美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

藤圭子よ、さようなら  (イザ!ブログ 2013・8・24 掲載)

2013年12月19日 08時58分07秒 | 音楽
藤圭子よ、さようなら



藤圭子が死んだ。住んでいたマンションの13階からの飛び降り自殺だそうだ。享年六二歳。ショックではない、と言えば嘘になる。60年代の終わりから70年代のはじめにかけて、彼女は、その美少女然とした風貌とドスの効いたハスキーヴォイスとのギャップのある取り合わせで一世を風靡した。ジャーナリスティックな言い方に従えば、60年安保を象徴するのが西田佐知子の『アカシヤの雨がやむとき』(60年)なら、70年安保を象徴するのは藤圭子の『圭子の夢は夜ひらく』(70年)である、とされる。その前年に発表された『新宿の女』と当曲とが彼女の代表作と言っていいだろう。

彼女が人気の絶頂期のころ、私は広島県の江田島に住んでいて小学校六年生だった。そのことははっきりと覚えている。なぜなら、私は彼女の大ファンだったからだ。私は、「この世にこんな綺麗な女(ひと)がいるのか」と信じがたい思いを抱きながら、白いジャケットと白いパンタロンのコスチュームを身にまとった痩身で黒髪の彼女が一点を見つめて歌う姿が映るテレビの画面を固唾を呑むようにして観ていたのだった。歌い終えた彼女の視線はどこか定まらずにおどおどしているような風情があって、これがまたこちらを落ち着かない気分にさせるのだった。子どもながらに、どうやら男としての庇護本能のようなものが働いたらしいのだ。ファン心理なるものがあくまでも倒錯的であることが、この一事からも知れよう。要するに私は、マセガキだったのだろう。ちなみにその仕草が、孤独に傾斜しがちな彼女の心を物語っているものであることに気づいたのは、ずいぶん後のことだった。

ちょうどそのころ、私は、『長崎は今日も雨だった』のクール・ファイブも大好きだった。前川清の特徴のある節回しをマスターしようと思って、『噂の女』(70年)を、歌詞の意味などまったくわからぬまま、顔を真っ赤にしながら一生懸命に唸って何度も練習したのを覚えている。それを小耳にはさみながらも私を小馬鹿にしなかった母はなかなか偉かったとしか言いようがない。

その大好きだった前川清と藤圭子とが1971年に結婚したのには、びっくりするやら嬉しいやらだった。マセガキ連中の間でも、それはかなり話題になったような記憶がある。そのころ流行っていたのは、たしか『京都から博多まで』(72年)だったのではなかったか。ところが、翌年に二人はあっけなく離婚した。われわれマセガキは、なんとなくシュンとしたものだった。後年の藤圭子が、『だってあの人、鯉ばかり眺めていて、私のことカマってくれなかったんだもの。ふたりとも、まだ大人に成りきっていなかったってことだったんでしょうねぇ』という意味のことを言っているのを、週刊誌のインタビュー記事で読んだ記憶がある。

藤圭子にまつわる記憶は、そこから一気に1979年、すなわち私が大学一年生のころに飛ぶ。所属していた文芸サークルの一年先輩のGさんが大の藤圭子ファンで、彼から、今度藤圭子の引退記念コンサートがあるのだが、自分一人では行きにくいので一緒に行かないかと誘われたのだった。おそらく私も彼女のファンだという意味のことを彼に伝えたのだろうと思う。二つ返事というほどではなかったが、喜んで行くことに決めた。

そのコンサートの詳細については忘れてしまった。一世を風靡した歌手のコンサートにしては、ずいぶんと客の入りの少ないわびしいものだったという印象が残っているばかりである。それと、第2部の時代劇で観た彼女のお姫様姿がとても美しかったことと、その芝居ぶりがお世辞にも上手とは言えなかったのもなんとなく覚えている。それくらいである。歌の印象がまるで残っていない。

藤圭子についての私の記憶らしい記憶はそこまでである。宇多田ヒカルの母としての彼女や、結婚と離婚とを何度も繰り返した宇多田照實(てるざね)氏の妻としての彼女に、私はほとんど興味を持てない。私は、歌手としての藤圭子のファンに過ぎなかったのだから。

彼女がなぜ死んだのか。そんなことはどうでもいい。テレビは下劣な穿鑿(せんさく)をほどほどのところでやめてほしい。彼女は彼女なりにギリギリのところまで生きて、それでどうしてもだめだったんだから、もういいじゃないか。そっとしておいてやれよ。そう思うと、なんだか辛くなってくる。

一曲、彼女の歌を紹介しておこう。美空ひばりの『みだれ髪』のカヴァーである。彼女が中年になって復帰と引退とを不安定に繰り返していたときのワン・シーンといった趣か。ちょっとした軽いバラエティ番組に出演したときに、なにげなくひょいと歌って、そのあまりの見事な出来栄えに、まわりの出演者たちが度肝を抜かれ、歌い終えた彼女がひょこひょこ戻ってくるのを心からの拍手で暖かく迎えているのが印象的だ。「見えぬ心を照らしておくれ」というフレーズが頭にこびりついてついてしまうのは、仕方がないことだろう。

藤圭子♥追悼:みだれ髪


藤圭子よ、さようなら。

〔追加〕

*藤圭子の『港町ブルース』も、なかなかのものです。

藤圭子♥港町ブルース
〔追記〕

八代亜紀の『舟歌』のカヴァーを見つけました。完全に自分のものにしています。無名時代に流しをやっていた経験が生きているのでしょう。

藤圭子♥舟唄
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呉善花氏、チャンネル桜出演  (イザ!ブログ 2013・8・21 掲載)

2013年12月19日 08時30分53秒 | 外交
呉善花氏、チャンネル桜出演

韓国出身の評論家で拓殖大国際学部教授の呉善花氏(56)=日本国籍=が韓国への入国を拒否され、日本に引き返したことは、先月の二八日にお伝えしました。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/c03e3b4be3114411215830bda4997405

その呉氏が、その翌日にチャンネル桜に出演し、その詳細について語っている動画を見つけましたので、アップしておきます。

呉氏のお話を聞いていて思ったこと、感じたことをいくつか述べておきます。

まず、これは、二八日のブログにおいても半ば以上申し上げていたことです。呉氏が、今回の韓国の振る舞いに対して怒っているのは当然のことですが、そこには、それと同じくらいに国を愛するがゆえの憂憤の情が感じられるということです。「こんな馬鹿なことをしているうちは、韓国はいつまで経っても近代国家にはなれない」という思いが感じられるのですね。言葉にすれば、そういう冷静なものになるのですが、そこには韓民族特有の激情がからんでいます。私はそこにとても惹かれるものを感じてしまいます。

次に、日本のメディアの対応について。入国拒否の理由は、呉氏本人に対してまったく告げられなかったのにも関わらず、当局は、日本のメディア向けには「理由は本人にしか告げられない」と嘘の情報を流しています。NHKなどの日本のメディアは、本人から情報の裏をとらないで、韓国当局の言葉をそのまま流しました。韓国当局もとんでもないですが、日本のメディアも取材のイロハを踏まえぬ拙劣な報道ぶりを反省すべきでしょう。

さらには、この事件を大きく取り上げようとしない日本のメディアの人権感覚の鈍さ、媚韓ぶりは、相変わらずとはいえ、根深い大きな問題点です。何をやっているのでしょうか。大手マスコミの連中は高給取りなんだから、それ相応の仕事をしなさいな。情けなさすぎます。

また、今回の、韓国の(おそらくは)国がかりの呉氏に対する暴力的な振る舞いを批判する自国のメディアがまったくない状況には、こちらをゾッとさせるものがあります。韓国の「反日という病い」は、「膏肓に入る」段階が相当に進んでいるようです。呉氏は、その病の危うさに警鐘を鳴らし続けている真の愛国者なのです。韓国がそのことを理解する日は来るのでしょうか。

最後に。私は、こういうことをきちんと伝えようとするメディアがほかにないから、チャンネル桜のソースを使っているだけです。その振る舞いを、「右翼」と蔑称されるのは、本当に心外です。チャンネル桜が取り上げようとする素材のレベルくらいのことなら、イギリスのBBCやアメリカのCNNなどは毎日のようにごく普通に取り上げています。日本のメディアのスタンダードがおかしいのです。というより、日本のマスコミは、あまりにもタブーが多すぎます。まるで、料簡の狭いムラの住民のようです。それくらいのことが分からない視界狭窄のお馬鹿さんは、私が取り上げる情報のベースをあげつらうことができないことをまずは肝に銘じ、次に、先進国のマスコミのスタンダードを学習すべきです。とくに、中途半端な、いわゆる「リベラルな読書人」連中がそうです。ただの馬鹿のくせにお利口さんと自分のことを勘違いしているのは、見ていられません。私は、彼らのような存在に対して、ささやかな言論人の端くれとしてではありますが、強い否定の感情しか抱いていません。これは、公人と私人とを問わない話です。アメリカの懐のなかで暴れるふりをすることが、あたかもなにか意味のあることであるかのような中学生レベルの錯覚を(利用)している連中が、私は嫌で嫌でたまらないのです。甘ったれるよなって。その程度の感情のレベルで、右だ左だと色分けされた日にゃあ、たまったもんではありませんわ。


【ファシスト国家】人権蹂躙!韓国の呉善花氏入国拒否問題[桜H25/7/29]

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玉音放送  (イザ!ブログ 2013・8・18 掲載)

2013年12月19日 08時20分34秒 | 歴史
玉音放送

玉音放送


玉音放送は、1945年(昭和二〇年)八月一五日正午に、全国民にラジオを通じて届けられました。昭和天皇みずから、大東亜戦争における日本の降伏を国民に伝えるものでありました。日本国民は、当戦争へのそれぞれの関わり方が異なるのに応じて、それの受けとめ方にいささかのニュアンスの違いが当然のことながらあったでしょうが、それを厳粛な心持ちで受けとめる姿勢において共通するものがあったこともまた事実だったのではないか、と私は思っています。

私はこれまで、その全文を読んだことなら何度かありました。しかし、音声で全体を通して聞いたことはありませんでした。

今回心静かに通して聴いてみてあらためて思ったのは、この玉音放送には昭和天皇の、国民のこれからの茨の歩みを共苦の念で受けとめようとする万感の思いが込められていること、また、そういう避けようのない経緯が、六八年の時空を隔てたところにいて、なおかつ戦争の「せ」の字さえ知らない私ごとき者の胸にも迫るものをもたらしている、ということです。特に「今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス。爾(なんじ)臣民ノ衷情(ちゅうじょう)モ朕(ちん)善ク之ヲ知ル。然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」の箇所にさしかかると、どうしようもなくこみ上げてくるものがあります。天皇陛下ご自身も、ここで図らずも乱れがちになりそうな語気をようやくのことで抑制しているような趣があります。その心中は、心ある国民にじかに伝わったことでしょう。ここで、国民と天皇とは確かに心をひとつにしたのでした。その意味でこの肉声は、やはり戦後史の原点に位置するものなのです。そのことは、何度でも肝に銘じられてしかるべきであると考えます。

東郷茂徳の『時代の一面』に、いま述べたことに深く関わる記述があります。そっくりそのまま掲げておきましょう。一九四五年八月十四日、鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾の最終確認をするための御前会議を開きました。陸軍大臣がそれに対する反対意見を述べた後、天皇は次のように発言します。

そこで陛下は、《この前(八月九日の御前会議のことを指している――引用者注)「ポツダム」宣言を受諾する旨決意せるは軽々に為せるにあらず、内外の情勢殊(こと)に戦局の推移に鑑みて決意せるものなり、右は今に至るも変わることなし、今次回答につき色々議論ある由なるも、自分は先方(連合軍諸国のこと――引用者注)は大体に於(お)いてこれ(国体の護持を条件に降伏するという当方の意向を指している――引用者注)を容れたりと認む、第四項に就いては外相(東郷茂徳のこと――引用者注)の云う通り、日本の国体を先方が毀損せんとする意図を持ちおるものとは考えられず、なおこのさい戦局を収拾せざるに於いては、国体を破壊すると共に民族も絶滅することになると思う。故にこの際は難きを忍んでこれを受諾し、国家を国家として残し、また国民の艱(かん)苦を緩(やわら)げたしと思う、皆その気持ちになりてやって貰いたい、なお自分の意思あるところを明らかにするために勅語を用意せよ、今陸海軍大臣(陸軍大臣・阿南惟幾、海軍大臣・米内光政――引用者注)より聴くところによれば、陸海軍内に異論ある由なるが、これらにも良く判らせるよう致せ》との仰せであった。

このくだりから、閣僚たちに向かって吐露された天皇の真情がほとんどそのまま終戦の詔勅に盛り込まれたことが分かるでしょう。

天皇の真情に接した閣僚たちの様子を、本書は次のように伝えている。

一同はこの条理を尽くした有難い御言葉を拝し、かつまた御心中を察して嗚咽、慟哭した。誠に感激このうえもなき場面であった。退出の途次長い地下道、自動車の中、閣議室に於いても凡(すべ)ての人が思い思いに泪を新たにした。

閣僚たちは、天皇の発言をやみくもに有り難がっているのではありません。「自分はどうなってもよい。我が身を挺してでも、これ以上の戦禍は食い止めたい」という天皇の言外の思いに触れて、感極まっているのです。東郷茂徳は、そのときの自分自身の思いにも触れます。

今日なおその時を想うと、はっきりした場面が眼の前に浮かび泪が自ずとにじみ出る。日本の将来は無窮であるが、ここに今次戦争を終了に導き日本の苦悩を和らげ数百万の人命を至幸とし、自分の仕事はあれで畢(おわ)った、これから先自分はどうなっても差支えないとの気持がまた甦る。

終戦の詔勅には、このように、天皇をめぐる迫真のドラマが織り込まれているのです。



〈コメント〉

☆Commented by hasimoto214take さん
「宰相鈴木貫太郎」(小堀圭一朗)では
この場面が大変印象的に語られている.
同時に, どうしてこのような結末に
陥ったのかと思う.

上の本では近衛文麿が訳知り顔にニヤニヤ
している記述が幾度か自伝から引用される.

鈴木首相は自伝には直接には述べていないもの,
誰が責任者と考えていたかは推測できる.
(小堀圭一朗の考えはもっと直接的だが.)

いわゆる「昭和史家」には近衛文麿が
やった事・やらなかった事をきっちりと
研究して欲しいのだ.

中川八洋は厳しく批判しているが,
彼の本は書店には中々現れない運命である.
近衛文麿批判には, 敗戦時に利益を得た者達と
日本史における藤原一族の力が壁になって
いると推測される. 中川は山本五十六も
批判するが, これも敗戦受益者と水交会の
圧力があって評価されていないようだ.

山本五十六には様々な評価はあるが,
彼の真珠湾攻撃で日本が国民国家として
策定してきた南方進攻計画が最初から
狂ったのは事実である. 彼には南方で
戦死/餓死/病死/水死した陸軍兵士に
直接の責任があると思う.


☆Commented by 美津島明 さん
To hasimoto214takeさん

私が暗い方面のことをいろいろと教えていただいて、ありがとうございます。私があらためて玉音放送に着目したのは、長谷川三千子氏が最近上梓なさった『神やぶれたまわず』(中央公論社)を読んだのが直接のきっかけです。この印象的なタイトルは、折口信夫が敗戦日本を目の当たりにして作った「神 やぶれたまふ」への反歌という意味合いが込められています。「折口さん、あなたがおっしゃるようには、神は敗れてはいません。八月十五日の玉音放送を聴いたとき、心ある国民にひそやかに、人類史的な意味での神学的な奇跡が起こったのです」という強烈なメッセージが、本書には込められています。それに心動かされて、あらためて玉音放送に耳を傾けてみた、ということなのです。
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小浜逸郎氏ブログ「ことばの闘い」新連載 のおすすめ (イザ!ブログ 2013・8・17 掲載)

2013年12月19日 08時07分44秒 | ブログ主人より
小浜逸郎氏ブログ「ことばの闘い」新連載 のおすすめ 

当ブログ執筆陣のお一人の小浜逸郎氏が、昨日ご自身のブログ「ことばの闘い」において新連載をスタートさせました。タイトルは「これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド」
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/60c239568a95aa9c39fb969f1a5885dd

六〇代の方々のジャズに関する知識の多くは、彼らにとっては常識であっても、それより下の世代にとっては、耳新しいことだらけです。というより、私たち後続の世代にとって、端的に言えばジャズは単なる知識ではありえても、それを超えるものであることはかなり難しい。ところが、少なからざる六〇代の方々にとって、ジャズはどうやらおのずからなる世代体験あるいは時代体験と呼びうる要素が色濃いように感じられるのです。どうやら彼らは、アノ曲コノ曲を聴くと、思い出のアノ場面コノ場面が、おのずと浮かび上がってくるようなのです。特に小浜氏のジャズ話を身近なところで聞いていると、そういう印象が残るのですね。その点、私にとってのロックミュージックに似ています。

つまり、彼らが語るジャズの蘊蓄は、オタク的なそれではなく、血の通ったそれである。そこを後続の世代がしっかりと受けとめれば、おそらく、聴き慣れたジャズのアノ曲コノ曲が、新鮮な響きを伴って、私たちの耳に入ってくるはずです。それは、ちょっと大げさに言えば、文化を継承することのひとつの姿であると思われます。

その意味で私は、当シリーズの登場をとても喜んでいる者のひとりです。ご本人からは、「まあ、そう肩肘張らずに読んでください」と言われてしまいそうですが。

執筆者の小浜氏は、個人的な体験を普遍の相のもとに語ることがとても上手な書き手です。その書き手としての強みが、当連載において遺憾なく発揮されるのではないかと、私は期待しています。


*当シリーズは、その後順調に継続されています。すでに8回分アップされました。次回は、いよいよコルトレーンに触れるそうです。(2013・12・19 記す)
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「路地裏のスーパー・スター」F君のこと  ―――わが青春の恥のかき捨ての記  (イザ! 2013・8・6 掲載)

2013年12月19日 07時47分01秒 | 文学
「路地裏のスーパー・スター」F君のこと  

―――わが青春の恥のかき捨ての記


                                
青年のころ多少なりとも(人によってはフル・ボリュームで)傲慢なところがあった自分に思い当たる人は少なくないだろう。むろん、私もそうだった。

そうして、やがてはそのおごりの鼻っ柱をボキッとへし折る強力な存在が目の前に現れることも、共通する体験なのではないかと思われる。ちなみに、いい年をしていながらなおも傲慢なのは、人生経験からなにも学ばなかったうすのろ野郎か精神病理的な意味での同情すべきボーダーおやじのどちらかであるとは思うが。

ズドンと脳天を直撃する、そういういかづちのような存在を、私は「天才」と称したい。私はこれまでに二人のそういう意味での天才に出会った。そうして、かけがえのない一人の「天才くずれ」に。

二人の天才については、別のところ(拙著『にゃおんのきょうふ』)に書いたことがあるので、ここでは一人の「天才くずれ」について話そう。

彼に出会ったのは、大学時代のことだった。場所は、高円寺駅から歩いて五・六分の、迷路のような路地裏の一角にある、真冬でもゴキブリの徘徊が途絶えたことのない、とある居酒屋だった。彼の名をF君としよう。色白の細面で、広い額のちょっと下にあるクリッとした大きな目が特徴的だった。二枚目と呼ぶにはあまりにも飄逸(ひょういつ)であったし、かといって、三枚目と呼ぶにはあまりにもシリアスで一徹なところのある男だった。誤解を恐れずにいえば、ひょっとこを最高にカッコよくした風貌が、F君のそれであった。

そのとき、私は、高校時代からの友人二人と、一人の女性とF君との五人で飲んでいた。ちなみに、といおうか、なんといおうか、その女性は、あまりきれいではなかったような気がする。その後何度も彼女を交えてザコ寝をしたことがあったのだが、こちらが、ついにその気になることはなかった。むろん、彼女に言わせれば「それはお互いさま」ということになるのだろうが。

私以外の四人の共通項は、小劇場の役者さんをやっている、あるいは、やっていたということだった。そんな事情があって、酒量がかさんできたところで、小劇場の反商業主義は是か非か、というテーマで議論が先鋭化してきた。彼らは、商業演劇を目の敵にしながらも、いまひとつ自己満足の域を脱し得ない小劇場にも問題があると思っていたのである。その錯綜した議論が沸点に達したところで、F君がついに「咆えた」。なんといって咆えたのか、どうしても思い出せないのだが、そのだみ声の怒声が、同年代のそれとは思えないくらいの、熟成した芸域に達するものだったことは、ちゃんと覚えている。理屈抜きに他を圧する迫力があったのだ。「マディ・ウォータースなんかにゃ負けないぜ」と啖呵を切って、かつてのシカゴ・ブルース・シーンで咆え続けたハウリン・ウルフに負けないくらいのカッコいい咆え方だった。

F君は、それに味を占めたのか、あるいは酒を飲んだときの単なる癖なのか、その後ことあるごとによく咆えた。つまり、われわれ五人の矯激な宴は、その後も懲りずに続けられた、ということだ。いまから思えば、さきほど触れた女性がF君にぞっこんだったことが、宴の開催の継続に実のところ少なからず「貢献」していたような気がする。彼女の「F君、カッコいい」というやや唐突で充分に不自然な合いの手を、われわれはシラケながらも許容したのだった(われわれはそのくらいの優しさだったら持ち合わせていたのだ)。だから、彼女のそんな振る舞いが、われわれの共同意識の俎上に、ある種の違和感を帯びた主題として載ることはなかった。もっとも、その女性からそんなふうに言われて、F君が個人的にまんざらでもなかったのかどうかは余人にはうかがい知れないが。ついでながら、後に、F君がその女性と韓国旅行に行ったことが「発覚」した。当然のことながら、われわれの関心は男女としてのそういうことが彼らの間にあったのかどうかという一点にしぼられることになった。そこには、Fよ、お前はこんなブスと寝るほどに性的に飢えていたのか、と彼をなじる気分が紛れこんでいたことは認めなければなるまい。ところが、搦め手からじわじわと追い詰められたF君は、俄然カッと目を見開いたまま、微動だにしなくなった。だから、残念ながらそれはついに解明されることはなかった。そんなわけで、その真偽は、われわれにとっていわば「永遠の謎」と相成ったのだった。

話をもどそう。会って飲み始めてしばらくすると、われわれは、必ずと言っていいくらい、小劇場の反商業主義は是か非かというテーマに話が及び、それをめぐってやおら沸点に達し、F君の「咆え」でエンディングを迎えた。五人で、あまり売れそうにもないハード・ロックの様式美を築き上げたようなものだった。コンサート・ホールは、いつも「ゴキブリ」の居酒屋だった。一番目立つリード・ボーカルの役を演じたのは、もちろん、F君だった。ちなみに、私は、ほかのプレイヤーの演奏を引き立てるためにタンバリンを叩く役割を演じるのがせいぜい、という存在で、なかなかソロ・パートを演じるまでには至らないのだった。思えば、当時はLPレコードの中の一〇分以上のドラム・ソロが興奮を伴って歓迎されるという、無意味に過剰なことが不思議なくらいにもてはやされる時代であった。

飲みの席での、怒声の響きわたる場に参画しているときの倒錯的な快感がいかなるものであったのか。今の若い人たちにそれをうまく伝えることができるかどうか、ちょっと自信がないのだが、音楽におけるノイズがある種の精神的強度を獲得すると、たんなるノイズではなくなって、いわゆる音階を超えたもうひとつの音階になるような感じである、といえばお分かりいただけるだろうか。まあ、ろくなものでないことはいうまでもないのだが。

とはいうものの、なにもここで、F君を「咆え」の天才として称揚するつもりなのではない。それでは天才としてあまりにもマイナーすぎるし、そんなふうに褒められたとしても、当人はちっとも嬉しくないだろう。くしゃみを連発するくらいが落ちである。

私が、彼の秀逸なところとして触れたいと思っているのは、彼の、役者さんとしての演技のことである。F君の演技を目の当たりにしたのは、大学生のときではなく、社会人になってからであった。あるいは学生のときも目にしたのかもしれないが、それは記憶から飛んでしまっている。確か、彼から何度か招待券をもらったような気はするのだけれど。

その演技には、ひとつのパターンがあった。彼はどの芝居においても必ずと言っていいくらいに副主人公の役を演じていた。そして、そういう役柄でなければ表現できないペーソスを、彼はよく表現しえていた。いや、その逆である。彼独特の役者としての持ち味であるペーソスを表現するには、どうしても副主人公というポジションが必要なのであった。そういう意味では彼は、いわゆる器用な役者さんではなかった。なにせ、彼は役者さんとしての体質上の制約から、主人公を演じることができなかったのだから。

彼は、いつもヒロイン役の美少女に片思いをする役を演じていた。次に述べるのは、そういうお芝居のなかの記憶に残ったひとつである。残念ながら、題名は忘れてしまった。

ヒロインは彼の好意を受けとめはするが、その好意は、兄の妹に対するそれとして受けとめられる。そういう受けとめられ方を、彼は穏やかな諦念と一抹の寂しさを噛み締めながら受入れようとする。やがて、自分の命と引き換えに彼女を守らなければならない局面を迎えることになる。彼は、自分の命の炎が消えていく気配を彼女に悟られないようにしながら、彼女を守ろうとする。やがて、この世に悲しみをもたらすパンドラの箱をそっと包み隠すようにして、彼の姿は暗闇に消える。スポット・ライトには、ヒロインの一人ぼっちの姿が浮かび上がる。彼の命がこの世から消え失せたことに気づかないヒロインは、小声でいぶかしげに彼の名を呼び続ける。彼は、ヒロインのことを心から愛していたのだ。亡くなった彼の真摯な思いが、観客の胸に染み透る。私は、彼のそんな演技に思わず目頭を押さえるのだった。

彼の演技は、いわゆるプロの目にはたいしたものに映らないような気がする。その独特の不器用さが、通常は、評価される上での小さくはないマイナス・ポイントになるのではないだろうか。シロウトくさいとかぎこちないとかなんとかいうわけである。

しかし、彼のその独特の、微妙に不器用なところのある演技は――今から思えば、ということなのであるが――私たちの世代(五〇代半ば)の、言葉で表し難い哀しみや想いを繊細に絶妙にその身体性において表現しえていたのだった。そうであったからこそ、私は不意打ちを喰うような状態で目頭を熱くすることになったのだろう(そこに、「Fよ、負けたぜ」と舌打ちする自分がいたことも正直に白状しておこう)。その表現の微細さは、当時において、プロのすれっからしの目からは、こぼれるほかなかったのだ。しかし、F君はそのとき、時代の感性の襞にそっと分け入ることのできる、天才的な演技者の少なくとも一人だったのだ。掛け値なしに今ではそう思う。飲めば咆えるしか能がなかったF君は、役者としては実に繊細な男だった。

では、彼は天才だった、と私は断言できるだろうか。それにきちんと答えるのはとてもむずかしい。なぜなら、彼をめぐる記憶には、わが青春のおごりと錯乱と内なる怒号とが刻み込まれているからだ。要するに、いまだに冷静な判断をすることがむずかしいのである。

彼には、「天才くずれ」の称号こそがむしろふさわしい気がする。彼は、「ただの人」というにはあまりにも過剰であり、かといって、「才能のかたまり」というには、どこかこっけいなところのある、かつての私たちのシンボル、つまり「路地裏のスーパー・スター」だったのだから。

それにしても、ロックバンドのメンバーにたとえれば、タンバリンを叩くだけのような冴えない役割を演じ続けながら、よくも飽きなかったものだと、三〇数年前の自分を振り返っていまさらながらあきれ返っている。思えば、われわれが若いころには、当人たちとしてみれば十分にシラケているつもりだったものの、まだ青春なるものが存在していたのだろう。むろん、そんなろくでもないものは二度と体験したくはない。当時を振り返ると――残念ながら――懐旧の念より、むしろ焦げつくような救いがたい思いがぶり返してくる。だがそれは、青春なるものが存在していたことの裏返された証しなのだろう。青春とは、無駄なことの過剰で無償な蕩尽である、と格言めいたことを言ってとりあえずシメておこう。

ところで、ひとつつけ加えておきたい。私たちが繰り広げた「ロックコンサート」のような乱痴気騒ぎのちいさな舞台となった「ゴキブリの居酒屋」のことである。つい最近、不意に里心がついて、高円寺界隈をうろつき回り、件(くだん)の居酒屋を探してみた。ところが、いくら探してもそれらしいお店は見つからなかった。それらしい場所には、三階建てのマンションがあるばかり。オヤジさんにひとこと「あの頃の馬鹿な自分たちを優しく見守ってくださってありがとうございました」とお礼が言いたかったのだ。どうやら、その機会を永遠に失ってしまったようである。
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