第四節 伊藤嘉昭(よしあき)氏
この方についてはウイキペディアに詳しく書かれています。要するに、昆虫学者として多くの業績をあげた方のようです。しかし、同時に、人類の起源についても深い関心を持っていて、自分でアフリカなどに行って類人猿の社会や行動を観察するようなことはなかったようですが、その方面の報告をよく追いかけて、唯物弁証法を知らない著者達の解釈を批判していました。そのために、そういう報告を自分では読めない我々唯物弁証法の立場に立って考えたいという学生は伊藤氏の夲や解説を熱心に読んだものです。
氏のその方面での見解の集大成が、一九六六年に紀伊國屋書店から出版された『人間の起源』です。そして、それをベースにして、マルクス主義の立場で勉強したいという人のために書いたものが『原典解説・サルが人間になるにあたっての労働の役割』(青木書店、一九六七年)です。
この二冊の夲が出てから五五年が経過しており、伊藤氏は亡くなっていますが、私はその後の研究の発展を知りませんので、この夲で考えます。第二の伊藤嘉昭が出てほしいです。
さて、この本の中で伊藤氏は人間を「道具を作る動物」とする定義と合わない事実の報告を紹介してこう書いています。
さあ大変です。チンパンジーでも「道具を作る」ことが分かったのです。伊藤氏はこれを次のように解決しようとしました。
『原典解説』を出すのは「読者がエンゲルスの論文を読んで、弁証法的唯物論の正しい適用を学べるようにするためだ」(四頁)と書いているのですから、自分自身はその十分な適用能力があると、確信しているのでしょう。
では、「人類への決定的な一歩」を「素晴らしい威力」の中に見る伊藤説は本当に正しいでしょうか。私牧野紀之は反対です。なぜかと言いますと、そもそもこういう根本的な判断の基準を「素晴らしい威力」といった「量」ないし「程度」の中に求める事自体が、根本的に間違っていると思うからです。こういう考え方は弁証法ではないと思います。
あえて言うならば、「決定的な一歩」で作られたものは、その「威力」に関しては、「偶然拾ってきたのだが格好が合理的な石」より劣るものでも好いと思います。その「作られた道具」は、しかし、「作られた」という点に「これから無限に改良できる」という可能性があるからです。ですから、大切な点は、耐久性のある素材で作られているということです。
第五節 母語とは何か(→次稿)
この方についてはウイキペディアに詳しく書かれています。要するに、昆虫学者として多くの業績をあげた方のようです。しかし、同時に、人類の起源についても深い関心を持っていて、自分でアフリカなどに行って類人猿の社会や行動を観察するようなことはなかったようですが、その方面の報告をよく追いかけて、唯物弁証法を知らない著者達の解釈を批判していました。そのために、そういう報告を自分では読めない我々唯物弁証法の立場に立って考えたいという学生は伊藤氏の夲や解説を熱心に読んだものです。
氏のその方面での見解の集大成が、一九六六年に紀伊國屋書店から出版された『人間の起源』です。そして、それをベースにして、マルクス主義の立場で勉強したいという人のために書いたものが『原典解説・サルが人間になるにあたっての労働の役割』(青木書店、一九六七年)です。
この二冊の夲が出てから五五年が経過しており、伊藤氏は亡くなっていますが、私はその後の研究の発展を知りませんので、この夲で考えます。第二の伊藤嘉昭が出てほしいです。
さて、この本の中で伊藤氏は人間を「道具を作る動物」とする定義と合わない事実の報告を紹介してこう書いています。
「最近〔一九六七年から振り返って最近〕、イギリスの女流学者グッドールは、森林と草原の境界線ふきんに進出した野生のチンパンジーで大変興味あることを発見しました。チンパンジーはアリの幼虫やシロアリを食べるのが好きですが、そのさい、手近な草の茎をとって、それをアリ塚にさしこみ、そのさきにくっついた幼虫をなめるのです(グッドールはこれを「アリ釣り」とよびました)。手近なところにちょうどよい草がない時は、アリ塚から離れた所で草の茎を取り、じゃまになる葉を取り去って使いよいようにしました。この観察は、別の所でチンパンジーをしらべていた日本の研究者によっても確認されました」。(原典解説、五八頁)
さあ大変です。チンパンジーでも「道具を作る」ことが分かったのです。伊藤氏はこれを次のように解決しようとしました。
「人間は石器を作る前にも、木の枝を加工したり、そのほか種々の道具を作ったかもしれません。オーストラロピテクスを発見したダートは、石器時代よりまえに、殺した動物の骨や角をいくらか加工して使う、歯角(しかく)文化の時代があったと想像しています。しかし、こういう石以外の道具は、かりにあったとしても、残りにくいので、確実なものが発見されていません。いずれにしても、人間への「決定的な一歩」は、素晴らしい威力を持った石の道具がつくられたに踏み出されたと言うべきでしょう」。(同上書五九頁)
『原典解説』を出すのは「読者がエンゲルスの論文を読んで、弁証法的唯物論の正しい適用を学べるようにするためだ」(四頁)と書いているのですから、自分自身はその十分な適用能力があると、確信しているのでしょう。
では、「人類への決定的な一歩」を「素晴らしい威力」の中に見る伊藤説は本当に正しいでしょうか。私牧野紀之は反対です。なぜかと言いますと、そもそもこういう根本的な判断の基準を「素晴らしい威力」といった「量」ないし「程度」の中に求める事自体が、根本的に間違っていると思うからです。こういう考え方は弁証法ではないと思います。
あえて言うならば、「決定的な一歩」で作られたものは、その「威力」に関しては、「偶然拾ってきたのだが格好が合理的な石」より劣るものでも好いと思います。その「作られた道具」は、しかし、「作られた」という点に「これから無限に改良できる」という可能性があるからです。ですから、大切な点は、耐久性のある素材で作られているということです。
第五節 母語とは何か(→次稿)