軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

堀文子さん

2019-03-22 00:00:00 | 日記
 このところ、米沢富美子さん(1月17日、80歳)、堀文子さん(2月5日、100歳)、堺屋太一さん(2月8日、83歳)と、大阪、軽井沢に関係している方々の訃報が相次いだ。

 米沢富美子さんと、堺屋太一さんは大阪生まれ。堀文子さんは軽井沢にアトリエを持ち、創作活動を行っていた。
 
 米沢富美子さんの名前は、同じ物性物理学を学んだ関係で早くから知っていたし、堺屋太一さんについては言わずもがなであるが、堀文子さんのことを知ったのは、このお二人に比べるとずっと後になってからのことであった。

 「サライ」というちょっとおしゃれな雑誌が、上越市に赴任していたころ、治療のためにしばらく通っていた医院の待合室に置かれていた。その中に堀文子さんが連載していた「命といふもの」という書きおろしの画と文のページがあった。

 この連載がとても好きになり、私もこの雑誌を購読するようになった。その後の引っ越しの繰り返しの中で、大量にあった書籍を処分しなければならなくなり、今捜してみると、手元に残っている「サライ」は2冊だけになっていた。「鎌倉」をとりあげた新緑特大号と、「軽井沢」をとりあげた号である。


サライの表紙・2005年5月発行の鎌倉特集号


サライの表紙・2010年8月発行の軽井沢特集号

 読み返してみると、2005年5月19日号の第19回の「命といふもの」は「花菖蒲」という題で書かれていて、自宅の庭にも植えていたという多種の花菖蒲が、自らの転居癖(筆者注:大磯の自宅はずっと残されていた)のために世話を怠り、今は見る影もなくやせ細っていることを、自身の老いと重ね合わせ嘆いてみせている。

 2010年8月10日号は、第127回であるが、「多田富雄先生に捧げる」という題で、2010年4月21日ということなので、この本の発行の数か月前に亡くなった同氏との思い出が記されている。

 多田富雄氏のことを「免疫学者として偉大な業績を残しながら文学者としても沢山の名著を残し、更に驚く事に能作者でもあった。現代の問題や悲劇をテーマに、『一石仙人』『原爆忌』等、沢山の能を書き続けた。科学と哲学と芸術。神と人。生と死。この根源の問題を問い続け、細分化を追い元の幹を忘れた現代を憂え、能率主義、経済優先に目の色を変え、かつての美しさ、つつしみを忘れた今の日本の行方を案じられた。」とし、「・・・科学者にはシェークスピアを、文学者には相対性理論を読めと忠告され、専門化の進む現代の危機を死の間際まで訴え続けた。先生の思想を受けつぐ者として私も死の日まで志をまげず、日本の美を守り続けて行きたいと思う。」と結んでいる。

 次の堀文子さんとの出会いは、東京に住んでいた時のことで、2010年10月に平塚市美術館で開催された「堀文子展」であった。「サライ」で毎号の画は見ていたが、1941年の初期の作品から2009年の近作までを見ることができるということで、これらを見てみたくて早速出かけてきた。


堀文子展会場の平塚市美術館(2010.10.10 撮影)


堀文子展案内掲示(2010.10.10 撮影)

 この時の図録によると、館長・草薙奈津子さんの「ごあいさつ」には「絵を描いて75年、日本画壇を代表する画家・堀文子の展覧会を開催します。関東では6年ぶり、公立美術館では初の展覧会となります。」とあって、初期から現在(当時)にいたる新発見作品もまじえた代表作を中心とする約80点の作品が展示された。約80点とあるのは、77点の作品と、絵本の表紙と挿絵78-1~8、79-1~10、80-表紙・1~15が展示されていたからである。

 作品は国内25ヶ所以上の美術館・関係機関と個人収集品から集められていて、その中には軽井沢の「星野リゾート」の名前も見られた。

 堀文子さんは軽井沢にアトリエを持ち、作品を生み出していたが、展示作品の中では、44番目の「初秋」(1981年)から54番目の「流れ行く山の季節」(1990年)がその頃のものと思われ、浅間山、離山や周辺の景色と生き物の姿が描かれている。軽井沢以前の作品の中にもよく鳥や昆虫が描かれているが、上記11作品の中の5作品に、ヒョウモンチョウ、ミヤマカラスアゲハ、ホトトギス、キツネ、キジ、アカゲラ、シジュウカラ、アカタテハ、ミスジチョウの姿が見える。
  

堀文子展図録表紙

 この図録から堀文子さんの略歴をたどってみると次のようである。

1918(大正 7)年     7月2日、父竹雄、母きよの6人兄姉の4番目の子として東京都麴町区平河町(現・千代田区平河町)二丁目十三番地に生まれる。父は大阪出身でロシア史を専攻する歴史学者、母は信州・松代藩の士族の出で、日本画家・荒木十畝に習ったことがあるという。
1923(大正12)年 5歳  自宅で関東大震災を体験。
1931(昭和 6)年 13歳  東京府立第五高等女学校に入学。3年次、画家を志す。
1936(昭和11)年 18歳   自宅近辺で起こった2.26事件を間近に経験する。東京府立第五高等女学校を卒業、女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科日本画部に入学。
1939(昭和14)年 21歳  第二回新美術人協会展に《原始祭》が初入選。
1940(昭和15)年 22歳  11歳年上の日本画家、柴田安子を訪ね、傾倒する。長野・大門峠の柴田の山荘に過ごす。女子美術専門学校師範科日本画部を卒業。知人の昆虫学者の依頼で幼虫の記録画を描く。
1941(昭和16)年 23歳  東京帝国大学(現・東京大学)農学部作物学教室で、農作物記録係を務める。これを機に、神楽坂の近く、江戸川橋近くの石切橋に住む。
1942(昭和17)年 24歳  新美術協会員となる。
1944(昭和19)年 26歳  恵泉女学園教師を務める。
1945(昭和20)年 27歳  兄と弟戦死。戦火で自宅消失。
1946(昭和21)年 28歳  外交官・箕輪三郎と結婚。逗子に住む。
1949(昭和24)年 31歳  女流画家協会会員となる。土門拳、岡田謙三と八丈島を旅行する。
1950(昭和25)年 32歳  父親を失う。創造美術会員となる。
1952(昭和27)年 34歳  前年度の作品《山と池》で第二回上村松園賞を受賞。
1955(昭和30)年 37歳  小川未明著・堀文子絵『未明童話選集』がサンケイ児童出版文化賞を受賞。宮沢俊義・国分一太郎・堀文子『わたくしたちの憲法』が毎日出版文化賞を受賞。
1956(昭和31)年 38歳  『こどものとも』創刊号(福音館書店)に「ピップとちょうちょう」(作・与田準一、画・堀文子)が掲載される。
1960(昭和35)年 42歳  夫箕輪三郎を失う。
1961(昭和36)年 43歳  初の海外旅行。西洋の歴史が始まったところから順序立てて見るためにエジプト、ヨーロッパ、アメリカ、メキシコへ出発。
1964(昭和39)年 46歳  四月に帰国。
1965(昭和40)年 47歳  初の個展、堀文子作品展(日本橋・高島屋)開催。
1967(昭和42)年 49歳  神奈川県大磯、高麗山の麓に転居。
1972(昭和47)年 54歳  イタリア・ボローニャの第9回国際絵本原画展で絵本『くるみ割り人形』(学習研究社)がグラフィック賞受賞。
1973(昭和48)年 55歳  外房・大原の椿の里を訪ねる。
1974(昭和49)年 56歳  多摩美術大学教授となる(のち客員教授)。
1975(昭和50)年 57歳  『山川草木譜』(山本健吉・文、堀文子・画、TBS出版事務局)刊行。トルコ、イランへ旅行。
1978(昭和53)年 60歳  NHKの「今日の料理」のテキスト表紙絵を担当(~1982年3月まで)。
1979(昭和54)年 61歳  長野県北佐久郡中軽井沢にアトリエをもち、大磯と往き来する生活を始める。
1980(昭和55)年 62歳  母親を失う。
1987(昭和62)年 69歳  イタリア・トスカーナの郊外にアトリエをもつ。
1990(平成 2)年 72歳  国際花と緑の博覧会の花と緑・日本画美術館(大阪・鶴見緑地)に「流れ行く山の季節」(161.5x129.7)を出品。
1992(平成 4)年 74歳  イタリアのアレッツォ市で、堀文子日本画展開催。イタリアの住居を引き払う。
1995(平成 7)年 77歳   植物学者・宮脇昭博士と共に、アマゾン、メキシコ、ユカタン半島のマヤ遺跡を取材旅行。
1997(平成 9)年 79歳  『婦人画報』に各界著名人との対談「堀文子の人生時計は”今”が愉し」の連載を始める。
1998(平成10)年 80歳  ヒマラヤを旅行。ペルーにインカ文明を取材。
1999(平成11)年 81歳  幻の高山植物ブルーポピーを求めヒマラヤ山麓を取材旅行。多摩美術大学客員教授を辞す。
2000(平成12)年 82歳  ネパールに旅行、ブルーポピーをスケッチする。 
2001(平成13)年 83歳  解離性動脈瘤で倒れるが、自然治癒。病後、顕微鏡で微生物の世界を覗き見ることを始める。 
2004(平成16)年 86歳  雑誌「サライ」に「命といふもの」連載開始。現代史訳・般若心経絵本『生きて死ぬ知恵』柳沢桂子/堀文子刊行。
2006(平成18)年 88歳  大磯自宅アトリエに離れを新築、住居を移す。 
2010(平成22)年 92歳  特別展堀文子〈いつくしむ命〉(神戸・香雪美術館)開催。

 2015年、著者が97歳の時に刊行された「私流に現在(いま)を生きる」(中央公論新社)には、堀文子さんのこの略歴が肉付けされ、その時々の思いがさらに詳しく語られている。


堀文子著「私流に現在(いま)を生きる」(中央公論新社)の表紙

 この本の「はじめに」は次のように始まり、続いて出生の時からのことが語られる。

 「最近、わたくしは、死の夢ばかり見ます。先日は死んでいる自分に向かって、『死んだのね、わたくしは』と声をかけましたら、『死んだんだよ、お前は』と死んだわたくしが返事をいたします・・・」、
 「・・・わたくしは、1918(大正七)年7月2日に現在の東京都千代田区平河町に生まれました。・・・絵を描いて生きていきたいと、両親の大反対を押し切って女子美術学校に入学しました。1936年のことです。ほんとうならば自然の不思議を解明する科学者になりたかったのですが、女は大学に進学できない時代でしたから、あきらめざるを得ませんでした。・・・」

 第二次大戦後の1946年、28歳の時に箕輪三郎と結婚するが、その時の様子は次のようである。

 「・・・新しい時代になったというのに、母や姉は何か新しいことをしたり、働いたり、といったことは考えていないようでした。わたくしは、恵泉女学園の仕事は辞めてしまいましたが、絵本の仕事や、挿絵の仕事の注文が増え、その仕事で一家を養うくらいになっておりました。
 そんなある日、『ある外交官がベトナムのことを書いた原稿があるのですが、それに挿絵を描いてくれませんか』と、出版社から依頼がありました。・・・わたくしが描いた挿絵を、その外交官が、たいそう気に入ったのでお礼がしたいということで、編集者から引き合わされたのが、箕輪三郎との出会いでした。
 初めて会ったときから話は弾みました。
 箕輪は尊敬できる人でした。なにごとにも偏見がなく、理想主義のロマンティストです。外交官というより学者といった方がふさわしいようなひとでしたが、わたくしの父が学者でしたので、そうした雰囲気を持つ箕輪と話が合ったのかもしれません。それをきっかけに、箕輪とはたびたび会うようになり、プロポーズされました。もともと、わたくしは結婚などするつもりはありませんでした。一生絵を描いていくつもりでしたし、自由に、自分の思うままに生きていきたいという希望を持っていたわたくしには、結婚は向いていないと思っておりました。・・・元来、夫は体が大変弱い人で、結核を患っておりました。わたくしは夫の療養のために逗子に住み、看病に明け暮れました。夫はわたくしに、『絵を描くことは、ほかの誰にもできないことだから、続けなさい』と、言ってくれましたので、仕事の時だけ青山のアトリエに通うようにしておりました。・・・今、振り返ってみますと、看護婦のような生活でしたが、・・・精神的にはほんとうに充実した結婚生活でした。」

 軽井沢に構えたアトリエについては、

 「大磯に居を構えてから12年後の1979(昭和54)年のこと、わたくしは人跡未踏の自然を求めて浅間山麓の軽井沢にアトリエを構え、山の生き物と呼吸を共にし生活する山中独居の生活を始めました。60歳の時です。
 この年になっての山暮らしには不安がありました。けれども、一ヶ所に長くとどまっていると、新鮮な感動や驚きといった心の揺れがなくなり、神経がさび付いてしまいます。
 そんなふうにわたくしの根性が鈍るのを、もう一人のわたくしが許さないのです。・・・
 軽井沢に居を移して、高原の生活に夢中になりました。アトリエのまわりの山を歩いては、毎日新しいものを発見しました。遠山が見えたり、雪が降っていたり、落葉松が散っていたりする風景は涙が出るほど美しく、絵を描きたい、という気持ちが自然にわき上がってきます。・・・
 冬の軽井沢の一人暮らしは想像以上に厳しいものでした。気温は零下十数度まで下がります。けれどもわたくしは、本当の自然を、その極限を見たかったのです。
 わたくしと野生の動物以外は誰もいない山の暮らし。そこで見た雪景色はたとえようもない美しいもので、私はため息ばかりついていました。」と記されている。

 その後、イタリアにもアトリエを構え、さらに海外へのスケッチ旅行や取材旅行を繰り返し精力的に創作活動を続けていた堀文子さんであるが、2001年83歳の時に病に倒れる。そして、その回復過程で顕微鏡の世界と出会っている。

 「・・・気がつくと、あの痛みがすっかり消えておりました。担当の医師によると、わたくしは解離性動脈瘤で、死の瀬戸際にいたのだということでした。・・・人間というものは、生と死が力の均衡を保ちながら共存している生き物であり、この二つの力の勝敗は、人の無知や不用意にかかわりなく、神の意志で決められるものなのでしょう。
 わたくしは以来、死というものが怖いと感じることがなくなりました。死は自分自身の中にあるものなのです。
 絶対安静の一ヵ月の入院の間、これから残りの命をどう生きるか、という事を考えました。八十を過ぎてからもヒマラヤへ行き、衰えたといっても、健康に気を配り、体力には自信がありましたが、これからは僻地への厳しい旅は一切やめることに決めました。どのようにすれば、自分自身の興味を枯れさせることなく、『逆上』を忘れずに生きていけるか。
 そう考えた時ふと頭に浮かんだのは、微生物のことでした。
 わたくしは子供の頃、子ども向けの科学雑誌に載っていた顕微鏡を買ってもらって水滴をのぞいた時のことを思い出しました。一滴の水の中に泳いでいる微生物。あれが見たい。そう思い始めると、いてもたってもいられず、入院中お世話になった医師に紹介してもらった学者向けの専門店で、分不相応な顕微鏡を買い求めました。・・・スライドガラスの上に垂らした一滴の水の中にうごめく生き物の世界に息をのんだのです。
 ・・・真夜中まで顕微鏡をのぞく日が続き、サックス奏者で、ミジンコの研究家である、坂田明先生のご指導も仰ぐようになりました。・・・」

 堀文子さんと、もうすでに亡くなった私の両親とはほぼ同じ生まれ年であり、同じ時代を生きてきている。そうした思いが私を堀文子さんの文と画に向かわせたのではないかと感じることがある。この著書の最後には「平和について」と「私の生涯」という章があり次のように書かれている。

 「平和について:  
 最近の日本は、贅沢と飽食に慣れて、目先の楽しみを追い求め過ぎているように思います。こうしたときに、政府は戦争を知らない人たちにもっともらしい理由をつけて、戦争を正当化しようといたします。
 ・・・わたくしは、何百万もの兵士と国民の命を奪い、国土と歴史的文化遺産を灰燼に帰した第二次世界大戦を経験いたしました。開戦当時は、アメリカと戦争をすれば、日本がどうなるか、ということについて危惧していた人たちが少なからずいたにもかかわらず、本当のことを言うことはできなかったと思います。・・・オリンピックに際し、国民が心をひとつにしようとしている隙に、重要な法案が次々と議会を通過していく今の日本の動きは、第二次世界大戦勃発前の状況とあまりにも似通っているように思え、わたくしは戦慄を覚えます。・・・一致団結して政府の暴走を止めるのは、今を生きる国民の務めであり、責任だとわたくしは考えております。一人一人が国の暴走を許さぬ賢い日本人になることが、今ほど求められている時はないのではないかとわたくしは思うのです」となかなか手厳しい。

 「私の生涯:
 私(わたくし)はその日その日の現在(いま)に熱中し
 無慾脱俗を忘れず
 何物にも執着せず
 私流の生き方を求めて歩き続けてまいりました。
 これが私の生きた道です。」

 妻に聞いてみると、やはり堀文子さんの画が好きであったという。それもあって、若いころに買い求めたのだという記念切手のシートが「お気に入り」と名付けられたストックブックに入っているのを見せてくれた。

 1980年発行の日本の歌シリーズ・第5集、「おぼろ月夜」の記念切手で、堀文子さんの、菜の花と月を描いた画と、曲の譜面の一部が記されているものである。


堀文子さんの画が使われている記念切手(1980年発行) 

 80歳から90歳にかけての堀文子さんを、10年間にわたり撮り続けた飯島幸永さんの写真集、「堀文子 美の旅人」(2010年 実業之日本社発行)を紹介させていただく。ここには浅間山麓での姿もたくさん収められている。


堀文子写真集表紙

 堀文子さんのご冥福をお祈りします。






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