キルケゴール『哲学的断片へのあとがき』より
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レッシングは言った。神がもしその右手に一切の真理を持ち、またその左手に真理を追い求める、唯一の、たゆまない欲求を、常に、永遠に迷いの道を歩むべし戸の付帯条件をつけてではあるが、握りしめて、私に対して「選べ」と告げたとするならば、私は恭しく神の左手に向かってぬかずき、こういったであろう。「父よ、これを与えたまえ。純粋な真理は、汝にのみふさわしいものなのだから!」と
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主観的思考は、一切を生成に掛け、結果を度外視する。というのは、一方では彼がその道を歩んでいる以上、結果が彼に帰属するには当然であり、また他方では彼が実存するものとして、絶えず生成の途上にあるからである。そして、たぶらかされて客観的になってしまったり、非人間的にも思弁的になってしまったりということのないに人ならばすべてそうなのである。
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理念、生きる目的、自分にとっての真理とは、生成していくもの。
雑念に惑わされたりせずに追求していくべきものなのである。
キルケゴールほど、内面性追求が優れていない、わたしにあたっては、
それが、目的論的目的にならないように、
外的環境への配慮、適応も考慮に入れながら、
生成をしていくことが必要になる。
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レッシングは言った。神がもしその右手に一切の真理を持ち、またその左手に真理を追い求める、唯一の、たゆまない欲求を、常に、永遠に迷いの道を歩むべし戸の付帯条件をつけてではあるが、握りしめて、私に対して「選べ」と告げたとするならば、私は恭しく神の左手に向かってぬかずき、こういったであろう。「父よ、これを与えたまえ。純粋な真理は、汝にのみふさわしいものなのだから!」と
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主観的思考は、一切を生成に掛け、結果を度外視する。というのは、一方では彼がその道を歩んでいる以上、結果が彼に帰属するには当然であり、また他方では彼が実存するものとして、絶えず生成の途上にあるからである。そして、たぶらかされて客観的になってしまったり、非人間的にも思弁的になってしまったりということのないに人ならばすべてそうなのである。
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理念、生きる目的、自分にとっての真理とは、生成していくもの。
雑念に惑わされたりせずに追求していくべきものなのである。
キルケゴールほど、内面性追求が優れていない、わたしにあたっては、
それが、目的論的目的にならないように、
外的環境への配慮、適応も考慮に入れながら、
生成をしていくことが必要になる。