美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

小浜逸郎 魂の道筋を塞いでいるのはだれか――村上春樹批判(イザ!ブログ 2012・11・2掲載)

2013年12月02日 02時44分28秒 | 小浜逸郎
ブログ主人より、一言。批評家・小浜逸郎氏の特別寄稿第3弾です。橋爪大三郎、鷲田清一に続いて、今回は村上春樹です。知名度からすれば、今回がダントツと言えましょう。その分、注目度も高まるものと思われます。三者に対する批判を通じて、戦後知識人を呪縛する凡庸さ・時代の言説的な症状が次第に明らかになってきたように、私は感じています。

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魂の道筋を塞いでいるのはだれか――村上春樹批判
                             小浜逸郎


またまた美津島さんのご厚意により、ブログ紙面を使わせていただくことになりました。美津島さんに深く感謝いたします。

去る9月28日、あの大朝日の一面トップに次の見出しが躍りました。読者の皆さんもよくご存じのことと思います。

 村上春樹さんが寄稿 魂の道筋 塞いではならない 日中韓文化交流への影響を憂う

そして3面を開くと、「魂の行き来する道筋」と題されたその寄稿全文が掲載されています(以上、一面記事と、寄稿の全文に当たられたい方は、blog.livedoor.jp/akatele-neutrale/archives/18300800.html)。

なおこれについては、すでにいちはやく美津島さんのくわしい批判的論及があり(http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/adbe2040fa25ad2ca64e0d700b03f253)、さらに政治評論家・櫻田淳さんが朝日新聞デジタル版(http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/c783471279e0f20076f423ac8e2f5c7e)に書かれた論考の、当ブログへの転載とそれについての美津島さんのコメントがあります。私の考えも、これらと重なるところが多く、付け加えることはそんなにないのですが、まあ、論じる人が違えば、多少のニュアンスの違いも出てくるだろうとの意味合いから、自分なりにこの村上論文についてやや詳しい批評文を書いてみました。

結論から申しますと、この村上論文は全篇、有名作家が社会的・政治的発言をするとこうもひどい文章しか書けないのかという典型のような代物で、「またかよ」という脱力感にどっと襲われます。無視していればいい話なのですが、私も物好きですね。村上さんのこの文章に関しては、当ブログに短いコメントを寄せてきたのですが、どうにもこうにも、それだけでは我慢が出来なくなってきました。

もはや一か月以上過ぎていて、遅きに失すの感が無きにしも非ずですが、問題自体は政治、思想、文学にまたがる普遍的な重要性をもっています。ご存知のように、村上さんは、いまや世界ブランドで、その発言は国内ばかりでなく世界中の若い世代に大きな影響(この文章の場合はもっぱら悪影響)を与えます。そのことを考えると、多少のタイミングのずれはあってもここできちんと批判しておくのが筋であると考えました。

彼の文章に具体的に言及する前に、この文章が、朝日新聞という「クォリティ・ペーパーを装ったポピュリズムそのもののメディア」に、まさにこの時期に発表された、その楽屋裏事情について、少しばかり下司の勘ぐりをしてみたいと思います。

これが掲載された9月28日は、ノーベル文学賞が発表されるちょうど2週間前です。村上さんがこれまで何度かノーベル賞候補としてノミネートされながら、賞を逸してきたことはよく知られています。彼の周辺や彼を取り巻くジャーナリズムに、今度こそは、という熱い期待がさぞかしあったことでしょう。

さてその熱い期待を背景として、朝日新聞は、いっちょう前祝をやっておこうという料簡を起こしたものと考えられます。もし予想が当たって彼が受賞すれば、ここに発表されたメッセージは、「村上春樹氏、受賞に先立って、東アジア事情を憂える」とかなんとか大々的に再認識されて、もしかしたら「歴史に残る資料」の位置を勝ち得たかもしれません。朝日新聞の担当編集者の方は、どうもそのあたりを狙っていたようです。エッセイ集か何かに再録される準備まで整っていたりして……。何しろスピードが要求される世界ですからね。

この勘ぐり、間違っていたらごめんなさい。朝日新聞担当編集者、ならびにこのブログの読者に深謝します。しかし、一面トップ記事の記載を見ると、どうしてもそういう勘ぐりをしたくなるような書かれ方をしているのです。以下に引いてみます。

村上作品の人気は中国、韓国、台湾でも高く、東アジア文化圏の地道な交流を担って きた当事者の一人。中国と台湾で作品はほぼ全て訳されており、簡体字と繁体字、両方の版が出ている。特に「ノルウェイの森」の人気が高く、中国では「絶対村上(ばっちりムラカミ)」、台湾では「非常村上(すっごくムラカミ)」という流行語が生まれたほどだ。

韓国でもほぼ全作品が翻訳され、大学生を中心に人気が高い。東アジア圏内の若手作家に、広く影響を与えている。

つまり、こうやって前宣伝をしておいて、村上さんを「東アジア文化圏」の英雄に一気に仕立てあげる。そうすると、もともと親中・親韓論調の朝日としては、そういう露骨な政治的メッセージを打ち出すことなしに、文学という「高尚な」レベルで「東アジア圏万歳!」というノーテンキな雰囲気づくりに貢献でき、お手柄、お手柄というわけです。大メディアのこういう安っぽい「文学者の政治的利用」が、内憂外患で戦後最大の国難に直面している現在の日本の真の事情を隠蔽し、ひいては、その危機のいっそうの深刻化に一役も二役も果たすことは明瞭ではないでしょうか。

それにしても、ザンネンデシタ。なんと莫言(ばくげん)さんというダークホースが、当の中国にいらしたのですね。朝日さん、その後、この受賞劇についてどういう記事を書かれたのか、寡聞にして私は知りませんが、もしかして、心の中で泣きべそをかきつつ、「中国文学者が初の受賞とはなんと素晴らしい!」などと国境を越えて「魂の道筋」が通ったことを喜んで見せたのではありませんか。人文系のノーベル賞(平和賞、経済学賞、文学賞)が西側政治の複雑な深謀遠慮にもとづいて与えられることは昔から公然の秘密ですが、朝日さん、まさか中国文学者の初のノーベル賞受賞を、その事実だけで「魂の道筋が通った」証拠などとナイーブに信じてはいますまいな。

ことわっておきますが、私は村上さんが受賞しようと莫言さんが受賞しようと、そのこと自体はご本人たちにとって喜ばしいのは当然だと思っていますから、それを寿ぐのにまったくやぶさかではありません。また、不勉強で莫言さんの作品は読んでいませんが、村上さんの作品は相当数読んできました。最近の作品にはあまり感心しませんが、昔の作品、特に『蛍』は恋心の哀しさ複雑さを描いた珠玉の短編ですし、『1973年のピンボール』は奇抜な構成をとりつつ村上さん自身が抱えてきた実存的問題に見事な表現回路を与えたという意味で、彼の一番いいところが出た傑作、また『羊をめぐる冒険』は、リアリズムとファンタジーの一見越えがたい断層をやすやすと越えて見せた文体の力に脱帽、といったように大いに評価しております。いずれにしても、大江健三郎翁と同じく、若いころの作品群は、それだけで十分ノーベル賞に値すると思ってきました。

もっとも、こと文学に関する限り、そもそもノーベル賞、ノーベル賞と騒ぐこと自体がおかしいので、このブログで同じ問題をめぐってまさに由紀草一さんが書かれているとおり(http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/0d0c60a1ae5e6e40286e1fde944b48dd)、「文学者がその作品によってどんな声望を得ようと、逆に弾圧されようと、その作品の価値とは別であるはずで」す。

私がここで何を言いたいのかというと、これから批判する村上さんの文章がいかにダメな文章であろうと、そのことによって、彼の「作品」の価値がいささかでも損なわれるものではない、ということです。私は、こういう歯止めを置くことが、文学の価値を守ることにとって非常に大事だと考えてきました。というのは、いわゆる保守派と呼ばれる政治論客にときおり見られる傾向ですが、文学者の文学者としての価値をそれと認めず(作品を虚心坦懐に読まず、真剣に値踏みせず)、その社会的・政治的な言動の愚かさをあげつらって、それだけでその文学者のすべてを否定した気になってしまうような風潮(政治的情緒主義)もまた、困ったものだからです。左翼が書こうが右翼が書こうが猿が書こうが文学は文学としてイデオロギーからは自立した価値をもつ、これは当たり前のことなのですが、どうも相変わらず当たり前として通用していないように思われます。ですから、このことをあらかじめ強調しておきます。その上で、「魂の行き来する道筋」批判に入ることにしましょう。

まず村上さんは、尖閣問題で中国の多くの書店から日本人の著書が姿を消したことを嘆きつつ、こう書いています。

それが政府主導による組織的排斥なのか、あるいは書店サイドでの自主的な引き揚げなのか、詳細はまだわからない。だからその是非について意見を述べることは、今の段階では差し控えたいと思う。

これはおかしくはありませんか。詳細がわからないからといって、どうして「その是非について意見を述べること」を差し控えなくてはならないのですか。著書が姿を消したことは事実なのだから、その背景が何であろうと、そこに表現の自由を阻害する行為があったことは明らかで、その行為は表現者にとって「非」以外のなにものでもないでしょう。つまりは、表現の自由を最も大切な社会的価値とするはずの文学者が、書き出しから何者かに遠慮し、腰が引けているのです。

次です。村上さんは、この二十年ばかりの間、東アジア地域で音楽や文学や映画やテレビ番組などの文化マーケットが公正で安定した形で成立するために「血の滲むような」努力がなされてきたことについて延々とつづっています。全体がわずか原稿用紙6枚半程度なのに、このことについての記述が結語もふくめて、44%に及びます。繰り返しも多すぎます。

さて、そのようやく安定してきた文化基盤が尖閣問題で危うくなっているというわけですが、これって、要するに文化を愛する者としての被害者感覚の訴えですよね。あげく、被害者感覚の訴えのために「魂が行き来する道筋」という何やら権威めかしたカッコよさげな言葉が2回も使われていますが、これは、「人権蹂躙だ」とか「憲法違反だ」とか簡潔な政治的スローガンを掲げるのと変わりませんね。

それはそれで結構ですが、このキメの言葉を絞り出すために、なんで半分近くもだらだらと訴状をつづる必要があるのか。村上さん、プロ中のプロなんだから、訴状はもっと簡潔にしましょう。それでないと、この「だらだら」は、領土問題と日本人の著書に対する中国の扱い、というこの稿のメインテーマについてきちんと説いてみせるだけの思考の用意がないため、埋め草に使っているだけなのだろうと考えたくなりますよ。で、私は、その他の部分をも読み合わせると、事実そうなのだと判断します。こういう「だらだら」が、えてして名声ある「文学者」と呼ばれる人たちの社会的・政治的発言には顕著です。彼ら特有の勿体ぶりとはぐらかしなのですね。わずか6枚半という枠の中で、問題の核心に分け入って論理的な認識と判断を簡明に示さなくてはならないという潔い構えができていないのです。このことは、大江健三郎翁、加藤典洋氏などの文体にも共通しています。

さてそこで、肝心の領土問題ですが、その部分を引用しましょう。

今回の尖閣諸島問題や、あるいは竹島問題が、そのような地道な達成を大きく破壊してしまうことを、一人のアジアの作家として、また一人の日本人として、僕は恐れる。

国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならない(八字傍点あり)と考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。


村上さん、冗談言っちゃあ困ります。

まず第一点。これはこのブログのご主人・美津島さんがすでに述べていることですが、どうして領土問題が「実務的に解決可能な案件」なのですか。そもそも「実務」という言葉でどの程度のことを意味しているのかあいまいですが、そのあとの展開から推して、「国民感情」をいっさい入れないレベルという意義と受け取れます。自分とまったく関係のない、たとえば郵便配達さんが知らない人から知らない人への手紙を届けるといった、純粋な事務的行為のような場合と同じだというわけですね。そんなことが複雑に絡み合った事情を抱えている国家間で可能だと思いますか。文学者のくせにそこらあたりの想像力がまったく欠落しているのですね。

私の知人で、相当のインテリであるにもかかわらず、「たかが無人島の領有をめぐって何を大騒ぎしているの」と言った人がいましたが、私はこれを聞いてその無知ぶりに唖然としました。村上さんの認識もそれとほとんど変わりません。何にも知らないことについてよく堂々と言論を張れるものです。「知識」を売って原稿料をもらっているのだから、その知識がでたらめだったり、カラッポだったりしたら、詐欺と同じですよ。

よろしいですか。これは、日本の立場に立つか、中国の立場に立つか、あるいは超然としているか、そういう選択以前の、ごく基礎的な高校生レベルの認識の問題です。

領土問題の背景には、大きく言って、①国と国との現実的な利害の問題、②それぞれの国が主権国家としての自立性、独立性をどのように担保するかという安全保障の問題、③国境を接する国々が、相手国とこれまでどのような交渉関係を持ってきたかという歴史的問題、の三つが考えられます。

話を日中間の尖閣問題に限りましょう。

①については、なぜ中国が60年代後半になって、それまで何も主張していなかった(つまり日本の領土であることを事実上承認していた)尖閣の領有を主張し始めたのかがポイントです。それは中国が国家としてのまとまりをそれなりに確立して、経済成長に向かっていく途上で、この島々の周辺海域に石油資源が眠っているらしいことに気づいたからです。それに加えて、最近の中国が大きな国内矛盾を抱えたままあまりに急速な市場経済発展策をとってきたために、外に向かっての膨張主義(かつての帝国主義と同じです)に頼らざるを得なくなっている点が重要です。この国が日本への圧力以上に、ベトナムやフィリピン、南沙諸島など、日本よりも弱小な東南アジア諸国にずっと以前から侵略的な行為を執拗に繰り返していることは、だれでも知っています。

②については、「たかが無人島、たかが孤島」ではないのです。国境をどこに定めるかについて両国間できちんとした合意が得られていない場合、国家主権が危うくされ、強い国は、軍事力や経済力や政治力に任せていくらでも弱い国を制覇することができます。一九九〇年イラクがクウェートに侵攻しましたが、村上さんは、それをほおっておいていいことだと思いますか。しかも、領土沿岸から二〇〇カイリ以内はその国の漁民の生活と国民の生活資源を守るために、漁業専管水域として認められているので、本土から離れたある島がどの国に領有されるかは、その国の国益にとって死活問題と言っても過言ではありません。

村上さん、これを聞いて国境など争いのもとだからないほうがいいのだ、とつぶやいてはいませんか。そういう観念的なコスモポリタニズムは、あなたのようなスーパー国際人にとってだけ言えることで、大部分の国民にとっては、国家主権が脅かされることは、直ちに自分たちの生活が脅かされることにつながるのです。こういうごく当たり前のことも想像できないスーパー国際人の頭のなかは宇宙人的な空想に満たされているのでしょうね。これも文学者として失格だと思います。

③については、日中間には戦前、戦中の不幸な歴史があるので、これまで日本は中国に対する自国の非を認め、一九七二年の正式な国交回復以前から以後にかけて、何度も謝罪してきましたし、膨大な経済援助もしてきました。もうそんな必要がなくなったにもかかわらず、露骨な膨張主義に走っている現在の北京独裁政府は、日本の現政権が弱腰と見るや、それにつけこんで、かつての「過ち」の記憶による一部の日本人の道徳的負い目意識を利用しながら、じわじわと圧力をかけています。村上さんの書物が中国の書店から一時姿を消したのも、北京政府に対する中国国民の不満をガス抜きするためにとってきた反日教育、反日政策のたまものなのですよ。村上さんは、一連の反日デモがほとんど北京政府の仕組んだものだということを知っていますか。

いかがでしょう。これでも領土問題は国民感情と無縁な単なる「実務的に解決可能な案件」だと言い張りますか。それなら村上さん、そう言い切ったあなたが、どういう実務的な仕方で解決が可能なのか、一つ具体的な提案でも示して、外務省に持って行ってみてください。

「領土問題が実務課題であることを超えて、『国民感情』の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。」とあなたは言っていますが、これはまったく物事の順序が逆です。まず解決困難な「国民感情」の対立(だけではなく利害、主権意識、歴史観の対立)があり、それを国政の責任者はすべて背負いつつ、しかし立場上その背負った重荷を相手に露骨にぶつけるわけにはいかないので(戦争になってしまうので)極力理性を行使しながら外交交渉に当たらなくてはならないのです。もちろん、外交(話し合い)が少しでも実をあげるためには、軍事力、経済力(国家の実力)の裏付けが必須条件となるのは、国際政治の常識です。

また、じっさいに領海・領土侵犯が行われるか、行われそうな気配があれば、国民生活を守るために命を張って現地で監視や防衛に当たらなくてはならない人々が必要なのです。それが、厳しい「実務」の実態です。村上さん、あなたはこういう人たちの現実的な苦労を一度でも想像したことがありますか? ここでも村上さんは文学者失格です。

先ほどの引用部分について、第二点。

村上さんは、ごくふつうの日本人の健全なナショナリズム感情(平均的に見て穏当であり、けっして過激にはなっていない)を安酒による悪酔いにたとえていますが、有名作家にしては下手な比喩です。悪酔いして何にも見えなくなっているのは、村上さんのほうですね。北京政府にふるまわれた老酒でも飲みすぎましたか。あなたは勝手に高給老酒で酔っ払っていればいいかもしれませんが、見過ごしてはならないのは、先に老酒を飲んで泥酔し、狼藉をはたらいているのは、北京政府自身だということです。えてして高級な酒のほうが口当たりが良いので飲みすぎて悪酔いしやすいんですよ。高級老酒にたぶらかされずに、だれが本当に悪酔いしているか、「夜が明けてみれば」よく見えるはずですから、「いやな頭痛」に耐えつつ、よく見てくださいね。あなたのような世界的な有名人が非難の矛先を間違えた発言をすると、それを見て拍手喝采する酔っ払いがこの国にもかの国にもゴマンといるのです。

さらに続けて村上さんは書いています。

そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽(あお)るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。一九三〇年代にアドルフ・ヒトラーが政権の基礎を固めたのも、第一次大戦によって失われた領土の回復を一貫してその政策の根幹に置いたからだった。それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている。今回の尖閣諸島問題においても、状況がこのように深刻な段階まで推し進められた要因は、両方の側で後日冷静に検証されなくてはならないだろう。政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ。

ほらきた。何かというとヒトラーだ。私は、このくだりにさしかかる前に、きっと言うぞ、と予想できましたよ。先の引用に、安酒に酔うと「論理は単純化され、自己反復的になる」とありましたが、それをやっているのは村上さん、やっぱりあなた自身ですね。いま良識ある日本の政治家や論客(や専門家)というのは、きちんと醒めた目を凝らしてみればこの国にかなり存在していて、彼らは極めてまともなことを言っています。そういう人がいることをあなたは少しでも調べてみましたか。もちろん中には「威勢のよい言葉を並べて人々を煽る」人もいないわけではありませんが、十把一絡げに「政治家や論客」と括って、それをヒトラーに結びつけるというのは、社会状況の違いも国民性も無視したあまりに「単純化され」た「粗暴な」論理ですね。先ほどの被害の訴えのくどさもそうですが、悪酔いの「自己反復」とはこれを言います。

「実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間」とは、だれのことですか。この「現場」とか「傷つく」とかいうのは、どうやら戦争をイメージしているらしい。ちょっと、村上さん、飛躍しないで下さいよ。私も酔いが伝染してくどくなってきましたが、先ほども言ったように、我が国の穏健なナショナリズムが直ちに戦争の選択になど結びつくはずがなく、中国だって戦争は自国の損失ですから(日本と干戈を交える前に経済的な交流を絶たなくてはならないので大きなダメージにつながりますし、アメリカとも対決しなくてはなりませんね)、避けようとするに決まっています。もちろん、だからと言って、現在の緊張に対して何もしなくていいというわけではありません。主権を守る(それは国民生活を守ることです)ために、現在の緊張状態に過不足なく適合した毅然たる対策を硬軟両面でとっていく必要があります。そういうデリケートな対応を、じっさい「現場に立たされた個々の人間」(たとえば海上保安庁で日夜働いている人たち)が限られた予算でいままさに強いられているのに、観念的に前線に送り出される兵士の話などに議論を飛躍させることができるのは、村上さんがふつうの人々の苦労を想像しなくてもいい立場にいられるからです。やっぱりインテリってノーテンキですね。

僕は『ねじまき鳥クロニクル』という小説の中で、一九三九年に満州国とモンゴルとの間で起こった「ノモンハン戦争」を取り上げたことがある。それは国境線の紛争がもたらした、短いけれど熾烈(しれつ)な戦争だった。日本軍とモンゴル=ソビエト軍との間に激しい戦闘が行われ、双方あわせて二万に近い数の兵士が命を失った。僕は小説を書いたあとでその地を訪れ、薬莢(やっきょう)や遺品がいまだに散らばる茫漠(ぼうばく)たる荒野の真ん中に立ち、「どうしてこんな何もない不毛な一片の土地を巡って、人々が意味もなく殺し合わなくてはならなかったのか?」と、激しい無力感に襲われたものだった。

『ねじまき鳥クロニクル』読みましたよー。作品全体の出来不出来はともかく、ノモンハン事件の場面、よく覚えています。さすが村上さん、当時のモンゴル兵のすごさと強さと容赦のない残酷さ、とても生き生きと描けていましたね。その迫力ある描写に感心しました。でも、それでやめておけばいいのに、それについての「どうしてこんな何もない不毛な一片の土地を巡って、人々が意味もなく殺し合わなくてはならなかったのか?」という余計なコメントをここで付け加えることで、やはり国家や戦争というものについての無知をさらしてしまっています。藪蛇というやつですね。

あの時代の陸地戦争はたしかに「不毛な茫漠たる荒野」で行われることが多かったし、そこに駆り出されて犠牲になった多くの兵士たちにはいまさらかける言葉もありません。しかし、村上さんがわかっていないのは、国家間の戦争とは、何もない不毛な一片の土地を「巡って」「意味もなく」殺し合うものではない、ということです。急いで付け加えますが、私はけっして戦争肯定論者などではありません。そうではなく、ただ、村上さんの言葉づかいのおかしさにどうしても反応したくなってしまうのです。

私も不当な暴力は大嫌いです。そうして、それが悲惨な形で行使され、結局は多くの人の犬死を引き出しただけだったことを感じさせるような現場に立った時に、「激しい無力感に襲われ」ることも実感としてよくわかります。けれども、こういう実感の吐露を何百万回繰り返してみたところで、けっして、なぜ国家と国家との関係があるところにまで追いつめられると戦争に突き進んでしまうのかという理由が、合理的な理解としてやってくるわけではない、ということが言いたいのです。合理的な理解がやってこなければ、それを防ぐ方法を考えることもできません。

「文学者」である村上さんは、「平和への祈り」をただ美しく繰り返していればいいのかもしれません。しかし、現実の国際社会は力と力がぶつかり合うやくざ世界であり、国家はみんな大義名分を振りかざして自分たちが正義だと主張します。しかし、その中でも、せめて、相対的にひどいやくざ、マシなやくざがいるということをよくよく学習して見分けなくては、平和的な解決の道などけっして見えてはこないのです。ひどいやくざの横暴に直面したら、命を張らなくてはならない時だってあります。

村上さんの「一片の土地を巡って」発言は、先の「実務的に解決可能」発言と同じで、ことを局部的な感知のうちに閉じ込めて、その背景に、いかに人間たちの巨大で複雑な思いが蠢いているかということを忘れさせます。その人間たちの思いのあり方を粘り強く分析していく思想的な論理をもたなければ、何も始まりません。空想的な平和主義の限界と言えましょう。

最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の(三字傍点あり)問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。

今回、村上さんの文章を読んでいて、いちばん腹が立ったのがこの部分です。このエッセイのキモです。しかしこのキモは、腐りきっていて近づくと吐き気を催します。

「中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。」とは何事か。

最初に引用した部分にも似たようなことが書かれていましたが、そこには「詳細がわからないから」意見を控えるという一応の理屈がまだとおっていました。しかし、こちらの方は、ひどい言い逃れです。私も村上さん同様、ヘタなたとえを使いますが、作家にとって自分の作品は、みずから出産した子どもと同じように愛しくかわいいはず。それでなければ、文学に生涯の情熱を傾けることなどかなわないでしょう。ところで、いまその自分が生んだかわいい子どもが、他国の横暴なふるまいによってひどい目に合っているのです。それを何とか助けようという意思表明すらせずに、「意見を述べる立場にはない」などと、そこらの小役人でも言いそうな逃げ口上を吐いて、自分が存分に行使できるはずの言論の自由を何ら有効に使おうとはしないのです。「あくまで中国国内の問題である」に至っては、村上さんが嫌いなはずの無責任な政治家発言と変わらないではありませんか。私は、文学を愛好する者の一人として、こういう卑怯な発言を平気でのたまうボケ「文学者」をけっして許すことができません。北京政府の独裁者たちがこれを聞いて「してやったり」と満面に笑みを浮かべる様子が目に浮かぶようです。

言うまでもなく、私たちは自由と人権を尊重する民主主義国家の住人です。中国とはまったく事情が違います。問題の発生場所が中国という国の内部であったからといって、それについて言論の自由、批評の自由を行使することができないはずがありましょうか。いや、まさに自分の表現の自由があの「焚書坑儒」のように侵害された現実があればこそ、それに対して断固たる抗議をするのが、文化の自由を最大限に行使し、謳歌してきた才能ある人間の役割ではありませんか。東アジア諸国でこの二十年間に文化的成果が国境を越えて行き来するようになったことを何よりも喜んでいたのは、村上さん、あなた自身ではありませんか。それを阻害しているのはいったい誰なのですか。日本人の「政治家や論客」なのですか。ふざけてはいけない。

日本人に向かって「報復的行動をとらないでいただきたい」などと北京独裁政府の片棒担ぎを買って出る前に、まず、あなたに対する最初の加害者は誰なのか、そのことをきっちりと見定めるべきではありませんか。それをやらないのは、もし意図的でないとすれば、あなたが心の芯の部分まで、戦後日本の自虐精神に侵されているからだ、と考えるほかありません。あの大江健三郎翁がかつて、原爆を落とされたのは日本が悪い戦争をやったからだという論理を平然と用いたのと寸分違いませんね。

第一、あなたの本を読む日本人は、みなそこそこ成熟していて温和ですから、幼稚な報復的行動なんてとりゃしませんよ。必死になって「ね、我慢して、報復しないで」などと叫ぶところを見ると、あなたは自分にとって大切な日本人読者、いちばんの理解者も信用していないのですね。

村上さん、ご自分で気づいているかどうか知りませんが、「『我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない』という静かな姿勢を示すことができれば」云々というセリフには、巧妙なスリカエの論理がはたらいていますね。「文化」という言葉の基礎的な使い方もわきまえていない。中国で村上さんはじめ、日本人著者の書物が引き揚げられたのは、「政治の悪」が「文化」を抑圧したのであって、「敬意」を払うべき「文化」の動きがあったのでは断じてない。こんなことは火を見るより明らかではありませんか。こういう見え透いたスリカエをやってまで、赤い影の存在を気にする(日本にいれば、それはただの「影」です。何も怖がることはない)というのは、拠るべき価値を喪失しているいまの日本の文化状況のだらしなさそのものを象徴していると思います。そこに何とも言えない腐臭が漂っていると感じるのは、私だけでしょうか。村上さん、そう思いたくはありませんが、あなたはじつは、いつの間にか名利に溺れて、いちばん大切な自分の文学の精神すら信じられなくなっているのではありませんか。

ここらで、当該論文に対する直接の批判は終わりにしますが、いくつか思うところを付言します。

ひとつ。まず、前回、前々回の鷲田さん、橋爪さんにも当てはまることですが、この種のインテリというのは、どうして言及しているそのテーマ自体について、最低限の勉強もしないで、ボロ丸出しのことを書き散らすのだろうか。消費税問題、政局問題、原発問題、領土問題……。

勉強といって、別にむずかしい文献を読まなきゃならないというわけではない。問題になっているそのことについて、必要最低限のことをちょっと調べれば済むことです。いまの時代、ITのおかげで情報収集はすぐにできます。私がこれまで批判してきた三人は、どう見てもそれをさぼっているとしか思えない。まあ、わて、忙しいんや、五、六枚のエッセイやな。ほな、ちょいと二、三時間の労力で、かんべんしてや、というわけですかな。

思うに、この人たちは、日本インテリ村の長く長く続いた温室ムードに浸りきって、読者の怖さを忘れてますな。しかし、今回の村上さんなど、でかでかと大朝日に載るんですよ。読者を舐めてはいけません。戦後の進歩主義イデオロギーを核心部分で拘束してきた東京裁判史観がいかに当時の力関係をそのまま反映した歪んだものであるかくらいは、最低限勉強してくださいよ。サンフランシスコ条約発効60周年ですよ。

ふたつ。今回の村上さんのエッセイは、いわば、「所感」というやつで、「評論」というようないかめしいものとは違いますね。ですから、よけい、勉強なしで自分の実感をそのまま書くことがむしろ誠実さの証だ、みたいに考えているのではないでしょうか。でもね。扱っているテーマがテーマですよ。日常茶飯事についてつれづれなるままに綴るというのとはわけが違います。はじめに書いたように、世界ブランドの文学者が、もっか東アジアで最大の緊張要因になっている政治的、外交的、思想的、文学的イシューについて言及するのです。なるほど村上さん、その構えにだけは気負いと真剣さがうかがわれますが、なにぶん、内容がお粗末すぎます。繰り返しますが、売文で食べてるんだから、不得意な領域のことに触れるなら、もうちょっとだけ勉強して一応は「評論」に値するものを書いてください。他の業界の職人さんたちが真相を知ったら怒りますよ。

みっつ。今回ノーベル文学賞を受賞した莫言さんは、中国文芸家協会の副会長か何かを務め、これまで体制派の御用文学者などと批判されてきた人です。面白いことに、彼はノーベル賞受賞講演で、いま獄中にいて2010年にノーベル平和賞を受賞した人権活動家の劉暁波(りゅうぎょうは)さんを釈放しろと訴えたのですね。劉さんが逮捕されたときには莫言さんは沈黙を守りました。しかし今度は自分もノーベル賞をもらったので、西側の応援を期待できる。さあ、これまで言いたくても言えなかったことを言ってやるぞ、というわけでしょう。

私はこの対応を村上さんよりはるかにマシと考えます。道徳的に、というよりも、むしろ知恵のある対応だと思うのです。世界を渡っていくには、これくらい狡猾でなくっちゃ。道徳的にこわばっているのは、むしろ村上さんのほうですね。自由主義世界でいくらでも言いたいことが言えるはずなのに、ヘンに良心的にふるまって、ナショナリズムを超越しているポーズをとることが何か高級なことなのだと勘違いしています。そして結果的に北京独裁政権に媚を売ることになってしまっている。文学の自殺というべきです。

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