぼくの感覚からは全く理解が及ばないのですが。
ところで前回ぼくは、「オタク界の上層部には小児愛者、或いは小児愛者を政治利用しようという意図を持った者がいるのではないか」との想像を述べました。ネット上では「ホモフォビア」というフレーズをパクって「ペドフォビア」といった言葉を振り回す者も目立ってきた、といったことも指摘しました。
*ペドフォビアという言葉は、社会的な事象に使用される概念で、小児性愛者(ペドフィリア)を「過度に」嫌悪する心理のことを指すようです。小児性愛者に対する過度な差別を批判・告発するための術語のようです。(編集者注)
が、最近、これに関連してちょっと面白い事件が起こりました。
レインボーアイコン(ツイッターではアイコンに虹マークをつけることで、セクシャルマイノリティへの支援の表明となるとされています)をつけた人々が「ロリコン」を口汚く罵り、ロリコン寄りの人々*4にダブルスタンダードではないかと批判される、といったことが起こったのです。
欧米のゲイ団体などが小児愛者に厳しいことは前回にも書きました。が、日本では小児愛者も「子供とのセックスを法で認めよ!」などと表立って運動することもなく、同時に彼らに対する嫌悪も、あまり表明はされない。しかし内部にくすぶった感情が、ネット時代になって表に出てきた……本件をまとめれば、そんなことになろうかと思います。
しかし、(罪を犯してもいないロリコンへの罵倒が正当化されるわけではないものの)ことこれについては、セクシャルマイノリティ、或いはフェミニストたちの言に理があるように、ぼくには感じられました。
彼ら彼女らの主張をまとめると、「小児愛者はヘテロセクシャル男性である、よってセクシャルマイノリティではない」といったものです。
そう、言葉をそのまま「性的な少数派」と捉えるのであれば、小児愛者は明らかにセクシャルマイノリティです。が、同時に彼ら彼女らの論理は基本的にはフェミニズムをフォーマットにした、「ヘテロセクシャル男性へのカウンター」といった性質を持っています。つまり、ヘテロセクシャル男性への異議申し立てというセクシャルマイノリティの思想、運動のスタンスを鑑みた時、単純に「小児愛者もまたセクシャルマイノリティ」とは言えないわけです(彼ら彼女らがレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスセクシャルの頭文字を取ってLGBTと名乗っていることは象徴的です)。
これに似た例として、数年前、東浩紀氏が「ろりともだち」という美少女コミックを絶賛したことにフェミニストたちが憤った、といった事件がありました*5。その「ろりともだち」は小児愛者の青年の心理を描いた(インモラルながら、大変優れた)作品だったのですが、フェミニストたちは一つに、「幼い少女を陰惨にレイプする漫画を絶賛したこと」に、二つ目には「小児愛者の青年同士の親友関係を(ホモソーシャル、と称しておけばいいものを)ゲイ的、と表現したこと」に切れていたように思います。小児愛者をゲイに準えて批評するとは何ごとか、というわけですね。
念を押しておきますが、ぼくはフェミニズムの理を一切認めませんし、その意味で残念ながらセクシャルマイノリティたちのロジックも、基本的に受け容れる気にはなりません。
しかし上に挙げたロリコン寄りの人々が「ペドフォビア」などといった言葉をひねり出し、セクシャルマイノリティたちの論理を(まるで『エヴァ』をオタクから横取りした文化人よろしく!)パクっておいて、しかし彼らの「小児愛者はヘテロセクシャル男性である、それ故マイノリティとは認められない」といったロジックにだけは反駁するというのでは、平仄にあいません。
こうしたロリコン寄りの人々は常に自らの立場をゲイに、黒人に準え、敵対者に「レイシスト」との言葉をぶつけるだけでよしとしています。そこにあるのは「自分たちも嫌われることなく市民権を得られるはずだ」との素朴な確信、そして「自分たちが何故嫌われるのか」といったことに対する想像力の欠如――とどのつまり、近代的な「人権」観に対する教科書通りの全幅の信頼でしょうか。
更に言うと彼らの論調からは、「無辜な被差別者」として不遇感をぶちまけ、「愚かな大衆」に対して傲岸不遜に振る舞うことの快楽すらも感じ取れるようです。
これは少し話が飛躍しますが、ネット上で目立つ「男性差別反対派」にも近い心性が感じられます。彼らは「女性専用車両」や「女性優遇サービス」を「男性差別である」として、「差別だ!」「男女平等だ!」と騒げば受け容れられるのだ、との素朴な確信を抱き続けています。そこに欠けているのは男性が強者として、女性が弱者として扱われるこの社会の「お約束」に対する洞察でしょう。
むろん、オタクと小児愛者が全然別物であることは前回にも書いた通りですし、上のような人々の主張は左派寄りのロジックの影響が大とは言えいささか奇矯にすぎ、上野千鶴子氏が、東浩紀氏が同意するかとなると疑問ではあります。
とは言え、東氏は数年前もツイッターで
>オタクをセクシュアルマイノリティと呼ぶのは間違っている、と主張する人々は、単に「マイノリティ」という便利なレッテルを自分たちで占有したいだけだと思いますよ。オタクはそんなのに付き合う必要はさらさらないので、クイア理論とか読むといろいろ学ぶところあると思うな。
*クイア理論については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A3%E3%82%A2%E7%90%86%E8%AB%96 をご覧ください。(編集者注)
などと発言していたことがあるのです*6。「マイノリティ」との称号がある種の「利権」であることを認識し、自分もまたご相伴にあずかりたいとの清々しいまでに下世話なホンネが、そこには現れています。何だか彼の師匠である浅田氏の発言を思い出させないでもありません。それはつまり、前回指摘した「ヘテロセクシャル男性でも男性の性役割から逃れようとする者はゲイの一種だ(大意)」発言ですね。
彼ら彼女らは男性は悪/女性は正義との幼稚極まりない二元論を築き上げ、セクシャルマイノリティや自分たちだけは特例で後者側の人間である、「名誉女性」であると自称してきました。
そしてオタクたちに「今までマッチョであった罪を悔い改め、我々に帰依することでお前たちも名誉女性との、弱者との称号を得て、救われるぞ」と説き、論理破綻も省みずに目玉商品である「弱者認定証」を「免罪符」よろしく大安売りし、気づくとどうしようもないところにまで来てしまったのです(いや、彼ら彼女らの主観では、自宅の庭の柿の木になった「オタク文化」という名の実をもいで食べているだけ、ということになるのでしょうが)。
そう、彼ら彼女らは
ボクと契約して、フェミニストになってよ!
とぼくたちを勧誘し、魔女に仕立て上げようとする「ブラック思想」と化してしまったのです。
小浜逸郎氏の名著『「弱者」とはだれか』の終章は「ボクもワタシも「弱者」」と題されています。ぼくはこれを読んだ時、「まさにその通りだ」「いや、しかし違うぞ」と相反する感想を持ちました。
ぼくがこの時感じたのは弱者の椅子には限りがあり、弱者側についた連中は容易にその席を明け渡さない、「弱者になれるエリートは一握り」ではないか、ということです。
むろん、小浜氏の意図は「弱者/強者」関係の流動性を指摘し、またそれ故に万人が「弱者になりたがる」傾向を指摘する点にあり、このぼくの感想は勇み足ではあります。
近年の傾向を見ていくと、小浜氏の指摘があちこちで現実化しているのを見ることができます。今までやせ我慢を続けていた男性たちも、「弱者になりたい」というホンネを吐露することに逡巡しなくなってきました。弱者の椅子を狙うバトルがいよいよ激化してきた、我も我もと椅子に飛びつこうと必死になってきた、今まで述べてきた事例はその一端ではないでしょうか。
男性が鎧を脱ぎ捨て、自らの欲求を語り出したことについては、好ましい面もあるでしょう。しかし問題はその「弱者の椅子」こそがもう、古びたものである点です。イナバの物置のように頑強かと思われた「弱者の椅子」の上では、もう百人以上の「弱者」がひしめきあっており、ぎしぎし言っているのです。
ぼくとしては椅子の上に乗っかろうとするよりも、その椅子がインチキであることを指摘するとか、或いは新しいもうちょっと丈夫な椅子を作ろうとする方がいいように思うのですが。
そうそう、『まどマギ』ですがこの作品、何を間違ったのか「ジェンダーSF研究会」の主催する「センス・オブ・ジェンダー賞シスターフッド賞」を受賞しています。「男社会で翻弄される女性の姿を活写して云々」みたいなことが受賞理由なのだと多分、思います。
フェミニストたちはキュゥべえを「女を搾取する男」の象徴と考えたいようですが、しかし魔法少女たちを「ブラック企業で使い捨てられる女性のメタファー」とするのであれば、キュゥべえは「フェミニズム」の象徴であると解釈した方が、ぼくにはよほどしっくりくるのですが。
本作は最終回、主人公であるまどかちゃんが時間を巻き戻して魔女を消失させることで終わりを迎えます。
そしてまどかちゃんのママはいつもスーツ姿(で、私服の時はパンツ)のバリキャリ、パパは主夫(!)という設定が与えられ、担任の先生は婚活に失敗しては男の悪口を言っている女性、というキャラクターなのですが、この魔女のいなくなった世界で、ママは(いまだキャリアウーマンなのかどうかは描かれないものの)、主婦っぽいスカート姿になっているのです!
果たしてまどかちゃんがやっつけた魔女の正体は、一体何だったのでしょう?
しかしオタク界ではいまだ魔女の支配が続いているがため、彼女らの耳に快くないこうした評論は、決して表には現れないのです。
それは丁度、『エヴァ』に先んじて登場した、『美少女戦士セーラームーン』の時にも起こった現象です。若い女性を原作者として、強い女の時代を象徴するアニメとして称揚された『セーラームーン』ですが、実質的にこの作品のクオリティを保っていたのは若い男性のアニメスタッフたちのようでした。アニメでは「母性原理で世界を守るセーラームーン」の理想主義が失敗し、男性原理を司るキャラクターがその独善を糾弾する、といったエピソードも描かれましたが、当然、アニメ評論はそんなエピソードを正当に評価することはありません。
オタク文化の歴史は、それがそのままオタク修正主義の歴史でもありました。
正当に評価されてこなかったオタク文化の流れを、いつかオタク自虐史観から解き放ち、語り直すことができればいいな――とぼくはそんな風に考えています。
*1当方のブログ「東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)(http://shinji-hyodo.blog.ocn.ne.jp/blog/2010/08/post_2723.html)」もご参照ください。
*2「うぐいすリボン 堺市立図書館BL小説廃棄要求事件を振り返る(http://www.jfsribbon.org/2012/10/bl.html)」
*3「上野千鶴子氏 売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化(http://www.excite.co.jp/News/society_g/20130609/Postseven_191042.html)」
*4まず、「真性の小児愛者」が自ら名乗りを上げることはネット上でも稀少ですし、こうした論者自身、自らの立場を明言することは稀です。また、こうした議論の場では「現実の子供を性の対象とする真性の小児愛者」と「アニメなどの美少女を好むロリコン」が常に(場合によっては意図的に?)混同して論じられます。ですから今回採り上げた人々も後者の人々である可能性は否定できません。よって本論では敢えて、「ロリコン寄りの人々」という曖昧なフレーズを使うことにしたいと思います。またこの種の議論においては「実際の子供に手を出したら犯罪」という最低ラインは一応、共有されていることが基本ではあることは、ご了解ください。ちなみにこの騒動についてはtogetter「性的マイノリティ差別反対している人間がオタクとかロリコンとかが気持ち悪いと言っちゃう現実。(http://togetter.com/li/636375)」を参照。
*5詳しくは当方のブログ、「ろりともだち(http://shinji-hyodo.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/08/post_744a.html)」「ろりともだち(その2)(http://shinji-hyodo.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/08/post_010b.html)」「ろりともだち(その3)(http://shinji-hyodo.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/08/post_1021.html)」を参照。
*6(https://twitter.com/hazuma/status/94230144373370880)
兵頭新児
『魔法少女まどか☆マギカ』のキュゥべえ
――前回、ぼくは「ホモ雑誌の編集長が小児愛者と子供とのセックスを称揚している」こと、「フェミニストがそれを指摘されても目を背けるどころか、編集長を擁護し、指摘した側を攻撃してきた」ことについて述べました。そんなフェミニストたちが揃いも揃って腐女子(BLを愛好するオタク女子)であったことから、論調は「オタク批判」とも言えるものになっていったかと思います。
*Wikipedia によれば、″BLは「ボーイズ・ラヴ」の略で、ボーイズラブ(和製英語)とは、日本における男性(少年)同士の同性愛を題材とした小説や漫画などのジャンルのこと。書き手も読み手も主として異性愛女性によって担われている″とあります。(編集者注)
が、正直ちょっと駆け足で説明不足だったかなとの反省もあります。恐らくお読みくださっている方々にしてみれば、オタク文化などなじみのない方がほとんどでしょうし。
そんなことから今回、それらの事情についての補足説明をすると共に、もうちょっと話を広げてみたいと思います。
その前に本件のタイトルですが、これは『魔法少女まどか☆マギカ』に登場するキャラクター、キュゥべえの「ぼくと契約して、魔法少女になってよ!」という名セリフのもじりです。
『魔法少女まどか☆マギカ』(以降、『まどマギ』)とは2011年にテレビ放映を開始し、オタクの間で大ヒットしたアニメです。
『新世紀エヴァンゲリオン』は従来のスーパーロボットアニメのパロディのような世界観の中、主人公が最後まで戦うことを拒否し、現代社会でぼくたちが抱えている虚無感を描き出しました。
一方『まどマギ』は、言わば従来の魔女っ子アニメのパロディです。妖精のような不思議な生物・キュゥべえと「契約」し、魔法少女となった少女たちが、悪い魔女を相手に戦うお話なのですが、これもまた、『エヴァ』的な仕掛けが施されていました。キュゥべえは善意からヒロインたちを魔法少女にしたわけではなく、少女たちが魔力を使い続けるうち、次第に魔女(つまり、悪役ですね)と化していくことを見越して、それこそを目的としていた存在だったのです。
この「魔法少女」が「魔女」と化していくことが必然だとの設定は、成長することそのものが汚れること、悪くなること、というぼくたちの成長忌避的な心理を表現しているとも言えますし、またこの少女たちを勧誘し、魔法少女にしていくキュゥべえはまさに「ブラック企業」のメタファーだ、といった批評もさかんになされました。
今回は現実世界でもこのキュゥべえが暗躍しているのではないか……というお話です。
ぼくは前回、「オタク界には左派の勢力が強い」「しかしオタクのマジョリティは必ずしも左派とは言いにくい」と書きました。この辺りをもう少し詳しくお話ししたいと思います。
オタク文化の発祥が何かとなると議論は百出するでしょうが、80年代の初期、70年代的な「エロ劇画」が廃れ、今で言う「萌え」的な美少女のエロ漫画、いわゆる「美少女コミック」というものが流行し、「ロリコンブーム」などと言われていたことは事実です。つまり、オタク文化の源流の一つには、明らかにこの種のエロ漫画があったわけです。
さて、その「エロ劇画」ですが、ウィキペディアの「エロ劇画誌」の項を見てみると、「三流劇画ムーブメント」という小見出しが作られ、
>これは、当時の三大エロ劇画誌と言われた『漫画大快楽』『劇画アリス』『漫画エロジェニカ』の編集者(亀和田武、高取英ら)によって打ち上げられたもので、言わば学生運動のような革命思想をマンガ雑誌の世界に持ち込んだもので「劇画全共闘」とも呼ばれた。
などと描かれています。
つまり、元からエロ漫画界は左派的な勢力が支配的だったわけです。
が、「美少女コミック」はそうした「エロ劇画」の影響があるとは言い難く、全く別な場所、つまりアニメなどを源流に発生してきた表現としか言いようがありませんでした。
この時期の美少女コミック界を戯画的に表現するならば、
ぼくたちがコミケで美少女コミックの同人誌を売っていたら、雑誌の編集者がスカウトに現れた。喜んでほいほいついていったら「体制と戦え!」みたいなウザいお説教をされてウンザリ……。
といった事態がそこかしこで起きていたと、そんなわけです。
もっとも、とは言え、オタク文化の歴史は性描写規制、児童ポルノ法との戦いの歴史といった側面もあります。古株のオタクであればあるほど、こうした左派の影響を色濃く受けざるを得なかった状況があったわけです。今では「萌え」一辺倒のエロ漫画業界ですが、それでも「登場人物がアンドレア・ドゥオーキンの主張をそらんじながらセックスする」といったモノスゴい漫画を描く、「東大法学部出身」を売りにした「砂」という漫画家さんなんかがいらっしゃったりもします。
*故アンドレア・ドゥオーキンは、ラディカル・フェミニズムの象徴的な人物。詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3 をご覧ください。(編集者注)
前回のフェミニストたちがぼくのことを「漫画の敵」と短絡的に勘違いしてしまったのも、そうした歴史故のことだったのですね。
そしてまた、90年代にもオタク界は大きなターニングポイントを迎えました。そう、先にも挙げた『エヴァ』が注目され、ある種、オタク文化が市場と市民権を得たのです。この頃、東浩紀氏に代表されるようなオタク系文化人の姿も目立って来ました。
が、こうした(揃いも揃って左寄りの)文化人たちは今でこそオタクの味方のようなポーズをしきりに取っていますが、この当時、彼らは『エヴァ』に飛びつくのとは裏腹に、オタクそのものは見下して批判しておりました。
1998年に出された雑誌『Quick Japan vol.21』を見ると*1、東氏は
> たとえばコアな男性オタクには、妙な硬派意識があるでしょう。現実の女とチャラチャラ飲みにいったり、イタリア料理食いに行ったりはバカにして、むしろプレステで格ゲーやってるほうが「かっこいい」、みたいなね。エロ同人誌を描いていて硬派とはどういうわけか、僕は長いあいだ謎だった。ホモソシアル、がその答えではないか。
などと語っています。ぼくは何十年とオタクをやってきて、そんなふうに感じたことは一度もないのですが。しかし彼の妄想はそれでも止まらず、オタクはナショナリストだとも(無根拠に)言い出します。
「オタクはマッチョである」
「オタクはホモソーシャルである」
「オタクはミソジニーである」
「オタクはネトウヨである」
左派寄りの人々はオタクにいろいろなレッテルを貼りつけることが実に大好きですが、その元祖は東氏にあったわけです(そのくせ、BLは「男たちのホモソーシャル性をからかった高度な批評である」と強弁し、称揚しています。もう見ている方が赤面してしまうような腰巾着ぶりですね)。
極端に言えば、彼らは『エヴァ』をきっかけにオタクたちの上に君臨したかったわけです。東氏以外にも、今はオタクの味方であるかのように振る舞っている文化人が、やはり当時『エヴァ』に飛びつきつつもオタクのことは見下し、古株のオタク系の評論家が『エヴァ』を語るのを悪し様に罵っているのを見たこともあります。
彼の『動物化するポストモダン』など初期の著作についても、既にオワコン(流行遅れ)である「ポストモダン」を「オタク文化」に絡めて語ることで読者を幻惑し、延命させようとしたもの、という以上の印象を持つことができません。論壇の人たちにしてみればいまだ暗黒大陸である「オタク文化」をネタにすれば反論しにくかろう、といった計算があったのでは……といった勘繰りもつい、してしまいたくなります。
むろん、これは一種の極論です。東氏は「利益のためにオタクを装っている」わけでは別になく、ご本人もコアなオタクであることは事実です。
ただ、ぼくとしては、
ぼくたちが『エヴァ』について熱く語っていたら、文化人たちがまるでアメリカ大陸を「発見」した欧米人のようにずかずか上がり込んできて「俺たちの方が『エヴァ』をよくわかっている!」と我が物顔で暴れ出した。ぼくたちは食うためにやむを得ず、彼らにインチキインディアンダンスを踊ってみせるハメに……。
といった感想をつい、抱いてしまうのです。
さて、ここでちょっとしたねじれが生じました。
左派寄りである彼らオタク系文化人は、ことに性的な事柄についてはリベラル寄りの考えが強い。同時にまた彼らはフェミニストと非常に親和的で、フェミニストたちも前回挙げた人々が代表するように、腐女子率が大変に高い。
しかしフェミニストたちはポルノや「萌え」的な表現を嫌っているのではないか……といった疑問が、当然湧きますよね。
むろん、フェミニストといっても一枚岩ではなく、むしろ最近のフェミニストは性的なものに対してオープンな姿勢をアピールする人々が主流になっているように思います。上野千鶴子氏からして「うぐいすリボン」という「表現の自由を守る」ことを目的とするオタク寄りのNPOの講演会で、
>「フェミニズムは敵ではありません」と、ジェンダーの話題を怖がるオタクたちへのメッセージを、印象的な言葉で語っていました。
>上野は一貫して「表現の自由」擁護の立場。「想像力は取り締まれない」と壇上で発言したら拍手を受けた。
といったスタンスを表明していました*2。
近著である『女ぎらい』を見ても、妙にオタクに対して親和的なスタンスをアピールしている様子が見て取れます。
が、しかしながら、彼女は同時に、
> 対価を払って同意を得ているから買春してもいいという人がよくいるが、カネを払えば女性の身体を自由にしていいのか。資本主義だって何でも商品にしていいわけではない。
>やはり、風俗は完全になくすべきだという結論以外にない。
とも言っているのです*3。先の『女ぎらい』を見てもやはり、
> 売買春とはこの接近の過程(引用者註・男女のおつきあい)を、金銭を媒介に一挙に短縮する(つまりスキルのない者でも性交渉を持てる)という強姦の一種にほかならない。
とまで断言しています。
おかしな話です。そんなことを言い出したらAVだって「売買春記録物」に他ならず、「強姦」であり、「完全になくすべきだという結論以外にない」はずです。
むろん、彼女がオタクに親和的なのは「エロ漫画など、架空の美少女を性の対象にしている」との理由があり、彼女の中では矛盾はないのかも知れませんが、非オタクにしてみればやはり、納得のできる論理ではないでしょう。
正直、彼女らのホンネがいかなるものか理解に苦しむのですが、彼女の弟子筋である千田有紀氏の著作を見ると、「体制側の規制は反対、しかしポルノそのものは女性差別であり、(自分たちの手によって?)改革されていかなければならない(大意)」といったことが書かれていました。彼女らのリクツでは、ポルノは「ヘイトスピーチ」の一種だと言うのですから、恐れ入ります。そうなると、彼女らのお眼鏡に適うポルノはBLのみ、なんてことにもなりかねないような気がしますが……。
しかしそうしたフェミニストたちの欺瞞に対して、オタク系文化人たちは全く頓着する様子がありません。「表現の自由」のためにはどんな犠牲でも払おうという人たちが、自分の仲間の欺瞞には徹底的に甘い。これはとても不思議なことと言わねばなりません。考えてみれば、彼らがあれだけフェミニズムに服従しつつ、一方では幼い子供を拉致監禁し、レイプして精神をずたずたに破壊するような凄惨なポルノを絶賛し続けること自体、ぼくの感覚からは全く理解が及ばないのですが。
ところで前回ぼくは、「オタク界の上層部には小児愛者、或いは小児愛者を政治利用しようという意図を持った者がいるのではないか」との想像を述べました。ネット上では「ホモフォビア」というフレーズをパクって「ペドフォビア」といった言葉を振り回す者も目立ってきた、といったことも指摘しました。
*ペドフォビアという言葉は、社会的な事象に使用される概念で、小児性愛者(ペドフィリア)を「過度に」嫌悪する心理のことを指すようです。小児性愛者に対する過度な差別を批判・告発するための術語のようです。(編集者注)
が、最近、これに関連してちょっと面白い事件が起こりました。
レインボーアイコン(ツイッターではアイコンに虹マークをつけることで、セクシャルマイノリティへの支援の表明となるとされています)をつけた人々が「ロリコン」を口汚く罵り、ロリコン寄りの人々*4にダブルスタンダードではないかと批判される、といったことが起こったのです。
欧米のゲイ団体などが小児愛者に厳しいことは前回にも書きました。が、日本では小児愛者も「子供とのセックスを法で認めよ!」などと表立って運動することもなく、同時に彼らに対する嫌悪も、あまり表明はされない。しかし内部にくすぶった感情が、ネット時代になって表に出てきた……本件をまとめれば、そんなことになろうかと思います。
しかし、(罪を犯してもいないロリコンへの罵倒が正当化されるわけではないものの)ことこれについては、セクシャルマイノリティ、或いはフェミニストたちの言に理があるように、ぼくには感じられました。
彼ら彼女らの主張をまとめると、「小児愛者はヘテロセクシャル男性である、よってセクシャルマイノリティではない」といったものです。
そう、言葉をそのまま「性的な少数派」と捉えるのであれば、小児愛者は明らかにセクシャルマイノリティです。が、同時に彼ら彼女らの論理は基本的にはフェミニズムをフォーマットにした、「ヘテロセクシャル男性へのカウンター」といった性質を持っています。つまり、ヘテロセクシャル男性への異議申し立てというセクシャルマイノリティの思想、運動のスタンスを鑑みた時、単純に「小児愛者もまたセクシャルマイノリティ」とは言えないわけです(彼ら彼女らがレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスセクシャルの頭文字を取ってLGBTと名乗っていることは象徴的です)。
これに似た例として、数年前、東浩紀氏が「ろりともだち」という美少女コミックを絶賛したことにフェミニストたちが憤った、といった事件がありました*5。その「ろりともだち」は小児愛者の青年の心理を描いた(インモラルながら、大変優れた)作品だったのですが、フェミニストたちは一つに、「幼い少女を陰惨にレイプする漫画を絶賛したこと」に、二つ目には「小児愛者の青年同士の親友関係を(ホモソーシャル、と称しておけばいいものを)ゲイ的、と表現したこと」に切れていたように思います。小児愛者をゲイに準えて批評するとは何ごとか、というわけですね。
念を押しておきますが、ぼくはフェミニズムの理を一切認めませんし、その意味で残念ながらセクシャルマイノリティたちのロジックも、基本的に受け容れる気にはなりません。
しかし上に挙げたロリコン寄りの人々が「ペドフォビア」などといった言葉をひねり出し、セクシャルマイノリティたちの論理を(まるで『エヴァ』をオタクから横取りした文化人よろしく!)パクっておいて、しかし彼らの「小児愛者はヘテロセクシャル男性である、それ故マイノリティとは認められない」といったロジックにだけは反駁するというのでは、平仄にあいません。
こうしたロリコン寄りの人々は常に自らの立場をゲイに、黒人に準え、敵対者に「レイシスト」との言葉をぶつけるだけでよしとしています。そこにあるのは「自分たちも嫌われることなく市民権を得られるはずだ」との素朴な確信、そして「自分たちが何故嫌われるのか」といったことに対する想像力の欠如――とどのつまり、近代的な「人権」観に対する教科書通りの全幅の信頼でしょうか。
更に言うと彼らの論調からは、「無辜な被差別者」として不遇感をぶちまけ、「愚かな大衆」に対して傲岸不遜に振る舞うことの快楽すらも感じ取れるようです。
これは少し話が飛躍しますが、ネット上で目立つ「男性差別反対派」にも近い心性が感じられます。彼らは「女性専用車両」や「女性優遇サービス」を「男性差別である」として、「差別だ!」「男女平等だ!」と騒げば受け容れられるのだ、との素朴な確信を抱き続けています。そこに欠けているのは男性が強者として、女性が弱者として扱われるこの社会の「お約束」に対する洞察でしょう。
むろん、オタクと小児愛者が全然別物であることは前回にも書いた通りですし、上のような人々の主張は左派寄りのロジックの影響が大とは言えいささか奇矯にすぎ、上野千鶴子氏が、東浩紀氏が同意するかとなると疑問ではあります。
とは言え、東氏は数年前もツイッターで
>オタクをセクシュアルマイノリティと呼ぶのは間違っている、と主張する人々は、単に「マイノリティ」という便利なレッテルを自分たちで占有したいだけだと思いますよ。オタクはそんなのに付き合う必要はさらさらないので、クイア理論とか読むといろいろ学ぶところあると思うな。
*クイア理論については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A3%E3%82%A2%E7%90%86%E8%AB%96 をご覧ください。(編集者注)
などと発言していたことがあるのです*6。「マイノリティ」との称号がある種の「利権」であることを認識し、自分もまたご相伴にあずかりたいとの清々しいまでに下世話なホンネが、そこには現れています。何だか彼の師匠である浅田氏の発言を思い出させないでもありません。それはつまり、前回指摘した「ヘテロセクシャル男性でも男性の性役割から逃れようとする者はゲイの一種だ(大意)」発言ですね。
彼ら彼女らは男性は悪/女性は正義との幼稚極まりない二元論を築き上げ、セクシャルマイノリティや自分たちだけは特例で後者側の人間である、「名誉女性」であると自称してきました。
そしてオタクたちに「今までマッチョであった罪を悔い改め、我々に帰依することでお前たちも名誉女性との、弱者との称号を得て、救われるぞ」と説き、論理破綻も省みずに目玉商品である「弱者認定証」を「免罪符」よろしく大安売りし、気づくとどうしようもないところにまで来てしまったのです(いや、彼ら彼女らの主観では、自宅の庭の柿の木になった「オタク文化」という名の実をもいで食べているだけ、ということになるのでしょうが)。
そう、彼ら彼女らは
ボクと契約して、フェミニストになってよ!
とぼくたちを勧誘し、魔女に仕立て上げようとする「ブラック思想」と化してしまったのです。
小浜逸郎氏の名著『「弱者」とはだれか』の終章は「ボクもワタシも「弱者」」と題されています。ぼくはこれを読んだ時、「まさにその通りだ」「いや、しかし違うぞ」と相反する感想を持ちました。
ぼくがこの時感じたのは弱者の椅子には限りがあり、弱者側についた連中は容易にその席を明け渡さない、「弱者になれるエリートは一握り」ではないか、ということです。
むろん、小浜氏の意図は「弱者/強者」関係の流動性を指摘し、またそれ故に万人が「弱者になりたがる」傾向を指摘する点にあり、このぼくの感想は勇み足ではあります。
近年の傾向を見ていくと、小浜氏の指摘があちこちで現実化しているのを見ることができます。今までやせ我慢を続けていた男性たちも、「弱者になりたい」というホンネを吐露することに逡巡しなくなってきました。弱者の椅子を狙うバトルがいよいよ激化してきた、我も我もと椅子に飛びつこうと必死になってきた、今まで述べてきた事例はその一端ではないでしょうか。
男性が鎧を脱ぎ捨て、自らの欲求を語り出したことについては、好ましい面もあるでしょう。しかし問題はその「弱者の椅子」こそがもう、古びたものである点です。イナバの物置のように頑強かと思われた「弱者の椅子」の上では、もう百人以上の「弱者」がひしめきあっており、ぎしぎし言っているのです。
ぼくとしては椅子の上に乗っかろうとするよりも、その椅子がインチキであることを指摘するとか、或いは新しいもうちょっと丈夫な椅子を作ろうとする方がいいように思うのですが。
そうそう、『まどマギ』ですがこの作品、何を間違ったのか「ジェンダーSF研究会」の主催する「センス・オブ・ジェンダー賞シスターフッド賞」を受賞しています。「男社会で翻弄される女性の姿を活写して云々」みたいなことが受賞理由なのだと多分、思います。
フェミニストたちはキュゥべえを「女を搾取する男」の象徴と考えたいようですが、しかし魔法少女たちを「ブラック企業で使い捨てられる女性のメタファー」とするのであれば、キュゥべえは「フェミニズム」の象徴であると解釈した方が、ぼくにはよほどしっくりくるのですが。
本作は最終回、主人公であるまどかちゃんが時間を巻き戻して魔女を消失させることで終わりを迎えます。
そしてまどかちゃんのママはいつもスーツ姿(で、私服の時はパンツ)のバリキャリ、パパは主夫(!)という設定が与えられ、担任の先生は婚活に失敗しては男の悪口を言っている女性、というキャラクターなのですが、この魔女のいなくなった世界で、ママは(いまだキャリアウーマンなのかどうかは描かれないものの)、主婦っぽいスカート姿になっているのです!
果たしてまどかちゃんがやっつけた魔女の正体は、一体何だったのでしょう?
しかしオタク界ではいまだ魔女の支配が続いているがため、彼女らの耳に快くないこうした評論は、決して表には現れないのです。
それは丁度、『エヴァ』に先んじて登場した、『美少女戦士セーラームーン』の時にも起こった現象です。若い女性を原作者として、強い女の時代を象徴するアニメとして称揚された『セーラームーン』ですが、実質的にこの作品のクオリティを保っていたのは若い男性のアニメスタッフたちのようでした。アニメでは「母性原理で世界を守るセーラームーン」の理想主義が失敗し、男性原理を司るキャラクターがその独善を糾弾する、といったエピソードも描かれましたが、当然、アニメ評論はそんなエピソードを正当に評価することはありません。
オタク文化の歴史は、それがそのままオタク修正主義の歴史でもありました。
正当に評価されてこなかったオタク文化の流れを、いつかオタク自虐史観から解き放ち、語り直すことができればいいな――とぼくはそんな風に考えています。
*1当方のブログ「東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)(http://shinji-hyodo.blog.ocn.ne.jp/blog/2010/08/post_2723.html)」もご参照ください。
*2「うぐいすリボン 堺市立図書館BL小説廃棄要求事件を振り返る(http://www.jfsribbon.org/2012/10/bl.html)」
*3「上野千鶴子氏 売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化(http://www.excite.co.jp/News/society_g/20130609/Postseven_191042.html)」
*4まず、「真性の小児愛者」が自ら名乗りを上げることはネット上でも稀少ですし、こうした論者自身、自らの立場を明言することは稀です。また、こうした議論の場では「現実の子供を性の対象とする真性の小児愛者」と「アニメなどの美少女を好むロリコン」が常に(場合によっては意図的に?)混同して論じられます。ですから今回採り上げた人々も後者の人々である可能性は否定できません。よって本論では敢えて、「ロリコン寄りの人々」という曖昧なフレーズを使うことにしたいと思います。またこの種の議論においては「実際の子供に手を出したら犯罪」という最低ラインは一応、共有されていることが基本ではあることは、ご了解ください。ちなみにこの騒動についてはtogetter「性的マイノリティ差別反対している人間がオタクとかロリコンとかが気持ち悪いと言っちゃう現実。(http://togetter.com/li/636375)」を参照。
*5詳しくは当方のブログ、「ろりともだち(http://shinji-hyodo.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/08/post_744a.html)」「ろりともだち(その2)(http://shinji-hyodo.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/08/post_010b.html)」「ろりともだち(その3)(http://shinji-hyodo.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/08/post_1021.html)」を参照。
*6(https://twitter.com/hazuma/status/94230144373370880)
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