足立区の公立中学校では、夏休みに入ると夏期講習があります。特徴的なのは、学校の先生たちによるものの他に、学習塾の講師による夏期講習があることです。科目は英語・数学の二教科、時間は50分×2教科×五日間という設定です。その他に事前テストと事後テストがあり、その点数の伸びで講習の効果のほどを見ようということになっています。また、生徒・保護者・学校の先生たちによるアンケートがあり、そういう方面からも評価がなされることになっています。
それに、私は英語講師として関わっています。今年でかれこれ六年目になるでしょうか。これまで、そこそこ無難にこなしてきたのですが、今年はちょっとしたトラブルがありました。学校名を出すと差し障りがあるかもしれませんので、今年私が担当したのはA中学校である、ということで話を進めましょう。
例年は、生徒本人の意向が重視された上での参加というのが基本だったのですが、今年は、教育委員会の方針転換があったようで、事前テストで成績が悪かった生徒を下から五〇人ピック・アップし、保護者の承諾を得た上で、原則参加させるという形をとった、とはA中学校側の当講習会担当主任のお話。勉強に対するモチベーションの低い子たちを無理やり多数集めた、ということになります。
そうなると、教育関係者なら容易に想像がつくものと思われますが、教室の雰囲気は最悪になります。とてもまともに授業などやっていられる情況ではなくなってしまうのです。
無神経な大声での私語があちこちで繰り広げられるわ、授業中に平気で立ち歩く生徒が現れるわ、ちょっと注意したら暴言を吐くわで、どうにも収拾がつかなくなってしまったのです。いちばん驚いたのは、ある女生徒が、私の授業中に、自分の左隣の男子生徒に向かってちらっと股を広げてスカートの中を見せつけ、彼の反応を確かめているのを目撃したことです。そんなこと、私の長い職歴のなかで初めてのことです。オッタマゲたのなんのって。
で、そのなかでもひときわ傍若無人な態度をとり続けるひとりの男子生徒Bを、私は再三たしなめました。どうやら、クラスの雰囲気を左右するペース・メーカー的な存在のようであるから、彼の態度を放置するならば、ほかの生徒に示めしがつかない、と判断したのです。そうして、どうしてもふてくされた態度を改めようとしないので、私はしびれを切らして「そんなにやる気がないのなら、教室から出て行きなさい。ただし、校長先生に挨拶をしてから帰るように」と申し渡しました。すると、私を睨めつけるようにして、その生徒はぷいと出て行ってしまいました。
授業終了後、当講習会担当主任に事実を報告。学校主催の講習会でも、目に余る生徒は、教室からの退出を命じているので、私の処置は問題ない、とのお言葉をいただく。
で、翌日の授業前にBの担任がわれわれの控え室に入ってきて、私にそのときの事情を聞きました。いわゆる「事情聴取」です。私は、Bの退出を促すにいたるまでの経緯をなるべく客観的に説明しました。そのうえで、担任は「これは本人の弁ですが、『自分だけ何度も注意を受けた。他にも授業をちゃんと受けていない生徒がいるのに、彼らには何も注意しなかった。それが不満だ』とのこと。そういうわけで、今日Bは参加しません。明日来たなら、先生にちゃんと謝ってからでないと授業に参加させないと申し渡してあります。」と言いました。
その翌日の授業前、再びBの担任が現れて「本人が、自分は悪くないのでどうしても素直に謝る気になれない、と言っているので家に帰しました。Bの親にも、その旨報告しました」と言いました。私は、了解の旨を伝え、いろいろと手数をかけたことを詫びました。
担任が姿を消した後の、われわれ塾スタッフの会話。
C先生:なんだか、美津島先生と問題児のBが対等に扱われている気がするなぁ。変だなぁ。
美津島:こちらが悪いことをしたような気分になってくるんだよね。
D先生:こういうことになるような気がしてたんで、自分は、両目をつぶって文句を言いたいのをひたすら我慢したんですよ。お役人仕事なんて、こんなもんでしょ。
話はここまでです。今からそのときのことを振り返ってみるに、 その経験はBの成長にとって1円の利益にもならなかったことがはっきりしている、という感想が湧いてきます。もっとはっきり言えば、学校はBに間違ったメッセージを送ってしまったのではないでしょうか。
つまり、今回のことはBからすれば、マジメに勉強したくない自分とちゃんと教えようとする先生とが学校によって対等に扱われて、その先生に謝ることを拒絶することで、自分の主張が通った経験として残ることになるのではないかと思われるのです。つまり、彼のエゴは無傷なまま今回の「事件」をスルーすることができたのです。いいかえれば、Bは自分のエゴを学校によって公認されるという経験をしたのです。
学校側は、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。彼らはどうやら保護者からのクレームの惹起を恐れて、一分の隙もないような卒のない対応に神経を尖らせているようなのです。組織防衛に意識が集中していて、生徒の教育・成長を主題にする余裕など、彼らにはどうもないようなのです。こんな状態では、イジメの実態が隠蔽されるのもむべなるかな、との思いを深くしました。
私はここで学校バッシングをしようなどとはまったく思っていません。そんなことをしてもどうしようもないくらいに、事態は深刻であると私には映ります。
ここで話は大きくなります。
戦後六七年間に、われわれ日本人がその価値を絶対的なものとして信奉してきた民主主義なるものが、本当はどういうものでありつづけてきたのかに、先のささいな「事件」は深く関わっているように、私には映ってしまうのです。
戦後のわれわれにとって、民主主義とは、「私(わたくし)の公(おおやけ)に対する異議申し立て」そのものであったし、いまも基本的にはそうなのではないでしょうか。そうして、民主主義を持ち上げることで、われわれは「私の公に対する意義申し立て」を絶対の正義と信じ込んできたのではありませんか。デモをするだけでなんとなくヒロイックな気分になってくるのは、そういうことなのではないでしょうか。
だから、国歌・国旗を貶めるのは正義であり、デモ隊が国会に乱入するのも正義であり、自衛隊を罵倒するのも正義であり、政治家とみれば小馬鹿にするのも正義であり、高度な専門性が求められる裁判にど素人の庶民が土足で踏み込むのも正義であり、公務員と見ればとにかくバッシングするのも正義であり、学校に保護者が理不尽なクレームをつけるのも正義である、とわれわれはどこかで信じ続けてきたのではないでしょうか。これらを一言でまとめれば、民主主義は、戦後において公の崩壊を招く言動を正当化する破壊的なイデオロギーとして作用してきた、となります。
では、民主主義の原義はいったいなんなのでしょう。民主主義とは、主権概念に着目すれば、国民主権と等置できます。民主主義とは、一般国民が主権を担うことです。
また、主権とは、高校の政経で教わるように、統治権と最終的国家意思の決定権と他国からの内政干渉を拒否して独立を守る権利とから成ります。それらは、対外的にはゆるぎない総合安全保障体制を確立する義務を招来します。
だから、国民主権の概念は、一般国民が、外交と軍事に関する高度な義務を担うことを内包していることになります。
つまり、民主主義は、主権概念に着目すると「私が公を担うこと」を意味するのです。その意味で、マッカーシズムに追い込まれて一九五七年に自殺したハーバート・ノーマンが「民主主義の本質はself-govern(あえて訳せば「自己統治」)である」と力説したのは、正鵠を得た議論だったのです。そこには、公を脅かしたり、機能不全に陥れたり、ましてやそれを破壊する契機は存在しません。そういう言動は、民主主義の原義に対する誤解と曲解からもたらされたものであることが自明でしょう。原義としての民主主義が、ゆるぎない公の存在を前提とするのに対して、戦後民主主義は公の存在の否定・破壊を招来します。
どうして、そういうことになってしまったのでしょう。時代背景としては、敗戦直後の一般国民が、主権を奪われてしまうほどの日本の惨敗ぶりを目の当たりにして国家という名の公の命令に従うことに嫌気がさしていたことがあるのでしょう。そういう時代の雰囲気に、GHQが日本国民に注入しつづけたいわゆる東京裁判史観が合致してしまったのでしょう。
GHQが日本を去ったあと、GHQの、占領政策としての民主化路線を引き継いだのは、いわゆる進歩的文化人と呼ばれる人々でした。彼らは、自分たちの左翼的・社会主義的情念を民主主義に塗りこんで、それをゲリラ的な武器として日本破壊・権力破壊・文化破壊の戦後民主主義イデオロギーに鍛え上げました。それを教育の最前線で担い続けてきたのが、前回の投稿で否定的に取り上げた日教組です。それは、控えめに言っても歴史的な事実です。
教育の世界では、戦後の偏向教育を受けた人間が教師になって、次の世代にもっとひどい純化された偏向教育を施す、という悪循環が生じています。その内部にいる者にはどうしても分からないようなのですが、外部の者にとってそれは自明です。一般国民は、日教組のおかしさに完全に気づいています。
ところで、戦後民主主義イデオロギーは、日本社会に思わぬ副産物を産み落としてしまいました。それは、リバタリアニズムならぬオバタリアニズムです。これが、モンスターペアレンツを次から次に登場させる「豊かな」社会的土壌をなしています。
オバタリアニズムは、主におばさんによって担われますが、ここでは、「私」のために「公」を破壊するのを屁とも思わない、すさまじいまでの自己肯定的な言動を繰り広げる存在を総称する言葉として使います。
それが、公教育の現場を機能不全に陥れている社会的存在の核心をなすものなのではないかと思われるのです。公教育の現場は、現場知のほかの自覚的な思想としては戦後民主主義イデオロギーしか持ち合わせていません。そうして、それは、オバタリアニズムを思想原理的には肯定するほかはありません。しかし、それが襲来すると現場は明らか混乱します。だから、その襲来を防ぐために、不慮の事態に対しては実に慎重に事を進めます。
で、その進め方が、図らずも戦後民主主義的な平等意識に裏打ちされたものであるのは避けられないところでしょう。
問題児のBくんは、未来のオバタリアニズムの旗手として着々と育っています。育てられています。学校は、公教育の現場を困らせる存在を、問題解決の只中で潜在的に増殖させている。その自己撞着した思想的な場が、戦後民主主義の死に場所であると同時にその棲息の場でもある。つまり、それは思想的墓場でどこまでも生き延びて、社会に害毒を無自覚に垂れ流し続けるのでしょう。
だれが悪いのでもない。間違った支配思想が無自覚に放置されている状態が、困った事象の根幹をなしているように、私には映ります。
私たちは、民主主義の学び直しから始める必要がありそうです。そうしないと、地方分権こそ民主主義だとホラを吹き続ける山師的な政治家にまたぞろうっかりと騙されてしまうことになりかねません。地方分権の進展と民主主義の深化とは、原理的にまっすぐには結びつきません。それは、時代情況に依ります。今は、世界恐慌第二波の前夜、国難の時です。ゆるぎない中央集権こそが求められる局面です。ゆるぎない中央集権が、民主主義に反する存在であるかのようなイメージも、戦後民主主義イデオロギーが垂れ流した虚偽のひとつです。
〔コメント〕
Commented by meniawoba7123 さん
暑中お伺い申し上げます。夏でも中々ご多忙のご様子。勉強嫌いなぼく、デモ行きの中で拝見いたしました。生徒本人が、学びたい、もしくは少しは良くなりたい!が、夏期講習に向う姿勢とおもつていましたら 、何だか頓珍漢な教育委員会の方針転換。もうここで変ですよね!学びたくない子には、迷惑。
1人でつまんんないから騒ぐその中に同じ思いの子を巻き込む計り知れない。
方式ですね。教わりたくなければ始めからボイコツトすればいいのに。
その勇気すらない。学びたくなければ、学ぶ必要がない。教育委員会子供を
どうしょうとしているやら?
民主主義とは、一般国民が主権を担うこと!ところが今のお母様方はすさまじ
いばかりの自己肯定ここから出てくる答えは、責任のカケラもありません。
めにあまる事態といえます。
2012/08/07 12:38
Commented by 美津島明 さん
To meniawoba7123さん
貴重なコメント、ありがとうございます。
>教わりたくなければ始めからボイコツトすればいいのに。
>その勇気すらない。学びたくなければ、学ぶ必要がない。教育委員会子供を
>どうしょうとしているやら?
おっしゃる通りですね。今の公教育は、子どもの自立心を育てることにあまりウエイトを置いていないようです。教育委員会も学校側も、外部から難癖をつけられて、世間の理不尽なバッシングにさらされないことだけに神経を消耗しているように映ります。子どもの成長はそっちのけ。近頃は、自己決定権などという、彼らにとっては便利な言葉もありますしね。自己防衛・組織防衛のために、あらゆる教育的な美辞麗句、キレイごと的ボキャブラリーを駆使することになけなしの頭脳を使い果たしているのですね。子どもたちは、そこをちゃんと見ています。保護者たちのねじ込みが学校側に対してパワーを発揮するのもじっと見ています。そこから、「私のために公をゴミのようにないがしろにするのは善である」というメッセージをちゃんと受けとめています。これは自立心の確立とは何の関係もない事態です。ヘタをすると、日本社会そのもののメルト・ダウンがもたらされかねないでしょう。私は、そのことに鳥肌が立つ思いです。
>民主主義とは、一般国民が主権を担うこと!ところが今のお母様方はすさまじ
>いばかりの自己肯定ここから出てくる答えは、責任のカケラもありません。
>めにあまる事態といえます。
これは、戦後民主主義の長い歴史によって培われてきた、わが日本社会の負の遺産です。それとは別に、「人の命はかけがえのないものだ」という人倫にかなった感性を培ってきたのは、戦後の掛け値なしのプラスの遺産である、とも思っています。映画『二十四の瞳』的な世界を大切にする心ですね。そこで、この感性を社会破壊的な戦後民主主義イデオロギーから奪還する闘いをこれからする必要があるのではないか、と思い始めています。つまり、そろそろ民主主義の原義に立ち帰る試みを始めてはどうか、と思っているのです。右翼の日教組批判なんかと一緒にされては困る、と思っています。
2012/08/11 02:46
Commented by soichi2011 さん
今日は。そろそろ残暑、というにしては、まだあまりに暑いですね。そんなときに相応しいかどうか、ちょっと論争をふっかけます。
おっしゃるような事態に、「戦後民主主義」はほとんど関係ないと思いますよ。だって、戦前から似たようなことはあったんですから。名サイト「少年犯罪データベース」や、その管理者管賀江留郎氏の著書『戦前の少年犯罪』(築地書館)を読めばわかることです。
手っ取り早いところでは、大正期のモンスターペアレンツが学校を訴えた芳しい事例が三つ、以下のブログで読めます。
「戦前の親を見習おう:少年犯罪データベースドア」
ただ、おそらく戦前には、こういうのも、いじめも、ほとんど統計はないですから(実態はあったが、今ほど人の興味を惹かなかったから)、現代はもっと増えたろう、そこには戦後民主主義が影響を与えているはずだ、と言われるなら、反論する根拠はないです。しかし、たとえそうであっても、それは問題の本質ではないでしょう。
本質は、愚考するに、古今東西、どんな体制の社会であろうと、大人だろうと子どもだろうと、人間は、「これをやると本当に困るぞ」と思わない限り、かなり勝手なことをやってしまうこともある、そういう生き物である、ということです。そして、その「勝手なこと」の中に、学校での授業妨害やらいじめやらも含まれるのです。
御ブログ記事中の、足立区の中学生たちも、その親も、学校制度全体に反逆したら、本当に困ったことになるかな、と思うから、強制課外には来る、でも、それをちゃんと受けなくても、そんなに困るとは思えないから、授業は無視し、他にやることもないんで、つい騒いでしまったりするわけです。
それでも、大津市のいじめ自殺事件では、ネット上に加害者やその家族の住所、氏名、さらには写真まで載せられた(もちろん、それが正確であるとは限りませんが)のですから、非常に困ったことになったでしょう。でも、事前にはそういうことまでは予測できないのが人間の哀しさであるわけでして。
だから、被害者が自殺に至る前に、加害者を「困ったこと」にする制度・機構こそが必要なのです。その詳細については、我が田に水を引いて、今回は終わりにします。
「由紀草一の一読三陳:そろそろいじめへの具体的な対策を その1」
2012/08/11 12:25
Commented by 美津島明 さん
To soichi2011さん
率直なご感想、ありがとうございます。
> 本質は、愚考するに、古今東西、どんな体制の社会であろうと、大人だろう と子どもだろうと、人間は、「これをやると本当に困るぞ」と思わない限り、 かなり勝手なことをやってしまうこともある、そういう生き物である、という ことです。そして、その「勝手なこと」の中に、学校での授業妨害やらいじめ やらも含まれるのです。
これは、人間の本質に対する慧眼の感じられる、無視し得ない見識です。
> だから、被害者が自殺に至る前に、加害者を「困ったこと」にする制度・機 構こそが必要なのです。
この結論に対しても、私はなんの反論もありません。ぜひ、そういう方向での制度・機構が一日でも早く確立されることを切に希望します。
私が危惧しているのは、soichi2011さんが提案されているような、人性に対するリアルな認識に根ざした有効な教育制度を設計することを、建前としての「お子様教」がいまだに阻止しているのではないか、ということです。
本音では、学校や学習塾の関係者はおおむね、soichi2011さんのリアリステックな認識・提案に賛成しているのです。
ところが、建前あるいはパブリックな領域で、マイクを持たされたり、あらためてかしこまって意見を求められると、ついついキレイごとが口をついて出ることになり、「お子様教」的な言説が幅を効かせてしまうことになりがち、という光景をこれまで私はいやになるほど見てきました。
「キレイごとを言って、周りからいい人だと思われたい」というのも、赤裸々な人性であると思います。教育言説の場で、いい人の仮面をかぶるのに、「お子様教」イデオロギーはいまだにとても便利なツールたり得ているのではないでしょうか。
足立A中のBくんに関しても、責任者は「Bもいろいろなものを背負っているのです」などとまことしやかにつぶやいていましたが、そこに私は「生徒目線で寄り添うのは善」という「お子様教」の所在を感じました。はっきり言えば、偽善を感じました。
「お子様教」が、戦後民主主義における平等原理主義の産物である、という側面を是認していただけるのであれば、私が申し上げたいことが、soichi2011さんに伝わるのではないかと愚考する次第です。
2012/08/11 18:32
Commented by soichi2011 さん
さっそくのお返事、ありがとうございます。
今何が必要かの愚見には、基本的に賛成してくださっているので、それでいいわけですが、せっかくの機会ですから、もう少し議論をすすめさせてください。
「お子様教が、戦後民主主義における平等原理主義の産物である」というのには賛成できません。「お子様教」の命名者は確か小浜逸郎氏だと思いますが(『学校の現象学のために』)、起源はもっとずっと古いのです。明確に表現されたのは、18世紀ヨーロッパの、ロマン派からでしょう。元祖は何と言ってもルソー「エミール」(1762年)、ということになってますね。それから、子どもは汚れていないから、絶対に善だ、という観念を打ち出したのは、ベルナルダン・ド・サン・ピエール「ポールとヴィルジニー」(1788年)が、管見の限りでは、最初の文学らしいです。それから1900年の、エレン・ケイ「児童の世紀」などがあって、現在に至るまでずっと、「児童中心主義」の教育理念は健在です。
これと、「戦後民主主義」とはけっこう違う、と私は思います。こちらでは、仰る通り、平等はとても大事でしょう。一方、児童中心主義教育を信奉する人々は、本当の意味では「大人と子どもは平等だ」なんて思っていません。
だって、そうでしょう。例えば美津島さんと私とは、大人として、対等ですわな。その私が美津島さんに向かって、「なんだこの野郎、云々」と、とても失礼なことを口走ったとします。美津島さんが、聖人君子並に心の寛い人だとしたら、「由紀草一もいろいろなものを背負っているのだろうな」と同情してくださるかも知れない。でも、それを「当然のこと」として要求するなんて、できませんわな。相手が子どもとなると、教師には、そのような配慮を当然のように要求するというのは、つまり子どもは大人と対等な存在だとは考えられていないのですよ。
「自由平等」の理念から、例えば学校の制服に反対した人もいましたが、その活動が目立ったのは、もう二十年以上昔です。今でもそういう人はいるのでしょう。が、もっとずっと教師を悩ませているのは、「民主主義」も「自由平等」も関係ない、自分の子どもは特別なんだから、特別に面倒を見てくれ、と、あられもなく要求する親たちです。
今日はこのへんで。美津島さんがおいやでなければ、あともう少しやりましょう。
2012/08/13 23:33
Commented by 美津島明 さん
To soichi2011さん
上への返事は「教育問題と戦後民主主義と日教組 soichi2011さんへの返事」というタイトルで、ブログエントリー92として投稿しました。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/6018fe3b4272cc174490daf9af05fcb6
それに、私は英語講師として関わっています。今年でかれこれ六年目になるでしょうか。これまで、そこそこ無難にこなしてきたのですが、今年はちょっとしたトラブルがありました。学校名を出すと差し障りがあるかもしれませんので、今年私が担当したのはA中学校である、ということで話を進めましょう。
例年は、生徒本人の意向が重視された上での参加というのが基本だったのですが、今年は、教育委員会の方針転換があったようで、事前テストで成績が悪かった生徒を下から五〇人ピック・アップし、保護者の承諾を得た上で、原則参加させるという形をとった、とはA中学校側の当講習会担当主任のお話。勉強に対するモチベーションの低い子たちを無理やり多数集めた、ということになります。
そうなると、教育関係者なら容易に想像がつくものと思われますが、教室の雰囲気は最悪になります。とてもまともに授業などやっていられる情況ではなくなってしまうのです。
無神経な大声での私語があちこちで繰り広げられるわ、授業中に平気で立ち歩く生徒が現れるわ、ちょっと注意したら暴言を吐くわで、どうにも収拾がつかなくなってしまったのです。いちばん驚いたのは、ある女生徒が、私の授業中に、自分の左隣の男子生徒に向かってちらっと股を広げてスカートの中を見せつけ、彼の反応を確かめているのを目撃したことです。そんなこと、私の長い職歴のなかで初めてのことです。オッタマゲたのなんのって。
で、そのなかでもひときわ傍若無人な態度をとり続けるひとりの男子生徒Bを、私は再三たしなめました。どうやら、クラスの雰囲気を左右するペース・メーカー的な存在のようであるから、彼の態度を放置するならば、ほかの生徒に示めしがつかない、と判断したのです。そうして、どうしてもふてくされた態度を改めようとしないので、私はしびれを切らして「そんなにやる気がないのなら、教室から出て行きなさい。ただし、校長先生に挨拶をしてから帰るように」と申し渡しました。すると、私を睨めつけるようにして、その生徒はぷいと出て行ってしまいました。
授業終了後、当講習会担当主任に事実を報告。学校主催の講習会でも、目に余る生徒は、教室からの退出を命じているので、私の処置は問題ない、とのお言葉をいただく。
で、翌日の授業前にBの担任がわれわれの控え室に入ってきて、私にそのときの事情を聞きました。いわゆる「事情聴取」です。私は、Bの退出を促すにいたるまでの経緯をなるべく客観的に説明しました。そのうえで、担任は「これは本人の弁ですが、『自分だけ何度も注意を受けた。他にも授業をちゃんと受けていない生徒がいるのに、彼らには何も注意しなかった。それが不満だ』とのこと。そういうわけで、今日Bは参加しません。明日来たなら、先生にちゃんと謝ってからでないと授業に参加させないと申し渡してあります。」と言いました。
その翌日の授業前、再びBの担任が現れて「本人が、自分は悪くないのでどうしても素直に謝る気になれない、と言っているので家に帰しました。Bの親にも、その旨報告しました」と言いました。私は、了解の旨を伝え、いろいろと手数をかけたことを詫びました。
担任が姿を消した後の、われわれ塾スタッフの会話。
C先生:なんだか、美津島先生と問題児のBが対等に扱われている気がするなぁ。変だなぁ。
美津島:こちらが悪いことをしたような気分になってくるんだよね。
D先生:こういうことになるような気がしてたんで、自分は、両目をつぶって文句を言いたいのをひたすら我慢したんですよ。お役人仕事なんて、こんなもんでしょ。
話はここまでです。今からそのときのことを振り返ってみるに、 その経験はBの成長にとって1円の利益にもならなかったことがはっきりしている、という感想が湧いてきます。もっとはっきり言えば、学校はBに間違ったメッセージを送ってしまったのではないでしょうか。
つまり、今回のことはBからすれば、マジメに勉強したくない自分とちゃんと教えようとする先生とが学校によって対等に扱われて、その先生に謝ることを拒絶することで、自分の主張が通った経験として残ることになるのではないかと思われるのです。つまり、彼のエゴは無傷なまま今回の「事件」をスルーすることができたのです。いいかえれば、Bは自分のエゴを学校によって公認されるという経験をしたのです。
学校側は、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。彼らはどうやら保護者からのクレームの惹起を恐れて、一分の隙もないような卒のない対応に神経を尖らせているようなのです。組織防衛に意識が集中していて、生徒の教育・成長を主題にする余裕など、彼らにはどうもないようなのです。こんな状態では、イジメの実態が隠蔽されるのもむべなるかな、との思いを深くしました。
私はここで学校バッシングをしようなどとはまったく思っていません。そんなことをしてもどうしようもないくらいに、事態は深刻であると私には映ります。
ここで話は大きくなります。
戦後六七年間に、われわれ日本人がその価値を絶対的なものとして信奉してきた民主主義なるものが、本当はどういうものでありつづけてきたのかに、先のささいな「事件」は深く関わっているように、私には映ってしまうのです。
戦後のわれわれにとって、民主主義とは、「私(わたくし)の公(おおやけ)に対する異議申し立て」そのものであったし、いまも基本的にはそうなのではないでしょうか。そうして、民主主義を持ち上げることで、われわれは「私の公に対する意義申し立て」を絶対の正義と信じ込んできたのではありませんか。デモをするだけでなんとなくヒロイックな気分になってくるのは、そういうことなのではないでしょうか。
だから、国歌・国旗を貶めるのは正義であり、デモ隊が国会に乱入するのも正義であり、自衛隊を罵倒するのも正義であり、政治家とみれば小馬鹿にするのも正義であり、高度な専門性が求められる裁判にど素人の庶民が土足で踏み込むのも正義であり、公務員と見ればとにかくバッシングするのも正義であり、学校に保護者が理不尽なクレームをつけるのも正義である、とわれわれはどこかで信じ続けてきたのではないでしょうか。これらを一言でまとめれば、民主主義は、戦後において公の崩壊を招く言動を正当化する破壊的なイデオロギーとして作用してきた、となります。
では、民主主義の原義はいったいなんなのでしょう。民主主義とは、主権概念に着目すれば、国民主権と等置できます。民主主義とは、一般国民が主権を担うことです。
また、主権とは、高校の政経で教わるように、統治権と最終的国家意思の決定権と他国からの内政干渉を拒否して独立を守る権利とから成ります。それらは、対外的にはゆるぎない総合安全保障体制を確立する義務を招来します。
だから、国民主権の概念は、一般国民が、外交と軍事に関する高度な義務を担うことを内包していることになります。
つまり、民主主義は、主権概念に着目すると「私が公を担うこと」を意味するのです。その意味で、マッカーシズムに追い込まれて一九五七年に自殺したハーバート・ノーマンが「民主主義の本質はself-govern(あえて訳せば「自己統治」)である」と力説したのは、正鵠を得た議論だったのです。そこには、公を脅かしたり、機能不全に陥れたり、ましてやそれを破壊する契機は存在しません。そういう言動は、民主主義の原義に対する誤解と曲解からもたらされたものであることが自明でしょう。原義としての民主主義が、ゆるぎない公の存在を前提とするのに対して、戦後民主主義は公の存在の否定・破壊を招来します。
どうして、そういうことになってしまったのでしょう。時代背景としては、敗戦直後の一般国民が、主権を奪われてしまうほどの日本の惨敗ぶりを目の当たりにして国家という名の公の命令に従うことに嫌気がさしていたことがあるのでしょう。そういう時代の雰囲気に、GHQが日本国民に注入しつづけたいわゆる東京裁判史観が合致してしまったのでしょう。
GHQが日本を去ったあと、GHQの、占領政策としての民主化路線を引き継いだのは、いわゆる進歩的文化人と呼ばれる人々でした。彼らは、自分たちの左翼的・社会主義的情念を民主主義に塗りこんで、それをゲリラ的な武器として日本破壊・権力破壊・文化破壊の戦後民主主義イデオロギーに鍛え上げました。それを教育の最前線で担い続けてきたのが、前回の投稿で否定的に取り上げた日教組です。それは、控えめに言っても歴史的な事実です。
教育の世界では、戦後の偏向教育を受けた人間が教師になって、次の世代にもっとひどい純化された偏向教育を施す、という悪循環が生じています。その内部にいる者にはどうしても分からないようなのですが、外部の者にとってそれは自明です。一般国民は、日教組のおかしさに完全に気づいています。
ところで、戦後民主主義イデオロギーは、日本社会に思わぬ副産物を産み落としてしまいました。それは、リバタリアニズムならぬオバタリアニズムです。これが、モンスターペアレンツを次から次に登場させる「豊かな」社会的土壌をなしています。
オバタリアニズムは、主におばさんによって担われますが、ここでは、「私」のために「公」を破壊するのを屁とも思わない、すさまじいまでの自己肯定的な言動を繰り広げる存在を総称する言葉として使います。
それが、公教育の現場を機能不全に陥れている社会的存在の核心をなすものなのではないかと思われるのです。公教育の現場は、現場知のほかの自覚的な思想としては戦後民主主義イデオロギーしか持ち合わせていません。そうして、それは、オバタリアニズムを思想原理的には肯定するほかはありません。しかし、それが襲来すると現場は明らか混乱します。だから、その襲来を防ぐために、不慮の事態に対しては実に慎重に事を進めます。
で、その進め方が、図らずも戦後民主主義的な平等意識に裏打ちされたものであるのは避けられないところでしょう。
問題児のBくんは、未来のオバタリアニズムの旗手として着々と育っています。育てられています。学校は、公教育の現場を困らせる存在を、問題解決の只中で潜在的に増殖させている。その自己撞着した思想的な場が、戦後民主主義の死に場所であると同時にその棲息の場でもある。つまり、それは思想的墓場でどこまでも生き延びて、社会に害毒を無自覚に垂れ流し続けるのでしょう。
だれが悪いのでもない。間違った支配思想が無自覚に放置されている状態が、困った事象の根幹をなしているように、私には映ります。
私たちは、民主主義の学び直しから始める必要がありそうです。そうしないと、地方分権こそ民主主義だとホラを吹き続ける山師的な政治家にまたぞろうっかりと騙されてしまうことになりかねません。地方分権の進展と民主主義の深化とは、原理的にまっすぐには結びつきません。それは、時代情況に依ります。今は、世界恐慌第二波の前夜、国難の時です。ゆるぎない中央集権こそが求められる局面です。ゆるぎない中央集権が、民主主義に反する存在であるかのようなイメージも、戦後民主主義イデオロギーが垂れ流した虚偽のひとつです。
〔コメント〕
Commented by meniawoba7123 さん
暑中お伺い申し上げます。夏でも中々ご多忙のご様子。勉強嫌いなぼく、デモ行きの中で拝見いたしました。生徒本人が、学びたい、もしくは少しは良くなりたい!が、夏期講習に向う姿勢とおもつていましたら 、何だか頓珍漢な教育委員会の方針転換。もうここで変ですよね!学びたくない子には、迷惑。
1人でつまんんないから騒ぐその中に同じ思いの子を巻き込む計り知れない。
方式ですね。教わりたくなければ始めからボイコツトすればいいのに。
その勇気すらない。学びたくなければ、学ぶ必要がない。教育委員会子供を
どうしょうとしているやら?
民主主義とは、一般国民が主権を担うこと!ところが今のお母様方はすさまじ
いばかりの自己肯定ここから出てくる答えは、責任のカケラもありません。
めにあまる事態といえます。
2012/08/07 12:38
Commented by 美津島明 さん
To meniawoba7123さん
貴重なコメント、ありがとうございます。
>教わりたくなければ始めからボイコツトすればいいのに。
>その勇気すらない。学びたくなければ、学ぶ必要がない。教育委員会子供を
>どうしょうとしているやら?
おっしゃる通りですね。今の公教育は、子どもの自立心を育てることにあまりウエイトを置いていないようです。教育委員会も学校側も、外部から難癖をつけられて、世間の理不尽なバッシングにさらされないことだけに神経を消耗しているように映ります。子どもの成長はそっちのけ。近頃は、自己決定権などという、彼らにとっては便利な言葉もありますしね。自己防衛・組織防衛のために、あらゆる教育的な美辞麗句、キレイごと的ボキャブラリーを駆使することになけなしの頭脳を使い果たしているのですね。子どもたちは、そこをちゃんと見ています。保護者たちのねじ込みが学校側に対してパワーを発揮するのもじっと見ています。そこから、「私のために公をゴミのようにないがしろにするのは善である」というメッセージをちゃんと受けとめています。これは自立心の確立とは何の関係もない事態です。ヘタをすると、日本社会そのもののメルト・ダウンがもたらされかねないでしょう。私は、そのことに鳥肌が立つ思いです。
>民主主義とは、一般国民が主権を担うこと!ところが今のお母様方はすさまじ
>いばかりの自己肯定ここから出てくる答えは、責任のカケラもありません。
>めにあまる事態といえます。
これは、戦後民主主義の長い歴史によって培われてきた、わが日本社会の負の遺産です。それとは別に、「人の命はかけがえのないものだ」という人倫にかなった感性を培ってきたのは、戦後の掛け値なしのプラスの遺産である、とも思っています。映画『二十四の瞳』的な世界を大切にする心ですね。そこで、この感性を社会破壊的な戦後民主主義イデオロギーから奪還する闘いをこれからする必要があるのではないか、と思い始めています。つまり、そろそろ民主主義の原義に立ち帰る試みを始めてはどうか、と思っているのです。右翼の日教組批判なんかと一緒にされては困る、と思っています。
2012/08/11 02:46
Commented by soichi2011 さん
今日は。そろそろ残暑、というにしては、まだあまりに暑いですね。そんなときに相応しいかどうか、ちょっと論争をふっかけます。
おっしゃるような事態に、「戦後民主主義」はほとんど関係ないと思いますよ。だって、戦前から似たようなことはあったんですから。名サイト「少年犯罪データベース」や、その管理者管賀江留郎氏の著書『戦前の少年犯罪』(築地書館)を読めばわかることです。
手っ取り早いところでは、大正期のモンスターペアレンツが学校を訴えた芳しい事例が三つ、以下のブログで読めます。
「戦前の親を見習おう:少年犯罪データベースドア」
ただ、おそらく戦前には、こういうのも、いじめも、ほとんど統計はないですから(実態はあったが、今ほど人の興味を惹かなかったから)、現代はもっと増えたろう、そこには戦後民主主義が影響を与えているはずだ、と言われるなら、反論する根拠はないです。しかし、たとえそうであっても、それは問題の本質ではないでしょう。
本質は、愚考するに、古今東西、どんな体制の社会であろうと、大人だろうと子どもだろうと、人間は、「これをやると本当に困るぞ」と思わない限り、かなり勝手なことをやってしまうこともある、そういう生き物である、ということです。そして、その「勝手なこと」の中に、学校での授業妨害やらいじめやらも含まれるのです。
御ブログ記事中の、足立区の中学生たちも、その親も、学校制度全体に反逆したら、本当に困ったことになるかな、と思うから、強制課外には来る、でも、それをちゃんと受けなくても、そんなに困るとは思えないから、授業は無視し、他にやることもないんで、つい騒いでしまったりするわけです。
それでも、大津市のいじめ自殺事件では、ネット上に加害者やその家族の住所、氏名、さらには写真まで載せられた(もちろん、それが正確であるとは限りませんが)のですから、非常に困ったことになったでしょう。でも、事前にはそういうことまでは予測できないのが人間の哀しさであるわけでして。
だから、被害者が自殺に至る前に、加害者を「困ったこと」にする制度・機構こそが必要なのです。その詳細については、我が田に水を引いて、今回は終わりにします。
「由紀草一の一読三陳:そろそろいじめへの具体的な対策を その1」
2012/08/11 12:25
Commented by 美津島明 さん
To soichi2011さん
率直なご感想、ありがとうございます。
> 本質は、愚考するに、古今東西、どんな体制の社会であろうと、大人だろう と子どもだろうと、人間は、「これをやると本当に困るぞ」と思わない限り、 かなり勝手なことをやってしまうこともある、そういう生き物である、という ことです。そして、その「勝手なこと」の中に、学校での授業妨害やらいじめ やらも含まれるのです。
これは、人間の本質に対する慧眼の感じられる、無視し得ない見識です。
> だから、被害者が自殺に至る前に、加害者を「困ったこと」にする制度・機 構こそが必要なのです。
この結論に対しても、私はなんの反論もありません。ぜひ、そういう方向での制度・機構が一日でも早く確立されることを切に希望します。
私が危惧しているのは、soichi2011さんが提案されているような、人性に対するリアルな認識に根ざした有効な教育制度を設計することを、建前としての「お子様教」がいまだに阻止しているのではないか、ということです。
本音では、学校や学習塾の関係者はおおむね、soichi2011さんのリアリステックな認識・提案に賛成しているのです。
ところが、建前あるいはパブリックな領域で、マイクを持たされたり、あらためてかしこまって意見を求められると、ついついキレイごとが口をついて出ることになり、「お子様教」的な言説が幅を効かせてしまうことになりがち、という光景をこれまで私はいやになるほど見てきました。
「キレイごとを言って、周りからいい人だと思われたい」というのも、赤裸々な人性であると思います。教育言説の場で、いい人の仮面をかぶるのに、「お子様教」イデオロギーはいまだにとても便利なツールたり得ているのではないでしょうか。
足立A中のBくんに関しても、責任者は「Bもいろいろなものを背負っているのです」などとまことしやかにつぶやいていましたが、そこに私は「生徒目線で寄り添うのは善」という「お子様教」の所在を感じました。はっきり言えば、偽善を感じました。
「お子様教」が、戦後民主主義における平等原理主義の産物である、という側面を是認していただけるのであれば、私が申し上げたいことが、soichi2011さんに伝わるのではないかと愚考する次第です。
2012/08/11 18:32
Commented by soichi2011 さん
さっそくのお返事、ありがとうございます。
今何が必要かの愚見には、基本的に賛成してくださっているので、それでいいわけですが、せっかくの機会ですから、もう少し議論をすすめさせてください。
「お子様教が、戦後民主主義における平等原理主義の産物である」というのには賛成できません。「お子様教」の命名者は確か小浜逸郎氏だと思いますが(『学校の現象学のために』)、起源はもっとずっと古いのです。明確に表現されたのは、18世紀ヨーロッパの、ロマン派からでしょう。元祖は何と言ってもルソー「エミール」(1762年)、ということになってますね。それから、子どもは汚れていないから、絶対に善だ、という観念を打ち出したのは、ベルナルダン・ド・サン・ピエール「ポールとヴィルジニー」(1788年)が、管見の限りでは、最初の文学らしいです。それから1900年の、エレン・ケイ「児童の世紀」などがあって、現在に至るまでずっと、「児童中心主義」の教育理念は健在です。
これと、「戦後民主主義」とはけっこう違う、と私は思います。こちらでは、仰る通り、平等はとても大事でしょう。一方、児童中心主義教育を信奉する人々は、本当の意味では「大人と子どもは平等だ」なんて思っていません。
だって、そうでしょう。例えば美津島さんと私とは、大人として、対等ですわな。その私が美津島さんに向かって、「なんだこの野郎、云々」と、とても失礼なことを口走ったとします。美津島さんが、聖人君子並に心の寛い人だとしたら、「由紀草一もいろいろなものを背負っているのだろうな」と同情してくださるかも知れない。でも、それを「当然のこと」として要求するなんて、できませんわな。相手が子どもとなると、教師には、そのような配慮を当然のように要求するというのは、つまり子どもは大人と対等な存在だとは考えられていないのですよ。
「自由平等」の理念から、例えば学校の制服に反対した人もいましたが、その活動が目立ったのは、もう二十年以上昔です。今でもそういう人はいるのでしょう。が、もっとずっと教師を悩ませているのは、「民主主義」も「自由平等」も関係ない、自分の子どもは特別なんだから、特別に面倒を見てくれ、と、あられもなく要求する親たちです。
今日はこのへんで。美津島さんがおいやでなければ、あともう少しやりましょう。
2012/08/13 23:33
Commented by 美津島明 さん
To soichi2011さん
上への返事は「教育問題と戦後民主主義と日教組 soichi2011さんへの返事」というタイトルで、ブログエントリー92として投稿しました。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/6018fe3b4272cc174490daf9af05fcb6
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