シニアー個人旅行のかわら版

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那須連山の残雪、遊行柳の新緑・・・東北道の静かなドライブ

2009-04-29 05:11:06 | Weblog
五月の好天の日を選んで、毎年出かけるお気に入りの場所があります。
 那須へ・・・と言えば、多くの方は那須高原をイメージされるでしょう。同じ那須でも南那須をドライブする旅です。およそ320年前、松尾芭蕉が白河から奥の細道へ出発する起点となったところです。東京から東北高速道を利用すれば、日帰り圏です。

 この地は、また、芭蕉ファンにとっては垂涎の地です。芭蕉と曾良が歩いた道、訪れた名所、滞在した地が、歳月を経て今なお、その姿をとどめています。ドライブ・ルートとしても、那珂川の清流と鮎、黒羽の城址、鬱蒼とした杉林の中に佇む古刹雲巌寺、義経一行が平家打倒に奥州を出発して下った旧東山道、歴史の役割を終えた陸羽街道の宿場町・・・そんな自然豊かな、古き歴史に埋もれた南那須への旅は、都会の喧騒を逃れる、静かなドライブが楽しめます。


出発 東京から東北道へ
1. 矢板IC 124キロ 
2. 国道4号線を白河方面に6キロ
3. 野崎橋 箒川を渡り、4号線沿いに左に下る。4号線のガードを潜るようにして、  日光北街道へ。大田原市へ8キロ。芭蕉も歩いた旧陸羽街道。
4. 蛇尾橋 蛇尾川を渡り、旧陸羽街道は直進し、芦野方面へ。右折し、芭蕉も向った黒羽へ。
到着 黒羽 黒羽城址公園・芭蕉の里公園
5. 大子・黒羽線を雲巌寺へ
到着 雲巌寺 見学
6. 大子・黒羽線を戻る。
7. 黒羽から国道294号を白河方面へ北上15キロ
8. 伊王野(いおうの)で右折、棚倉方面へ。3キロ先で旧東山道、白河へ。
9. 追分明神 佐藤庄司(元治)が平家追討に出立する義経や子息継信・忠信一行を見送った県境。
到着 白河の関 見学 ここから芦野までは芭蕉・曾良が辿った道と逆の方向に進む
10. 旗宿 白河の関から白河方面に1キロ。ここで左折し、白坂へ。
11.294号に出る。左折し芦野へ南下、芦野までが旧陸羽街道。
12.境の明神 明神前の畑に江戸時代には茶屋があった。
到着 芦野 遊行柳・芦野宿散策
13.寺小小学校で右折。ここまで旧陸羽街道
14.黒磯 高久から那須街道を北上
15.那須IC
到着 東京  186キロ
  
大田原(おおたわら)から黒羽(くろばね)へ
那須連山の裾野の那須高原から、平坦な台地が、東を流れる大きな川、那珂川に 向って緩やかに傾斜する台地が南那須です。この地は古代から人が住み着き、 黒羽の南にある湯津上(ゆずかみ)には古墳が幾つも見られます。また、那須与一で知られる那須一族が栄えた地で、大田原、黒羽、芦野など一族の末裔が江戸時代も続き、それぞれの地に城址が残っています。

日光北街道は真っ直ぐな道ですが、西那須、大田原の市街地となっており、人家も比較的多く、信号の多い道路です。大田原の市街を抜け、蛇尾川を渡り、真っ直ぐ進む道が旧陸羽街道(奥州街道)で芦野に出ますが、芭蕉一行もそうしたように、ここから黒羽へ南下します。

320年前はこの辺りに道らしい道はなく、困り果てている芭蕉一行を見かねた農夫が放牧していた馬を貸してくれ、馬任せに進んだ道です。農夫の二人の子どもが後を追ってきますが、その時の様子を『ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名を「かさね」と云。聞きなれぬ名のやさしかりければ、“かさねとは八重撫子の名成べし 曾良”・・・』と詠んでいます。「奥の細道」の中で少女の話題が出るのはこの箇所だけ・・・それにしても「かさね」とは現代にも通じる美しい名です。

黒羽・雲巌寺
黒羽の町は、那珂川の西側に江戸時代の那珂川水運で栄えた商家が連なり、東側の小高い台地に黒羽城址があります。大田原から黒羽に近づくと、大豆田T字路の信号があり、右側から来る国道294号と合流します。294号は伊王野、芦野、白河に至りますが、直ぐの信号を右折し、那珂橋を渡ります。直ぐの黒羽神社下の信号を左折、大田原市役所支所近くで右折し、坂を登りきると黒羽小学校に出ます。この一帯が城址公園で、整備された美しい道路を北に進むと土塁、空掘、水掘が残る城址に至り、立派な記念館「芭蕉の館」があります。ここに車を置き、付近を散策します。

黒羽は芭蕉の里を標榜していますが、奥の細道の旅で、芭蕉一行は最長の14日間もここに滞在しています。黒羽藩の家老でもある桃雪が一族を挙げて芭蕉一行を歓待したためでしょう。城に隣接する桃雪の屋敷跡に通ずる芭蕉の道と名づけられた歩道を、ぜひ歩いて見ましょう。

ここから雲巌寺までは12キロ、車で行けば15分足らずですが、芭蕉は歩いて往復しています。途中、唐松峠という小高い坂もあり、大変でしたでしょう。『・・・其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼麓に至る。』とハイキング気分で芭蕉に同行する人々の様子を記しています。
この道を実際に徒歩で往復した芭蕉ファンの知人は、もう二度と歩きたくないと、当時の人の健脚振りに半ば呆れ顔でした。


周囲から隔絶された、昼なお暗い大木の杉が生茂る山中に、忽然と姿を見せ、かつては越前永平寺と並び称される古刹は、一見の価値があります。『啄木も庵はやぶらず夏木立』と芭蕉は雲巌寺を詠っています。

黒羽から伊王野をへて白河の関へ
黒羽から那珂川沿いにまっすぐ進む294号は広くはありませんが、走りやすい道路です。那珂川を渡り、その支流余笹川・黒川に近づくにつれ、真新しい橋やトンネル、改修された護岸が目立つようになります。ここは平成10年8月の那須山中の豪雨で大水害に見舞われた地域で、那須地区の年間降水量1800ミリの三分の二がわずか12時間で降るという集中豪雨で壊滅的な被害を受けました。

真新しい快適な道を進むと、右側に道の駅「東山道伊王野(とうさんどういおうの)」があります。ここから294号を3キロ進むと芦野ですが、道の駅直ぐのガソリンスタンドの信号を棚倉方面へ右折、伊王野の町を通り抜け、棚倉方面へ。3キロほどで道が分かれ、直進する細い道が白河の関を経て白河に至る古道東山道です。義経一行が平家追討のため奥州から鎌倉へとこの道を上ったので、地元の方は義経街道と呼んでいます。

舗装されていますが、細い道は徐々に登り坂となり、4、5軒の下野側(栃木県)最後の集落を過ぎると追分明神がある峠に出、ここを越えると奥州(福島県)です。訪れる人も無く、説明版は泥で汚れたままとなっています。ここを下ると突然視界が開け、建設されて間もない<白河の関の森公園になります。前方のこんもりとした小山が白河の関で、その手前に駐車場、物産コーナー、レストラン、交流センターを持つ公園となっています。

白河の関は歌枕にもなり古来から知られていましたが、実際は砦としての役割は8、9世紀ごろには失われ、江戸時代にはその場所も定かでなくなっていたようで、白河藩主松平定信によって特定されました。今ではわずかに空堀のあとが見られる小山となっており、芭蕉は歌枕としての白河の関に惹かれて訪れたのでしょう。

白河の関から白坂を経て芦野へ
ここからは芭蕉が辿った道を逆に進むドライブとなります。白河の関に隣接する旗宿は、その昔、義経を庇護した藤原秀衡の家臣佐藤庄司が義経と子息継信・忠信を鎌倉へ見送る宴を開いた地と伝わっています。芭蕉も旗宿に泊まって白河の関を訪れ、ここから白河に向いました。

旗宿から白河に向わず、村道を西に進み、白坂へ向います。やがて294号旧陸羽街道に出、左折、芦野へ向います。緩やかな登り坂となる294号を南へ進むと、境の明神があり、ここが県境です。江戸時代、明神前には茶屋があり、旅人にだんごを出して繁盛したようですが、今ではその跡は畑となっています。

ここから15分のドライブで芦野に到着です。遊行柳沿いの休憩所に車を置き、旧道の芦野宿を散策します。かつては40軒の宿屋があり、陸羽街道(奥州街道)を行き来する旅人で大変賑わったという宿場町の面影がわずかながら残っています。一軒だけ現在も営業する旅籠丁字屋は、うなぎ屋として食通には知られた有名店です。店の方に尋ねると、うなぎは芦野を流れる奈良川、近くの余笹川で昔はたくさん取れたそうですが、今では国内産のうなぎを奈良川から引いた水で育て、天然の味に近づける努力をしているとのことでした。


西行ゆかりの遊行柳を、芭蕉が歩いたという田んぼの畦道を辿り見学です。丁度、苗代作りの作業をしているトラクターがありました。冒頭の写真が遊行柳を撮ったものです。『田一枚植て立去る柳かな』という名句を芭蕉は残しましたが、早乙女が田植え歌に合わせて、植えていたのを眺めていたのでしょうか・・・。
芦野からは旧陸羽街道(奥州街道)を進めば、那須インターまで40分です。


* 那須湯本温泉に泊まり一泊旅行とすると、芭蕉が歩いた道とほぼ重なります。
* 黒羽は鮎を専門に扱う店があります。焼き鮎と鮎の甘露煮はみやげ物として最適、自宅で軽く焼き直します。値段が少々高いですが、6月からは天然物の焼き鮎がお勧めです。
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1 コメント

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320年前に原発は無かった (避難放浪民)
2020-03-10 15:42:09
遠征お疲れ様した_(..)_雲巌寺は小生の自宅から大子に向かった先です懐かし(T-T)福一事件で日光まで拡散するでダメやろちう予測ついたで、農家のじさまに地のモノ食うなと釘刺され暴走半島まで流れ着いておるます。御安全にm(._.)m実は大田原市街で鼻血を多発するよになった元同僚がおるでお独り様は身軽でいい等雑草刈り時に言われますた。
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