本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

路なかば。迷いの中を生きるということ。 reProfesional#62

2008-05-05 16:01:15 | reProfesional
キルケゴール『哲学的断片へのあとがき』より

レッシングは言った。神がもしその右手に一切の真理を持ち、またその左手に真理を追い求める、唯一の、たゆまない欲求を、常に、永遠に迷いの道を歩むべし戸の付帯条件をつけてではあるが、握りしめて、私に対して「選べ」と告げたとするならば、私は恭しく神の左手に向かってぬかずき、こういったであろう。「父よ、これを与えたまえ。純粋な真理は、汝にのみふさわしいものなのだから!」と

主観的思考は、一切を生成に掛け、結果を度外視する。というのは、一方では彼がその道を歩んでいる以上、結果が彼に帰属するには当然であり、また他方では彼が実存するものとして、絶えず生成の途上にあるからである。そして、たぶらかされて客観的になってしまったり、非人間的にも思弁的になってしまったりということのないに人ならばすべてそうなのである。


理念、生きる目的、自分にとっての真理とは、生成していくもの。
雑念に惑わされたりせずに追求していくべきものなのである。
キルケゴールほど、内面性追求が優れていない、わたしにあたっては、
それが、目的論的目的にならないように、
外的環境への配慮、適応も考慮に入れながら、
生成をしていくことが必要になる。
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父と息子。「与えられた」写し鏡 : reProfesional#61

2008-05-05 01:31:14 | reProfesional
キルケゴール『人生行路の諸段階』より

~ 
父が立ち止まって、悲しそうな顔をして息子の前に立ち、彼を見つめながら、「あわれな息子よ、おまえは沈黙の絶望の中で生きていくことになる」といったことがあった。それをどのように理解すべきであるのか、それがどれほど真実であるのか、ということについて、それ以上何も語らなかった。そして、父は、息子の憂鬱の責任は自分にあると信じており、そして息子は、父の悲しみの原因は自分にあると信じていた


父という存在が善きモチーフか、そうでないかということが問題なのではない。
純然たる自分の近しい存在として、存在するモチーフ。
自分が、映し鏡のように、父に近しい遺恨を感じながら生きるというのは、
多かれ少なかれある。
すでにある自分の将来としてのモチーフとしての父。
それは、あくまでも、決定としての存在ではなく、
可能性としての存在である。

どう、自分が、存在を形成していくか。
問い掛けにより、すすめていこう。
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