美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

小説『お澄さんの思い出 私という小窓から見えるもの』(イザ!ブログ 2012・8・7 掲載)

2013年11月25日 08時06分40秒 | 文学


お澄さんは、父の姉である。本名を澄江という。今年、八十歳になるのではないだろうか。生まれは北海道の小樽で、若いころ家族と札幌に移り住み、そのまま同市内に住みついた。

お澄さんは、私が幼少のころからバター飴などの北海道の物産をまめに送ってくれた。会ったこともない甥を喜ばせようとしてくれたのだろうと思う。また、それは二十年以上会っていない弟(つまり父)との再会の願いをこめた振る舞いでもあったのだろう。バター飴の、サイロの形をした缶に描かれた、ホルスタインの点在する牧場の風景の写実的なイラストを飽きずに眺めては、まだ見ぬ北海道への憧れをふくらませたものだった。私は南国に生まれ育った者なのである。私の北海道をめぐる子どもじみた妄想に、しびれをきらさずにゆったりと付き合ってくれた父のことを、私は今でも覚えている。父は父でそうしながら、望郷の思いに心がさらわれていくのにわが身をまかせるひとときがあったはずである。

お澄さんに初めて会ったのは、小学校四年生の夏休みのことだった。初めての札幌の夏は、空気がさらさらしていて気分が爽快だった。そのころのお澄さんは、市内の狸公路という繁華なアーケード街にある「ひかり寿司」という老舗の寿司屋に勤めていて、そこに私と母を連れて行ってくれたのを覚えている。確か、太巻き寿司をごちそうになったと記憶している。それは生まれて初めて口にするメニューであった。

長崎県の対馬というとんでもない田舎から出てきたばかりの私にとって、小柄で底抜けに明るくて、清らかな光を帯びた瞳のお澄さんがとても都会的に感じられてまぶしかった。飾り気がなくて、けらけらと本当によく笑う人だった。確か三十代半ば過ぎだったのではないかと思う。お澄さんは、合わない入れ歯のせいでいつも口をもぐもぐさせている祖母と、色恋沙汰で家庭を引っ掻きまわした妻とすったもんだの末に離婚をしたばかりの伯父と、そして不安定な家庭環境のせいでちょっとすね気味で目の底に暗い影を宿した、伯父の一人娘、つまり私の従妹の一家四人で札幌市郊外の団地に住んでいた。私たち一家三人が夏休みの間過ごしたのもそこだった。かなり手狭に感じられはしたが、家庭用の水洗トイレなるものに始めてお目にかかった私としては、それもまた都会住まいの特徴なのだろうと一人で納得したのだった。伯父は、もちろん父の兄であり、本家筋に当たる。当時は札幌市役所に勤めていた。四人のうちいまでも生きているのは、胃癌を患っている七六歳の伯父とお澄さんだけである。祖母は一二年前に亡くなった。眠るように意識を失くしていったという。享年八八歳である。また、伯父の娘は私のただ一人の父方の従妹だったのだが、数年前に四七歳で一人娘を残して亡くなった。死因は乳癌である。彼女は、苦しみながら死んだという。

伯父の再婚相手である義理の伯母から後に聞いたことなのだが、お澄さんは、一度だけー変な言い方になるがー結婚の真似事みたいなのをしたことがあるそうだ。見合い結婚のような形だったらしいのだが、詳しいことはわからない。籍を入れたのかどうかさえもわからない。彼女が四十歳前後のことと思われる。相手は年を食った板前さんだったそうで、新婚生活は一週間と続かなかったらしい。数日で実家に逃げ帰ってきたとのことだ。愛情のまったくない結婚だったことだけは想像がつく。おそらく相手が「変なこと」をしようとするので怖くて逃げてきたのではないだろうか。あるいは、むりやり「変なこと」をされたのがショックで逃げ帰って来たのかもしれない。そのあたりの真相は闇のなかである。いずれにしても、自分の結婚なのに、そこには自分の意志の所在が感じられない。お前もそろそろ、という伯父を中心とする周りの無言の圧力に抗し切れなくなった、といったところが事実なのではなかろうか。寒々とした話である。

そういう一連の出来事を境に、お澄さんは変になった。いま流行りの言葉で言えば、鬱状態になった。いつも笑っていた人が、うつろな目で四六時中しょんぼりとしている人になったのである。

そんなお澄さんが、当時函館に住んでいた私たちの元に伯父の意向で送られてきた。伯母といっしょに過ごしてみろ、そうして自分たちがどれだけ苦労してきたか少しは思い知れ、というわけだ。伯父は、確か「お前たちに試練を与える」という言い方をしたと記憶している。母は、その口ぶりに憤りを感じたようだった。事あるごとに、その言い方はないだろうという愚痴を子どもの私にこぼしたのを覚えている。まあ、ずいぶんと乱暴な話ではある。

詳しい事情をなにも知らされなかった当時の私たちは、お澄さんのあまりの変貌ぶりに面食らってしまった。とはいうものの、昔の明るかったころの彼女を知る父も母もそして中学一年生の不肖私も、なんとかしてあげたいと心から思った。しかし、なんともならないのだった。いまだったら、精神科に通院したり、あるいは入院したりすることになるのだろうが、そういうことがまだ庶民レベルでは常識にはなっていない時代だったのだ。精神病院は当時「キチガイ病院」 と蔑称されていたのである。素人考えで、お澄さんにあれこれとアプローチを試みるのだが、それが功を奏するはずもなかった。われわれは、結局のところ鬱病の人に「がんばれ、がんばれ」 と言い続けたのも同然だったのだから。

お澄さんが我が家に来てから数ヶ月経ったころだっただろうか。私が坂の上にある木造のおんぼろ中学校から帰ってくると、彼女は奥の部屋にいて、いつものように正座の姿勢で両手を片ひざの上に重ねてしょんぼりとしていた。彼女の我が家での役目は、母がパートに出て夕方まで帰らない留守宅を預かることだったのだ。薄暗い部屋のなかで、その、風船がしぼんだような姿はいまさらながらあまりにも哀れだった。猫背気味の背に、初秋の午後の薄日が差している。私は、なんとはなしに、これまでよりも深く彼女に関与して、事態をいまここで少しでも打開したいという、子どもらしい不器用な欲求のせりあがりに抗しきれなくなってしまった。

「お澄おばちゃん、このままでいいと思うとっとね!」

当時の私は興奮すると生まれ故郷の対馬弁が飛び出すくせがあった。普段は北海道弁と青森弁とのチャンポンである。それは、函館に引っ越してくる前に長く青森県にいたせいである。青森県にいたころ、私はなまりの強烈な地元の子どもたちを相手に、対馬弁と青森弁とのどちらの方言が変なのかをめぐっての、こちらに分の悪い多勢に無勢の口げんかを延々と繰り広げたものだった。彼らは、私の南国なまりを嘲笑った。自分としては、彼らよりは標準語に近い言葉で話しているつもりでいたので、頑として引き下がろうとしなかったのである。正真正銘の田舎者である私が、彼らのことを「この分からず屋の田舎者どもが」と我を忘れて憤っていたことになる。

「ちゃんとせんね。お澄おばちゃんだって、女やろうが。」

そのあまりの化粧っ気の無さがお澄さんの情けない現状を象徴しているようで、そういうことの改善が、残念としか形容のしようのない現状の突破口になるかもしれないという思いに、私の青臭い頭は支配されてしまったのである。善は急げといわんばかりに、母の鏡台からアイ・ラインと口紅とを取り出してきて、まずはアイ・ラインを彼女のまつげに細心の注意を払って塗り始めた。なかなか思ったようにはうまくいかないのだが、それなりになんとかなったようにも感じた。次は、口紅である。これがけっこうむずかしい。母が口紅を塗っているときの様子を思い浮かべて、彼女に唇に力を入れるように指示をする。私の命令に従って、そのしぼんだ唇のたて皺がのばされると、それなりに艶を帯びる。そこに潤いのある口紅を塗る。そういえば、目の上に塗る青いのもあった。アイ・シャドーの存在を思い出したので、鏡台の引き出しからそれを探し出してきて、最後の仕上げにそのまぶたを丹念に青で染めた。

お澄さんはいやいやをせずになされるがままなので、私は自分の振る舞いに対してほとんど抵抗を感じなかった。自分が甥としての一線を超えた振る舞いをしているという自覚が希薄だったのである。むしろ、初めての行為に我を忘れて没頭していたと言ったほうがよいように思う。もちろん、せっかくだから少しでもきれいにしたいという欲はあったので、払いうるかぎりの注意を子どもなりに払ってほどこしてはいた。出来具合をチェックするために、彼女の睫毛や唇を至近距離で目を皿のようにしてしげしげと見つめるのだった。女性特有の体臭が少しだけ気になった。

一応なんとか形がついたように感じたところで、ようやく手を止めて、お澄さんに言った。

「ほらあ、ちゃんときれいになったろうが。毎日きちんとせんばいかんよ。」

それに対してお澄さんはさしあたりこれといった反応は示さなかった。

ところが、しばらくすると、アイ・シャドーをほどこした彼女の、力が抜けて垂れ下がったようになっている目から、ぽろ、ぽろと涙のしずくがこぼれるのだった。そうして、なにも言わずに虚空のどこか一点を見つめているような塩梅なのである。

私は、そんなお澄さんの顔を見つめているうちに、それが泣きべそのピエロにとてもよく似ていることに気づいた。その気づきは、私が熱中した化粧の仕上がりが無残な失敗に終わったことを判然とさせることになってしまった。すこしでもきれいにしたいもなにもあったものではない。夢から急に覚めかけたような状態のなかで、自分の振る舞いに対して後ろめたさのようなものが湧き起こってくるのをうっすらと、しかしごまかしようもなく感じはじめるのだった。その思いが次第に強まってくると、私はおろおろしはじめた。 

しまった。伯母はこのことを母に告げ口するのではないか。どうしよう。口止めをしようか。しかし、それも変だ。困った。父にもひどく怒られるのだろうか、やはり。 

自分のお澄さんに対する振る舞いに、当時萌しつつあった、女性の身体なるものに対する好奇心を満たそうとする邪まな心がまったくまじっていないとは言い切れない揺らぎのようなものの存在をわが身に感じ取っていた、ということもあったのである。もちろん、そのときはそういうはっきりした言葉が浮かんできたわけではなかった。その分、いわく言いがたい不安が急にむら雲のように募ってきたのだろう。

その日は事の顛末を見定めるまで気が気ではなかったのだが、結局のところ、母が私になにかをきつく問い詰めるようなことはなかった。どうやらお澄さんは母に告げ口をしなかったらしい。ただし、さすがにその変な仕上がり具合の化粧は目に留まったようで、母がどうしたのと彼女に尋ねたので、私のほうからあっけらかんとした風を装って、お澄おばちゃんが女なのにあんまりにも身なりに気を使わないから僕が化粧をしてあげた、と打ち明けた。すると、母は、鈴を振ったように笑った。母が帰宅した父にそれを告げると、父も目を細めて笑った。「お澄ねえさん、なかなかの美人になったべさ。」私は、微妙な難局をどうやらしのげたようだと密かに胸をなでおろした。

両親は、しよう思えば、私を叱責することもできただろう。なぜ、そうしなかったのか。おそらく、二人もまた私と同じように、化粧っ気のまったくないお澄さんに対してもう少しなんとかならないものかという思いを常日頃いだいていたのだろう。そのもどかしさを子どもっぽく不器用にそうして性急に解消しようとした私の振る舞いに、自分たちの思いの戯画のようなものを感じて思わず笑ってしまったのではないだろうか。今でも、私は二人がお澄さんのことを笑い者にしたとは受けとめていない。

お澄さんとの同居をめぐる破局は意外な形で突然に訪れた。きっかけは、海上自衛官である父の昔の部下が、南国九州は博多からはるばる函館の我が家を訪ねて来たことだった。せっかくだからという流れで、函館の夜景を皆で見に行くことになった。それで、お澄さんに留守番を頼んで、私たちは函館山に出かけたのだった。

夜遅く帰宅してみると、家の中に異様な光景が展開されていた。玄関とその隣の部屋に大量の吐瀉物が点々と散らばっていて、奥の部屋にはお澄さんがくず折れそうな身体を両腕でかろうじて支えているのが見えた。苦しさのあまり這いずり回ったものと見える。充満する吐瀉物と日本酒の臭い。ほとんど正気を失いそうになりながら、われわれに挑みかかるようなお澄さんの不敵な目つき。そうして、「あんたたちぃ、覚えておきなさいよぉ」という、心の奥底から搾り出されるような呪詛。私たちは言葉を失ったのだった。子どもながらに、父の部下に対して申し訳なく思ったものだった。伯母は、なんということをしてくれたのだ、と。

札幌の伯父が駆けつけたのはその数日後だったと思う。お澄さんは伯父に連れられておとなしく我が家を去った。

結局のところ、伯父は我が家になにを求めたのだろう。

今から思えば、お澄さんは私たちと一緒に函館の夜景見物をしたかったのではなかったか。それがかなわず一人淋しく家に残ることになり、除け者にされたような気分に陥ったのだろう。要するに、いじけたのだ。それが引き金になって、周りの「がんばれ、がんばれ」攻撃で溜まっていたストレスを吐き出さざるを得ない心理的な臨界点に達したのではないか。また、周りから押されるようにしてしただけの非自発的で不本意な結婚で受けたまだ生々しい心の痛手を、誰にどう訴えたらいいのか、皆目見当がつかずに、心のやり場のない思いをかかえてもだえてもいたのではなかろうか。そこには、恥ずかしくて他言できないことがらもおそらくは含まれていたはずである。それで、飲めないお酒を大量に飲むという自暴自棄的な挙に出た。そういうことなのではなかったのか。鬱病患者に接するうえで、彼らを「がんばれ、がんばれ」と励まし続けるのが禁じ手であることは今では常識である。そんなこととは夢にも思わない当時のわれわれは、彼女に対して無自覚な暴力を行使し続けていたのだろう。

次にお澄さんに会ったのは、私が大学二年生の冬休みのころだった。冬の札幌の本家に十日間ほどお世話になったのである。お澄さんは、函館に来たころとは見違えるほど元気になっていた。彼女が「昭義ちゃん」と私に明るく声をかける姿は、初めて会ったころの「お澄おばちゃん」を彷彿とさせた。私はお澄さんの回復を心底喜んで、よかったね、よかったねと何度も声をかけた。その翳りのない明るい声のおかげで、私はお澄さんに対する中学生のときの不届きな振る舞いを思い出さずにすんだ。そのことに私は、身体のどこかで安堵の溜息をついていたような気がする。

伯父によれば、お澄さんが某教団の機関新聞を毎日配達しているのが回復の大きなきっかけになった、とのこと。世の中のお役に立つことを継続できているという自信のそれなりの深まりが功を奏したというわけだろう。ただし、同新聞の配達は無報酬に近い仕事である。某教団の信者にとっては、功徳を積んでご利益にあずかるための有難いお勤めなので報酬など基本的に不要、ということらしい。そのため、お澄さんがその仕事で自活するのはかなわなかった。というより、自活なるものは伯母の人生にとって行動目標になることはどうやらなかったようだし、いまでもそのようなのだ。そこのところはどう考えているのか、本人に聞いてみたことはない。聞けるはずもない。そういう人として伯父の家にずっといる。というより、いたというべきである。そのことについては後ほど話そう。

本家筋は全員が某教団の信者である。実は、そのことをめぐって、我が家と本家とがどうもしっくりといかない、という事態がこれまでずっと続いてきた。父も母も私も、そろって某教団を苦手にしている。血のつながりや友としての親密さより、同教団の教祖に対する崇拝を優先し、その存在を絶対視する彼らの感性への違和感が拭いがたいのだ。彼らは、そういうごく自然に湧いてくる、血のつながりのある者に対する温かい情を、布教活動に利用しているようにしか見えない。そこがカチンとくる。ほかのことでは意見を異にしても、そのことについてだけは三人の間で意見が一致しているのである。

しかるに、本家筋の四人は信者の中でも相当熱心に活動している人たちだったし、生きている二人はいまでもそうなのである。義理の伯母ももちろんそうである。お澄さんについて言えば、伯父が良しとすることをなんの疑いも持たずに素直に受け入れているだけなのではあるが。私は、彼女が某教団の教えについて理屈めいたことを口走るのを聞いた記憶がない。

だったら、こちらがなるべく関わりを持たないように気をつければよいだけのこと、と言えそうだ。ところが、父は昔の教育を受けた人なので、長幼の序の観念を、早死にした祖父から子供のころに徹底的に叩き込まれている。つまり、弟たるもの、常に兄を引き立てるべし、と鉄拳制裁を通じて性急に教え込まれたのである。祖母もそれを自明のこととしているとしか思えないような雰囲気を醸し出していたらしい。

だから、父は伯父から某教団のことをいろいろと吹き込まれるとなにやら過剰に反発して、ときには怒りの限度が過ぎると頭の調子がおかしくなってしまうのである。そうなると、自分は信者でもないのに、早朝から変な調子で某教団の呪文を怒声で唱え続けたりして、家中が振り回されることになる。そうして、おかしな頭のまま某教団が属する流派の他のグループと関わりを持ったりして、そこで吹き込まれた知識をもとに、真の宗教がいかなるものであるのかを伯父に諭そうとしたりする。兄を間違った道から救い出そうというわけである。兄から軽くあしらわれてそれがうまくいかないとなると、今度は大酒を喰らって世間中をのしまわる。暴れる。わめく。父は、幼いころとすっかり変わってしまった伯父の現実をそのまま受け入れることが、いまにいたるまでどうしてもできないらしいのだ。人は、ときとして、狂気という代償を払ってでも自分が自分たるゆえんと信じるものを守ろうとするものなのだろうか。

本家筋に某教団の教えを持ち込んだのは、祖母である。祖母が亡くなってひと昔あまりの歳月が流れたのではあるけれど、私はいまだに祖母に対して良い感じを持っていない。それは、祖母と血のつながりのある者として、とても残念なことではある。

率直に言ってしまえば、祖母はエゴイストなのである。それは、人間誰しもエゴイストである、という意味合いとはいささか異なる。実の娘であるお澄さんを自分に奉仕するためだけに存在する召使のようなものに育て上げてしまったところをそうと感じるのだ。だから、お澄さんは自分の利益になるように振る舞う、というごく普通の意味での計算高さを身につけ損なうことになった。処世に関して、それは致命的なことであったように思う。というのは、それは、彼女が世間の様々な形での暴力に対してほぼノー・ガードで生きざるを得ないことを意味するからである。お澄さんは、世間の打算的なものからわが身を守ったり、自分で打算的に物事を考えて、世間のそれと突き合わせたりするというごく普通の大人がやっていることがからっきしダメなのである。徹底的にダメなのである。私は、お澄さんほどに無垢な大人をほかに知らない。そんな人が本当にいるのか、と言われてもいるものはいるとしか言いようがない。お澄さんが俗世間にわが身をさらそうとすると、必ず大きな痛手を蒙ることになるので、血族という名の保護膜に包まるようにして生きているよりほかはないのだ。そういう生き方をせざるをえないのは、私の目からすれば、彼女のせいではない。ただし、血族が本当に保護膜の役割を果たしえたのかどうかについては、正直なところ、うまく言えないところがある。

どういう親に育てられようと、大人として、自分の弱点を自分のものとして引き受けるべきである、親のせいにするのは発展性がない、という正論をふまえるならば、彼女の場合、そういう不恰好な生き方そのものが、彼女なりの引き受け方なのである、というほかないのではないか。お澄さんは、一度たりとも祖母に対して陰湿な恨み言をこぼした形跡がないのだから。子どものような喧嘩は二人でしばしばしているようだったけれど。お澄さんは、誰のことについても陰口なるものをこれまでの人生において一度たりともたたいたことがない人なのである。

話を、大学二年生のときのことに戻そう。

お澄さんが毎日のように作ってくれた石狩鍋が、札幌の冬の厳しい寒さでかじかんだ身体を芯から温めてくれてとても美味しかった。特に、北海道のシャケは本場物だけに美味しかった。そのことを彼女に告げたせいだろうか、自宅に帰った私のところに、シャケをほぐしたものをベースに、北海道の海産物をふんだんにまぶした手作りのお茶漬けの具が大量に何度もお澄さんから送られてきたのだった。私が幼少のころと、彼女の振る舞いや心持ちはまったく変わっていなかったのだ。お澄さんは、新聞配達で得た雀の泪ほどの報酬を惜しげもなく甥への贈り物につぎ込んだはずである。

その次にお澄さんに会ったのは、祖母の葬式のときだった。私が四十歳のときである。いわば底なしの共棲関係にあった祖母を失くして、お澄さんはさぞかし悲しかっただろうと思われるのだが、葬儀のときの彼女の姿を、私はどうしても思い出せない。ひょっとして、長年の、祖母による精神的な支配をめぐる無意識の暗闘から解放されて虚脱状態に陥り、悲しみの表情を浮かべるまでに至らなかったので印象に残っていないのかもしれない、とも思う。覚えているのは、彼女を元気づけようと、三万円のお小遣いをあげたことだ。お澄さんは、自由に使えるお金を持っていなさそうに見えたのである。

自宅に戻った数日後、母から電話があった。母によれば、義理の伯母から電話があって、その内容は、私がお澄さんにお小遣いをあげたのを迷惑がっているという主旨のことをやんわりと告げるものだった、とのこと。お澄さんは、小金を手にすると興奮して変な使い方をするそうなのだ。例えば、味噌ラーメンを二十杯注文して近所の人たちに大盤振る舞いするとか、シャケを何十尾も買い込んで知人に配るとかいったことだ。そうして、今回は毛蟹を買えるだけ買って近所に配ったというのである。

それを聞いて、私は内心むっとした。それのどこがいけないんだ。うれしいことがあるときに、それをみんなで分かち合おうとする気持ちが、そういうちょっとだけズレた行動として現れるだけのことではないか。ラーメン二十杯や毛蟹の十匹で幸せな気分になれるのならば、それはそれでいいじゃないか。これまで嫌になるほど貧乏をしてきたのだから、そういうことで豊かな気持ちになれるのならば、だれを傷つけるわけでもなし、それはそれでけっこうなことじゃないか。第一毛蟹なんてずいぶんと奮発したものじゃあないか。もしかしたら、祖母が亡くなって精神が一時的に変調をきたした、ということも少しはあるかもしれないけれど。そう思ったのである。もっとも、世間体を気にかける義理の伯母の「普通の人」としての気持ちも分からないわけではなかったのだが。私はそのとき不届きにも「普通の人」を少しだけ憎んだ。年老いた母が気を揉むといけないから、心のもやもやは告げないで「分かった」とだけ言って受話器を置いた。

最後に伯母に会ったのは、数年前の、父方のたった一人の、私の従妹の葬式のときだった。

そのとき、お澄さんは葬儀に参加しなかった。周りが参加を控えさせたのだ。というのは、彼女は呆けの症状がかなり進行していて、葬儀のとき、場にそぐわない不適切な発言を唐突に大声で繰り出したり、奇声を発したりする危惧があるから、とのことだった。彼女と四方山話をしているときに、確かにそういう兆候が見うけられたのではあった。死者に対する悲しみの念がどういう形で表れるのか、だれにも、もちろん本人にも皆目見当がつかないので葬儀に出席させられない、あまりにもリスキー、ということなのである。

ただし、某教団の信者ではない私にしてみれば、葬儀の間四六時中、果ては従妹の骨が焼き出され納骨の儀が済むときまで一つの呪文を参列者全員で唱え続ける「法友葬」なるものの式次第のほうがよっぽど常軌を逸していたと思うのではあるが。この「法友葬」なるものの発端は、同教団の属する流派のトップと教団側とが一悶着を起こして、教団が流派のトップと袂を分かったことにあるらしい。その式次第は、部外者にしてみれば、呪文のけたたましさが耳底にこびりつくだけのとんでもない代物である。死者への哀悼の念など、どこかに吹っ飛んでしまうのだ。そのときのことを思い出すと、げんなりとした気分がそっくりそのまま甦ってくる。私がその葬式に参列することは、もう二度とないだろう。私は、とてもつらいことなのではあるが、伯父の葬式には出席しないつもりである。それほどに、その式次第には限度を超えたものがあった。

信者の中でも特別に信心深くて活動に熱心だった従妹は、一人娘を残して癌で若死にする、という教団の教えに反するような、身もふたもない不運に見舞われた。さらに言えば、逆縁の死である。どう言いつくろってみても、無残というよりほかはない。一生懸命に信心すればするほど御利益をたっぷりといただける、幸せになれる、という教団の教えから、従妹の、形容する言葉に困るような最期はどうにも導き出せないだろう(まさか、従妹に向かって「お前は信心が足りなかったからそういう無残な最期を迎えたのだ」と鞭打つ関係者はいまい)。彼らは、それらの不都合な一切を声高な呪文でもみ消すのに必死なのではないかとさえ私は勘繰った。棺を背にして、お前たち、もういいかげんにしろと彼らを叱責できない自分の、世間体を気にする小心さがもどかしかった。たとえ、私がそういう粗野なふるまいをしたとしても、私と信者たちとのどちらが死者を本当に悼み、どちらが死者を冒涜しているのか、断言するのはとてもむずかしいことだろう。仮に、あの世の従妹が彼らの側についてしまったとしてもー残念ながら、たぶんそういうことになるのだろうがー私は自分のまっとうさの感覚と信じるものをなにも言わずに守り抜くよりほかはないのかもしれない。かつて私にじかに語った従妹の「自分は血のつながりよりも友だちのほうが大事」という言葉が彼女の墓碑銘になってしまったことを、私は胸に刻み込もう。

今から一年ほど前だっただろうか、義理の伯母から母に電話があった。その内容は、自分たち老夫婦にとって、お澄さんをこれ以上養うのは正直きついし、癌を患っている伯父が亡くなれば、自分一人が彼女を養うのは不可能になる。また、その呆けの症状はさらにひどくなっていて、一ヶ月以上風呂に入ろうとしないのもざらだし、下着だってまともに着替えない。そのことで自分との間で言い争いが絶えない。だから、彼女が重度の認知症者の認定を受けてホームヘルパーの手厚い介護を受けられるようにし、生活保護の適用を受け、市の斡旋で一人暮らしのアパートを探してもらう手はずを整えたい、というものだった。

父はそれを聞いていささか気色ばんだのだが、よく考えてみれば、妥当な措置であるというほかはない。それをどこかで分かりつつも、父は、可哀想な状況の姉に対して自分が何もできないのを生々しく突きつけられることによって惹起された、身を切るような悲しみを唐突な怒りの形で表したのだろうが。

これまで、我が家に対して伯母の生活費を一銭たりとも要求したことがない伯父夫婦は、やれるだけのことはやってきたのである。部外者の我が家が、彼らの決断についてとやかくいう資格はない。結局、両親は、札幌市役所から送られてきた、実の姉を扶養できないほどに自分たちが貧乏であることを証明する、いわば屈辱的な文書におとなしく署名して返送したのだった。いろいろ考えてみると、そうするよりほかはなかった、ということだろう。

その後、お澄さんがホームヘルパーをはじめとする周りの人たちと良い関係を保ちながら、一人暮らしを大過なく続けているという知らせが義理の伯母からあった。居候という肩身の狭い境遇から解放されて、その天性の人の良さがのびやかに関係者に伝わり好感を持たれているのではないだろうか。

そのつつましい人生において図らずも味わうことになった様々な理不尽さを経たいまに至っても、彼女の心の核にあるものは損なわれていないのではないか。それは、一家の最年長の姉として、たとえほかのだれからも忘れ去られたとしても、それを全然気にすることなく泰然として一族のメンバーを平等に思いやる無償の姉御肌である、と私は感じている。この世では、ほんとうのまごころなるものは、どうやら、みじめったらしくて不恰好で無力な様相を呈するものであるらしい。長年にわたってぎくしゃくした関係にあり続けている我が血族を、我知らずそっと体温の温かみで包み込んできたのは、実は「役立たず」の伯母だったのである。そのことに私はいまさらながらに気づいたのである。

それにしても、私が中学生のころにしでかした悪戯をお澄さんはいまでも覚えているのだろうか。あのときの彼女は、いまから思えば、彼女なりに女盛りの季節の真っ只中だったのだ。泣きべそピエロの濡れた瞳は北海道の晩夏の空のように澄んでいた。

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