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マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

米核開発と先住民 切り捨てられた側の叫び

2015年10月03日 | ア行

                明治大学教授〔地理学〕、石山 徳子(のりこ)

 70回目の広島原爆の日を、米西部ワシントン州を流れるコロンビア川沿いの町リッチランドで迎えた。原爆開発を推進したマンハッタン計画の拠点の1つで、第2次世界大戦中から冷戦期にかけてプルトニウムを生産し続けたハンフォード・サイトに接している。地元レストランには「プルトニウム」「半減期」「ガイガーカウンター」という名の地ビールが並び、公立高のスポ-ツチームの名は「リッチランド爆撃機」、マスコットはキノコ雲だ。砂漠の田舎町は核開発の歴史で重要な役割を果たすと同時に、経済的な恩恵にも浴し、これを誇りにしてきた。

 長崎原爆の原料を生み出したB原子炉を、米国人観光客とともに見学した。見学前に流される映像資料は、原爆投下が第2次大戦の終結を導いたという定説を強調。ガイドは当時の先端的な科学技術と関係者たちの愛国心をたたえ、キノコ雲の下の惨禍に触れることはなかった。

 見えなくされているのは被爆者の辛苦だけでなく、同サイトが世界最大級の核汚染の現場であり、周辺地域に健康不安を与えてきたという「不都合な真実」だ。この場所には1949年のグリーン・ラン実験で大気中に大量の放射性物質を故意に放出し、70年代初めまで原子炉の冷却水を川に垂れ流したという歴史がある。今も放射性廃棄物貯蔵・処理施設の設計上の不備などが懸念されるなかで、除染作業が続いている。

 マンハッタン計画の開始時に強制過去にあい、今は同サイト上流の集落に住む先住民族ワナパムのリーダー、レックス・バック氏に会った。核開発の前線に置かれた彼らは国家権力による土地の収奪、生活基盤の喪失、社会・文化・環境の破壊との闘いを強いられた。バック氏は「私たちは全てを失ったが、ここを離れるという選択肢はありません。土地とのつながりを回復し、生き抜かなければならないのです」と語る。ワナパムは川の下流や支流沿いに住む他の部族とともに、除染とその後の長期管理計画に関わるべく連邦エネルギー省と交渉を重ねている。

 米国の核開発の現場、すなわちウラン鉱山、核実験場、高レベル放射性廃棄物の永久処分場や中間貯蔵施設の候補地の大半もまた、先住民族の歴史的生活圏と重なる。国の安全保障を掲げた核開発計画と関連産業は、国家によって切り捨て可能とされた社会的弱者や、周縁化された土地の存在があったからこそ成立したともいえよう。先住民の多くは汚染現場を昔の環境に戻し、奪われた土地を返してほしいと訴えている。その声は、核開発と民主主義がそもそも共存しえるのか、という根本的な問いかけのように聞こえる。
  (朝日、2015年09月17日。私の視点欄)

兄(レオポルト・ウィンクラー)の思い出 アンナ・クラスル

2015年09月15日 | ア行

拝復

 〔1962年〕8月26日付けの心のこもった親切なお手紙を受け取りました。心から感謝します。これを読んで心が乱れ悲しみに沈みました。愛する兄を失った心痛はまだ克服できませんが、ともかく兄の死を受け入れました。御要望に添って兄の青年時代について幾つかの事を書きます。お役に立つならば幸いです。

 兄弟は3人でした。レオポレトが一番上で、ついで私、7歳下に弟のフランツでした。ウィーンに住んでいました。そして、両親の愛と思いやりに満ちた幸せな家庭で成長しました。母は愛情でも親切心でも無私の精神でも、又正義感の点でも模範的な人でした。両親は3人の子供を、世の中で然るべき部署に就いてその職責を果たす人間に成るように育てました。祖父母は幸運にもカールスバート近郊の田舎に住んでいましたので、夏休みにはそこの素晴らしい自然の中で伸び伸びと過ごしました。父は熱烈な自然愛好者で、又自然を好く知っていました。子供たちが小さい時から森の美しさと豊かさに触れるように導いてくれました。そのお陰で私たち3人は何度も素晴らしい森の中を何時間も歩き通すようになりました。私たちが今でも仲良しで、皆自然が大好きなのもこのためです。

 レオポルト兄は牧師に成ろうと思っていたくらいですから、子供の頃から勝ち負けを争うようなスポーツが嫌いでした。文学が好きで、自然と芸術を愛し、音楽を好む人でした。家族でオペラを見に、ブルク劇場その他の舞台を見に行きました。コンサートや講演会にも好く行きました。早くからスキーを始めた兄は弟にもスキーを教えました。山登りも大好きでした。長兄でしたから、弟妹の進む道にも影響を与えました。両親を愛する模範的な息子であり、弟妹を思いやる兄でした。

 〔ですから〕日本に行くという決心を聞いた時には、家族の者も友人達もびっくりし、悲しさを覚えました。皆、日本滞在が長期間にわたるだろう事を知っていたからです。特に兄を可愛がっていた母の心痛は深かったです。1914年、第一次世界大戦が勃発しました。長い間レオポルトからは消息がありませんでしたが、1923年の夏、初めて休暇を取って帰省してくれました。12年間の別離の後に、繊細で心の優しい息子であり兄であった人が成熟した姿となって私たちと挨拶を交わしたのです。その後は5年おきに夏休みを取って帰省してくれましたが、それも1935年で終わりました。第2次世界大戦の勃発で、帰省が不可能に成ったからです。何年もの音信不通の後、兄と再会したのは24年後の1959年の夏の事でした。その間に両親と弟が他界していました。

 兄と一緒に過ごせた1959年は一体感に満ちた幸福な時間でした。ドイツや母国オーストリアを旅し、ザルツブルクに行ってその音楽祭を楽しみ、3年後の再会を約束して別れました。ですから今年〔1962年〕は年初から再会を楽しみにして、その準備をしていました。兄はザルツブルク音楽祭に行ったり、ドルンビルンでオーストリア大会に参加したり、何週間かは私と二人で幾つかの山歩きをしたりしてから、又9月には大好きな第2の故郷(ふるさと)である日本に帰りたいと言っていました。その後には、10月に何週間かの予定で私を日本に呼び、色々な所を案内し、多くの日本の友人を紹介したいとも言っていました。

 心密かに私は兄が1度、我が家へ来てくれることを願っていました。と言いますのも、私が12年前から寡婦だという事を兄は知っていたからです。しかし、運命はそれを許しませんでした。人間の及ばぬ力で兄の生命は終わらされる事になりました。しかし、苦しむこと無く、眠っている間にあの世に行く事に成ったのは幸いでした。兄は本当に「幸運の星の下に生まれた人」だったのです。

 数週間前に、兄に対して、日本政府から日本とオーストリアとの文化交流面での貢献を認めて勲三等瑞宝章が、死後ですが、授与されたことをご存じでしょうか。私は、ウィーンにある日本大使館で駐オーストリア大使閣下の手からこの勲章を戴きました。本当にありがたい事だと思っています。この事こそ、兄が自分の人生の義務を忠実に守り、父母の願いを叶えた事を証するものだと思います。

 もしお願いが許されるならば、兄の葬儀の時の写真を1枚送っていただけませんか。又、編集予定の追悼文集も1冊送って戴きたいのですが。

 もっと早くお返事を差し上げるべきでしたが、果たせませんでした。旅に出ていまして、今日ようやくお手紙を手に入れたばかりだからです。

 心からの感謝の言葉をお送りします。オーストリアから、特に私から挨拶の言葉を送ります。

                              かしこ

                Anna Krassl(アンナ・クラスル)

注釈

 この手紙は、ウィンクラーさんの追悼文集を作るに当たって、横浜国立大学の独乙研究会が氏の妹さんに送った依頼状への返事だと思います。
 その文集『悼慕』──ウィンクラー先生の霊に捧ぐ──(1962年12月)にドイツ語原文と宮崎盛太郎氏の訳文が掲載されています。
 この文集のpdf版は「絶版書誌抄録」の中にありますが、昔のタイプ印刷ですし、読みにくいと思います。今回、改めて訳してみました。宮崎氏の訳文を参考にさせていただきました。(2015年09月14日)

オリンピック 国立競技場跡地は森にすべし

2015年09月09日 | ア行

森を広げよ

      森 まゆみ(「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」共同代表)

 新国立競技場の新しい整備計画が決まった。しかし、なお6万8千人収容の巨大施設で、予算は当初計画より250億円も多い。ザハ・ハディド氏の案をやめたものの、敷地や人工地盤、高さについてもほとんど見直されていない。これでは白紙撤回にならない。「ザハ案マイナス屋根」だけで終わらないか。景観に配慮、環境に調和、日本らしさなどと謳うが、その内容も明らかでない。

 2013年10月、明治神宮外苑の景観や環境を一変させる巨大なスタジアムは看過できないと、私たちは「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」を結成した。立ち上がったのは、30年来、東京の景観や建築保存に関わってきた女性11人。この2年間、情報を集めて議論を続け、9万人近くの賛同者を得た。都心の貴重な緑地を守り、さまざまな思い出のつまった国立競技場を改修して使い続けることを主張してきた。

 しかし、事業主体のJSC(日本スポーツ振興センター)も招致都市の東京都も、耳を貸さなかった。今年1月の寒い夜、国立の解体が近く始まると聞き、私たちは、伐採された大量の樹木を見つめながら、小さなライトをかざして競技場のまわりを悲痛な思いで歩いた。そして3月、ついに国立は壊されてしまった。

 7月に一転、新国立の計画が白紙になったのは、費用、工期、技術というあらゆる面で無理があったゆえの自滅だった。それにも懲りず、JSCを事業主体にしたまま、前回と似たような条件でコンクールをするとはどういう了見だろう。また白紙撤回なら、新国立の建設が前提だったJSCビルの便乗建て替えや外苑に隣接する都営霞ケ丘アパートの廃止、さらに周辺の建築物の高さ規制が75㍍と大幅に緩和されたことも白紙に戻すべきだ。

 政府の発想は、いまだに「新しく立派な施設でおもてなしを」というものだ。国際オリンピック委員会も既存施設の活用やサステナビリティー(持続可能性)を「アジェンダ2020」で提言、重視しているのにまるで時代遅れである。

 壊された国立競技場の跡地を眺めて考えた。旧競技場だって大きすぎた。もうここには拙速に何も建てない方がいい。先人が100年かけて育んだ森を広げよう。外苑の緑化を進め、渋谷川も復活させて、市民の安らぎや思索の場、ピクニックやジョギング、自転車の練習などの場として再生したい。新宿御苑、東宮御所、皇居へと続く森になれば、風の道を確保してヒートアイランド化も防ぐ。

 このままでは、当初掲げた「東北の復興」どころか東北から人材も資材も奪うことになりかねない。オリンピック返上の声が上がるのも遠くないだろう。
 〔朝日、2015年09月05日〕

感想

 森まゆみという人の仕事を知ったのは最近の事ですが、その見識にはいつも感心させられます。今回の提言も正論だと思います。

オリンピックは大きく成りすぎたと思います。国際オリンピック委員会自身が自己反省してほしいと思います。少しは自己改革をしているようですが、まだまだ不十分だと思います。

NHKの無駄づかい

2015年08月30日 | ア行

NHK、余った“皆様の受信料”でムダ遣い&贅沢三昧

 厳密に言えば税金ではないが、「国民から徴収した受信料」で経営しているNHKも、ムダ&ぼったくりの温床だ。先月、NHKは社屋の建て替えを発表、その莫大な建設費が問題となった。その額、3400億円。六本木に移転したテレ朝の社屋の建設費500億円の実に7倍近くという規格外の建設費。元NHK職員で現在は「NHKから国民を守る党」代表で船橋市議会議員の立花孝志氏は、「初めに3400億円使うことありきでソロバンを弾いた」のだと指摘する。

「NHKは累積黒字が2000億円もあり、国会でも問題となって受信料の10%値下げを行うはずだったのですが『不景気で契約率の低下もある』と7%の値下げにとどめたのです。ところが、2011年度は223億円の黒字。受信料値下げを避けるため、長期計画になかったものが急浮上してきたのが、社屋建て替えです。それを口実に、値下げへの圧力を回避しようとしているのです」

 立花氏は「そもそも建て替えの必要性も疑問」と語る。

 「大阪府庁舎のように戦前から使っている建物はほかにもあるし、今まで免震強化はまったく計画になかったのに、建て替えとともに免震強化が突然言われるようになった。

仮にそれが必要だとしても、3400億円もいらないはず。番組制作設備、送出・送信設備などを、必要性のあるなしにかかわらず、高額なものを新たに買い揃えることによって、建て替えの予算を膨らましていったのでしょう。

 NHKはもともとコスト意識が希薄なのです。例えば、番組を作る際も予算の枠内ではなく、言い値で番組を作れてしまう。それでも予算を使い切るのは大変だから、余ったお金で職員給与を高くする。NHKの職員の平均年収は1800万円です。今どき非常識なほど高い。籾井会長が仕事ではなくゴルフに行ったハイヤー代を経費で落としたことが問題になりましたが、その程度の経費の不正使用はNHK内では常態化しています。

 そこまでして余っているお金を使うくらいならば、受信料の値下げという形で視聴者に還元すべきなのですが、どんな使い先であっても自分たちで使ってしまおう、という発想なのです」

 あり余る予算の使い道に苦心するNHKだが、その一方で強引な受信契約の取り次ぎや受信料の取り立てが問題になっている。表向きには「皆様の受信料で成り立っている」と言いながら、陰ではこうしたムダ遣いが横行しているのだ。

NHK関連事業 ワースト5】

1位:NHK社屋建て替え

番組制作設備、送出・送信設備等、内部設備だけでテレ朝の約3倍という規模。同じ場所で建て替えるため工事が長期化、最終的には4000億円を超えるという予想もある

2位:NHK受信契約営業予算

NHKの営業予算は年間760億円。
受信契約を増やすための予算だが、これだけ予算をかけて受信契約数が劇的に増えるわけでもなく、費用対効果で大いに疑問

3位:NHK職員の人件費

NHK職員の人件費は年間約1800億円。1人あたりの平均年収は約1800万円となる。年金、職員寮、保養所も充実。籾井勝人NHK会長は年収3000万円以上

4位:独占放送権料

NHKが相撲協会に支払っている大相撲の放送権料は年間約30億円。かつては民放も放送していたが、現在はNHKだけが中継。「独占」の名のもと高い放送権料を支払う

5位:NHK番組の記念品

番組記念品は個別の番組の予算に含まれ、全体予算では計上されていないがムダが多い。その管理はずさんで、NHK職員がキャバ嬢などに無造作に配っているという報告も

取材・文・撮影/横田一 SPA!税金ぼったくり取材班

(SPA!、2015年8月27日から。ネット配信されたもの)

ウィンクラー氏の生涯

2015年07月30日 | ア行

ドクター・クラウス (オーストリア大使館)

 レオポルド・ウィンクラー教授は1889年11月10日に生まれた。早くも1912年には日本の土を踏んだのだが、ここの風土と人々が大いに気に入ったために、しばらくこの地に腰を据えようと決心した。そして、休暇には幾度か、故国オーストリアに帰ったが、全部合せると50年間というもの日本で生活を送ることになったのである。

 青年時代から教育に関心を持っていた教授は、1915年、上智大学と東京高校で教鞭を執り始めた。その後、横浜国大、東京外語大、慶応義塾でも講義を行った。

 その教育活動──独会話と文学史──と並んで、彼は日本にスポーツとしてのスキーを普及した先駆者の1人でもあった。今日ではスキーは日本国民の幅広い階層に親しまれているが、1913年設立の日本アルペンスキークラブの創立者に名を連ねた教授は、その最初期の指導者の一人でもあったのである。スキーに適した場所を見つけて開発することに尽力し、登山隊を組織して日本の山々を最初にスキーで登ったのもこの人である。又、新聞や雑誌に多くの論文を発表してスポーツとしてのスキーを広めた。

 氏は15年間にわたって、オーストリアの主要日刊紙である『ノイエ・フライエ・プレッセ』の日本通信員を務めた。又オーストリアの世界的名声ある詩人として双璧をなすフーゴ・フォン・ホフマンシュタールとシュテファン・ツヴァイクとも親交があった。自分自身も文学活動を活発に行い、1929年にはその著作Drei Stufen neuer deutscher Dichtung、1942年には詩集Libelleneiland、1957年には詩集Ai: ein Erosglück in Japanを出した。教科書としてはAnfänger Deutsch (1949), Deutsch für Fortgeschrittene, Deutsche Gedichte; Von der Klassik zur neueren Zeit (1949)などを出版した。

 故国オーストリアへの慕情をウィンクラ-教授は50年にわたって充実した生活を送った異国日本への衷心からの深い愛と結びつけた。氏は、日本の文化を深く身に付けようと努めたが、殊に好きだったのは日本の音楽で、中でも三味線と尺八に親しんだ。

 1957年、日本政府は教育事業における功績から勲四等瑞宝章を授与した。55年には氏は東京都より文化メダルを受けている。これらの光栄につづいて、慶応大学は58年、氏を名誉教授に推挙した。

 教授はまた、オーストリア国民の為にも貢献した。日本におけるオーストリア人協会の創立は1957年だが、氏は創立以来、会長を務めた。

 オーストリア連邦大統領は1960年、母国と日墺関係に対する彼の功績を認めてDas Grosse Goldene Ehrenzeichenというオーストリア最高の勲章を授与した。

 日本スキ-連盟でも1961年、故人に敬意を表して功労メダルを贈っている。

 ウィンクラー教授は1962年4月3日、突然、悲しくも我々の許を去った。この喪失感は計り知れないものがあるが、氏の教え子達が、今日、日本の社会と文化の色々な面で指導的人物となって氏の仕事を引き継ぎ、日墺両国における氏の友人達に教授の思い出となっているという事実を知って、せめてもの慰めとするしかないであろう。
(足立 悠介 訳)

 お断り

 新潟県では「レルヒ少佐を探して」などといったイベントをしたりしています。全体として、スキー関係でもレルヒさんばかり注目されて。ウィンクラーさんが不当に無視されていると思いましたので、横浜国立大学の独文科の雑誌『りんでん』の「悼慕──ウィンクラー先生の霊に捧ぐ」(1962年12月25日発行)の記事から適当なものを幾つか転載することにしました。なお、この雑誌は私のネット上の「絶版書誌抄録」の中にpdf化して入れてあります。しかし、昔のタイプ印刷ですし、読みにくいので、ここに発表することにしました。

 なお、ウィンクラーさんのお墓は横浜の外人墓地にあるという話を聞いた事があります。どなたか、確認して写真でも撮って送ってくださいませんか。

 訳は、足立氏の訳を踏まえましたが、かなり変えもしました。出版物等については図書館で調べて加筆しました。2015年07月30日、牧野紀之

      関連項目

友の死

ゲーテの晩年の一日



アスベスト公害(石綿禍)

2015年07月06日 | ア行

 1、大手機械メーカー・クボタの旧工場(兵庫県尼崎市)周辺で住民被害が発覚した「クボタ・ショック」から29日で10年。老朽化した建物の解体現場で、ずさんな工事によるアスベスト(石綿)の飛散事故が絶えない。石綿を用いた疑いがある建物は、民間だけで推計280万棟。その解体がこれからピークに向かう。五輪を控える東京では他に先駆け解体が進み、周辺住民が石綿を吸うリスクが高まっている。

一昨年秋、関西の住宅に囲まれた町工場を更地にする解体工事があった。請負会社の関係者である男性は、そこにがれきからむき出しになった茶色の吹き付け材を見た。石綿だと直感した。分析機関に持ち込むと、毒性の強い茶石綿が50%以上の高濃度で含まれていた。男性は現場の担当者に経緯を問うた。

 元請けの産廃会社は、作業を下請けに委ねていた。下請け業者は石綿の有無を確認せず解体を始め、重機で天井や壁を壊すと石綿がぼろぼろ落ちてきた。「符口令がしかれた」と担当者は言った。

 報告を受けた産廃会社は手を打たなかった。「万が一、情報知っている人間増やしたら、なんかのことで行政や周辺の耳に入ってしまったら。もう完全に公害ですもん。会社、もたへん」

 石綿は「静かな時限爆弾」といわれる。髪の毛の5千分の1という極細の繊維状鉱物を吸い込むと、数十年の潜伏期間を経て「中皮腫」や肺がんを引き起こす。

 周辺への飛散を防ぐため、建物解体の際は法令に従って危険箇所を頑丈なプラスチックシートで密閉し、集じん・排気装置を設置する。作業者は防護服と電動ファン付きマスクを着ける。だがこの現場では一切の作業が省かれ、周辺住民には何も知らされなかった。

 石綿含みのがれきは、穀物や土砂の梱包、搬送にも使う巨大なプレコンバッグ二十数袋分に上った。他の現場から出た石綿と偽り最終処分場に搬出したという。いま現場には、石綿のない建材を用いた新しい工場が立つ。

2、2006年、アスベスト(石綿)は製造・使用が原則全面禁止された。だが「石綿禍は過去の問題ではない」と、専門家は警告する。

 環境省によると、石綿を建材にした建物の解体や改修は2013年度、全国で1万62件。うち664件で大気汚染防止法の工事基準が守られていなかった。

 名古屋市では、今年4月に民間ビルの建て替え工事で飛散事故が発生。生活環境における石綿の濃度は大気1㍍あたり繊維1本以下が正常値とされるが、この工事の敷地の境界では150本検出された。

 2013年には市営地下鉄名港線の六番町駅の工事で高濃度の石綿を検出。市は工事を停止し、駅構内の一部を立ち入り禁止にした。2011年には名古屋駅前の百貨店「名鉄ヤング館」の改修工事で基準の49倍にあたる石綿を検出。石綿を除去する集じん機のフィルターがずれていたのが原因だった。

 東京でも今年6月、都営住宅室戸で飛散対策を施さずに撤去工事をした可能性の高いことが発覚した。

 耐火性や保温性に優れる石綿を使った多くの建物が耐用年数を迎え、これから解体のピークを迎える。国土交通省は、ピークは2030年ごろ、年約10万棟と試算。東京では東京五輪に向けた街づくりで解体が早まる。都は今年すでにピークに達しており、2040年ごろまで続くとみている。

 石綿禍の再来をどう防ぐか。昨年6月、大気汚染防止法が改正された。

 工事発注者は石綿の除去費用を十分考慮せず、短期間の工事を求める。業者は安い工事費で請け負い、飛散対策を手抜きする。この構造を打破しようと、工事の届け出義務を受注者から発注者に変更し、発注者責任を明確化した。

深刻な飛散事故や工事の不備は、住民の通報から発覚することが多い。被害者支援団体「中皮腫・じん肺・アスベストセンター」の永倉冬史事務局長は「違法解体を防ぐには、自治体が事前通告なしの抜き打ち検査をして業者に危機感を持たせるべきだ。住民自身も、身近な工事で業者に説明会を求めるなど監視する姿勢が大切だ」と話す。

 石綿は1949~2005年に約1千万トンを輸入。特に1970~90年代に大量に使われた。それから数十年の潜伏期聞を経て、中皮腫などの発症者が急増している。

石綿関連の職歴がない人たちの被害が表面化したのは、2005年6月29日の「クボタ・ショック」だ。大手機械メーカー・クボタが、兵庫県尼崎市の旧神崎工場周辺に暮らし、発症した人への見舞金の支払い方針を公表した。これを機に、住民被害を対象にする石綿健康被害救済法が制定。救済認定者は今年に入り全国で1万人に達した。労災認定者も含めると被害者は2万人を超える。

 あれから10年。クボタの旧神崎工場周辺でも新たな発症者が次々に現れ、被害の全容はいまだにつかめない。

 クボタは旧神崎工場の半径1・5㌔圏内の居住歴などを要件にして、発症者らに救済金2500万~4600万円を支払っている。救済金の請求は6月現在298件(死亡者271人、療養中27人)、うち277人に救済金が支払われた。この1年でも12件の請求があった。

 3、石綿被害と法規制の年表

 1949、石綿の輸入再開
 1975、石綿の吹きつけ作業の原則禁止
 1995、有害性の高い青石綿と茶石綿のの製造・使用禁止
 1996、石綿を含む建築物の解体作業が規制対象に
 2005年6月、クボタ旧神崎工場周辺で住民の中皮腫発症が発覚。「クボタ・ショック」
 2005年7月、建材大手「ニチアス」など、石綿を扱った企業の被害が相次いで表面化。
 2006年3月、石綿健康被害救済法(石綿新法)施行
 2006年9月、石綿製品の製造・使用が原則全面禁止。
 2014年6月、解体の届け出を発注者に変更。事前調査を義務化。
 2014年10月、泉南アスベスト訴訟で最高裁は、石綿関連工場の健康被害について国の責任を初めて認定。
 2015年1月、石綿健康被害救済法の認定者が1万人を超す。

      (朝日、2015年06月28日。足立耕作)

「慰安婦」問題 歴史学会・歴史教育者団体の声明

2015年06月01日 | ア行
 従軍慰安婦をめぐる状況に懸念を持った歴史研究者や歴史教育者たちが声明を発表したそうです。朝日が報じていましたが、その全文が分かりましたので、掲載します。


   「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明

 『朝日新聞』による2014年8月の記事取り消しを契機として、日本軍「慰安婦」強制連行の事実が根拠を失ったかのような言動が、一部の政治家やメディアの間に見られる。われわれ日本の歴史学会・歴史教育者団体は、こうした不当な見解に対して、以下の3つの問題を指摘する。

 第一に、日本軍が「慰安婦」の強制連行に関与したことを認めた日本政府の見解表明(河野談話)は、当該記事やそのもととなった吉田清治による証言を根拠になされたものではない。したがって、記事の取り消しによって河野談話の根拠が崩れたことにはならない。

 強制連行された「慰安婦」の存在は、これまでに多くの史料と研究によって実証されてきた。強制連行は、たんに強引に連れ去る事例(インドネシア・スマラン、中国・山西省で確認、朝鮮半島にも多くの証言が存在)に限定されるべきではなく、本人の意思に反した連行の事例(朝鮮半島をはじめ広域で確認)も含むものと理解されるべきである。

 第二に、「慰安婦」とされた女性は、性奴隷として筆舌に尽くしがたい暴力を受けた。近年の歴史研究は、動員過程の強制性のみならず、動員された女性たちが、人権を蹂躙された性奴隷の状態に置かれていたことを明らかにしている。さらに、「慰安婦」制度と日常的な植民地支配・差別構造との連関も指摘されている。たとえ性売買の契約があったとしても、その背後には不平等で不公正な構造が存在したのであり、かかる政治的・社会的背景を捨象することは、問題の全体像から目を背けることに他ならない。

 第三に、一部マスメディアによる、「誤報」をことさらに強調した報道によって、「慰安婦」問題と関わる大学教員とその所属機関に、辞職や講義の中止を求める脅迫などの不当な攻撃が及んでいる。これは学問の自由に対する侵害であり、断じて認めるわけにはいかない。

 日本軍「慰安婦」問題に関し、事実から目をそらす無責任な態度を一部の政治家やメディアがとり続けるならば、それは日本が人権を尊重しないことを国際的に発信するに等しい。また、こうした態度が、過酷な被害に遭った日本軍性奴隷制度の被害者の尊厳を、さらに蹂躙することになる。

今求められているのは、河野談話にもある、歴史研究・教育をとおして、かかる問題を記憶にとどめ、過ちをくり返さない姿勢である。

当該政治家やメディアに対し、過去の加害の事実、およびその被害者と真摯に向き合うことを、あらためて求める。

                   2015年5月25日

  歴史学関係16団体

 日本歴史学協会
 大阪歴史学会
 九州歴史科学研究会
 専修大学歴史学会
 総合女性史学会
 朝鮮史研究会幹事会
 東京学芸大学史学会
 東京歴史科学研究会
 名古屋歴史科学研究会
 日本史研究会
 日本史攷究会
 日本思想史研究会(京都)
 福島大学史学会
 歴史科学協議会
 歴史学研究会
 歴史教育者協議会


浜松の中2「いじめ」自殺問題での和解協議

2015年05月01日 | ア行

 浜松市立中学2年生だった片岡完太君(当時13)が2012年に自殺したことをめぐる民事訴訟の和解協議が28日、静岡地裁浜松支部であった。原告の完太君の両親の提案と、いじめたとされる被告の生徒や市側の回答に隔たりがあり、次回の6月22日に話し合いを続ける。

 和解協議後に完太君の父親ら原告側が記者会見した。学校に金銭的な支払いのほか、教育委員会だけでなく、校長、クラス担任、部活顧問が反省の意を表明することや、慰霊碑を建てて年に1回式典を開くことを求めたという。被告の生徒らには謝罪の表明のほか、問題を風化させないように長期間にわたって金銭を支払うことを求めていると説明した。

 しかし、この日の和解協議で、生徒側は長期にわたる支払いに難色を示したという。また生徒1人は責任がないとして、金銭的な支払いに応じない姿勢を示したという。原告側代理人は「次回までにまとめるのは難しそうだ」と見通しを話した。

 浜松市教委指導課の担当者は「原告の意向を受け止めながら対応したい」と話している。
 (朝日、2015年04月29日)

感想

 大津市のいじめ自殺事件では越市長が「この際、いじめをなくそう」と考えて、積極的に動いたので、私から見ると不満はありますが、まあまあの和解が成立しました。

 浜松市長の鈴木康友は、先日の選挙の時にもこの問題に触れませんでしたし、前面に出て対応する事を避けているようですので、ごまかされる可能性があります。成り行きを注視したいと思います。

      関連項目

大津市のいじめ自殺事件での和解

大津市の中2生徒のいじめ自殺事件の和解

2015年03月24日 | ア行


 01、朝日の記事、2015年03月18日

 大津市立中学2年の男子生徒(当時13歳)がいじめを受けて自殺した事件をめぐる訴訟で、生徒の両親と市の和解が03月17日、大津地裁(山本善彦裁判長)で成立した。

 越直美・大津市長は和解後、いじめ自殺を防ぐ字校側の責務を広くとらえた今回の和解条項を、全国で共有するように国などに働きかける考えを明らかにした。

 和解条項では、教職員が生徒へのいじめを認識し、自殺を予見することが可能だったのに防げなかったことなどについて、市が両親に謝罪するなどとした。賠償額は4100万円相当とし、すでに支払われた災害共済給付金を除く1300万円を和解金として市が支払うとした。

 地裁は、事件前から文部科学省がいじめに関する通知を繰り返し出していたことなどを踏まえ、2月に行った和解勧告の中で「教職員は一般的に、いじめを要因として自殺が生じうることを予見できる状況にあった」と踏み込んでいた。

 越氏は生徒の父親らとともに記者会見。越氏は「今回の和解条項で特に重要なのは、教職員がいじめに気付き、止める責任があると書かれた点」と評価し、「『いじめに気付かなかった』との言い訳は通じない」と述べた。父親は「(いじめで)苦しむ全国の人たちにこの画期的な和解内容を伝え、役立てたい。全国の教育関係者は、二度と悲劇を繰り返さないための手がかりにして」と求めた。

 ★ 信頼が土台に(大津市の第三者調査委員を務めた教育評論家の尾木直樹さんの話

 第三者委は疑問が出れば必ず解明する姿勢を徹底し、事実を緻密に積み上げていじめ行為を認定した。委員には遺族の推薦人を入れた。公平だと信頼され、調査結果が和解の土台になったと思う。事件をきっかけに「いじめ防止対策推進法」はできたが、依然いじめ対応が後回しの学校はある。命にかかわる事態との認識を強めてほしい。いじめに気づくため、教室で生徒同士が指摘し合える雰囲気作りも大切だ。

 ★ 和解条項の要旨

・市は男子生徒の自死を予見できたのに適切に対応せず、予防できなかったことを謝罪する

・市は自死後に適切に対応しなかったことを謝罪する

・市はいじめ防止のための取り組みを継続する

・市はすでに支払った2800万円とは別に、和解金1300万円を支払う

・市は和解条項をホームページに掲載する

 ★ 生徒の自殺をめぐる主な経緯

2011年10月、生徒が自殺
   11月、大津市教委が「いじめはあったが、自殺との因果関係は不明」と発表

2012年02月、生徒の両親が市や同級生らに損害賠償を求め提訴
   07月、「自殺の練習をさせられていた」とするアンケートの回答が明らかに。

      越直美市長が第三者委設置を表明

   07月、滋賀県警が元同級生による暴行容疑で中学校と市教委を捜索

   12月、県警が暴行容疑などで元同級生2人を大津地検に書類送検。当時13歳の1人を児童相談所に送致

2013年01月、第三者委が「いじめが自殺の直接的要因」とする報告書を提出

   09月、いじめ防止対策推進法施行

2014年03月、大津家裁が元同級生3人の処分決定

2015年02月、大津地裁が和解を勧告

 02、牧野の感想

 この程度の成果でも「画期的な和解」(生徒の父)と評価されるのは、この問題についての理解がいかに低いかを証明していると思います。

 どこに不十分さがあるかと言いますと、第1に、「学校に責任」という捉え方です。私見では、「校長と教育長に8割の責任」としなければなりません。従って、いじめが起きたら、ましていじめ自殺が起きたらなおさら、校長と教育長とは給与の一部を返し、場合によっては退職金なしで辞職するべきです。それくらいの覚悟がないならこどもを預かったりするな、と言いたいです。

 学校教育というものは個々の教師が行うものではなくして、「校長を中心とする教師集団が行う」ものです。これまでにも何度も言ってきましたが、少しもこの理解が広まっていません。尾木直樹さんですら、こういう点を主張していません。

 第2に、これくらいの成果でも達成出来たのには越市長のやる気が大きいと思います。アンケートの結果の公表を渋る教育長を何時間も説得して公開させた点にそのやる気がよく出ています。聞くところによると、越市長は自分自身かつていじめを受けたことがあるそうです。

 我が浜松市でも同じ問題で「市や教委側に誠意がない」として、裁判が起こされ、裁判所から和解勧告が出ていますが、この程度の和解にさえ達するか、あやしいものです。浜松市では市長にやる気がないからです。

 第3に、自分の人権を守る方法を具体的にきちんと教えるべきです。人権尊重こそ道徳教育の第1の課題です。この事が確認されておらず、実行されていません。特に裁判所に(簡易裁判所でいいから)訴える方法を教えるべきです。裁判の見学を教育課程に入れるべきです。

 この事は、いじめに遇ったこどもが先生にも校長にも親にも言いにくいという現状を考えると特に重要です。私自身、裁判の傍聴を通じて自分で裁判を起こす方法を知った事はとても大きな自信と勇気になりました。

 第4に、又校長の問題に戻りますが、校長のだらしなさは本当に度しがたいものがあります。先日、川崎市の中学生がいじめで殺されました。その後再開された当該の学校の校長が、その時何と言ったか。ラジオで聞いただけですから、間違っている点もあるかもしれませんが、根本は間違っていないと思います。私の記憶では、校長は、「皆さんがしっかり生きて行くことがU君の死を無駄にしない方法だ」とか言ったはずです。

 この発言のどこが問題でしょうか。校長の反省がない点です。「U君が自分に相談してくれなかったことは、自分が生徒に信頼されていないことだ。申し訳ない。今後はいじめを受けたら、又はいじめを見聞きしたら、直ぐにまず校長の私に知らせてください。命がけで、いじめを無くし、皆さんの命を守ります」とどうして言えないのでしょうか。

関連項目

いじめ自殺問題
















市場(いちば)

2014年08月29日 | ア行
 市場を「いちば」と読むか「しじょう」と読むかについてどういう基準があるのだろうか、という問題意識から、調べ、考えた事をまとめます。

 「新明解」に、「『しじょう』は『いちば』の字音語的表現」という説明があります。つまり「しじょう」より「いちば」の方が先だったと推定されます。常識的に考えてもそうでしょう。

 しかるに、それは「市(いち)」から「市の立つ場所」という意味で使われるようになったのでしょう。「立つ」は「始める」の意だそうです(大言海による)。実際には、以下に見ますように、「市」の中にはその場所も含意されていたようですので、市場の「場」は余計だったと思いますが、こういう重言みたいな表現は言語の常ですから、善悪を論ずる事柄ではないと思います。

 「市」の字形については、常用字解は象形文字とし、「市の立つ場所を示すために建てる標識の形」と説明しています。

 市を『漢字字源辞典』(山田勝美・進藤英幸、角川書店)で引きます。字義は「彼我の物品の公平な値段の定まる所の意」としています。市という字が「平」の意符と「止」の音符から成っているのはそのためだと説明しています。なお、参考として、「市場は起源的には、物々交換をする所であった」という説明もあります。

その上で4つの意味を挙げています。これは現在使われている意味を分類したのでしょう。第1は「多くの人が集まって品物の売買をする所(市場、魚市)」。第2は「売り買い。あきない(市価、市況)」。第3は「まち。多くの人の集まる所(市井、都市)」。第4は「地方自治体の1つ」、です。

 第1の意味と第2の意味は分けるのが難しいくらいですが、「市(いち)」の立つ場所という事から、そこで行われる行為自体を表すようになったのではなかろうか。常用字解は第1の意味と第2の意味を一緒にして「いち、うる、かう」としています。いずれにせよ、第1と第2の意味から第3の意味、更に第4の意味の出て来ることは容易に分かります。

 さて、「市場」の読み方です。

 まず、現在の語釈を、従って両者の使い分けを「明鏡」と「新明解」の記載(ほぼ同じ)からまとめますと、ほぼ次の通りです。

市場(いちば)──A・毎日または定期的に商人が集まって商品の売買を行う所。市。青物市場、市場町。B・小売店などが集まった、常設の共同販売施設。マーケット。

市場(しじょう)──C・売り手と買い手が集まって商品や株式の取引を行う特定の場所(明鏡)。株式や特定の商品が定期的に取引され、そこでの売買が一般取引価格を決定づける場所(新明解)。中央卸売市場。証券取引所など。D・商品の売買や交換が行われる場を抽象的にいう語(明鏡)。需給関係から総合的にとらえた概念(新明解)。国内市場、国際市場。金融市場など。E・販路、商品の売られる範囲。

 では「しじょう」という読み方はどのようにして発生し、拡がり、優勢に成ってきたのでしょうか。以下、私の推測です。

 新明解によりますと、「しじょう」は「いちば」の字音語的表現ということですから、「いちば」を商売人がわざと音読みしたことで出来た言い方なのではなかろうか。この「或る集団が字音読みで自分たちの優越感などを味わう」という心理はよく見られることだと思います。記憶が薄れていますが、軍隊では「編上靴(あみあげぐつ)」を「へんじょうか」と言ったとか聞いたように覚えています。

 そして、特定の業界の専門用語が一般化することがあるというのも言語現象の1つの法則だと思います。これも記憶に頼ることですが、「定番」はアパレル業界か何かの業界用語だったはずです。それが他の業界でも、更に一般人にも使われ、理解されるようになったのだと思います。明鏡でも新明解でも「特定の商品番号」の意といった説明はありますが、このような経緯の説明はないようです。新明解には「衣料品を主として、食品にも言う」とあって、かすかにその変遷を示唆しています。

 最後に、漱石が「こころ」の中で「いちば」でいい所を「しじょう」と読ませている(「しじょう」の用例06)のを考えます。大言海をみますと、「しじょう」では「『いちば」と同じ』としていますが、その「いちば」では上のAからEの5つの意味の内のAとBくらいしか考えていないようです。つまりかつては特に現在で広く使われているC、D、Eは無かったのだと思います。字音読みはあったのでしょうから、後は筆者の癖か感覚の問題でしょう。

 同じ対象について「青物市場(あおものいちば)」と「青果市場(せいかしじょう)」との2つの言い方があるのは分かります。訓読みと音読みの違いです。しかし、海鮮市場(かいせんいちば)(ラジオ深夜便、2014年08月25日)というのを聞きました。

 そもそも「卸売市場」は今やほぼ完全に「しじょう」と読むようですが、これはどうなのでしょうか。私の記憶では、かつては「いちば」だったのではないでしょうか。それとも、「ニュース番組等で、しばしば築地市場の場所を指して『つきじしじょう』と呼ぶことがあるが、場所を指す場合は『しじょう』ではなく『いちば』である」(ウィキペディア)と書いてありますから、その「場所」を指す言葉を「そこで行われている活動」のことと(私が)誤解していたのでしょうか。

 結論として言いたい事は、辞書は語釈にばかり熱中しないで、こういう点を考えるのに役立つ情報も伝えてほしい、という事です。

 なお、似たような問題では、「工場」を「こうば」と読むか、「こうじょう」と読むかの問題もあります。これについては、明鏡も新明解も「『こうば』は『こうじょう』よりも規模の小さいものをいうことが多い」と説明しています。「多い」のであって、決まっているわけではないようです。

  用例

 ★ 市(いち)の用例

 01、「オークションが毎日のように行われているんですか。」「神田の古書会館でやっています。それは業者だけの市なんですけど、一般の人の所有品なども、古書店が買ったり預かったりして出します。(『ラジオ深夜便』2014年9月号。八木正自)

★ 「いちば」の用例

 01、市場(いちば)のイドラ。(イギリス経験論の祖フランシス・ベーコンは人間の認識にとっての先入見を4種あげた。洞窟のイドラ(偶像)、劇場のイドラ、市場のイドラ、種族のイドラである。市場のイドラとは「人々の交際と言語に対する過剰な信頼から起きる偏見」のことだから、「いちば」と読むべきである。)

 02、アムステルダムに住む移民の人たちの多くはイスラム教徒です。市場(いちば)の店先には彼らのための食材も並んでいます。市場(いちば)にはいろいろなお店があります。(NHKTVの番組「アムステルダム」のナレーション)

★ 「しじょう」の用例

 01、西国の豊かな物資が市場(しじょう)に溢れている(NHK「太平記」の中での足利高氏の台詞)。
 02、私たちはずっと薬草やナッツ、ベリーなど、林産物を採ってきました。これからは市場(しじょう)に出さなければと思います。市場(しじょう)に商品を提供し、利益を上げていかなければなりません。(テレビ朝日の登場人物の言葉)

 03、今の市場の要望に応えようとすると、難易度が高くなる。(朝日、2014年08月21日。秩父銘仙の機屋の言葉)
 04、「東京の市場に適合しすぎると、どこでも通用する普遍的な作品をつくれなくなるのでは」と懸念する。(朝日、2014年08月21日夕刊。演劇人の話)

 05、成長が期待できる新市場を育てる観点が必要だ。(朝日、2014年08月24日)

 06、赤い色だの藍色だの、普通市場(しじょう)に上らないような色をした小魚が~(漱石「こころ」第3部28)

 感想・「いちば」と読ませたら、「市場(いちば)に出ないような」となるのでしょう。

驚く

2014年08月21日 | ア行
驚く(驚かされる)(「あわてる、あわてさせる」を含む)

 ①驚の字は、形声(オンを表す部分と意味を表す部分から成る)。音符(オンを表す部分)は「敬(けい)」である。敬は「祈りをする者を殴(う)って、これを戒める」という意味である。馬は特に驚きやすい動物なので、注意されて驚く馬が「驚」で、「おどろく」の意味を示した(常用字解。戒の字は原書の字が出ないので、こう替えた)。

 ②「おどろく」の「おど」は「おぢ(怖)」からの転であろう。意味は「動揺する」である。「目を覚ます」の意味もある。(大言海)

 ③「オドロ」はどろどろ、ごろごろなど、物音の擬音語。刺激的な物音を感じる意が原義。はっと目が覚める。にわかに気が付く。意外な事にびっくりする。(岩波古語辞典)

 感想・②と③では意味の挙げる順序が逆です。

 ④「愕く」「駭く」とも書く。(明鏡)

 ⑤新明解は、「感心する」やその反対の「あきれる」とか「素晴らしい事物に接し、高揚した気分になる」の意もあげ、「驚くなかれ」「驚くほど」といった熟語的表現も載せています。「目を覚ます」の意は「雅語」としています。

 ⑥基礎日本語辞典は、「関連語」の欄で「びっくりする」と「驚く」の比較を行っています。結論として、「驚く」は精神の作用についての客観的な説明で、「びっくりする」は驚かされたことによって生ずる精神の結果、としています。

感想1・私の見たどの辞書にも載っていないことは、「驚く」と「驚かされる」の使い分けです。⑥に言及しました「基礎」では何回か「驚かされる」を使った用例も出しているのに、この問題を扱っていません。著者(森田良行)にこの点の問題意識がないのでしょう。

 私の感覚では「驚いた」で十分な場合に「驚かされた」と受け身表現を使う人が多い、と言うより、どんどん多くなっているように思います。私英語が入ってきてbe surprisedという表現に慣れた人がそれの直訳を使うようになって「驚かされた」という言い方を奇異に感じなくなったのではあるまいか。

 「驚くべき事」といった言い方はありますが、「驚かされるべき事」とは言わないと思います。しかし、他の語では「或る目的が達成さるべき順序」とも「或る目的を達成するべき順序」とも言えると思います。逆に、「言うべき事を言う」とは言いますが、「言われるべき事を言われた」とは言わないと思います。このように、繋がり方も考えてみなければならないでしょう。

 いずれにせよ、辞書はこういう事にも触れてほしいと思うのです。

 「驚かされる」の用例

 01、授業で大学1年生と一緒に文学作品を読んでいていつも改めて驚かされるのは(東大『知の技法』68頁)
 02、私は急に驚かされた。(漱石『こころ』上12)
 03、帰って無い積もりの借金が大分あったに驚かされた(漱石『門』4)

 04、原発を導入した町が必ずしも豊かにも幸せにもなっていないという事実に、改めて驚かされた。(2001,12,23, 朝日)
 05、93歳まで指揮棒を振り続けた生命力には驚かされる。(2002,1,14 、朝日)

   「驚く」の用例

 01、記者会見で辞任を表明した国防相は、涙を流してわびたという。/驚いた。軍がらみの事故でこれほどの透明性は初めての経験だ。(2001,11,13, 朝日)
 02、これは驚くべきことである。

   「あわてる、あわてさせる」の用例

 01、平穏に思えた大晦日の昼過ぎ、ロシア南部のチェチェン共和国からのニュースにあわてさせられた。(2002,1,8, 朝日)

 感想2・日本語辞典(日日辞典)は、漢和辞典も古語辞典も兼ねるべきだと思います。それぞれの専門の辞典ほど詳しくなくてもよいとは思いますが、現代語を理解・運用するのに必要な知識は書いてほしいと思います。

脚の健康 風呂での足マッサージ

2014年08月09日 | ア行
 夜になると誰でも足がむくむ。ぬるめのお風呂でゆっくりマッサージすると、むくみや疲れが解消する。

 浴槽の縁に足を乗せ、足首をゆっくり何度も回す。続いて、足の指の間に手の指を入れてもみほぐし、土踏まず、足首、ふくらはぎとマッサージを進めていく。足にたまった水分を、太もも方向に戻すイメージで行うのがポイントだ。

 マッサージ後は、足首やふくらはぎを少し強めに両手で握り、手の力で筋ポンプ作用を起こす。最後に、ひざの裏側から太ももの柔らかい部分をもみほぐしていく。これを毎日30分以上、ぬるめのお湯の中で行う。

 実はこれ、信州大教授の大橋俊夫さんが美脚モデルから聞いたマッサージ法で、「医学的にみても非常に理にかなっている」という。足の水分はリンパ管だけでなく、毛細血管にも多く戻るので、お湯にゆっくりつかって血流を良くし、足を上げながら行うマッサージは、水分や疲労物質の吸収に大変効果がある。

 足のむくみは、弾力性のあるタイツ「弾性ストッキング」を日中に着用することでも予防できる。

 タイツの締め付けが筋ポンプ作用を補い、水分がたまりにくくなる。しかし、健康な人が弾性ストッキングをはいたまま眠ることはお勧めできない。かえって血流が滞り、血管に血の塊(血栓)ができる危険がある。

 リンパを流すと免疫力が上がる。大橋さんは「適度な運動と簡単なマッサージで健康増進に努めてほしい」と呼びかけている。
(読売新聞ネット版、2014年4月13日。佐藤光展)

 感想

 最近は「長生きしたければ、ふくらはぎをもめ」とかいう本が売れているようです。「長生きしたければ、肉を食べるな」という本もあったと思います。

 私も膝を痛めることがよくありました。足首を痛めたこともあります。1度は整体師に診てもらって、「左の腰骨がズレています」と言われて、治してもらいました。

 昨年も右の膝を痛めましたが、この時は根本原因は分からず仕舞いでした。自分でも色々やってみた結果、現時点で最良と思う方法はこの読売新聞の記事にある方法です。ここに書かれている通りにするのは大変です。私のは、例によって、「最低の必要条件だけしかやらない」といういい加減なやり方ですが、それは「足首を回す」という事です。左右、別々にします。踵をしっかり突っ張るように気を付けます。この点が一番大切だと思います。

 健康体操では「量より質」です。「なるべく」でいいから、正しくやろうと気を付けることが大切でしょう。正しくやるなら、回数は左右1回ずつでさえ好いと思います。そうでないと、長続きしません。まあ、折角なら2~3回くらいやれば上々でしょう。

 「腰痛でも肩こりでも膝痛でもねじれば治る」とかいう本の広告文を見た記憶があります。誇大広告でしょうが、ねじることで治せる痛みもあることは事実だと思います。

      関連項目

健康法

圧倒的

2014年08月02日 | ア行
01、アルゼンチンで開かれた〔海外でののど自慢大会は〕、ブラジル、ペルー、ハワイに次いで四回目の海外大会でしたが、開催にあたっては大きな難関がありました。まず、現地に住む日系人の少なさです。アルゼンチン在住の日系人・日本人はおよそ三万人。それまでの三か所に比べて圧倒的に少なく、出場や観覧にどれだけの人が応募してくれるのかが大きな心配事だったのです。(『ラジオ深夜便』第169号、宮川康夫)

02、日本の住宅は欧米に比べ圧倒的に寿命が短く、30年程度しかもたないとされている……(日経ネット版、2014年7月30日。長嶋修)

03、とはいえ軍事力は圧倒的に劣勢。(朝日、2014年08月13日)

感想・「少ない」とか「短い」とか「劣勢」という形容詞を強調するのに「圧倒的に」という語を使うのは適当でしょうか。私には違和感があります。しかし、「二人以上の別々の人が使っている場合は、その用語法は、適当か否かに関係なく、広く使われていると判断して好い」というのが、私の経験則です。

 明鏡を引いてみました。「比べ物にならないほど、他をしのいでいる」という語釈の後に、「能力や程度が他よりひどく劣ることをいうのは一般的でない」として、「圧倒的な負け」と「圧倒的に弱い」を例示していました。

 新明解(第6版)にはこの点についての指摘はありませんでした。

 私の持っている明鏡第二版は2012年4月発行となています。今では「正しくはないが、今ではこれ〔劣っている場合に使う事〕も一般的になっている」という但し書きが必要でしょう。

 「少ない」と「短い」を引いてみましたら、明鏡にも新明解にも、それらをを強調する表現についての記述はありませんでした。強調表現も載せてほしいものです。

 明鏡には「『少ない』を表す表現」として、「雀の涙」とか「九牛の一毛」とかが載っていました。これはありがたいと思います。

備考・2014年08月13日に加筆。


痛み(身体の痛み)

2014年07月31日 | ア行
腰痛」で辞書を引くと「腰の痛み」という「語釈」があります。こんな事をわざわざ書く必要がどこにあるのかと思います。

 では「膝(ひざ)の痛み」は何と言うのだろうと、「しっつう」で引いてみますと、載っていません。パソコンで「しっつう」と入れて検索してみましたら、「膝痛」と出てきました。

腹痛と胃痛は誰でも知っています。「腸の痛み」は普通は腹痛と感じられるので、「腸痛」はないのでしょう。

 首の痛みは「しゅつう」と言うのでしょうか。肩の痛みは「けんつう」でしょうか。この二つはパソコンでも出てきませんでした。頭痛はもちろんありますが、頭の部位については歯痛は有名ですが、眼痛(がんつう)などという言葉はあるのでしょうか。

「耳が痛い」は「身体的な痛み」ではないと思います。「心痛」も「心臓の痛み」ではないでしょう。

 筋肉痛はあります。しかし、足ないし脚の部位については「膝痛」を除くと、「かかとが痛い」とか「太ももの裏が痛い」といったように言わなければならないようです。

 こう考えてみますと、身体の部位の痛みには、きちんとした名前のあるものと、「どこそこの痛み」と言わなければならないものとの二種のあることが分かります。

 辞書にはこういう事も書くべきではないでしょうか。

一層

2014年07月28日 | ア行
 01、それには、先に三省堂から発行されていた「金田一京助(きんだいち・きょうすけ)編」の中学・高校の国語教科書によって一層高められていた「金田一京助ブランド」の知名度・信用度も貢献していた。(佐々木健一著『辞書になった男』文芸春秋、104頁)

 感想・「一層」の語釈として、明鏡は「それより以上に程度が高まるさま」とし、新明解は「それまでにもある段階に達していたところに、その条件が加わることでより程度の進んだ状態になる様子」としています。

 私なら次のように書きます。「『層』は建物の一つの『階』のことでしょうから、『一段と』という意味の副詞が元の意味ないし用法でしたが、欧米語の比較級に接して、比較級という観念が無く、比較級を原級で表現していた日本語に、それに対応する言葉が必要だと思った人々が多用するようになった」。ここも、本来なら、「中学・高校の国語教科書で高められていた金田一ブランドの知名度」で十分だったでしょう。

 用例としては、明鏡は「台風の接近で風雨が一層激しくなった」を挙げています。新明解は、「末っ子だから一層可愛い」等を挙げています。前者は「一層」が無くても同じですが、後者では「一層」が必要でしょう。ネイティヴによる英訳で比較級が使われるか否かを見てみるのも、考えるヒントを与えてくれるでしょう。誰か、適当な用例(和文とその英訳)を教えてください。

 ★ より

 明鏡は「比較を表す副詞の『より』」についてこう書いています。「格助詞「より」から。今では翻訳的な感じもなくなったが、もともとは欧文の比較級を訳すために案出されたもの」。新明解は「翻訳調の言い方で」としているだけです。我々はガキの頃、「よりベター」などと言ってふざけたものです。

 02-1、長期の療養生活を経て気力と体力を取り戻したケンボー先生は、その後、辞書作りという仕事により一層、情熱を傾けていく。(『辞書になった男』文芸春秋、102―3頁)

 02-2、山田〔忠雄〕の語釈は、版を重ねるごとにより先鋭化し、過激になっていった。(佐々木健一著『辞書になった男』文藝春秋、243頁)

 02-3、野田氏は長男の誕生がきっかけになり、障害児の問題により力を入れて取り組んでいる。(朝日、2014年07月26日、秋山訓子)

 感想・今では当たり前のように使われる「より一層」ですが、本来は重言でしょう。用例01の感想の中で引きました明鏡の語釈の中にも「より以上に」などという表現が見られます。一般的に言って、日本人による外国語文献の翻訳は直訳にすぎる傾向があります。

 02-1は「ますます情熱を傾けていく」で十分でしょう。02-2も02-3も、「より」は、本来は、いらなかったものでしょう。そう言うと、02-3などは、「より」がないと「以前にも増して」ということがはっきりとは分からなくなる」と反論する人もいるでしょう。しかし、日本語はそういうものだったのではないでしょうか。「より」が無くても「大体」分かるじゃないですか。

 ★ 比較級を日本語はどう表すか。英独仏はそれをどう訳すか。

 01、しかし我々は真面目でした。我々は実際偉くなるつもりでいたのです。ことにKは強かったのです。
 独・Aber wir meinten alles ernst und hatten uns tatsächlich vorgenommen, einmal beruümt zu werden. K. mehr noch als ich.
 英・K’s willpower was particularly strong.
 仏・K surtout, qui avait une grande force d’âme.