10月15日の朝日新聞デジタル版に櫻田淳氏の村上春樹批判が掲載されています。9月28日の朝刊に掲載された村上春樹氏の長文随筆「魂の行き来する道筋」が取り上げられているのです。私自身、10月17日に同随筆を取り上げて批判した(http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/adbe2040fa25ad2ca64e0d700b03f253)ので大いに好奇心をそそられました。その時点で、私は櫻田淳氏の当文章を読んでいませんでした。
拙文をご覧いただいた方も、少なからず興味を抱かれると思われますので、その全文を掲載します。
村上春樹の声望と文学者の「政治」言説/櫻田淳(東洋学園大学現代経営学部教授)
村上春樹(作家)のノーベル文学賞受賞は、お預けになった。村上が「朝日新聞」(九月二十八日付)に寄せた「魂の行き来する道筋」なる随筆は、村上の作家としての声望を反映し、内外に反響を呼ぶものになったようである。
確かに、村上の随筆は、現下の政治上の文脈の一切を無視するならば、それ自体としては何の異論を差し挟む余地もない。「平和は大事だ」というぐらいの正しい議論が、そこにある。
ところで、現在、村上の言葉にある「魂の行き来する道筋」を遮断しているのは、どこの誰なのか。日本政府が、そうした政策判断を下したという話は、寡聞にして聞かない。日本の国民レベルでも、日本の一般国民が中国に対して「魂の行き来」を拒むという事態は、相当に甚大な実害を中国から受けるということがない限りは、蓋然性の低いものであろう。
事実、中国全土で「反日」騒擾が最高潮に達した九月中旬、NHKは、三国志に題材を採った映画『レッド・クリフ』や清朝末に権勢を揮った西太后を紹介する歴史番組を放映していた。それが日本の「空気」である。
片や、中国政府が日本に対する意趣返しの意味で対日交流行事を続々と中止させている話は、頻繁に耳に入ってくる。村上が憂慮する現下の事態は、結局のところは、中国政府の「狭量さ」の結果でしかないであろう。
そうであるならば、何故、村上は、中国政府の姿勢に異を唱えないのか。村上には、是非、北京に乗り込んで、現下の「愛国無罪」の風潮を鎮めるべく、呼びかけてもらいたいものである。
村上は、今年はノーベル文学賞受賞を逃したとはいえ、来年以降も有力候補として数えられるのであろうから、そのくらいの「影響力」を発揮するなどは造作もないことだろう。「ナショナリズム」が「安酒」であるという村上の指摘に至っては、特に第二次世界大戦後、そのナショナリズムの統御が課題として語られ続けてきた経緯を踏まえれば、陳腐の極みであろう。
加えて、村上は、随筆中に書いている。
「中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ」
村上は、何故、「中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない」と書いたのか。それは、充分に抗議に値することではないか。始皇帝の時代の「焚書坑儒」とは趣旨が違うかもしれないけれども、少なくとも「権力」を持つ統治層の作為や示唆によって、一時的にせよ日本人著者の書が消されようとした事態には、変わりがあるまい。
目下、偶々、対日関係の悪化を反映して、日本人著者の書が槍玉に上がったけれども、先々に米国を含む他の国々との関係が悪くなるようなことがあれば、中国政府は、他国に対しても同じような対応を採るかもしれない。とすれば、これは、「言論の自由」の実質性が問われた事態である。それは、村上が書いたように、「それについてはどうすることもできない」という言葉で済まされるものなのか。
筆者は、現代日本の作家の文学作品を余り熱心には読まない。若き日に、アレクサンドル・I・ソルジェニーツィンやボリス・L・パステルナークの文学作品の洗礼を受けた故にか、現代日本の作家の文学作品には、「生ぬるさ」しか感じない。
ソルジェニーツィンにせよパステルナークにせよ、その文学作品は、往時のソヴィエト共産主義体制との「緊張」の上に成り立った。ソルジェニーツィンは、迫害と国外追放を経験したし、パステルナークは、代表作『ドクトル・ジバゴ』をイタリアで刊行しなければならなかった。
今年のノーベル文学賞受賞者と相成った莫言(作家)もまた、中国国内では「反体制色が薄い」と目されているとはいえ、その作品の一つが発行禁止処分を受けた経験を持っているのであるから、こうした「緊張」とは決して無縁ではないのであろう。そうした政治体制との「緊張」が反映された故に、彼らの文学作品は不朽の価値を持つのであろう。
現代日本の作家には、そのような「緊張」は皆無であろう。特に作家が「政治」に絡んだ言説を披露しようとした折に、その傾向は甚だしくなる。現代の日本では、自国の政府に対する批判ぐらいリスクの伴わない営みもない。他方、「権力」を露骨に行使しつつ、「言論の自由」に圧迫を加えようとする他国の政府に対しては、何故か、その批判を手控える。そうした姿勢のどこに、「普遍」があるというのか。
普段、秀逸な人間描写で名を馳せる作家が、「政治」に絡んだ言説を披露し始めた途端に、その議論が陳腐になる。しかも、その言説は、作家としての名声に支えられて一定の「権威」を持ちながら世に広まるのだから、余計に始末が悪い。こうしたことは、現代日本の作家の特性なのであろうか。
村上春樹氏のスタンスの虚偽性を簡潔に突いた秀逸な文章です。そう評価するのは、なにも櫻田氏が村上春樹氏をケチョンケチョンに言ってくれたからというわけではありません。
櫻田氏が乱暴な言葉を控えたところを、私は、毒舌系ブロガーとして、いささか下品に言い換えてみましょう。
村上さんさぁ、あなたが国境を超えた普遍的な文化を尊重する立場に立つのは構わないよ。だったら、中国が政治的な理由で文化(交流)を弾圧したことに対して、真っ先に勇気を奮い、抗議すべきでしょうが。それを「それが政府主導による組織的排斥なのか、あるいは書店サイドでの自主的な引き揚げなのか、詳細はわからない」などと寝とぼけたことを言って、中国政府の文化的暴虐に対して「見ざる言わざる聞かざる」の構えをキープするのは、はっきり言って卑怯だよ。そのうえ、「安酒」の形容によって、日本人が尖閣問題に臨んで抱く当然の危機感を揶揄し否定するなど、もってのほかというしかないよ。自分を何様だと思っているんだ。要するに、あなたは国境を超えた普遍的な文化の立場に立つ者としても不徹底であり、不誠実であるし、他方、日本人であることに立脚して物を言うことをも拒絶している。つまり、あなたはこの世のどこにもありはしない不在の場から、無責任な世迷言を天下の朝日新聞の紙面の上段すべてを使って垂れ流しただけなのだ。一個の表現者として、「安酒」をあおっているのは、日本人一般ではなく、あなたなんだよ。恥を知りなさいって。
と、なります。前回申し上げたように、村上氏には一日でも早く自分の住み慣れた「自分という牙城」に引き返して、そこでしか紡ぐことのできない繭糸のような繊細な言葉を紡ぐことに専念することをお薦めします。そこがあなたの文学者としての本来の場所です。そうしてそこ以外に、文学者・村上春樹の場所はありません。人には分限というものがあります。それをはみ出した役割を演じようと背伸びする者を、かの魯迅は「馬鹿者」と呼びました。
拙文をご覧いただいた方も、少なからず興味を抱かれると思われますので、その全文を掲載します。
村上春樹の声望と文学者の「政治」言説/櫻田淳(東洋学園大学現代経営学部教授)
村上春樹(作家)のノーベル文学賞受賞は、お預けになった。村上が「朝日新聞」(九月二十八日付)に寄せた「魂の行き来する道筋」なる随筆は、村上の作家としての声望を反映し、内外に反響を呼ぶものになったようである。
確かに、村上の随筆は、現下の政治上の文脈の一切を無視するならば、それ自体としては何の異論を差し挟む余地もない。「平和は大事だ」というぐらいの正しい議論が、そこにある。
ところで、現在、村上の言葉にある「魂の行き来する道筋」を遮断しているのは、どこの誰なのか。日本政府が、そうした政策判断を下したという話は、寡聞にして聞かない。日本の国民レベルでも、日本の一般国民が中国に対して「魂の行き来」を拒むという事態は、相当に甚大な実害を中国から受けるということがない限りは、蓋然性の低いものであろう。
事実、中国全土で「反日」騒擾が最高潮に達した九月中旬、NHKは、三国志に題材を採った映画『レッド・クリフ』や清朝末に権勢を揮った西太后を紹介する歴史番組を放映していた。それが日本の「空気」である。
片や、中国政府が日本に対する意趣返しの意味で対日交流行事を続々と中止させている話は、頻繁に耳に入ってくる。村上が憂慮する現下の事態は、結局のところは、中国政府の「狭量さ」の結果でしかないであろう。
そうであるならば、何故、村上は、中国政府の姿勢に異を唱えないのか。村上には、是非、北京に乗り込んで、現下の「愛国無罪」の風潮を鎮めるべく、呼びかけてもらいたいものである。
村上は、今年はノーベル文学賞受賞を逃したとはいえ、来年以降も有力候補として数えられるのであろうから、そのくらいの「影響力」を発揮するなどは造作もないことだろう。「ナショナリズム」が「安酒」であるという村上の指摘に至っては、特に第二次世界大戦後、そのナショナリズムの統御が課題として語られ続けてきた経緯を踏まえれば、陳腐の極みであろう。
加えて、村上は、随筆中に書いている。
「中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ」
村上は、何故、「中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない」と書いたのか。それは、充分に抗議に値することではないか。始皇帝の時代の「焚書坑儒」とは趣旨が違うかもしれないけれども、少なくとも「権力」を持つ統治層の作為や示唆によって、一時的にせよ日本人著者の書が消されようとした事態には、変わりがあるまい。
目下、偶々、対日関係の悪化を反映して、日本人著者の書が槍玉に上がったけれども、先々に米国を含む他の国々との関係が悪くなるようなことがあれば、中国政府は、他国に対しても同じような対応を採るかもしれない。とすれば、これは、「言論の自由」の実質性が問われた事態である。それは、村上が書いたように、「それについてはどうすることもできない」という言葉で済まされるものなのか。
筆者は、現代日本の作家の文学作品を余り熱心には読まない。若き日に、アレクサンドル・I・ソルジェニーツィンやボリス・L・パステルナークの文学作品の洗礼を受けた故にか、現代日本の作家の文学作品には、「生ぬるさ」しか感じない。
ソルジェニーツィンにせよパステルナークにせよ、その文学作品は、往時のソヴィエト共産主義体制との「緊張」の上に成り立った。ソルジェニーツィンは、迫害と国外追放を経験したし、パステルナークは、代表作『ドクトル・ジバゴ』をイタリアで刊行しなければならなかった。
今年のノーベル文学賞受賞者と相成った莫言(作家)もまた、中国国内では「反体制色が薄い」と目されているとはいえ、その作品の一つが発行禁止処分を受けた経験を持っているのであるから、こうした「緊張」とは決して無縁ではないのであろう。そうした政治体制との「緊張」が反映された故に、彼らの文学作品は不朽の価値を持つのであろう。
現代日本の作家には、そのような「緊張」は皆無であろう。特に作家が「政治」に絡んだ言説を披露しようとした折に、その傾向は甚だしくなる。現代の日本では、自国の政府に対する批判ぐらいリスクの伴わない営みもない。他方、「権力」を露骨に行使しつつ、「言論の自由」に圧迫を加えようとする他国の政府に対しては、何故か、その批判を手控える。そうした姿勢のどこに、「普遍」があるというのか。
普段、秀逸な人間描写で名を馳せる作家が、「政治」に絡んだ言説を披露し始めた途端に、その議論が陳腐になる。しかも、その言説は、作家としての名声に支えられて一定の「権威」を持ちながら世に広まるのだから、余計に始末が悪い。こうしたことは、現代日本の作家の特性なのであろうか。
村上春樹氏のスタンスの虚偽性を簡潔に突いた秀逸な文章です。そう評価するのは、なにも櫻田氏が村上春樹氏をケチョンケチョンに言ってくれたからというわけではありません。
櫻田氏が乱暴な言葉を控えたところを、私は、毒舌系ブロガーとして、いささか下品に言い換えてみましょう。
村上さんさぁ、あなたが国境を超えた普遍的な文化を尊重する立場に立つのは構わないよ。だったら、中国が政治的な理由で文化(交流)を弾圧したことに対して、真っ先に勇気を奮い、抗議すべきでしょうが。それを「それが政府主導による組織的排斥なのか、あるいは書店サイドでの自主的な引き揚げなのか、詳細はわからない」などと寝とぼけたことを言って、中国政府の文化的暴虐に対して「見ざる言わざる聞かざる」の構えをキープするのは、はっきり言って卑怯だよ。そのうえ、「安酒」の形容によって、日本人が尖閣問題に臨んで抱く当然の危機感を揶揄し否定するなど、もってのほかというしかないよ。自分を何様だと思っているんだ。要するに、あなたは国境を超えた普遍的な文化の立場に立つ者としても不徹底であり、不誠実であるし、他方、日本人であることに立脚して物を言うことをも拒絶している。つまり、あなたはこの世のどこにもありはしない不在の場から、無責任な世迷言を天下の朝日新聞の紙面の上段すべてを使って垂れ流しただけなのだ。一個の表現者として、「安酒」をあおっているのは、日本人一般ではなく、あなたなんだよ。恥を知りなさいって。
と、なります。前回申し上げたように、村上氏には一日でも早く自分の住み慣れた「自分という牙城」に引き返して、そこでしか紡ぐことのできない繭糸のような繊細な言葉を紡ぐことに専念することをお薦めします。そこがあなたの文学者としての本来の場所です。そうしてそこ以外に、文学者・村上春樹の場所はありません。人には分限というものがあります。それをはみ出した役割を演じようと背伸びする者を、かの魯迅は「馬鹿者」と呼びました。
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