シニアー個人旅行のかわら版

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明治・大正・昭和の面影を求めて焼津へ

2017-01-30 09:31:01 | Weblog

子供の頃、台所の鰹削り箱の中にいつもあったのが焼津節・・・
高校時代に読んだ「Kwaidan」を書いた小泉八雲がこよなく愛した焼津・・・
ビキニ環礁の米国水爆実験で被ばくした第五福竜丸の母港が焼津・・・
ある夏の夜、土肥の旅館から駿河湾越しに見えた焼津の打ち上げ花火・・・
焼津はいつか訪れたい、訪れなければならないと思っていた街でした。

東京から新幹線で静岡駅へ、そこから東海道線で三つ目が焼津駅、1時間40分で到着です。
焼津市自主運行のバスは市内を巡っていますが、住民のための路線であり、本数も少なく、タクシーと徒歩の旅となります。


 焼津駅から文化センターへ(タクシー10分・見学1時間)




文化センターには図書館、文化会館、歴史民俗資料館、焼津小泉八雲記念館があります。

歴史民俗資料館の第五福竜丸コーナーでは被ばく事件の経緯が写真、新聞、パネル掲示で展示されています。遺族から提供されたという東京の病院から家族にあてた久保田愛吉氏の手紙に心打たれます。
歴史民俗資料館http://www.city.yaizu.lg.jp/rekimin/月曜休館



小泉八雲記念館の収集された展示物の質と量に、八雲に対する焼津の人々の思いがうかがわれます。八雲が夏を過ごした家の家主山口乙吉と八雲が「先生さま」「おときちさーま」と呼び合った尊敬と友情が焼津の人々に綿々と伝わっているのです。
 八雲の手紙や焼津で執筆した作品の草稿はじっくりと読みたいです。

小泉八雲記念館http://www.city.yaizu.lg.jp/yaizu-yakumo/ 月曜休館
小泉八雲と焼津http://www.yaizu-shinkin.co.jp/local/700/


 文化センターから浜通り散策へ(タクシー10分・散策1時間)

 歴史民俗資料館発行のパンフレット「探しに行こう!浜通り」を持参します。パンフレットには浜通り出身の佐藤道外が描いた明治大正の絵図と現在の写真を対比して載せ、往時の浜通りの様子に思いを巡らしながら散策できるようになっています。



 磯自慢酒造脇の小路を入ると、江戸時代に掘削された運河・堀川(黒石川)に架かる橋に出ます。橋の欄干に海辺から飛んできたカモメが羽を休めています。



 浜通りを進むと、札の辻・庚申塚があります。「探しに行こう!浜通り」には「二米幅の小路、海へつきぬけると、御休町堤防の上り段あり」と道外の絵にはありますが、今では小路の先には堤防も浜辺もなく、四車線道路のウオーターラインを車が走っているだけです。
(*パンフレットに載っている庚申塚付近の絵図です)



 札の辻の庚申塚の庚申像は昭和12年に建てられ、小泉八雲が滞在した明治30年代には2体の波きり地蔵しかありませんでした。道外の絵にも波きり地蔵が描かれるだけ、大正時代の浜通りを描いていることが推測できます。
 「八雲通り」の標識がありますが、この辺りは八雲ゆかりの地が多く、八雲が滞在した山口乙吉の家はこの先にあります。

山口乙吉の家は明治村に移築保存され、明治村のサイトで見ることができます。

http://www.meijimura.com/sp/enjoy/sight/building/4-48.html

「探しにいこう!浜通り」に記載されているように「右側は出入口と通り土間を設け、左側を座敷にする」という浜通りの民家の特徴が見てとれます。ただ、明治村のサイトでは、
建設は明治初年となっていますが、パンフレットでは「防潮堤の完成後は、本格的な二階建ての建物が造られるようになった」とあり、建設年にずれがあります。



堀川(黒石川)を河口に向かって撮りました。突き当りの山が虚空蔵山、前方の橋の左側の白い建物がパンフレットに紹介されている岩清蔵でしょう。右側が浜通りですが、防潮堤がなかった時代には民家にまで押し寄せる高波を堀川に流せるように、小路を多く取り入れ工夫した町割になっています。


 浜通りから焼津漁業資料館へ(散策30分・見学1時間)

浜通りを進み小泉八雲風詠の碑を過ぎると焼津港に至ります。港の左側に沿うように進み、橋を渡り二つ目の信号を右折すると資料館です。
 (*焼津駅前にある焼津観光協会作成の「焼津観光ロードマップ」が参考になります)
http://www.yaizu-gyokyo.or.jp/gyokyo/museum/月曜休館・12時ー1時昼休み



漁船の操舵室(ブリッジ)の実物が目を引きます。54トンの木造カツオ漁船のものです。ブリッジに乗り込んで見学でき、舵輪、方向探知機、霧笛、そして無線機がそのまま置かれています。操舵室の左右に仮眠室がありますが、その狭さに驚きます。



展示物の中には明治の頃の焼津の浜辺の様子を描いた写生画に惹かれました。浜通りの浜辺は砂利浜で、カツオ漁船はそこを湊としていたのです。描かれているのは八丁櫓のカツオ船で、全長15メートル、35人が乗り込み、遠く伊豆七島まで漁に出かけました。伊豆半島先端に波勝崎が描かれていますが、その倍の沖まで漕ぎ出したのです。



長く続く浜の突き当りに虚空蔵山、富士山の雄姿、浜に引き上げられる八丁櫓のカツオ船、手前の船の脇には生餌のイワシを入れた生籠・・・これこそが小泉八雲が目にした明治の焼津浜だったでしょう。

カツオやマグロが所狭しと浜辺に並べられた昔の焼津湊の様子を伝える写真も多数掲示されており、大正、昭和初めの焼津を知ることができます。
遠洋漁業の記録映画のビデオ上映もあります。


 漁業資料館から浜当目へ(タクシー10分・散策1時間)





 虚空蔵山の麓にある弘徳院です。第五福竜丸の無線長であった久保山愛吉氏が葬られています。米軍の水爆実験に巻き込まれ焼津港に帰還するまで、久保山氏は無線を封止します。戦時中、海軍に通信員として徴用されていた体験から、米軍に無線を傍受される危険を避けたのです。
 ビキニ環礁被ばく報道後の米国の高圧的な対応をみると、久保山氏の行動は先見の明があったといえるでしょう。



 浜当目海水浴場にあるマリアナ観音です。遠くマリアナ諸島の方角を見つめています。昭和40年、マリアナ海域漁船集団遭難事件で、浜当目の第三千代丸も台風に巻き込まれ、42名の乗組員全員が亡くなった海難事故の慰霊碑です。
「板子一枚下は地獄」とは漁師のことわざですが、焼津の漁師にも当てはまります。板子一枚にすがって助かった焼津の漁師の体験を、八雲は「漂流」に記しています。

虚空蔵山の頂上には弘徳院の末寺香集寺があります。幼稚園脇の登山道から往復30分です。また、明治36年に海軍が国産の無線機の交信実験を三浦半島間で行ったのが虚空蔵山で、船舶無線電信発祥の碑があります。焼津の港が一望できるヴューポイントでもあります。
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