不定期連載としてシリーズ展開しているが、ここで過去3回分をレビューしておく。
レビューを終えたので、今回は我が田舎と云ってもそれなりの距離があるが、山陰東部・鳥取市の梶山古墳の壁画を取り上げてみる。
(梶山古墳:現地にて)
墳丘部は対角長17m、一辺2。5~8.5mの変型八角形となっている。墳丘の前(南面)には方形壇(祭祀を行う広場)が築かれている。方形壇は長さ2m、幅14mあり、玄武岩の石垣で三段にわたって築かれている。
梶山古墳と装飾の概要については、梶山古墳のレプリカを展示している鳥取市・因幡万葉歴史館でゲットしたパンフレットに説明されているので、それを下に掲げておく。
遺物は、須恵器・土師器・刀子・棺金具状鉄製品、金製の薄延べ板などが出土しており、これらの出土遺物から築造年代は6世紀末から7世紀初、古墳時代後期~終末期と推定される。
奥壁を構成する大きな石に、黄味がかった赤色一色で壁画が描かれている。その中心は一匹の魚であるが、その上は読み取りにくいもののS字状の曲線が描かれている。これは龍と思われるがどうであろうか。その両側には、同心円文と三角文が見られる。
千代川は、昭和30年代まで鮭が遡上しており、梶山古墳は千代川の支流の河畔にある。従って魚の絵は、鮭かと思われる。梶山古墳の被葬者は鮭にかかわった人であろう。鮭は故郷の川に戻り、遡上して卵を産む、やがて孵化して大きくなると海へと旅立つ。この一連のサイクルは、命の甦り・再生を意味し、それを描いたのではないか。鮭に関する伝承の多くが、再生にかかわる伝承である。
(出典・芝山町立芝山古墳はにわ館)
鮭と思われる魚の埴輪が存在する。魚の埴輪そのものの出土は多くはないが、上の埴輪は千葉県芝山町の白桝遺跡出土の魚の埴輪で、形姿から鮭であろうと云われている。出土地にも川が在り、鮭が遡上していたと云われている。
同心円文や三角文は、他の装飾古墳同様に被葬者の魂に悪霊がとりつくのを防ぐ辟邪文で、魚の絵は被葬者の再生を願ったものと思われ、生前は鮭にかかわった人物と考えられる。同心円文や三角文は九州の装飾古墳でも見るが、主文様である魚の装飾は山陰東部の独特な文様と思われ、九州の装飾古墳とはやや異なる趣である。
梶山古墳の近くに太田神社が鎮座している。ここは大多羅大明神を祀っていたと云う。大多羅とは伽耶の地名に他ならず、太田神社が鎮座するのは、旧国名で因幡国法美郡(のちの岩美郡)度木(とき)郷とある。度木とは渡来であり、渡来人の郷である。『和名抄』によれば、法美郡の一番目に「大草 於保加也」郷と記されている。この「於保加也」は大伽耶に他ならず、この地域が伽耶・新羅から渡来して来た人々の居住地であったと思われる。
先史時代の朝鮮半島南部・蔚山(ウルサン)・盤亀台の岩刻画に魚の絵が刻まれていると云われているが、見ると魚ではなく鯨のように見える。いずれにしても、この岩刻画は1万年前のものであり、これと梶山古墳の魚の絵を結びつけて云々するのは、どうかと思うが、この岡益の地が渡来人の地であったと思われ、梶山古墳の装飾壁画との繫がりが想定されそうである。
梶山古墳と同時代の法美郡は、有力氏族である伊福吉部氏(いおきべし・いふきべし)の地盤であり、梶山古墳はその首長墓と推定されている。25代・久遅良臣(くじらおみ)か、26代・都牟自臣(つむじおみ)が候補とされている。伊福吉部氏は、新羅・伽耶系渡来人集団の象徴となっている天日槍(あめのひぼこ)を祖とする産銅・産鉄氏族であった可能性が高いと金達寿氏は指摘しておられる。それにしても蔚山・盤亀台の岩刻画の鯨の絵と、25代・久遅良臣(くじらおみ)・・・話が出来過ぎのようである。
<不定期連載にて次回へ続く>
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