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鎌倉時代と室町時代へタイムスリップ・・・北鎌倉散策

2013-07-24 07:43:08 | Weblog
 いざ鎌倉へ・・・と思い立って地図を眺めてもなかなか目的地が絞り込めません。鎌倉には魅力的な場所が多すぎるのです。そこで今回は横須賀線北鎌倉駅周辺の諸寺をゆっくりと散策することにしました。

 北鎌倉駅の地名は山ノ内です。源頼朝(1147~1199)が鎌倉幕府を開いた当時、山内庄と呼ばれ、巨福呂坂(こぶくろざか)の向こう側にあるため、鎌倉の外と考えられていました。
 源氏が三代でとだえ、執権北条氏が鎌倉幕府の首班となり、3代執権北条泰時(1183~1242)が巨福呂坂を越える街道を整備し、鎌倉と山内庄がつながります。

 泰時の孫・時頼は1253年(建長5年)刑場であった山内の地に、宋から来日した禅僧・蘭渓道隆を招いて、建長寺を創建します。年号を寺名とする天皇の勅願寺という寺格が与えられ鎌倉五山制度の筆頭の第一位に位置づけらます。その建長寺ですが、度重なる大火によって中世以来の建物は残っておらず、一番古い方丈でも江戸時代のものです。
 ところで「ケンチン汁」の由来は「建長汁」がなまったものだという説があります。中国由来の豆腐を使うこと、肉を使わず野菜だけ、修行僧が食していた精進料理ということで説得力があります。



 時頼の子・時宗は1282年(弘安5年)帰依していた禅宗を広めたいという願いと、蒙古来襲による死者を敵味方区別なく弔うため、南宋から無学祖元を招請、山内に円覚寺を創建、鎌倉五山第二位に列せられます。門前に民家も建ち、建長寺の門前町と併せて、山内は鎌倉の一部と見なされるようになります。
 かつての境内を横須賀線が横切っていますが、創建時の姿を最もよく残しているのが円覚寺です。舎利殿と梵鐘が国宝に指定されています。



 時宗の子・貞時は父の死の翌年、1285年(弘安8年)円覚寺境内前に尼寺・松ヶ岡東慶寺を開基、江戸川柳に「松ヶ岡女一人の行くところ」と読まれた女性の駆け込み寺として知られていました。髪を切り、経を読み、和裁などして2年間の修行生活を送ると離婚が成立しました。女たちが思いを訴えた水月観音は鎌倉一の美仏といわれています。(東慶寺は明治の初めに僧寺となります。)

 1333年鎌倉幕府が滅亡、足利尊氏が平安京の室町に幕府を開きます。鎌倉には関東十カ国を統括する鎌倉府がおかれ、1349年尊氏の子・基氏(1340~1367)が下向してきます。以後その子孫が鎌倉公方として、また公方を補佐する関東管領として上杉氏が力をふるいます。
 山内に屋敷があり、長く関東管領の要職あった上杉憲方(1335~1394)が明月院に葬られ、明月院は山内上杉氏の菩提寺として繁栄します。最後に山内上杉家の家督と関東管領職を受け継いだのが上杉謙信です。
なお、近年まで「管領屋敷」という地名が山ノ下には残っていました。



山ノ内にある円覚寺、東慶寺、明月院、建長寺を訪れ、いにしえに思いをはせ、巨福呂坂の吹き抜けトンネルを抜けて鶴岡八幡宮を参詣、若宮大路から鎌倉駅に向かう半日ルートはいかがでしょうか。
 

静かな鎌倉を訪れたかったのです
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