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札幌から八代、人吉、伊佐、小林、宮崎、西都、高鍋、延岡へ・・・屯田兵の戦い

2015-08-19 14:22:37 | Weblog


熊本県人吉に出かけ、球磨川畔の人吉城歴史館に立ち寄りました。
西南戦争の戦いを描いた戦争画が展示されていました。
屯田兵の姿も描かれているのに驚きました。
昨年、屯田兵ゆかりの地、札幌市中央区山鼻を訪ねていたからです。

明治10年2月に西南戦争が勃発、4月に北海道開拓史長官黒田清隆は屯田兵全部隊に出征を命じます。全部隊といっても、明治8年から始まったばかりの屯田兵制度でしたから、札幌の琴似兵村244名山鼻兵村239名発寒兵村35名にすぎませんでした。働き手が出征してしまった兵村の開墾は残された家族が担ったのです。

遠征隊と弾薬や装備を満載した汽船は4月15日小樽港を出帆し、同月23日、目的地の肥後・百貫石港(熊本県宇土市三角)に着きました。西郷軍は熊本城の囲みを解き、人吉方面へ退いており、屯田兵は八代((熊本県)から人吉(熊本県)へ進撃する別働第二旅団に編入されます。

5月1日、準備を整えた別働第二旅団は人吉に向けて進撃を開始、西郷軍の激しい抵抗を排除しながら、同月30日に人吉に総攻撃を加えます。この戦いを写実的に描いた戦争画が人吉城歴史館に展示されているのです。



(政府軍が砲台を設置した人吉駅裏の高台)



 (西郷軍が陣を敷いた人吉城)

6月1日、敗退した薩軍は人吉を撤退、屯田兵の所属する別働第二旅団は薩軍と戦いながら大口(鹿児島県伊佐市)へ、同月20日に大口陥落、霧島山北側で政府軍を食い止めようとする薩軍を撃破しながら、7月22日野尻(宮崎県小林市)、同月28日高岡(宮崎市)、8月2日一ツ瀬川(宮崎県西都市)を突破、高鍋(宮崎県)を陥落させます。

一ツ瀬川の戦闘を観戦した後続の官軍の将校が、後に「屯田兵の負傷者が屯田の下士、兵卒が多く、将校に負傷者がないのを不審に思っていたが、今日の戦闘を見て、戦っているのは下士・兵卒で、将校ではない」と講評したという話が残っています。

開拓使は長官の黒田清隆を始め、将校ともに薩摩閥が牛耳っていました。西郷軍と同じ鹿児島出身であり、できることなら直接対決は避けたいという思いがあったのでしょう。一方、屯田兵の大半は10年前の戊辰戦争で賊軍という汚名を受けた東北諸藩の出身でしたから、その恨みを晴らそうという強い気持ちで戦ったのでしょう。

別働第二旅団はこの後、内陸部を迂回するように進軍、8月7日に門川(宮崎県門川町)の薩軍を撃破、8月14日延岡(宮崎県)に突入します。ここに薩軍の組織的な戦いは終わります。

7名の戦死者と多くの戦傷者を出した屯田兵部隊は8月16日に帰郷命令を受け、同月21日鹿児島を出港し、神戸、東京を経て、29日に小樽に帰港、琴似・山鼻・発寒兵村に戻りました。

屯田兵が従軍した4月から9月という期間は、北海道では開拓に従事できる唯一の季節です。屯田兵はまる一年間開拓事業に従事する時機を逸してしまいました。入植後、三ヵ年は食料援助、給与が保障されていましたが、政府はこれを一ヵ年延長する措置を取りました。

      

(現在の山鼻兵村付近)               (屯田兵村本部と練兵場があった公園)  

                       

(明治11年創立の山鼻小学校から藻岩山を見る)



  「早朝の札幌を散策、屯田兵の歴史に出会いました」
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