シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

菜の花の二宮・吾妻山公園と真鶴半島を歩く

2015-02-18 14:22:17 | Weblog

2月14日、日本列島は西高東低の冬型の気圧配置、
北日本は暴風雪でしたが、太平洋側は快晴・・・
そんな日を選んで神奈川県の湘南・二宮町と県西・真鶴町に出かけました。
気温は10度を少々超える程度でしたが、春を思わせる日差しに歩くと汗ばむようなウオーキングでした。
冒頭の写真は二宮の吾妻山公園から撮りました。

アクセス

 東京駅・東海道線9:22→10:32二宮駅

  吾妻山公園散策

 二宮駅・東海道線12:57→13:21真鶴駅

  真鶴駅から真鶴岬まで散策(昼食・磯料理)

 真鶴岬・箱根登山バス15:00→15:20真鶴駅

 真鶴駅・東海道線15:27→17:06東京駅


吾妻山公園へ


駅前町民会館裏が入口、300段の階段がある登り道

      

木々の間から二宮町と相模湾が見え隠れする。

      

明るい林間の花壇に疲れを忘れる

      

うさぎ園・滑り台・管理棟がある広場を抜ける

      

海抜136mの芝生広場がある広々とした吾妻山山頂。360度の眺望が開ける。

 菜の花が咲く一月初旬から二月中旬が晴天にも恵まれ、富士山眺望ベストシーズン。
       
                       


  江戸時代には大山詣で賑わった関東屈指の霊峰・大山

     

  二宮から、小田原・箱根が眼下に・・・箱根駅伝のコースが一望

             
 
  真鶴半島と伊豆半島・・・伊東市のシンボル大室山、天城山も・・・

              

      相模湾で漁をする船と伊豆大島、写真には写っていないが利島、式根島も見える。

             
         
  相模湾の南東に房総半島が見える。源頼朝が真鶴から房州へ小船で逃れることができたのも納得。

             
    

         
  
真鶴岬へ


駅から真鶴岬までは3キロ弱・徒歩50分。駅前大通を下り、真鶴港へ・・・停泊する大型船は石材運搬船。真鶴の石材の歴史は古く、鎌倉幕府の和賀江島の築港、家康の江戸城・城郭にも使われた。真鶴町は石材業と漁業が主要産業の「半石半漁」の町

            

波消しテトラポットが置かれた海岸歩道を歩く

                 

磯料理店が並ぶ一角から奥が県立真鶴自然公園。鬱蒼とした照葉樹林の森は天然林のように見えるが、江戸時代に小田原藩が幕府の命で15万本の松苗を植林し「御留山」として立ち入り禁止、明治時代は「御料林」、戦後は「国有林」となり、現在では「魚つき保安林」として漁業組合に保護管理されている。

      

樹齢数百年のスダジイ、クスノキ、クロマツの巨木が道路沿いに・・・漁港組合が植樹したばかり木も見られる。

            

真鶴岬の先端にある三ツ石・・・周辺は好漁場で「魚つき保安林」からの栄養豊富で温度が一定の地下水にプランクトンが集まり、それを求めて魚が集まるといわれる。

      

伊豆大島・初島・大室山・天城山がまじかに・・・

      


参考までに・・・

* 東海道線は平日には通勤・通学の利用で混雑します。土曜日ならと考えていましたが、混雑は相変わらずでした。帰りの真鶴駅からはほぼ満員,グリーン車両もありますので、その利用を勧めます。
     
* 真鶴半島には磯料理を提供する店が海岸沿いにあります。創業56年の「うに清」で食事をしましたが、午後2時でも満席でした。

* 中川一政美術館http://www.nakagawamuseum.jpは次の機会に見学する予定です。

関連サイト

      真鶴半島の観光情報サイト・真鶴ナビhttp://www.manazuru.org/index.html


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韓国歴史ドラマで日本史学習

2015-02-10 09:40:33 | Weblog
いわゆる韓流ドラマにはまったく興味がありませんでした。
しかし、偶然、「広開土太王」にチャンネルを合わたことから、韓国歴史ドラマに魅せられました。
高校の日本史で「広開土王碑(好太王碑)」について習ったことを思い出したからです。
確か第20話からの視聴でしたが、たちまちドラマに引き込まれ、最終話(92話)まで一話も欠かすことなく楽しみました。

 後に広開土王となる高句麗の王子・談徳(タンドク)の半生を描いたドラマで、鮮卑族の後燕、契丹、靺鞨と戦い領土を広げ、朝鮮半島では隣国百済を度重なる死闘の末屈服させ、新羅に進出していた倭(日本)を破るという4世紀末から5世紀初めの東アジアでの高句麗を描いた歴史ドラマです。

 ドラマは毎回「広開土王碑」の映像から始まります。碑に記された史実に沿って展開し、中国の五胡十六国の時代で、北アジア、東アジアの国々や諸民族の動きがよく分かります。ドラマ中の解説には「日本書紀」からの引用もあり、大和朝廷は仁徳天皇の治世で朝鮮半島にも勢力を広げていたのです。

 広開土王が海を渡り倭を攻める場面があります。これは広開土王碑の中の「百殘新羅舊是屬民由來朝貢,而倭以辛卯年來渡[海]破百殘,□□ 新羅以為臣民」を韓国では「(高句麗)が海を渡って・・・」と解釈しているからです。しかし、富士山の映像が出てきたのには正直驚きました。詳しくは「好太王碑のサイト」を・・・

 日本の中学校・高校の歴史教科書のほとんどは「広開土王碑(好太王碑)」を取り上げています。1880年に中国吉林省集安で再発見された高さ6.3m、幅1.5mの角柱の碑の4面に総計1802文字が漢文で刻まれ、その解読で古代における我が国の朝鮮半島での活動が初めて明らかになったという第一級の金石歴史資料だからです。

「世界史年表・地図」を久しぶりに開き、「中国」「朝鮮」「日本」を時系列に比較しながら、ドラマを視聴しました。また、お茶の水女子大学・広開土王碑拓本の特設ページへもアクセスしました。


次のドラマも推奨します

 「朱蒙(チュモン)」
高句麗の建国物語。各地に分散していた小部族を糾合し、漢の植民地支配に立ち向かい、高句麗を立国、初代東明聖王(とうめいせいおう)となる朱蒙(チュモン)の物語。漢の強力な武力に対抗するために鋼の錬金術に力を注ぐ描写が印象的。

広開土王碑には「鄒牟(チュム)」として最初に名があげられている。紀元前1世紀前後の東アジアが舞台、我が国は弥生時代で年表・地図は空白。

 「大祚榮(テジョヨン)」
高句麗に仕える将軍の子として生まれる。668年、高句麗が唐との戦いに敗れ、首都平壌陥落・滅亡した後、高句麗遺民や百済遺民を率いて唐軍と戦いながら、満州に渤海国を建国する。700年の歴史を誇った高句麗が滅亡する様子を臨場感を持って描いている。

663年(天智2年)に百済が唐に滅ばされているが、百済を救援した倭軍が唐軍に大敗する白村江の戦いはドラマに出てこない。以降、日本の朝鮮半島への影響力はなくなる。
なお、渤海国は200年続くが、その間、34回の使節団を日本に派遣している。

大王の夢
唐と連合し、百済、高句麗を滅ぼす新羅の第29代・太宗武烈王を描く。前半は劇画風の描写で史劇としては疑問があるが、後半は大和朝廷も登場、白村江の戦いが詳細に描かれる。韓国側の視点からだが、古代の我が国が最も多く描かれている韓流時代ドラマ。

ホジュン 宮廷医官への道
李氏朝鮮時代に実在した医師・許浚(ホジュン)の生涯を描く。妾(めかけ)の子という不遇の生を受け、苦難と苦労、抑圧、差別を受けながら朝鮮で最高の名医になり、1613年に東医宝鑑を発行、朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布した。2009年、ユネスコ世界記録遺産に登録。

世界一厳しいと言われる身分制度、科挙の風景、薬草採取、庶民の生活、村の医院の様子など李氏朝鮮が生き生きと描かれている。

ホジュンが宮廷医官になった時期に秀吉の朝鮮出兵があるが、その時の首都漢陽(今のソウル)の混乱ぶりもドラマに組み込み、旗指物を背負い火縄銃を手にする日本兵も登場。


輝いてスングム
 韓流歴史ドラマの範疇には入らないが、日本の植民地時代が終わり、朝鮮戦争直後から現代までの韓国が舞台。南北朝鮮分断直後の韓国の状況描写や日本統治時代が色濃く残る街の漢字の看板や紙幣が映し出され、時代背景描写が正確で説得力がある。くず拾いで生きる戦災孤児や米軍放出の学校給食を待つ子どもの姿には、我が国の戦後の状況を彷彿させられる
     スングムは朝鮮人参で名をなした女性がモデル。朝鮮人参を巡るストーリーの展開が巧みで、最後まで楽しめる。また、子ども時代を演じる子役たちと成人後を演じる俳優の演技力も見所。

「初めての韓国旅行記」>
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