マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ノソノソ宣言

2020年12月21日 | 読者へ
   ノソノソ宣言

 今までも「鈍足のマラソンランナー」でしたし、最近は更に遅く「牛歩のマラソンランナー」と成っていましたが、今後はそれを更に徹底するために「ノソノソ宣言」を出して、皆さんのご理解を得たいと思います。

 オンデマンド選書で2つの作品を出したので、例によって悪い癖が出て、『許萬元のヘーゲル研究』をサット片付けて、その後に『精神現象学の序言と序論』という題で適当な解説を付けて、「第2版」への批判ないし不満に応えよう、と考えて仕事に掛かりました。
 そうしたら、覿面に過労になり、体調を崩しました。仕事は行き詰まりました。
 その上、『許萬元のヘーゲル研究』については読者が、私の知らない論文を探してきてくださいました。これは「嬉しい悲鳴」でした。内容的には、大体中程度の問題しかありませんが、1つだけ大問題があります。

 それは許萬元が論文「ヘーゲルにおける体系構成の原理」の中で論じています「アリストテレスに由来する質料原理と形相原理」というものは、私が論文「実体と機能」でテーマとしている事柄と同じ問題を考えているのだと思いますが、それは更に廣松が「物象化」という言葉で捉えているのとも同対象ではないか、と気付いたことです。

 しかるに、私は許萬元はほとんどすべて、廣松はほんの少し読んでいますが、許萬元は私の物は密かに読んでいると思いますが、廣松は、多分、読んでいないと思います。では、廣松はと考えてみますと、我々の物は、多分、ぜんぜん読んでいないと思います。

 ついでですので、廣松と私との接点についてお話ししておきますと、それは2回あったと思います。最初は、私が本郷の哲学科に移った年です。60年安保闘争の真っ最中でした。ですから1960年の春のことです。何かの時に、当時、大学院生だった(と思います)廣松が研究室の中で我々の議論に加わったのだと思います。「君はマルクスのコレコレ(論文名は覚えていません)を知っているか!」と怒鳴りつけたのです。私は何もいえませんでした。友達は私に対して、「もの凄い論敵を持ったね」と言ってくれました。

 2回目は、日本哲学会の総会で、私が「ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理」という題で発表をした日だったと思います。ですから、1971年の5月だったと思います。その年はたまた総会が東京で開かれたのです。発表が終わって、許萬元さんと二人で控え室でくつろいでいる時に、廣松が横を通りかかりました。そして、立ち止まって、「こちらが許萬元さんで、こちらが牧野さんですね」と、我々の名前を知っていることを証明して、通り過ぎました。以上です。

 話を元に戻して、この同一の対象ないし問題についてのこの三人の理解の仕方はどう違うか、それと関連して用語の違いをどう整理して、正しい用語をどう提案するか、という問題が出てきます。これはかなりの問題です。しかし、ここまで来て逃げるわけには行きません。まず許萬元の言う「アリストテレスにおける質料と形相」が、本当にアリストテレスにあるのかが問題です。哲学辞典には「質料は材料みたいなもので、その材料に一定の形を与えるのが形相だ」といったことしか書いてありません。ヘーゲルは過去の哲学を理解するときには、そこに自分の考えを強引に読み込む癖のある人ですから、彼の『哲学史講義』でアリストテレスの項を読み直してみなければなりません。これはかなりの仕事です。

 廣松の物象化論については、あの難解な日本語を読むのは辛いので止めます。熊野純彦の解説を手掛かりにして岩波現代文庫『物象化論の構図』を最近、読み返したのですが、早くも根本的な疑問が出てきました。廣松は、木材で机を作った人が、自分で使うのではなく、商品として、値段を付けて売りに出した時、「その机を物象化した」あるいは「その机は物象化された」と言うのだと思います。実際は、反対ではないでしょうか。「机は観念化された」と言うのが正しいのではないでしょうか。

 その机が出来るまでには、森の中に生きている樹木が伐採されて「原木」になり、それが売られて「材木」になり、更に机制作者に買われて「材料」になるのでしょう。これらの一つ一つの「意味の変化」もみな売買という行為に媒介されていますから、「観念化」があるのですが、普通は、最終消費者に買われる場合だけを考えているようです。

 いずれにせよ、マルクスが商品を ein sinnlich uebersinnliches Ding (感性的な姿をしているがその社会的な意味は超感性的な物、頭で考えなければ分からない物)と言ったのはこういう事だったと思います。ですから、この意味の変化は「物象化」ではなく、即ち、「感覚では理解できないものが感覚で理解出来る物に成る」と言うことではなく、その逆の変化だと思います。つまり「観念化」だと思います。
 もう1度『資本論』の該当箇所を読んで又考えてみます。

 こんな事を考えているのですが、それと平行して、「維新」の意味だとか、免疫力を高める乾布摩擦の意義だとか、台湾の民主主義だとか、幼児の言葉遣いとかを論じていますが、私見では、哲学者に取ってはこういう応用問題の方が重要なのだと思いますので、これを止める訳にはゆきません。

 それに夫婦共に衰えてきていますので、家事にも時間がかかり、間違いが頻発しています。
 まあ、これは言い訳として、ともかく、無理に頑張って勉強するのは止めようと思います。つまり、現在の力の八割くらいにして、間違っても120パーセントくらいの力でがんばるのは、今後一切止めようと思います。これの方が、結局は多くの仕事が出来ると思います。

 どうぞ事情を理解して下さって、私のノソノソした仕事の仕方をお許し下さいますようお願いします。牧野紀之
 2020年12月21日、81歳の誕生日の直前に






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物象化 有機体と分肢 (風元讓)
2020-12-24 13:40:18
人と自然・人々・人と人の思いは本来一つの調和であるのに分裂してしまっているのが疎外であり物象化とは人々の分裂が物の結びつきによって代償されていることでそれは疎外の一種である。『経済学・哲学草稿』の疎外論から『ドイツ・イデオロギー』の物象化論へと別のものになったのではない。



「Über das Wesen der Teilung der Arbeit ~ d.h.,über diese entfremdete und entäußern Gestalt der menschlichen Tätigkeit als Gatlungstätigkeit」Bedürfnis,Produkktion und Arbeitsteilung『Ökonomisch-philosophische Manuskripte』557
「分業の本質について~すなわち類的活動としての人間的活動の疎外され外化された形態については」欲求・生産・分業『経済学・哲学草稿』



「~ Das Geld ist der Kuppler zwischen dem Bedürfnis und dem Gegenstand, zwischen dem Leben und dem Lebensmittel des Menschen. Was mir aber mein Leben vermittelt, das vermittelt mir auch das Dasein der andren Menschen für mich, Das ist für mich der andre Mensch.」Geld 563
「貨幣は人間の欲求と対象の間の人間の生活と生活手段の間の取持役である。私に私の生活を媒介してくれる物は又私に対する他の人間の現存をも私に媒介してくれる。それは私にとって他の人間なのである」貨幣



「Die Eigenschaften des Geldes sind meine - seines Besitzers - Eigenschaften und Wesenskräfte.」564
「貨幣の属性は私の - 貨幣所有者の - 属性であり本質的力である」
「~ des Geldes liegt in seinem Wesen als dem entfremdeten, entäußernden und sich veräußernden Gatlungswesen der Menschen. Es ist das entäußerte Vermögen der Menschheit.」565
「~疎外され外化され自己を譲渡された人間の類的本質としての貨幣の本質に。それは人類の外化された能力である」



この通りで『経済学・哲学草稿』に疎外としての分業、それを疎外された状態で取持ってくれる貨幣、人間が疎外されて貨幣という物象になることが既に全て出てくる。



「Das Geheimnisvolle der Warenform besteht also einfach darin, daß sie den Menschen die gesellschaftlichen Charaktere ihrer eignen Arbeit als gegenständliche Charaktere der Arbeitsprodukte selbst, als gesellschaftliche Natureigenschaften dieser Dinge zurückspiegelt, daher auch das gesellschaftliche Verhältnis von Gegenständen. Durch dies Quidproquo werden die Arbeitsprodukte Waren, sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge.」

ERSTES BUCH Der Produktionsprozeß der kapitals
ERSTER ABSCHNITT Ware und Geld
Erstes Kapitel. Die Ware
4.Der Fetischccharakter der Ware und sein Geheimnis『Das Kapital』86

「だから商品形態の秘密は次のことのうちにある、商品形態は人間に対して人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ物の社会的な自然的属性として反映させ総労働に対する生産者達の社会的関係をも彼らの外部に実存する対象の社会的関係として反映させる。この取り違えによって労働生産物は商品、感性的で超感性的または社会的な物となる」
第一部 資本の生産過程
第一篇 商品と貨幣
第一章 商品
第四節 商品の物神的性格とその秘密
『資本論』


https://onedrive.live.com/?cid=7878F3F805A66CBA&id=7878F3F805A66CBA%21133&parId=7878F3F805A66CBA%21118&o=OneUp
許萬元『ヘーゲルにおける体系構成の原理』
「黒人は黒人である。彼はただ一定の諸関係のなかではじめて奴隷となる。紡績機械は糸を紡ぐ機械である。それはただ一定の諸関係のなかではじめて資本となる。これらの関係からきりはなされたならば - それは資本ではない。」
「黒人は黒人である」、「機械は機械である」、という規定は全体的連関をはなれてもそれ白身として、自己同一的に存立しうる質料規定であろう。だが、奴隷という規定や資本という規定は全体の体系的連関をはなれては存立しえない「形相規定」なのである。あらゆる物神性が質料規定と形相規定との混同に起因していることを、マルクスが『資本論』において見事に暴露して見せたのは周知の通りであろう。


https://blog.goo.ne.jp/maxikon2006/e/eb17170aef942a405c682b4b3680b2c7
牧野紀之『実体と機能』2009年10月18日マキペディア
「幾何学上の点は実在しない」と言いますが、それは「実体として実在していない」だけです。機能として実在しています。紙の上に鉛筆で「黒鉛の山」を作ってそれを「点」と称するのは、目に見えない機能(位置だけあって広がりのないという事)を暗示させるためです。その「黒鉛の山」は目には見えない点を想像して考えるのを助ける「働き」をしています。ですから、それは「点として機能している」のであり、「点」なのです。つまり、「点は実在している」のです。




これは有機体の分肢としての一器官が有機体総体から独立には存立できない、資本制社会における資本としての紡績機械、幾何学理論体系における点、分肢、は実在してはいるがそれは質料あるいは実体もしくは独立生体としてではなく形相あるいは機能もしくは分肢としてであるといったことであろう。

売りに出して買われたらそれは単に私的意義を持つていただけの物から社会的意義を持った物になる。社会的と観念的はイコールではないが社会的であることは間違いなく物的ではなくそれは超感性的である。社会的ということが疎外された状況で商品という物になるのが物象化。疎外された状態でではなく社会的に自覚的な類的活動として生産すれば生産された物は商品にはならずその社会性は当然のことながら物としてではなくそのまま社会性としてあるし社会性として認識される。
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物象化 有機体と分肢2 (風元讓)
2020-12-24 13:41:11
https://news.yahoo.co.jp/articles/3495d3d29de995c75ccd646b6220857d4ff3d9e6
西野亮廣「本当は一番必要なのに、日本の学校がまったく教えないこと」(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
12/18(金) 15:16

「そのあたりから、「世界を狙う」とか「ウォルト・ディズニー超える」みたいなことを言うと、日本中からすごくバッシングされたんですよ。僕の時間を使って、僕が挑戦しているだけなんで、たぶん誰にも迷惑はかけていないはずなんですが、どうも周りはそれを許さなかった。
――なぜ、許さなかったのだと思いますか? 
みんな自分の夢と折り合いをつけたからだと思います。要するに、大人になる過程でみんなどこかで折り合いをつけているから、「お前も折り合いつけろよ」っていう力学が働いたと思うんです」


https://news.yahoo.co.jp/articles/3495d3d29de995c75ccd646b6220857d4ff3d9e6?page=2

「――日本人はそもそも、どうして夢を持てなくなっているのでしょう? 
夢を諦めないといけない確率が上がっちゃっているっていうのがあると思います。理由はいくつかあると思うんですけど、日本の場合だと、どんどん人口が減って(市場が小さくなって)いる。そういうところで、ちょっと夢を見にくくなっていると思います。だけど、それは言ってもしょうがないことなので、今から頑張れる部分でいうと、やっぱりお金の教育を徹底的にしなかったっていうところ。日本人って幼稚園から始まって、高校でも、大学でも、お金の勉強をしないじゃないですか。それで、社会に出てようやく、「あれ、お金ないな」とか、「ちょっと待って、お金増やすってどうするんだっけ」みたいなことになっている。挑戦しようと思ったら、お金は絶対に必要です。生活費や何かしようと思ったら予算が必要になってくるし、そういったものを集めるノウハウの勉強を一切してないと、当然夢を諦めないといけない確率が上がってしまう。
――夢を持っても、お金がないから無理だなって思ってしまう。
はい。みんながそういう状況なんで、結局諦めざるを得ない。要は、シンプルに、みんなの目が死んでいる理由がお金の知識不足である、っていう。クラウドファンディングだって」

「――どうして学校教育でお金のことを教えていないのでしょう。
踏み込んだ話をすると、そっちの方が支配しやすいからだと思います」


ヘーゲルの概念とマルクスの賃労働者階級
牧野紀之『ヘーゲルからレーニンへ』
「人間は、誰でも、第一章第一節に述べたような過程をたどって、個人的自我を形成し、十五歳前後で自我に目覚める。それと共に、一切のものを自分の直接的利害から離れて客観的に考察し始める。それによって自主性を獲得し、個性を形成し始める。社会に関心を持ち、二十歳になれば選挙にも関係するようになる。しかし、この頃に大きな転機がやってくる。就職である。結婚して家庭を持ち、自分で自分の生活を支えなければならなくなる。今迄は、何と言っても、結局は親の保護下にいたのに、これからは独立した経済人として一人でやって行かなければならない。その経済社会はお金の世の中である。しかし、お金がそのまま働くのではない。お金を握っている人々が、その握っている力を使って関係し合うのである。ここにおいて、お金の力とか、人事権とか、大小の権力というものに直面することになる。これまでは個人的な自我を純粋に形成できたかもしれない。しかし、これからはお金の力を考えなければならない。正しいと思う事を主張することが、自分の生活を脅かすこともある。組織の中に入り、人事権を握っている上司の言う通りにして自分の頭で考えない方が、保身や出世に都合のよい場合の方が多いのである。かくして、正しく生きるために生まれ、一切を疑うことから出発した思考が、生きるためには邪魔になり、自主規制するようになるという現実があるのである」





https://www.youtube.com/watch?v=pdaSg5kkp8c
【宮迫×中田】西野亮廣(前編)〜12年 夢を信じぬいた男の死闘〜【Win Win Wiiin】 - YouTube
2,520,269 回視聴•2020/12/19に公開済み
中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY
チャンネル登録者数 332万人
WinWinWiiin(ウィン ウィン ウィーン)
宮迫博之と中田敦彦によるトーク番組
ゲスト:キングコング 西野亮廣


https://www.youtube.com/watch?v=udaAFc5ahuo
【宮迫×中田】西野亮廣(後編)〜宮迫さんを吉本に戻して下さい〜【Win Win Wiiin】 - YouTube
1,861,838 回視聴•2020/12/19に公開済み
宮迫ですッ!【宮迫博之】
チャンネル登録者数 126万人1,861,838 回視聴•2020/12/19に公開済み



クラウドファンディングは日本の法規に合わせるため商品を買っている形になっているがその本旨はこの場合絵本を出版するために皆で協力しようということである。win win wiiinということも西野亮廣にギャラは出ているかも知れないがそれでもそれは第一義的には各人の自由な展開が万人の自由な展開の条件であるような一つのアソシエーションをということであろう。





許萬元『ヘーゲルにおける体系構成の原理』
「ヘーゲルにおける体系構成の論理は、質料的原理と形相的原理とを自己深化的発展の原理でもって媒介し、1つの円環を形づくる、という点にある。そして、体系が体系として存立するのは、進展の最後の形相的原理が主体となり、すべての質料規定を形相的規定に変じ、「絶対的形相(absotute Form)」の内容としての「形相の総体性」を形成することによってなのである」


これはアリストテレスも同じで思惟の思惟には質料はなくそれは純粋な形相ということのようです。対象がないあるいは対象も思惟自身ということで。




許萬元『ヘーゲルにおける体系構成の原理』
「「絶対理念」は「概念」の生命体論的な論理的本性を完全に具現したものであり、ここでは、いかなる内容も「形相規定」として全体の有機的モメントをなし、全体との関係をはなれてはもはや存立することはできないのである」


実に良い
先生の『許萬元のヘーゲル研究』は是非読ませていただきたいです


関連して『ヘーゲル論理学における概念と本質と存在』(牧野紀之訳『小論理学』付録3)にも触れたいのですが長くなり過ぎましたのでもうやめます。現在の力の八割くらい、にすれば絶対的必然性は無理でも実在的必然性ぐらいにはなるのではないでしょうか
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