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マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

思いやり予算

2010年07月25日 | ア行
 日米の外務・防衛当局は(2010年07月)22日、在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)見直し協議を防衛省で開き、日本側は基地従業員の給与や光熱水費などの削減を求めた。だが、見直しの具体的な内容には米側だけでなく基地の地元自治体からも反対があり、調整ば難航しそうだ。

 思いやり予算は、在日米軍は日本防衛に当たっており、駐留に関する資金的な負担を日本側が一定程度負うべきだとの考えに基づいている。1978年に米国の財政状況悪化や日本の物価・賃金上昇から、日本への負担増の要求が強まったのを受けて始まった。当時の金丸信防衛庁長官が「思いやりをもって対処すべき問題」と発言したのが名前の由来だ。

 当初は基地従業員の福利費だけだったが、光熱水費や施設整備費などに拡大していった。1999年度の2756億円をピークに、ここ10年間は施設整備が行き届いたことや日本の財政状況悪化などから、年々減っている。民主党は野党時代から光熱水費や施設整備費の内訳が不透明だなどとして、負担を疑問視していた。

 見直し協議は2月にいったん始まったが、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設交渉や参院選で約5ヵ月中断。関連の特別協定が来年3月で期限切れとなるため、早期再開の必要があった。

 見直しの主な対象は、①特別協定に基づく基地従業員の基本給や光熱水費など1395億円、②同協定以外の施設整備費や従業員の福利費など486億円──の計1881億円(金額はいずれも今年度予算)。23日までの今回協議では交渉スケジュールなどを話し合う。

 日本側は「まず米軍施設内にあるボウリング場などの従業員の給与負担を見直す」(外務省幹部)として、娯楽関連の従業員数を減らすよう求めていく方針だ。日本は基地従業員の給与について2万3055人を上限に負担。上限を引き下げれば、米側は超過分の人数の給与負担を迫られるため、反対しているという。また、米軍の従業員給与は基地周辺の給与水準を上回っている、という指摘も沖縄などで出ており、水準の見直しも議題となりそうだ。

 ただ、給与や雇用の削減には、米側だけでなく、全駐留軍労働組合や基地を抱える自治体も反対。仲井真弘多・沖縄県知事らは22日、仙谷由人骨房長官らをたずね、「(基地従業員に)雇用不安を与えることのないよう適切な労務管理を図ること」として、暗に維持を求める要望書を手渡した。

 光熱水費については、前回改定時は日本側が段階的全廃を求めたのに対し、米側はイラク戦争の戦費増などを理由に反対。日本側は今回も一定額の削減を求めるが、米側は抵抗しそうだ。一方、米側は思いやり予算の枠外で日本が負担している「施設の(土地の)借料」について、周辺の土地よりも高額に設定されているとして、削減に関心を寄せている。借料を減らせば米軍関連経費の総額を圧縮でき、日本の世論にアピール出来るとの考えだ。しかし、日本側には、地主の理解が得られなければ土地を借りられなくなるとの懸念がある。

 日本側は年末までに米側と協定の改定案に合意し、通常国会冒頭で改定案の承認を得たい考えだが、衆参の「ねじれ」国会でハードルは高い。審議が滞れば、2008年のねじれ国会での前回改定時と同様に期限切れとなる可能性も出てくる。

 (朝日、2010年07月23日。鶴岡正寛)

憶見

2010年07月06日 | ア行
 哲学の分野でドイツ語の die Meinungの訳語として作られた語。

参考

 01、偶然的な考えというのは憶見にほかならない。(ヘーゲル『全集』第18巻 S.29 )

 02、憶見というのは主観的な表象であり、任意の考えであり、「私はこういう風に想像するが他の人は別な風に想像できる」という性質をもった想像である。憶見というのは「私のもの」であって、自己内で普遍的な考えではなく、絶対的に存在している考えではないのである。(ヘーゲル『全集』第18巻 S.30 )

 03、各人が自己の主観性の中で、自分自身の中で、自分の材料で自分の力で作り上げる確信。そのような確信が憶見にほかならない。(ヘーゲル『全集』第18巻 S.31 )

 04、原語は Meinungであるが、これはヘーゲルでは、単に意見や見解を意味するに止まらず、私一個のの主観的な意見あるいは見解のことである。本訳書 321頁のほか、例えばエンチュクロペディーの20節にある次の文章に注意せらるべきである。Was ich nur meine, ist mein; gehort mir als diesem besonderen Individuum an. 〔私が思うだけのことは私のものであり、この特殊な個体としての私に属する〕。したがってマイネ・マイヌングのことで、本訳書では「私念」或いは「つもり」と訳して置いた。(金子武蔵訳『精神の現象学』岩波書店、459頁)

アフォリズム

2010年07月03日 | ア行
アフォリズム(金言、格言、警句)

 01、最初の最も古い真理探究者たちは、自分たちの企てた認識をばアフォリズム、即ち短くしかも断片的で、体系的に結び付けられていない宣言〔言明〕にまとめるのを常とした。自ら学術全体を捉えているような風をしたり、述べたりはしなかったのである。(ベーコン『新機関』桂訳、86節)


犬山の教育(その1)

2010年05月18日 | ア行
 ブログ発行者の注・犬山市で瀬見井教育長が実践した教育改革は画期的なものだったと思いますが、なぜかジャーナリズムは黙殺ないしそれに近い扱いをしてきました。瀬見井氏が退職した今、その成果も徐々に薄れて行くのではないかと危惧されますが、それはともかく、「犬山の教育」についての最良のルポを掲載出来ることになりました。

   犬山の教育──なぜ学力テストを拒否できるのか

               星 徹(ルポライター)


 今年(2008年)4月22日、昨年(07年)に引き続き2回目の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト=全国学テ/文部科学省主催)が行なわれた。全国の小学6年生と中学3年生の原則全員を対象とし、約232万人の児童・生徒が同調査を受けた。調査科目は国語と算数/数学の2教科で、他に生活習慣等に関する調査も行なわれた。全国学力調査は、1960年代初頭にも大きな反対運動を押しきって実施されたが、不正行為や不適切な行為が頻発し、子どもたちへの悪影響も懸念され、64年を最後に中止となった。昨年から始まった新しい全国学テは、43年ぶりの全国学力調査と言える。

今年の全国学テには、昨年同様に愛知県犬山市教育委員会(市教委)以外の全教育委員会(1892教委)が参加し、管理下にある約3万2000校の公立小中学校等で同調査が実施された。参加率は小中学校ともに99.9%を上まわった。国立は157校すべてが参加。私立は全体の約53%にあたる475校が参加したが、昨年の約61%を大きく下回った。調査結果は、9月末までに出される予定。第1回と第2回の経費合計は、約135億円になるという(文部科学省による)。

国への異議申し立て

全国各地で同調査が実施されているころ、犬山市立の小中学校では、通常授業が行なわれていた。

犬山市は愛知県の最北端に位置し、木曽川を境に岐阜県と接し、市北部には国宝犬山城(1537年築城)が鎮座する。犬山駅から名鉄名古屋駅までは急行電車で約30分と、通勤などに便利だ。周囲を見渡すと低い山々が遠く連なるが、市内には平地が多く、田畑や住宅地が広がる。人口は約7万5500人で、市立の小学校が10校、中学校が4校ある。

この日の午前、楽田(がくでん)小学校の6年2組の教室では、学級を2分割した17人の児童で、算数の少人数授業(指導)が行なわれた。犬山市では、習熟度別(学力同質)授業は基本的に行なわない。この授業のめあて(テーマ)は、「立方体の展開図を作ろう」。男女混合の4~5人で机を寄せ合い、女性教諭の説明を真剣に聞いている。

「立方体とは?」 教諭の問いかけに、多くの児童が「はい! はい!」と元気よく手を上げる。指名された男子が「6面すべてが正方形の立体です」と答え、教諭が「そうですね」と言うと、クラスの皆が我がことのように拍手して喜んだ。

 その後、教諭の指示に従い、各グループの皆で相談しながら、方眼紙の上で黄色い正方形のプラスチック片をセロテープで貼り付け、立方体の「展開図」づくりを始めた。「どうやるんだろう?」「こうやってみたら」……。子どもたちはお互いに相談し、助け合いながら作業を進めていく。関係のないことをしたり、手持ちぶさたにしている子は、1人もいない。クラスの皆と協同して学ぶ楽しさのためだろうか、自然に湧き出てくるような笑顔の子が多い。教諭は児童らを見てまわり、「いいわねえ」などと励ます。

 筆者はこの日、この楽田小学校と東小学校のいくつかの授業を見学したが、子どもたちの生き生きとした姿に驚いた。みな朗らかで血色が良く、授業中も休み時間中も笑顔が絶えない。子どもたちは終業のチャイムを気にするでもなく、授業が長引いてもみな勉強に集中し、「もっと勉強を続けていたい」という意欲が伝わってきた。

 犬山市が2年連続で全国学テに参加しなかったことについて、瀬見井(せみい)久教育長(注1)は次のように語る。

 「全国学テは、義務教育の現場に競争原理とそれに基づく評価を持ち込み、本来の学びを歪めてしまう危険性がある。国は本来、少人数学級が可能になるような環境整備を第一に行なうべきなのに、そういった役割を放棄して全国学テを実施している。だから、それはおかしいし、犬山の教育とは相容れない、と問題提起しているのだ。

 子どもたちの学力の保障権限は、地域に密着した市区町村教育委員会こそが持つべきであり、国に持たせてはいけない。全国学テは、国と地方の本来の役割を逆転しようとするものだ」。

 瀬見井氏は、かつて愛知県企画部に長く務め、県経済研究所長だった1997年に石田芳弘(よしひろ)前市長(在任1995~2006年/(注2))によって教育長に「抜擢」され、それ以来、石田市長(当時)と共に「犬山の教育改革」(後述)を主導してきた。そしてその流れの中で、全国学テの参加にも市長と共に反対してきた。

ところが、石田市長が愛知県知事選に立候補(民主党など推薦、惜敗)するために06年11月に市長を辞任し、翌12月に行なわれた市長選で「全国学テ参加」を訴えた田中志典(ゆきのり)氏(自民党が支援)が当選し、新市長に就任した。田中市長は市教委に対して第1回全国学テへの参加を促したが聞き入れられず、昨年3月の市教委定例会では、教育委員5人の全員一致で不参加が決定された。

 その後、市議会は昨年9月、全国学テ不参加を決定した市教委の手続きに関して、市監査委員に監査請求をした。そして11月末、会議等の手続きの一部に規則違反があった、とする監査結果報告が出された。この「報告」に基づき、田中市長は丹羽俊夫教育委員長と瀬見井教育長に辞任要求したが、拒否されている。「監査結果」に対して市教委は、「手続きに問題があるとは考えていない」などと反発し、反論文を今年2月に公表した。

この監査・辞任要求劇と並行して、教育委員計2人の辞任・任期満了に伴い、昨年12月に市長は2人の新教育委員を就任させた(市議会が承認)。その結果、今年2月の市教委定例会では、全国学テ「参加」2人対「不参加」3人の接戦での不参加決定となった。

 また、4月8日の臨時市議会で教育委員1人増員の条例制定案が可決され、市長推薦の市小中学校PTA連合会会長(当時予定)が新委員として承認された。

 さらに今年9月に任期切れとなる中嶋哲彦委員(名古屋大学大学院教授・教育行政学)が再任されずに新委員への交代となれば、来年(09年)は4対2で全国学テに参加決定となる可能性が出てくる(注3)。

 田中市長は、本誌・筆者の取材に対し、全国学テについて次のように語った。

 「私は基本的に参加すべきと考えていているが、固執しているわけではない。犬山市は全国で唯一の不参加なのだから、多くの市民から意見聴取したうえで総合的に判断して決めるべきだ。不参加というだけで、その代わりにどうするかということがなければ、発展性がない」。

 瀬見井教育長は、こういった一連の動きや田中市長の発言に対して、「犬山の教育にとって、全国学テへの参加・不参加は本筋の問題ではない。犬山の教育改革の熟度を高めることこそが本筋だ。マスコミは全国学テをめぐる騒動ばかり取り上げるが、本筋を見てもらいたい。私は、教育委員などをめぐる動きを横目で見ているだけだ」と語った。

犬山の教育改革とは

 それでは、その「本筋」の「犬山の教育改革」とは、どのような理念のもとで推し進められているのか。「犬山の教育の重要施策2008『学びの学校づくり』」(市教委と市小中学校長会が作成)の中で、「犬山のめざす教育」は次のように位置づけられている。

 「犬山の教育は、自ら学ぶ力を柱と位置づけ、人格形成と学力保障をめざす。そのために、学校現場に裁量を委ね、自ら学ぶ力を育むことにより、幅広い人間性と幅広い学力を形成するとともに、教師の資質・能力の向上を図り、学校の活性化を図る」。

 そしてこの「自ら学ぶ力」とは、「子どもが生きる喜びや学ぶ喜びを実感することにより、基礎的な学力を身につけ、生涯にわたって自ら学び続けようとする幅広い学力であり、家族や友達を大事にし、地域を支え、自分の人生を大切にしようとする幅広い人間性である」としている。

瀬見井教育長は、「学校の最も大切な役割は、良い授業を提供することであり、そのためには教師にやる気を起こさせる仕組みが必要だ。教育委員会の最も重要な役割は、教育現場が何を必要としているかを見極め、必要とされる環境づくりをしていくことだ」とし、「子ども同士・教員同士・学校間で競争原理を働かせても、良い結果は得られない」と語る。

 このような理念のもと、2001年度から、制度改革としてまずは市教委の事務局体制を強化していった。新設の主幹・課長・部長の3ポストに教員出身者を市費採用であて、県と市で費用を折半して指導主事も1人増員した。さらに、学校現場と市教委事務局との間で活発に人員交流を進めていった。また、学習指導法を専門とする杉江修治・中京大学教授を01年度から客員指導主幹に迎え、各校で実施する授業研究会などに年間40日程度招き、指導を受けている(注4)。

 そして各校では、「学びの学校づくりをめざす犬山プラン」に基づき、01年度から、学級規模を据え置いたままで、(学級2分割などの)少人数授業やティームティーチング(TT/──授業を複数教員で指導)を、算数(数学)・国語・理科・英語の授業で行なってきた。さらに、03年度からは過大学級解消に努め、現在ではほとんどの小中学校で少人数学級(30人程度)が実施されるようになった。

これら実現のために、01年度より市採用の非常勤講師(04年度以降は60人前後)を、06年度より常勤講師(08年度は7人)を採用してきた。また、学校経営支援者や校務支援者を採用し、中学校では部活動指導員も配置した。

 学力増進策は、他にも採られている。市内の教員らが協力し合い、02年度から小学生用の副教本(算数・理科・国語)を順次作成し、授業で活用している。また、各校独自の通知表が作られ、04年度からは2学期制も導入されている。

小学校での「学び合い」教育

 今年(08年)5月19日(月)の午後、楽田小学校で、市立小学校の算数(少人数授業)担当の非常勤講師らを対象とする授業づくり研修会が行なわれた。同小学校は、30人前後の学級が各学年に4~5つあり、全児童数は841人だ。

まず、同校4年3組担任の岩田未希教諭により、算数の少人数授業が行なわれた。学級は学力混在で2分割され、14人の児童が対象だ。20人以上の非常勤講師(大半が女性)と楽田小学校の教諭らが、授業を参観した。また、杉江教授(客員指導主幹)も参観した。

子どもたちは、机を向き合わせた3~4人(異質メンバー)の4グループに分かれている。岩田教諭の説明がひと通り終わると、グループごとに小さなホワイトボードが渡され、皆で協力して252÷6を筆算で解いていく。

最初の子がマジックでボードに書き込みながら、「25÷6で4をたてます。どうですか?」と問うと、他の子たちは「いいです」と優しく応える。ボードとマジックは次の子に渡され、「4×6で24です。どうですか?」「いいです」……。このようにリレー学習を続け、お互いに役割を変えて、全員がすべての工程を理解できるようにする。教諭は各グループを見てまわり、「よくできたね」と賞賛したり、支援していく。

あるグループの女の子が、252の下に24を右にずらして書いてしまい、考え込んでしまった。グループの他の子たちはしばらく見守った後、男の子が優しく「ここの書くところが違うんじゃない?」と支援した。女の子は「ああ、そうか」と笑顔で応え、書き直した。まわりの子たちも、うなずいて微笑んだ。

 この授業の指導案は、楽田小学校の4年生の教諭らで議論し合い、協同して作り上げたものだ。その同じ指導案に基づいて、4年生の他の4学級では、各学級担任と非常勤講師によって、前の週に少人数授業が行なわれていた。そして15日(木)の放課後の学年会では、担任(5人)と少人数授業担当講師(1人)などが参加して、お互いの授業体験を語り合った。そこには、授業づくりコーディネーターの千田(せんだ)初子さんも加わった。

 授業づくりコーディネーターとは、教員らの授業づくりを支援・指導する特別職の非常勤職員で、今年度から犬山市教委が採用したものだ。千田さんは今年3月に同校を定年退職となり、授業づくりの実績が認められ、同職に抜擢された唯一の人だ。楽田小学校に所属するが、要請があれば他校でも指導するという。

 同校の長谷川隆司校長は、「経験の浅い教員や非常勤講師らにとっては、大きな支援になる」とし、教員同士の学び合いについては、「各学級の状況が分かる少人数指導担当講師が加わることで、レベルの高いものになってきた」と語った。

 また、千田さんは、「学び合いの授業によって、算数が嫌いな子がいなくなり、みな生き生きと学んでいる。教員同士が協同性を大切にし、高め合っている成果でもある」と筆者に語った。

 この学年会では、「あそこでは、子どもに声に出して言わせた方がいい」「分からない子は、だいたいここでつまずく」……などと意見を出し合った。ひととおり教諭らの意見が出た後、千田さんは意見を述べた。「目と目で通じ合わないと、子どもは分かってくれない」「子どものグループ分けの仕方も大切。その点、○○先生はうまい」……。

 楽田小学校では、主要教科の各単元が始まる前などに、放課後に各学年ごとに担任や非常勤講師らで集まり、月に数回は授業研究を行なっているという。そういった時間の余裕があるのだろうか。

教諭らは口々に言う。「教員みなで協同して授業づくりをしているので、子どもの基礎学力は上がり、学力格差も小さい。だから、保護者からのクレームや無理な要求はほとんどなく、消耗しないで済む」「学び合いの授業の成果だと思うが、学校ではいじめなどの問題行動がとても少ない。だから、生活指導に時間があまりかからない」……。「毎日の仕事はとても忙しい」と教諭らは言うが、みな生き生きしているように見えた。

19日の「研修」授業の後、見学した非常勤講師や楽田小学校の教諭らは各学年ごとの6グループに分かれ、先の授業についてなど、お互いに話し合った。その後、杉江教授は授業で気づいたことをアドバイスし、参加者には「学び合いは人間の学びの本質だ。手法だけでなく、その意味をよく理解して指導してほしい」などと述べた。

研修会終了後、杉江教授は筆者に次のように語った。「大切なのは、少人数授業かどうかよりも、子どもたちが自ら学ぶ力を育むことができるかどうかだ。そのために、学び合いの授業が重要になってくる。そして、それが成功するカギは、教員同士の協同性にある。単なる教え込みの少人数指導では、表面上のテスト学力は少し上がるかもしれないが、自ら学ぶ力につながらず、真の学力は身につかない」。

犬山の教育(その2)

2010年05月18日 | ア行
小学校教育あっての中学校教育

 市立中学校ではどうだろうか。犬山中学校は、各学年とも最大学級が34~37人と、今年度は少人数学級が十分には実現していない。1学年に6~7学級あり、全生徒数は703人だ。

 中学3年の数学の少人数授業(18人)を、間宮明彦教頭とともに見学した。授業のめあては、「因数分解のまとめ」。男女で隣同士で机をつけているが、生徒はみな前方の小川雅章教諭を向いて座っている。教諭は、次々と皆に質問を投げかけ、生徒は自分の考えを発言していく。ある生徒が「○○じゃないかな?」と言うと、他の生徒は「そうだよね」とすぐに応じる。教諭はすぐに答えを教えるのではなく、「△△さんはどう思う?」と議論を活性化させていく。1人の女子生徒が振り向いて、後ろの生徒と話し合っているが、教諭は注意することはない。教頭は筆者に、「雑談ではなく、解き方を学び合っているんです」と教えてくれた。

 授業終了後、小川教諭は筆者に次のように語った。「雑務は多いが、空き時間や休み時間などを利用して、教員同士で授業の進め方などについて話し合っている。生徒たちには小学校での学び合いの蓄積があり、自ら学ぶ意識が身についているので、授業がとてもやりやすい」。

 間宮教頭は、「学校独自の改革を市教委が支援してくれるのが、ありがたい。教員同士の同僚性とやる気を高めるシステムが、整ってきている。もしここに教員評価制度が導入されれば、それらが台無しになる」と語った。

 東部中学校はどうだろうか。同中学校は、30人前後の学級が各学年に4つあり、全生徒数は348人だ。筆者が(1人で)休み時間などに校舎に入ると、生徒たちが次々と明るく「こんにちは!」と挨拶してくる。他の市立小中学校でも、そういった場面に何度も出くわした。

井戸則夫校長は、「市教委が人的支援を手厚くしてくれるので、教員みなで学校づくり・授業づくりができる環境が整ってきた」と語る。生徒の欠席率は全国平均の半分以下で、いじめなどの問題行動も非常に少ないという。こういった傾向は、他の市立小中学校でも共通しているようだ。同校でも、授業指導案づくりや授業自体の検証のために、議論を深めている。5月19日の夜も、数学の授業研究会が行なわれ、14人ほどの正規教員や非常勤講師らが参加したという。

翌20日の午前中、同校の各教諭が作成した授業指導案を杉江教授が批評する勉強会が、4つの時間帯に分けて行なわれた。筆者はその第1回を取材した。

 指導を受けるのは、数学と国語の教諭2人ずつだ。杉江教授は、「単元の見通しを導入でどう示せるかがカギだ。それができれば、生徒は今やっていることの意味が分かり、よく動くようになる」「授業の目的が『~について話し合おう』ではダメだ。『解けるようになろう』『説明できるようになろう』としないと、話し合うこと自体が目的になってしまう」などと指導した。

 杉江教授によるこのような「指導案への指導」や直接の授業指導は、要請があればどの市立小中学校でも行なわれている。各校とも年間3回ほどの機会しかないが、日常の教員同士の学び合いと連動させることにより、授業づくりを大きく進歩させることができるだろう。

これまで紹介したような教員同士の学び合いには、多くの場面で非常勤講師も参加しているが、超過勤務による時間外手当は支給されない。超過分の一部は各学校の裁量で時間調整しているというが、講師らの「やる気」に支えられたサービス残業という面もあり、今後の課題と言えるだろう。ただし、市教委の採用担当者によると、「犬山で非常勤講師としてぜひ教えたい」という意欲ある優秀な人が数多く応募してくるという。

もう1点。子ども同士の学び合いの重要性は意識化され、高いレベルの方法論に基づいた授業実践がなされつつあるが、大人(教員)同士の学び合いのあり方については、その重要性が十分には意識化されていないように思った。杉江教授が子どもへの指導について「『~について話し合おう』ではダメ」と語ったことは、教員同士についても言えるのではないか。


教育行政と一般行政の対立?

 これまで犬山市の義務教育現場の実態を見てきたが、田中市長はどう捉えているのだろうか。市長は、市教委のあり方については「瀬見井教育長のトップダウンであり、独裁だ」と激しく批判するが、ここ7~8年の市内の義務教育については、「改善している。これまで取り組んできたことは良かったのかな、と思っている」と認める。しかし、「第三者機関などによる検証が必要だ」とも言う。

 市立小中学校での少人数授業・少人数学級実現のために、多くの常勤・非常勤講師や学校支援者らが採用され、毎年約1億5000万円が市予算から支出されている。田中市長は07・08年度予算ともこの支出を認めているが、今後も引き続き認めていくのだろうか。「今までやってきたことがダメだという論拠がない限り、認めざるをえない。だから、『検証が必要だ』と言っているのだ。市教委は勝手なことばかりやって、われわれの考えを聞こうとしない。市民が納得するようにやってもらいたい」。そう市長は苦言を呈する。

 石田前市長時代は、一般行政と教育行政は手をたずさえて教育改革を実行してきたが、田中市政になり、「犬山の教育改革」は変質していく可能性はないのか。

瀬見井教育長は、「市長が代わっても、まったく問題ない。これまでどおり予算も認められている。われわれが目指している教育が王道だからだ。私の自信はそこにある」と意に返さない。

犬山市の義務教育は、検証されていないわけではない。東京大学大学院の苅谷剛彦教授らが中心に行なった調査(05年3月)で、犬山の学び合いの授業により学力格差が縮小することなどが明らかにされた(岩波ブックレット『教育改革を評価する──犬山市教育委員会の挑戦』参照)。また、各校の調査などによって、「学校の勉強が楽しい」と感じる子が非常に多いことや、学力の5段階評価で全国平均と比べて1と2が少なく4が多い傾向が顕著で、学力の底上げがなされていることも明らかになっている。

 吉田鋭夫(えつお)市議会議員(無所属・民主党系)は、「これまでの犬山の教育に関する取り組みは、教育現場に根づいており、教員や保護者からの支持は大きい。全国学テに関すること以外は、『犬山の教育』はこれからも変わらないだろう」と語る。

吉田市議は、市内の小中学校の教員を一昨年(06年)まで27年間務め、昨年4月の市議選で初当選した。同市議は、「市議の多くは、犬山の教育改革の実績を高く評価している」とし、昨年12月以降に新たに就任した教育委員らについても、「犬山の教育改革には肯定的だ」と語った。

東京の教育と犬山の教育

 瀬見井教育長は「犬山は義務教育として当然のことをしているだけだ。同じようなことは、どの地域でもできるはずだ」と強調する。財政的に恵まれている都市部の自治体の義務教育現場は、どのような状況だろうか。

 東京都足立区では、区や都の学力テストの実施にからみ、区教委や区立小中学校で不正行為や不適切な行為が昨年(07年)次々と発覚した(『世界』08年2月号の拙稿「学力テスト体制が教育を破壊する」を参照)。

区立小学校5年生担任のA教諭(男性)は、次のように語る。「できれば、他のクラスの担任などと一緒に教材研究をし、授業づくりをしていきたい。しかし、放課後も仕事が山積していて、一緒に集まる時間がとても取れない。校務分掌の仕事や会議・委員会、生徒指導や保護者からの要求への対応、保護者への給食費や教材費などの催促、自身の書類・報告書の作成などがあり、さらに児童から提出されたノートの添削などもある。算数の少人数授業(習熟度別授業が「条件」)担当の非常勤講師は午後3時前には勤務が終わるので、彼らを交えての授業研究はさらに難しい」。

 区立中学校のB教諭(男性)は、「もともと犬山の教育のようなことがやりたくて教員になったのに、それができずに残念だ」と語る。同C教諭(男性)は、「(東京都が採用している)人事考課(教員評価)制度のために、教員は個々ばらばらで同僚性が損なわれ、一緒に授業づくりをしようという雰囲気ではない」と語る。

 同じ東京都の杉並区ではどうだろうか。杉並区立小学校では、今年度(08年度)から1年生と3年生で「30人程度学級」が採用され、来年度(09年度)からは1~4年生にその枠が広げられる予定だという。東京都教育庁地域教育支援部義務教育課は「小中学校で40人学級の枠を崩すことは許されない」と語るが、それはタテマエに過ぎず、杉並区に対しては「30人程度グループ指導」という名称にすることで、「30人程度学級」を事実上容認している。

杉並区では、少人数授業のために都から加配される教員(習熟度別授業が「条件」)の他に、区独自採用の教員(杉並師範館の卒塾生)もいるので、人的に余裕があるという(区教委教育人事企画課)。

少人数授業実施の他に少人数学級の編成へと進む杉並区は、制度的には犬山市教委の取り組みの後追いをしているようにも見えるが、内実はどうだろうか。小学校4年生担任のD教諭(男性)は、「40人学級では児童を指導するには多すぎる。授業もそうだが、生活指導や保護者対応などで消耗し、授業準備の時間もなかなか取れない」とし、「『30人程度学級』自体は一歩前進だが、根本の問題が解決されていない」と言う。

その「根本の問題」とは、①教員同士が協力・協同できるような基盤がないこと、②授業づくり以外の仕事量が多すぎること、③子ども対象のカウンセラー制度などが校内にないこと、だという。そういったことが改善されれば、「精神的にも肉体的にも余裕ができ、教員同士で協力し合って授業づくりもできる」が、①と②に関しては、改善どころかかえって悪化しているという。

またD教諭は、「授業の中で4~5人のグループで学び合いをさせようとしても、なかなか成立しない。個々ばらばらに競争することに慣れていて、『共に学ぶ』という発想のない子が多い」と語る。

足立区や杉並区に代表される「東京都の教育」の基盤には、競争と評価の発想があり、犬山とは根本理念が異なるようだ。先に杉江教授が語ったように、少人数授業を行なっても、自ら学ぶ力を育む教育をしなければ、真の学力は身に付かないのではないか。

                *

 筆者が犬山の義務教育現場を取材して感じたのは、これこそ戦後日本が憲法と教育基本法の理念のもとに追い求めた教育ではないのか、ということだ。義務教育の本来の目的は、子どもたちが基礎的な学力と自ら学ぶ力を身につけ、人格の完成をめざすことだ。しかし、現在はやりの「教育改革」論議では、この本来の目的はないがしろにされ、説明責任のための数値化やそれに基づく評価が主役に躍り出て、それらを説明しやすい部分を目的にすり替えているようだ。

そうした流れの中で、東京の教育現場などでは「教育改革」が推し進められているが、本来の目的が見失われているのではないか。犬山の教育実践と全国学テ不参加宣言は、そういったあり方への異議申し立てでもあるのだ。

【2010年5月時点の(注)】
(注1)2010年10月まで任期があったが、09年10月20日の記者会見で、「政権交代で学力テストも抽出方式に変わり、犬山が目指した教育の流れになりつつある。良い引き際のタイミング」(共同通信)と述べ、翌月辞任した。
(注2)2009年8月の総選挙で衆議院議員(民主党)になった。
(注3)中嶋委員は再任されなかった。全国学テについては、2009年・2010年と続けて参加したが、児童・生徒の答案用紙をすべてコピーし、学校独自に採点して、子どもたちへの指導に生かした。
(注4)財政的理由から、現在はこのための予算は認められず、制度は中断している。しかし現在も、学校予算を利用して杉江教授に指導をお願いしているケースもある。

★ 本稿は、岩波書店『世界』2008年8月号に掲載されたルポ「犬山の教育・なぜ学力テストを拒否できるのか」を基に、筆者自身が加筆・修正したものです。

「This is it」について

2010年02月22日 | ア行
「This is it」についてIさんからご教示をいただきました。まずそれを掲載します。

      

 TVで見聞きした印象ですと、本来、昨夏から今春にかけて英国ロンドンにて開催されるはずであったコンサート公演のタイトルが「This is it」であり、その発表会見の映像において、マイケル氏自身が観衆に向かって「This is it」と繰り返し告げていまして字幕では「これが最後だ」というような翻訳が付けられていました。

 同公演は氏の最後のコンサート興行となる予定でしたので、そういう意味だと想われます。英語(米口語)の慣用句としてそういう言い回しがあるのかと想っていましたが、マイケルの「This is it」について知らなかった、英語に造詣の深い会社の同僚の話しでは、本来そういう使い方はしないというか、違和感があるとの事でした。
以上(詳しい回答が寄せられるまでの)ご参考まで。(2010年02月20日)

   感想

 多分、マイケルは前々から「近く自分の最後の公演をする」とファンに広告していたのでしょう。ですから「マイケルの最後の公演」という観念はファンの頭の中に前々からあったのでしょう。itはその「話者と聞き手との間に共有されている事柄(あれ)」を意味すると思います。この場合はそれが「最後の公演」だったわけです。

 This is itは文としては「これがそれだ」ですが、話の通じている人たちの間ではこれで分かるわけです。

 さて、文法の問題は「主語はどっちか」、です。誰でもThisが主語だと思うでしょうが、英語学の大家・斉藤秀三郎が「That's itではitが主語だ」と言ったために、英文法学界で大騒ぎになったのです。どう決着したのかは知りません。

 関口さんはこの論争を知らなかったようですが、主語について「文法上の主語」と「意味上の主語(事実上の主語)」を分けて考えることを提唱しています。

 私見では、That's it (This is it)の問題もこの関口説によらなければ正しい解決は出来ないと思います。文法上の主語はもちろんThat (This)です。しかし、事実上の主語は場合によります。That's meなどの場合を考えれば分かるでしょう。

 今校正している文法書の中でそう云う事を書いているのですが、もう少し用例がほしいな、と思いました。マイケルのこれは大々的に広告しているので私の目にもとまったのです。ありがとうございます。

 しかし、ネット時代はありがたいですね。こうしてすぐに皆さんの助力が得られるわけですから。コメント欄に投稿をいただいた関口さんの小冊子「真意と諧謔」も結局、千葉大学の図書館のほかに北海道立図書館にも1部あることが分かりました。千葉大は一切持ち出し禁止ですが、こちらは「或る条件を満たす場合は貸し出しもする」ということも分かりました。

 そのうち、最終決着するでしょう。

PS、その後Iさんから再度メールをいただきました。ありがとうございます。論旨は上の通りで変更の必要はないと思いますので、これでアップします。


お知恵拝借(02、This is it)

2010年02月17日 | ア行
 マイケル・ジャクソンとかいう歌手(昨年、亡くなったらしい)は相当有名な方のようですが、私は音痴ですので、ほとんど知りません。しかし、文法研究に必要なことが出てきました。

 最近、その歌手の "This is it"とかいうアルバムか何かが発売されたらしいのですが、そこではそのThis is itという言葉はどういう意味で使われているのですか。誰か教えて下さい。

 前後関係も含めて、Thisが何を指しているか、itが何を指しているか、全体としてどう訳されているか、教えて下さい。(2010年02月17日)



お知恵拝借(01、褒められたものではない)

2010年02月06日 | ア行
 最近、自分では分からない事や知らない事を、ネット上で皆さんにご相談して、ありがたいご教示をいただいた事が何回かありました。これまではマキペディアをほとんど1人で作ってきましたが、この経験から、(今までも、ご意見を拒否するようなことはして来ませんでしたが)明確にお知らせして、皆さんの協力を得て遣って行く方が目的にかなっていると思うようになりました。「お知恵拝借」という題で問題の起きるたびにご意見を伺ってゆくことにしようと思います。コメントはいつでも結構です。

 マキペディアはウィキペディアの限界を感じたから始めたのですが、或る学生は「1人でやるのは時代錯誤だ」と批判してくれました。その後、その学生は、私の志を助けるウェッブ・アーキテクチャーを考えてくれているようです。建設的な態度だと思います。

 又、発行者の主導性を確保した上で、ウィキ的に外部者の協力を得られる枠組みとしてグーグルがknol(多分、クノルと読むのでしょう。knoledgeの最初の4字を取ったのでしょうから、ナルかもしれません)を提供しているようです。ドラエモンについての百科事典「ドラペディア」などはそれを使って作られ、公表されているようです。

 少し調べてみましたが、現在の私の遣り方、つまりジンドゥーを使ったサイト「哲学の広場」をトップとして、その下にブログを配するという組み合わせで、全体として1つの百科事典を作るという方法から乗り換える程ではないと、判断しました。

 しかし、外部の好意ある方々の協力を得る方法は必要なので、上に述べたようなことを組織的に進めることにした次第です。

 第1回として、以下の事を伺いたいと思います。

 日本語のとても好く出来る中国人ジャーナリストの莫邦富(モー・バンフ)さんが朝日紙の土曜日のBeに毎週寄稿しています。内容はもちろん面白いのですが、文法を考えるのに役立つ用例も提供してくれます。

 2010年01月23日の記事の中に「密輸は褒められるものではないが」という句がありました。私の引っかかったのは「褒められる」です。「褒められた」ではないだろうか、と思ったのです。見られたものではない、聞けたものではない、食べられたものではない、等々と言うのだと思います。しかし、これを主張するには用例が必要です。

 学研の国語大辞典を見ますと、「面白いとか面白くないとか云う浮い話じゃない」(漱石、行人)という用例があります。そして、この「た」の説明としては「状態、性質などを表す」とあります。

 しかし、これだけでは用例が不十分です。たいてい受動的な形で使われるのではないかと思いますが、これは自動詞です。「飲めた話じゃない」とも言いますから、自動詞もあるのでしょう。いずれにせよ、もう少し用例を集める必要があります。そこで、皆さんから、こういう表現の用例を教えてほしいというわけです。よろしくお願いします。

 又、この「た」の正体についてもこの説明で十分とは考えにくいです。「状態、性質などを表す」だけなら、モーさんの書いたように「褒められるものではない」でもいいはずです。この点も調べて見たいと思います。何かありましたら、ご教示下さい。

 追加1・「生きる屍」

 2010年02月07日の朝日紙に載った新井満(まん)氏の「談」とされている文章の中に「生きる屍」という句がありました。とっさに、「生きた屍」ではないかな、と思いました。

 辞書で「屍」の項を引いてみますと、新明解にも学研の大辞典にも「生ける屍」しか載っていませんでした。後者で「生ける」を引きますと、文語の4段動詞「生く」の已然形+完了の助動詞「り」の連体形、とありました。

 問題はこの「完了の助動詞」という所だと思います。この文語の感覚があるから、同じような事を口語で言うと「生きた屍」となるのだと思います。(2010年02月08日追記)


医療(医療崩壊)

2010年01月17日 | ア行
        夕張医療センター長、村上智彦

 財政再建団体に転落した北海道夕張市の借金は約630億円。人口は1万2000人です。日本は国債残高が600兆円、人口は1億2000万人ですから、夕張は日本のほぼ1万分の1の縮図ですね。でも、夕張の高齢化率は43%と、日本全体の22%に比べて突出している。もっとも、2050年には全国で40%と見込まれていますから、夕張の現状は40年後の日本の縮図でもあるわけです。

 約40億円の負債を抱えて破綻した市立病院を、2007年04月に公設民営の夕張医療センターとして引き継ぎ、センター長を務めています。171床の病院を19床の診療所に縮小し、高齢者の在宅医療と予防医療を中心に据え、在宅医寮件数は市立病院時代のゼロから100に増えました。24時間ケアだから在宅の100床は病院の100床と同じ。病床の維持には金がかかるが、往診なら体一つで行けて手術以外はできる。しかも台所の冷蔵庫の中まで見えて、患者の「物語」を知ることができます。

 訪問診療・看護、訪問リハビリ、栄養・服薬指導から歯科の往診までしています。口腔ケアをちゃんとするだけで高齢者の肺炎は大きく減ります。薬をきちんと飲む、水を毎日コップ5杯飲む、和食を食べる、健診を受ける。たいしたことではないが、それで医療費を削減できる。救急車の出動も激減し、1年で2億8000万円も医療費を減らしました。

 地域が再生するには最低限、消防と警察と医療機関が欠かせません。産業のためにも医療は必要です。例えば市内のホテルには、受診案内を各部屋に置いています。修学旅行の生徒や障害者の方々も安心して、炭鉱から観光に転じた夕張を訪れてもらえるようにするお手伝いです。

 しかし、診療所の経営は実質赤字です。それでもつぶさずにやってこられたのは、訪問診療と外来の黒字で病棟と救急の赤字を埋めてきたからです。寄付金や治験などの医療外収入、私個人の借金や講演謝礼もつぎ込んでいます。それなのに、公設と言いながら救急予算は1日当たりわずか600円。病床を減らしたことに対する国から市への交付金も、診療所には回されていません。

 医師は私を含めて5人。地域医療を志し、東京の大学病院から移って来た先生もいます。医師や看護師をはじめ約80人の全職員が、ボーナスもなく、よそとは比較にならない安い給料で働いています。志だけでは限界があります。

 各地で医療が崩壊しているのは、コンビニが必要なのに大きなデパ-トを建ててきたようなものだからです。年老いても「生活の質」を保って、安心して死ねる場所を安上がりにつくれればいい。破綻した夕張がそういう高齢社会のモデルとして成功すれば、全国どこでもまねができる。逆に、できなければ国民皆保険制度は崩壊します。そのためにも私たちはここで頑張っている。国や市がこの「実験」を支援する価値はあるはずです。

(朝日、2010年01月05日。聞き手 今田幸伸)

円高

2010年01月03日 | ア行
 円高に対する懸念が、また強まっている。足下では日銀の金融緩和などからやや戻しているが、それでも半年前と比べ円はドルに対して1割も高い。

 円高懸念の理由は、輸出の減少と景気減速である。景気回復は引き続き輸出依存であり、輸出減少が景気二番底を引き起こす可能性もある。一方で円高にはメリットもある。原材料や製品の輸入企業は、円高に伴う輸入コストの低下で収益が増える。円高還元セールなどを通して小売価格が下がれば、消費者にもメリットが及ぷ。

 問題は、円高の利益と不利益のどちらがどれだけ大きいかだ。輸出が輸入を上回る(つまり貿易黒字)限り、円高の影響は差し引きマイナスである。しかし、貿易黒字(国際収支ベース)の規模は、ピークであった1992年度の16兆円から2008年度は1兆円へと激減し、2009年度も6兆円程度にとどまりそうだ。つまり円高のネット悪影響は、以前より小さくなっている。

 円高抵抗力も高まっている。企業の経常利益がゼロになる為替レート(損益分岐レート)を試算すると、2009年度上期では1㌦=79円と、実際の為替レート(95円)よりかなり円高水準にある。海外生産や輸入の拡大を通じて、日本経済は円高に対する耐性を強めている。

 それにもかかわらず、円高の悪影響ばかりが喧伝されるのは、エコノミストやメディア、政治家が過去のトラウマに捕らわれていることや、悲観論が浸透しやすいといった事情があろう。しかし実態をみれば、円高で大騒ぎすべき理由は少なくなっている。そして、円高は内需にとってはプラスである。円高恐怖症から、そろそろ抜け出すべき時ではないか。

 (朝日、2009年12月10日。経済気象台、山人)

沖縄の歴史

2009年10月27日 | ア行
 コブク郎・今年は「薩摩の琉球入り400年」なんだって?
 A・薩摩藩が軍勢3000人を率いて沖縄に侵攻したのが1609年。独立していた琉球王国は奄美を割譲し、幕藩体制のもとで薩摩の支配下に入ったんだ。
 コ・なぜその時期に?
 A・もともと明の征服を目標にした秀吉の朝鮮出兵が遠因だ。秀吉の命を受けて、薩摩は琉球に出兵の軍役を課した。琉球は軍費半分を差し出したが、そのころから琉球を属領と見るようになった。
 コ・それで王国は滅びたの?
 A・そうじゃない。琉球は以前と同じく中国にも朝貢使節を送る一方、江戸にも使節を送るようになった。中国、日本の両方に帰属しながら、王国の体面を保った。
 コ・そうか、日本にもそんなに長く、別の王国があったんだ。

 A・琉球は、統一の動きが出てから500年も続く王国だった。日本に編入されたのは1879年、明治政府が「琉球処分」を断行したときだ。王国は滅び、沖縄県が生まれた。今年は、王国が滅びて130年の節目でもあるんだ。
 10月06日、沖縄県立博物館で「薩摩の琉球侵攻400年」を記念する特別展が始まった。その展示を見て驚かされた。

 薩摩の支配下に入ってから琉球は、徳川将軍や国王が代替わりするたびに、薩摩藩主に伴われて江戸に使節団を派遣した。片道2000㌔、往復に1年をかける壮大な旅をテーマにした展示である。
 以前なら、琉球が中国風の装束を強制され、見せ物のように「ヤマト」の視線にさらされた「屈辱の歴史」を強調していただろう。
 ところが今回の展示では、琉球使節団が、当時最先端の衣装や音楽を携えて各地で歓迎されたことや、琉球側も日本から、多くの情報や文物を吸収したという「交流」の側面に光をあてている。

 「過酷な支配にあえいだ沖縄」という単純な図式ではなく、沖縄側も、王国の体裁を保ちながら巧みに外交力、文化力をみがいた、という新しい見方だ。
 「近世では、日中両方に帰属することはマイナスではなかった。江戸幕府は『お国柄』だとして琉球が中国に朝貢することを認め、そこから中国情報を吸収した。薩摩も琉球を従えることで幕藩内の地位を高め、むしろ朝貢を勧めている。琉球側も『中国カード』を使いながら巧みに王国を守った。

 そう語るのは、展示に協力した琉球大の豊見山和行教授だ。同じく琉球大で王国の歴史を長く研究してきた高良倉吉教授がいう。
 「軍事力などハードパワーを持たない琉球は、外交力を使って薩摩を対中運命共同体に引き入れ、利用した面もある。踊りや織物など、.沖縄文化の多くも、薩摩支配下の270年で培われた」。
 ソフトパワーで、月中二つの大国と巧みに渡り合った王国。そんな新たな琉球像だ。なぜ歴史が見直されるようになったのか。

 「戦後、米軍統治下に置かれた沖縄では、日本からの分離策をとる米軍に対し、祖国統一論に立って復帰運動を続けた。そんな中で、独立王国・琉球を研究することが、研究者の間でタブー視された面がある。今になってようやく、王国を客観的に振り返ることができるようになった」と、琉球大名誉教授の比屋根照夫氏はいう。

 中国側はどう見ているのだろう。福建師範大の謝必震教授は「薩摩の琉球入りは明の、琉球処分は清の衰退期に起きた。東アジアの秩序が大きく変わる節目に、琉球の地位を揺るがす事件が起きた点で、共通している」という。
 今年は日蘭通商400年の節目でもある。薩摩の琉球侵攻は、ポルトガルやオランダなどが東アジアに入り、明を中心とする朝貢体制が揺らぐ時期に起きた。

 「その後、明が倒れ清朝が繁栄した18世紀は、日本では江戸幕府が最盛期を迎え、琉球など周辺国でも文化が花開いた」と、琉球大の上里賢一法文学部長はいう。
 しかし、その清がアヘン戦争に敗れ、欧州列強や米国が東アジアをうかがう時期に、再び琉球は激動に揺れる。「琉球処分」は、日清戦争による台湾領有、来年100周年の日韓併合へと続く植民地化の前触れとなった。その日本の膨張政策の破局が沖縄戦である。

 「こうした歴史が教えるのは、沖縄が平和であるためにも、東アジアの安定がどうしても必要だということです」と上里氏はいう。
 歴史の節目をめぐる論議は、研究者だけでなく、県民の間でも盛んだ。「どの会場も満点で、聴衆の熱気に驚いた」。そう語るのは、仲間とともに来月、「薩摩侵略400年」について、今年4回目の市民討論会を企画している映像批評家の仲里効さんだ。

 「みんなは今の問題として400年前を考えている。基地問題など今の閉塞状況を破るには、沖縄を対日、対米との関係だけで考えるのではなく、アジア全体の文脈に置き直し、アジアの中での沖縄の将来を考えるしかない。400年、130年前は、私たちにとって昔の出来事ではなく、目の前にある歴史なんです」。

 (朝日、2009年10月15日。外岡秀俊編集委員)
 

犬山市の教育(01、学力調査の自主採点)

2009年09月22日 | ア行
 今年(2009年)04月に実施され、08月末に結果が発表された3回目の全国学力調査。過去2年間の不参加から今年参加に転じた愛知県犬山市教育委員会は、文部科学省が掲げた学力調査の「目的」にどこよりも「忠実」だっただろうと思う。

 犬山では今回、国任せにせず、教師が子どもの解答を独自に採点した。学力調査で掲げられる3つの目的のうち、「学校が児童生徒への教育指導や状況の改善などに役立てる」という項目を達成するためだ。

 学力調査を受け入れるからには、点数だけに注目すべきではない。問題文が理解できないのか、計算式がわからないのか……。児童生徒に教えるべきことを現場の教師が素早く具体的に把握しようと努めた。

 犬山市教委がここまでやるのは「すべての子どもに基礎的な学力を保障するのが義務教育」という意識、信念を強くもっているからのように見える。犬山は「学び合い」で有名になった。「自主的に学ぶ力」を柱に位置づけ、先に分かった子どもが他の子どもに教えることで共に育ち、人間関係も築けるのが「学び合い」。それは目標達成の手段だ。学力調査の自主採点も、同様に手段の1つということなのだろう。

 教育基本法は義務教育の目的について「各個人の能力を伸ばしつつ社会で自立的に生きる基礎を培い」「社会の形成者として必要な基礎的な資質を養う」こととしている。

 「義務教育」とは何か、「学力」とは何か。犬山の問いかけはいま、いっそう価値を増している。

   (朝日、2009年09月06日。永友茂則)

  関連記事・授業は先生の実力と情熱で8割決まる

 (2002年)04月からの新指導要領実施にむけて、学力が低下するのではないかという問題が議論されています。02月18日付け朝日新聞の教育欄では何人かの人の意見なり経験を特集しています。

 その中では愛知県の犬山市の教育長の瀬見山久氏の談話に関心を持ちました。氏は、ゆとり教育の失敗を機に犬山市では2つの事を実行したそうです。1つは市費で非常勤講師を雇って少人数授業を充実させたことです。

 第2は、教師による副読本作りに取り組んだことだそうです。これには教師たちがとても熱意を示したそうで、その結果教える意欲が高まったそうです。

 瀬見山久氏は結論として「ゆとり教育には魅力ある授業の提供という視点が欠けていたのではないか」と主張しています。

 私はいつもの通り次の結論を確認します。

 授業は先生の実力と情熱で8割決まる。
 サーブ権は教師にある(魅力ある授業を提供することが先)。
 学校教育は校長を中心とする教師集団が行うものである(犬山市では教育長が校長の代わりをした)。

(2002年02月27日発表)


静岡県庁の裏金問題

2009年08月23日 | ア行
 県財務事務所に端を発した、いわゆる裏ガネ(プール金)問題。全庁調査の結果、合計1億6300万円もの裏ガネの存在が明らかになった。すでに関係者の処分も発表されたが、なお火種がくすぶっている。

 「性悪説に基づく、自己申告」。これが県の裏ガネ問題調査の「方法」だったという。別表のとおり、最終的に県が公表した裏ガネの合計額はおよそ1億円(調査ずみの財務事務所分を含めると1億6300万円)。これは、各部署の自己申告による累計額である。

 「性悪説」というなら、自己申告ではなく、強制的な調査を行なうべきだろう。「性悪説に基づく、自己申告」という矛盾した言い方には、全容を徹底解明するという厳しさはない。むしろ、事を荒立てたくないという姿勢がにじむ。

 県は、「免責」を条件に、裏ガネの自己申告を呼びかけた。その結果、個人で裏ガネを保有していた事例が12件あったことがわかっている。これを免責するというのは、県として地方公務員法上の処分はしないということである。しかし、個人でカネを消費した事実が判明すれば、司法が黙認することはない。

 これら12件の場合、裏ガネは全額返金されている。しかし、それで完全に許されるわけではない。免責を約束しておきながら、今になって県は、「司法の処分には粛々と従う」と言う。いわば、免責と引き替えに裏ガネの存在を認めた職員たちは、はしごをはずされるかたちである。

 一方、自己申告という方法を採ったために、「まだ隠された裏ガネがあるはず」という見方も根強い。無理もない。自己申告で聴取記録もなく、市民など第三者には検証しようがないのだから。

 ある県関係者は、「現業部門からの自己申告が少ないのはおかしい」と指摘する。公共工事にかかわり、利権が集中している土木事務所や農林事務所など。ここに隠された裏ガネの額は「1ヵ所で数千万円にも達しているところがある」。

 そのカネは、今どこにあるのか。「土木、建設業者などに分散し、「預かり金」として保有させている。その代わりに手数料を支払っている」と、この県関係者は証言するのだ。

 石川知事は、「県による調査には限界がある」と述べている。しかし、たとえば熱海財務事務所などでは、職員が預金元帳まで丹念に調べて、公金が個人の預金口座に移された事実を明らかにしている。県民の信頼を取り戻すべく徹底調査をしようと真○に考えるならば、その方法はいくらでもある。「性悪説に基づく自己申告」なる手法が、いかに腰の引けた無責任なものであり、真相の徹底究明にほど遠いものであるか、明らかであろう。

 県は職員を対象に、「倫理教育」を徹底する、という。しかし、問題は個々の職員の気のゆるみなどではなく、県庁という組織内に根を張る構造的なものである。

 本当の「犯人」はいったい誰なのだろうか。

     表(裏金の部署別内訳。2002年度末確認額。こちらでアイウエオ順にした)

伊豆県行政センター、10万1500円
太田川ダム建設事務所、34万4020円
御前崎土木事務所、7万0068円
会計総室、7万0219円
企画総室、212万6000円
企業局富士川事務所、1万8000円
建設政策総室、50万円
県立大学短大、154万3980円
高度情報総室、139万6415円
こころと体の相談センター、15万3521円
こころの医療センター、391万7509円
産業企画総室、724万5721円
私学文書総室、303万4819円
志太榛原農林事務所、318万8638円
清水技術専門校、22万8909円
就業支援総室、544万6659円
西部健康福祉センター、810万6403円
西部農林事務所、1604万7030円
地域経済総室、53万8619円
茶業試験場、10万9862円
中部農林事務所、70万9730円
長寿健康総室、183万2520円
東京事務所、802万8955円
東部健康福祉センター、141万3197円
道路総室、113万0292円
都市整備総室、107万0579円
農業水産企画総室、2813万3165円
農山村整備総室、27万3000円
浜松学園、21万5022円
浜松技術専門校、40万円
文化振興総室、20万円
防災局、25万円
北遠農林事務所、22万9877円
糧会事務所、194万2650円

 合計、1億0001万6879円

 (週刊ダイヤモンド、2003年10月25日)

     感想

 古いスクラップブックを見ていたら出てきましたので、記録として残すことにしました。県教委の裏金、県警の裏金についての記事を残しておかなかったのが悔やまれます。

 上の記事にもありますように、発覚の発端となった「県財務事務所の裏金(プール金)約6300万円」はここには入っていません。

天下り(01、天下りは例外なく禁止せよ)

2009年08月17日 | ア行
           ジャーナリスト・若林亜紀さん

 私はかつて中央省庁から「天下り」を受け入れる団体で10年間働き、湯水のような税金の浪費を目の当たりにしてきました。

 理事長に天下りしてきた元次官は、毎月のように海外旅行に出かけました。視察と称して観光、グルメにショッピング。時には、本省から呼んで部長に据えたお気に入りの女性も同伴です。飛行機はファーストクラス、ホテルは五つ星。彼は7年間で延べ73ヵ国へ行き、旅費の繚額は3億円でした。

 こんな無駄遣いが続けば国がつぶれてしまう。そう思って2001年に退職し、ジャーナリストになったのです。その後の取材でも、海外視察は減ったようですが、高給で天下ってくる官僚の数はむしろ増えた。天下り団体には、業務の発注や補助金で年に12兆円の公金が投じられ、その多くは無駄に使われているのです。

 衆院選のマニフェストを見ると、各党とも天下りの廃止や根絶を掲げています。しかし、よく読むと「原則」というような官僚言葉を付けて逃げている。官僚たちは安心しているはずです。

 私なら「例外なき天下り禁止」を掲げたい。天下りを受け入れた団体・企業には、国の補助金や事業の発注を一切やめる。どうしても官僚OBを雇いたいのなら、補助金や受注がゼロでよければご自由に、です。

 「例外なき禁止」の代わりに、65歳までの雇用は進めるべきでしょう。それでも給料は引き下げます。国家公務員の給料の実支給額を計算したところ、2006年度は諸手当を含め平均814万円でした。民間だと資本金10億円以上の企業の平均が616万円。大企業と同程度まで下げてもよいのではないでしょうか。

 日本の政治は、ずっと「官僚内閣制」でした。政権は官僚の手のひらの上で動いてきた。議員の中には、国会での質問づくりを官僚に頼んでくる人もいるぐらいです。でも、官僚たちの無駄遣いは国民に知れ渡りました。今回の総選挙で選ばれる議員たちには「今度こそ中身のある改革を」と期待しています。

   (朝日、2009年08月10日。聞き手 本山秀樹)

 メモ

 20O6~08年に中央省庁が課長・企画官級以上の退職者に天下り先をあっせんした数は1901件。所管省庁OBが公益法人の幹部職など特定のポスト(指定ポスト)に天下る例は338法人で422もある。

「アート浜松」(芸術文化情報誌)の紹介

2009年07月14日 | ア行
 正式な雑誌名は「Art's」らしいのですが、やはり他者に紹介する場合には、表題のようにした方が何がテーマかすぐに分かると思います。

 紹介するなどと言いましたが、私自身つい最近、偶然手にして、一読して、上質な情報誌だなと感心したばかりです。無料ですから、PR誌の一種なのでしょう。

 出している所は㈱アルティックスですが、この名前を聞いて何かが分かる人は関係者だけしょう。浜松市に財団法人平野美術館があり、もちろんその名の美術館を運営しているのですが、その関係の会社のようです。

 この雑誌は季刊誌となっていて、最新号はこの06月15日発行で、通巻第47号となっていますから、多分、この09月で満12年となるのでしょう。

 第47号の目次を見ますと、次のようになっています。

ART情報
●ニューヨーク編VOL.21/ 美術館並みの展覧会、ガゴージアン画廊、眞田一貫
●スペイン編編VOL.21/ ガウディの軌跡を追いかける、田中裕也
●ラウンド・ミッドナイトVOL.21/ 華麗なる激情、木津文哉

JAZZY情報
●ボストン編VOL.18/ 老人とボストンの春、タイガー大越
●スウエーデン編VOL.18/ ルイジアナ美術館、森 泰人

読み切り連載
●浜松と関わりのあった芸術家やパトロンたち
 第46回、浜松の書家、小沢じん庵……金原宏行
●第27回、命のゆりかご・干潟……中小路太志

特集第21回●彫刻家・流政之/ 流譜VOL.16……橋本房江

美術品●古陶磁物語─中国─白磁盤・白磁壺、浦上蒼穹堂

ARTスケジュール7月~9月
     ●財団法人平野美術館
     ●静岡県内及び愛知県内(名古屋以東)近郊美術館
     ●浜松市内美術館

ギャラリー催事情報●6人のアーティストたち、HIRANO ART GALLERY

  新連載・食楽気楽道楽

 ほとんどの記事が見開きの2頁に収められていますが、1頁のも少しあります。内容は、どれもこれも楽しく、勉強にもなりました。幸いネットにそっくり公開されています。バックナンバーのないのは残念ですが。

 雑誌自身は小さい字で印刷されていますが、ネットでは大きい字になっています。

 芸術家の名前などは難しいのが多いですが、振り仮名を付けてほしいと思います。