シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

なまず料理の町吉川と近藤勇

2008-02-29 09:47:53 | Weblog
吉川、なまず料理の町」と言っても、関東の方でも吉川がどこにあるのかお分かりにならないでしょう。今月、民放でも、NHKでも、相次いで、吉川なまず料理の老舗麹家が紹介されましたので、それに触発されて出かけてきました。

以前、何度となく、吉川の町を車で抜けてことがあり、うなぎやなまず料理の看板を出す店が多いのは知っていましたが、当時は交通の便が悪く、周りは田んぼや畑が目立ち、寂れた町という印象で閑散としていました。
しかし、JR武蔵野線が開通、都下の府中本町から所沢、浦和、吉川、流山、船橋、浦安、そして東京駅と、首都圏を大きく取り囲むように結んでからは、吉川の町の装いは一変、住宅地が急速に広がり、首都圏へのベッドタウンの様相を見せています。

旧街道沿いに麹家があります
 吉川の駅から、メインストリートを北に向って歩き始めましたが、麹家の看板がなかなか見つからず、親子ずれに道を尋ねましたが、分からないとのこと、新住民の方だったのでしょう。旧街道は、一本西側の、中川沿いの道でした。
旧街道に面している麹家の入り口は裏門で、反対側の、中川に面しているのが正面玄関になっています。江戸時代の商家らしく、街道に面する間口は狭く、奥に長く伸びる敷地に細長く立つ二階家の料亭です。

江戸時代、吉川は水運で栄えました
ここ吉川は江戸時代から明治初頭まで利根川水系の中川を通して物資の集散地であり、江戸からわずか八里という水運の利点を生かし、高瀬舟が行きかい、船頭や荷積み人がせわしく働き、河岸問屋には荷を預ける客や旅人が集まり、水産物を扱う浜方問屋、穀物問屋、旅籠、茶屋が軒を並べる活気ある町で、関東各地と江戸を水運で結びつける河岸として繁栄していました。
鉄道建設や道路の整備が進んだ明治の中頃から、陸上運送にその役割を奪われ、衰退し、やがて田園の中に取り残されてしましました。

いよいよなまず料理です
 訪れたのは平日の午後一時、一階では団体客、二階の広間には四人グループが食事をしていました。うなぎ料理もありますが、折角ですから、「なまずづくし」4,200円を注文、卵の煮付け、刺身、照焼、天ぷら、たたき揚げ、マリネ、団子汁の七品です。卵の煮付けはなまずの卵の感触がよく残っており、もみじおろしの薬味で頂く刺身はふぐのような歯ごたえ、照焼はブリのそれを思い起こさせ、天ぷらは白身で淡白、たたき揚げは香ばしくなまずの骨の歯ごたえが何ともいえず、洒落たマリネ、団子汁の上品な香りと味、なかなかの物でした。特に気に入ったのが、たたき揚げで、吉川の郷土料理となっているとのこと、土産に買い求めました。
先客の女性4人グループは、「ほんとうに淡白な味」「上等な鶏肉なよう」と盛んに感想を述べ合っていました。

近藤勇はいつ吉川に来たのでしょうか
 糀家のホームページにも述べられていますが、近藤勇や勝海舟が訪れたという伝聞があるようですが、いつ頃のことなのでしょうか。勝海舟は幕末から明治と、江戸そして東京に住んでいましたから可能性はありますが、近藤勇の場合はどうでしょうか。
鳥羽伏見の戦いに敗れ、京都から海路江戸に戻り、さらに甲州勝沼での戦いにも敗退、江戸を通り抜けて、中川、江戸川を渡り、最後の陣を流山に構えますが、その行軍の途中で、吉川近くを通った筈ですから、その頃に立ち寄ったのか知れません。

珍しいなまず料理を味わい、ギャラリーに展示された江戸時代から伝わる絵画、書、色紙に麹家の由緒ある400年の歴史に触れ、ここを訪れた先人たちに思いを馳せた一日でした。

関連リンク:
料亭麹家
近藤勇流山陣屋

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大分の郷土料理と臼杵のふぐを味わう

2008-02-24 09:07:47 | Weblog
 旅の楽しみの一つに、食があります。昨年末農林水産省から「郷土料理100選」が発表され、大分県では「だんご汁、ごまだしうどん、ブリのあつめし」の3点が選出されました。今回の旅では、その三つを味あうことができました。

 だんご汁
 大分県全域で食べられている基本食だそうです。宇佐神宮前の土産店の食堂で食べました。基本食ということで、定食に添えてあるようでしたが、単独でも注文できます。だんごが入っているのかと思いましたが、野菜がたくさん入った味噌汁に幅の広い厚めのうどんが入っているという感じで、山梨の郷土料理「ほうとう」と似ています。
 名前の由来ですが、小麦粉を捏ね、団子状にちぎったものを伸ばすところからくるようです。だしは小魚を使っているようで、ここがほうとうの味と異なるところです。店の方の話ですと、店により、また家庭により独自の味があるとのこと・・・夏場でも、汗を流しながら、この熱いだんご汁を食べるとのことでした。

ごまだしうどん
 佐伯の郷土食です。国木田独歩館の受付の女性に教えてもらった松並木先の駐車場前の店に行きました。お湯だけの中の、うどんが・・・そしてかまぼこ、青ねぎが散らしてあるだけです。その中に練り状のごまだしを大匙一杯加えます。それがそのままだしとなり、いい塩梅の味となります。いとも簡単な調理法、さすがに漁師の伝統食です。しかし、ごまだし作りはたいへんです。エソという小魚を丁寧にさばき、焼き、身をほぐし、そしてごまを加えて擦る・・・という漁師のおかみさんが手間隙かけて作ったものなのです。
 このごまだしは万能調味料、いろいろな料理に使えます。冷蔵庫の中なら三ヶ月は持つという優れもので、土産にもってこいとばかり、13個を送ってもらうことにしました。

ブリのあつめし
 醤油に漬け込んだ新鮮なブリの切り身を炊き立てのご飯の上に載せ、その上にお茶をかけて食べる漁師の船上食が原点です。りゅうきゅうというとも呼ばれているようで、琉球の漁師から伝わった調理法とのことでした。
 佐賀関で関さばのりゅうきゅうを食べました。あたたかいご飯の上に、関さばの切り身がならび、薬味がかかっています。それに特製のたれをかけて頂きました。
 大分空港でもりゅうきゅうの真空パックのセットが売っていました。売り場の女性の話ですと、関さばのりゅうきゅうは年に数回しか食べられないとのこと・・・高価な郷土食となってしまったようです。

臼杵とふぐ
「冬に臼杵に行くのだったら何を置いてもフグを・・・」と臼杵に詳しい友人から聞いていたので、臼杵に着くと予約しておいた料亭春光園に向かいました。臼杵藩主稲葉家家老の屋敷跡、庭園は文化財に指定されているとのこと、着いたのが6時半で暗く、残念ながら庭園を見ることができませんでした。料亭入り口はまさしく映画で見るような武家屋敷の玄関の構えそのものです。
 
 個室に通され、早速食事です。地元の特産の名物を並べた先附をそこそこに、いよいよふぐ刺しです。大皿に載せられたふぐ刺しですが、皿の模様が透き通るくらいに芸術的な薄さにそがれているのがふぐ刺しですが、臼杵のふぐ刺しは違います。厚くそいだふぐの身が無造作に並べられた趣なのです。潮流の激しい豊後水道で育った天然ふぐの身は、薄く削ぐのが大変で、贅沢に厚い身のままで、ふぐ独特の歯ごた・甘みが倍加している食感なのです。

 そして薬味として盛られた青ねぎともみじおろしの横になにやら白いどろっとした形状の品が添えてあります。これがふぐ××で、ここ臼杵でなければ決して食べることができないものです。怖々と箸を伸ばし、ポン酢に漬け頂きましたが、上品なまったりとした甘みが口いっぱいに広がり、高級品のフォアグラもその比ではありません。
 ちょうど部屋にお見えになった女将との会話の中でも話題になりましたが、石川県能登地方に伝わるふぐの卵巣の糟漬けは、ふぐの毒(テトロドトキシン)抜きの奇跡の発酵文化として知られていますが、臼杵にも独特の調理法の文化があるのかもしれません。
 
 続いて出されたのが2月~3月しか食べられないという白子です。ふぐちりに入れた安物の白子は食べたことがありますが、臼杵では焼き白子として出されます。
 表面を微妙な火加減で炙った白子が、小さな丸もちのような形で小皿に二つ載っています。そのまま口に入れ、表面を歯でそっと割ると、中身が流れ出しとろけるような滑らかな舌ざわり、そしてほのかな甘みが口中にひろがります。
 
 ふぐの天ぷらを食べた辺りから、ひれ酒の酔いも手伝い満腹となり、ふぐちりの後の定番の雑炊は遠慮しました。それにしても、ふぐミソ(?)の味わい、ふぐ刺しの量感、白子の上品さ・・・臼杵で出会った伝統のふぐ料理の味は生涯忘れることができないでしょう。

九州の旅シリーズもお読みください。
国東半島から黒川温泉へ
竹田・佐伯・臼杵へ
臼杵・佐賀関・別府温泉

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臼杵・佐賀関・別府温泉を楽しむ・・・九州冬の旅

2008-02-17 13:43:58 | Weblog
 大分空港からレンタカーを借り出し、二泊三日の九州旅行を楽しみました。大分空港からのレンタカーの旅は2度目となりますが、前回訪れなかった名所旧跡を訪れるのが今回の旅の目的です。
 その第三日目の報告です。

8:00 臼杵市内ホテル出発
8:30 稲葉家下屋敷前駐車場へ
9:00 野上記念館
10:00 野上記念館→二王座道→市内散策 
10:30 駐車場発
12:00 佐賀関着
13:00 佐賀関発
14:00 大分市通過
14:30 別府浜脇温泉着
15:30 浜脇温泉発→別府国際観光港
17:00 大分空港着
18:05 大分空港発、羽田へ

臼杵市内見学:
 臼杵の町でまず最初に目にするのが臼杵城址でしょう。竹田の岡城は川沿いの丘陵に、佐伯の城山は100mの山頂に築城されているのに対して、臼杵城は町の中にあります。浜辺の島に築城されたのが、町の発展とともに周辺が埋め立てられ、町の中に取り込まれた形になりました。現在は公園となり、桜の名所でもあります。築城は大友宗麟で、その絶頂期の頃は、ポルトガル船も寄航していており、当時の臼杵は異国情緒豊かな町でした。
 大友家が没落し、関が原の戦いで戦功があった稲葉家が美濃から移ってきました。稲葉家は、織田信長、豊臣秀吉に使えた稲葉一鉄が始祖で、市内には稲葉家の家臣団の屋敷が幾つかあり、往時の姿を伝えています。その中で、丸毛屋敷跡が見所の一つでしょう。明智光秀の名家老であり、光秀と運命をともにした斉藤利三に連なる丸毛氏は、山崎の合戦後流浪の身でしたが、姻戚である稲葉家に200石で召抱えられました。そんな関係から、利三の娘お福、後の春日の局が、住んだこともあるという斉藤家の屋敷跡もありますが、お福が住んだというのは伝説でしょう。なお、お福の子、稲葉正勝は小田原城主となっています。
 歩くだけならば、一時間かからずに一回りできるという旧城下町は江戸時代に戻ったような家並みが続きます。ポルトガル人が闊歩していた時代の町割りとほとんど変わらない町割だと野上弥生子が書いていましたが、そんな雰囲気が濃厚な町です。商家が多く、目に付くのは「推薦店 ふぐの郷臼杵」という看板を掲げた店です。ふぐの鰭を店先に干してある店もあります。昨夜訪れた武家屋敷跡にある春光園と異なり、庶民的な雰囲気が魅力的、次回はこちらを訪れてもよい・・・と考えながらの散策です。その商家の一角が野上弥生子の生家が記念館となっています。
 南の高台の一角が武家屋敷と寺が織り成す石畳の道、二王座道です。切通しあり、階段ありの石畳の坂は晴雨を問わず散策したいところです。
 映画「なごり雪」を撮影した大林宣彦監督は、タイムカプセルに包まれたようなこの城下町の情感をあますことなく捉えています。

*前回訪れている国宝「臼杵石仏」には行きませんでした。
*「観光ガイド・・写真で見る臼杵・・原山隆編集」が大変参考になりました。駐車場の管理人の方の手元にあり、無料で配布されています。

野上記念館で:
 野上(小手川)弥生子の生家、小手川酒造の一部が記念館となっています。臼杵への旅での一番の楽しみは、この記念館を訪ねることでした。甥であるフンドウキン株式会社会長小手川力一郎氏の野上弥生子逸話や松岡正剛氏の千夜千冊「秀吉と利休」を読んで、野上弥生子という作家の幅広い交友関係、説得力ある鋭い洞察力、リベラルな思想、老年になっても衰えない創作意欲と知識欲に深く心打たれたからです。
 記念館での展示物の中で特に惹かれたのは、二階の展示室入り口のケースに展示されている一冊の本、1911年創刊の女性文藝雑誌「青踏」です。その隣に置かれた伊藤野枝の写真から、二人は青踏社で知り合い、その縁で大杉栄と伊藤野枝の結婚式に野上弥生子が出たのだと合点がいきました。そして、展示室に隣接する、弥生子が上京するまで使っていた部屋を覗いた時、ふと、二年前に訪れた福島県二本松市の智恵子記念館の、智恵子の過ごした部屋となにやら雰囲気が似ているなと感じ、そして突然、智恵子が「青踏」の創刊号の表紙絵を描いたということを思い出したのです。
 部屋の佇まいが似ているのも当然です。高村(長沼)智恵子の生家も酒造業を手広く営んでいました。ただ、酒造業を継いだ弟は経営能力が無く破産、一家離散となり、これが智恵子の精神を追い詰めていくことになります。
 帰りがけにもう一度「青踏」に目を向けました・・・弥生子と智恵子は青踏社で出会ったことがあるのでしょうか・・・同じような境遇に育ち、はるばる九州から東北からと、夢と希望を持って上京した若き二人の女性は、一人は99歳まで執筆活動を続け、天寿をまっとう、「天神丸」「秀吉と利休」などを遺し、一人は精神病の闇に閉ざされたまま53歳の生涯を終えましたが、夫高村光太郎の「智恵子抄」となって後世に生きています。

記念館を出ると、棟続きの隣は九州では一、二を競う大手の小手川酒造、忙しく作業をしている社員の方々の姿が見えます。向かい側の、同じような佇まいの小手川商店で、お茶をご馳走になり、土産を買い求め、臼杵を後にしました。

ところで雑感・・・小手川酒造は、フンドウキン株式会社となっており、その名を架した醤油の製造元です。この「フンドウキン」という名前ですが、記念館でその紋を見て、ようやく納得しました。「分銅紋」に創業者の名前の一字「金」を埋め込み、「分銅金・・・フンドウキン」だったのです。
因みに、千葉県野田市に「亀甲紋」に「萬」を入れ「亀甲萬」という醤油製造元がありますが、カタカナ表示を始めたのはどちらが先なのでしょうか。また、いつの頃からのことでしょうか。いろいろ調べたのですが、結局、分からずじまいでした。

佐賀関に向かう:
臼杵を出て、すぐ217号線を佐賀関まで進みます。狭く、山の縁の海岸沿いの道路です。ところどころに抜け道があり、カーナビが機能しませんが、基本的には海岸に沿っていけばよいのです。九州旅行最終日のこの日は晴天、日向灘の海も凪いでいます。冬だというのに暖かく、まるで故郷の南伊豆の海岸沿いを走っているよう、海岸すれすれの道ですから、ひとたび海が荒れれば、波しぶきを浴びることになるでしょう。のんびりと磯で釣りを楽しんでいる人もおりました。佐賀関の漁港は朝の漁を終えた船が連なっています。 
 佐賀関を訪れたのは、あまりにも有名になった関さば、関あじを賞味することです。丁度昼時になり、歩く人のほとんどいない佐賀関の町を過ぎると、海岸沿いに「関あじ関さば館」があり、駐車場に4,5台の車が停まっています。中に入ると、一階が水産物販売所、二階がレストランです。水産物はもちろん関あじ、関さばが中心、関あじは3月から10月まで、関さばは9月から3月までが旬の魚です。干物は、、鮮度と味を保つため、神経抜き、血抜きをパックに入れてあります。
 二階レストランは、平日にもかかわらず、8割の入りです。新築で、見晴らしがよく、休祭日は混雑するのでしょう、待合室までありました。関さばの刺身は、一本500gの大きさで7,000円、二人ではとても食べきれそうもなく諦めました。家内は地魚の煮付け、私は関さばのりゅうきゅうをオーダーです。

別府温泉へ:
 佐賀関から愛媛街道と呼ばれる197号線になります。ほぼ直線道路で、改修も進み走りやすい道路です。道なりに進むと、大分市内で10号線と合流です。大分から別府、日出までの別府湾沿いに走る10号線は、片側三車線の一般道として高規格道です。平日の午後でしたが、渋滞することはまったくありませんでした。
大分を過ぎ別府に近づくと、鶴見岳、由布岳が見えてきます。野上弥生子は「或る女の話」の中で「・・・幾つかの円い山を後に負うて、前には瀬戸内海から続いた綺麗な入江を控え、また至るところに、無尽蔵に地の下から湧き出る熱い湯を持った・・・」と別府を描いています。

高崎山を過ぎて、最初の温泉が別府八湯の一つ浜脇温泉です。「湯都ピア浜脇」の道路標識があり、そこを左折、直ぐです。スーパーマーケット、入浴施設が一体化した区画になっており、地下駐車場があります。「湯都ピア浜脇」は昭和の初めに立てられたコンクリート三階建ての旧浜脇高等温泉の地に建てられました。昔からの共同浴場とヨーロッパのクアハウス風の入浴施設は別棟で、どちらに入ろうか迷っていましたら、地元の方でしょうか、「向こうは値段が高いぞ」と教えてくださいましたが、結局、貴重品入れが完備したクアハウスにしました。
 二階が、受付とロビー、60畳位の和室の休憩室、ジムがあります。階段を下り、一階が浴場です。かぶり湯、気泡浴、全身浴、圧注浴、打たせ湯、運動浴、寝湯の8つの浴槽があり、ここでも入浴注意書きは日本語、ハングル、英語です。
ゆっくりと入浴三日間の九州冬の旅の疲れを取りました。午後三時頃ということもあり、入浴者は10人足らずでした。和室には若者が二人、おそらくバイクで九州を回っているのでしょう、熟睡していました。
一人500円の贅沢なひと時でした。

大分空港へ:
 10号線に戻ります。10分も走ると、別府国際観光港が右手に見えてきます。ここは大阪、神戸のフェリーボートが発着する港です。ここのみやげ物店は大分県の物産展の趣があり、水産物以外なら大抵の品が販売されています。また、毎年2月に行われる別大毎日マラソンの折り返し地点になるところです。
 10号は日出(ひじ)町まで三車線の走りやすい道路が続きます。日出で213号に入り、直ぐに大分空港道路(有料)の標識が出てきます。こちらが新しい213号線のようですが、距離的にも大差が無く、海岸沿いを走り、美しい杵築城を眺められる本来の213号線を走りました。
 杵築城を望む別府湾の海で取れる城下かれいは食通の間では有名です。初夏が旬で、その頃に訪れたなら味わうことができるでしょう。ここから空港までは、わずかな距離です。

 三日間の走行距離は384キロ、スタッドレス付レンタカー料金20,000円、ガソリン代は3,000円でした。

九州の旅シリーズもお読みください。
国東半島から黒川温泉へ
竹田・佐伯・臼杵へ
大分の郷土料理と臼杵のふぐ










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黒川温泉から佐伯・臼杵へ・・・九州冬の旅

2008-02-11 14:00:36 | Weblog
更新しました。次をご覧下さい。http://blog.goo.ne.jp/masa4439er/e/fb43447cd6906a04e91a252f3aebf2d2
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国東半島両子寺・宇佐八幡宮から黒川温泉へ・・・九州冬の旅

2008-02-05 10:52:44 | Weblog
大分空港からレンタカーを借り出し、二泊三日の九州旅行を楽しみました。大分空港からのレンタカーの旅は2度目となりますが、前回訪れなかった名所旧跡を訪れるのが今回の旅の目的です。
 第一日目の報告です。

7:50 羽田発(ANA)9:30 大分空港着
9:30 大分空港着
10:00 レンタカーで空港出発。北上して、国東交差点を左折、豊後高田方面へ
10:40 両子寺(ふたごじ)到着。境内散策
11:40 両子寺出発。豊後高田を経て、宇佐へ。
12:30 宇佐神宮到着。昼食後、神宮境内散策。
14:00 宇佐神宮出発。387号線を小国まで。422号で黒川温泉へ。
16:30 黒川温泉着(宿泊)

大分空港から両子寺(ふたごじ)へ:

 国東半島には仏教文化が栄え、数多くの寺院や石仏があるという知識は持っていましたが、どのような分布で、どのくらいの密度で存在するのか漠然と地図を眺めているだけでは分かりません。そんな時両子寺のホームページを開き、その成り立ちが明快に説明され、ようやく全体図が見えてきました。
「国東半島のほぼ中央に聳える両子山(721m)から放射状にくにさきの谷々は海岸へと広がり、約28谷を六つの里に分け、六郷と称し、この地に開かれた天台宗寺院全体を総称しして六郷満山と呼び、奈良、平安・鎌倉の昔より、宇佐八幡〈全国八幡の総本社〉の庇護と影響の下に神仏習合の独特の寺院集団と信仰が形成され、往時には半島一帯に185の寺院、洞窟、僧坊、を含めて約八百の大小の堂、また、石仏・石塔が、点在し、ほとけの里といわれる六郷満山仏教文化圏が開かれてきました。」

 

 見所は無数にあると言ってよいでしょうが、六郷満山の総持院である両子寺、九州最古の和様建築物である国宝富貴寺、九体の平安時代の仏像を有する真木大堂、代表的な石仏の熊野磨崖仏などが多くの人が訪れるところです。これらを全て訪れるとすると1日は要します。今回の旅では、訪れたことがある富貴寺、真木大堂、熊野磨崖仏を外し、両子寺宇佐八幡宮を訪れることにしました。

 カーナビ画面に目的地「両子寺」を入れ、出発です。別府湾沿いの国道213号線を北上、国東で左折、集落を過ぎ、登りの山道に入ります。寺の名前の道路標識が多く見られ、「み仏の里」に入ったことが実感できます。冬ということで国東半島を走る車は少なく、快適なドライブです。常緑樹と竹林が多い山間は、冬景色という感じがしませんが、上り坂のカーブごとに置かれている滑り止めが入った砂袋が、凍結する道路の危険性を教えてくれます。

やがて「両子寺」の立派な標識・・・山道を登っていくと駐車場です。観光バスが数台
、乗用車が20台位駐車できるスペースです。本来なら駐車場下の、石像仁王二体が守る仁王門から石段を登り、山門を通り護摩堂に至るのが正式な参道でしょう。駐車場から上る階段脇の下段には蝋梅が黄色の花をつけています。受付で拝観料を支払い、書院・客殿がある広場に出ます。そんなに広くはありませんが鬱蒼と茂る杉山を背景に築山風によく手入れされた庭園は、冬の最中でも、魅力的な風景です。境内には桜の木、もみじ、石楠花など花木が多く春や秋の頃なら装いはまったく違うでしょう。
雪になっても不思議ではない小雨の降る気温5度の境内は閑散としています。右手にある護摩堂に参詣、誰一人いない講堂の中は、わずかな明かりの中、暖房もなく、祀られる不動尊と日夜対峙しての修行は並大抵なことではないでしょう。

 ここから奥の院へ山道を登ります。14世紀中ごろに造られたと言う国東塔は必見です。急坂の石段を登ると左手に10メートルはあろうかと思われる岩が立ち、その表面が磨崖碑となっています。奥の院はその奥まった一角にあり、岩山を背後に組みこんだ建物で、前面の谷は二抱えもある年輪を刻んだ杉の林です。奥の院の裏側の洞窟状になった空間に入りました。裸電球の明かりで薄暗い洞窟内も修行の痕が残され、岩山からしみ出る水を神水として溜める窪みが岩山に削ってありました。

両子寺から宇佐神宮へ:
 次の目的地は宇佐神宮です。両子寺から豊後高田へは道が下ります。直ぐに集落があり、前方に独特の形状の岩山が見えてきます(冒頭の写真)。国東周辺の山々は岩山が目立ち、猪群山の頂上にはストーンサークルがあり、古来から石材の入手は容易で、それが石仏、石塔、石板碑が多く作られた理由でしょう。カーナビの指示に従い、豊後高田市内に入らず国道10号線に出てしばらく走ると宇佐八幡宮(神宮)の標識が出てきます。広い有料駐車場があり、その南側に土産店が並んでいます。

 駐車場の東にある朱塗の宇佐鳥居を過ぎると、常緑高木のイチイガシが生い茂る参道は南に曲がり、宇佐神宮の北側を守るように流れる藻岩川を渡る朱色の神橋があります。そこから広い参道がまっすぐ伸びていますが、南端には行き止まりの森が見えるだけです。右手にある宝物館は火曜日であったため、休館でした。

 左手の池には鯉のえさの販売機があり、一組の夫婦が鯉に餌を与えています。隣に絵馬殿があり、明治・大正時代の額や絵馬が飾ってあります。参道に戻り、南端まで歩くとようやく左に上宮へ続く緩やかな階段状の参道になりますが、上宮は見えてきません。登りきると本殿の屋根が見えるだけで、右手斜めに進んで、ようやく上宮の横手にでます。ここで左を向いて始めて本殿に正対できるのです。一之御殿、二之御殿、三之御殿が並び、それぞれ御祭神に拝礼します。本殿の正面に勅使門があり、百段の石段がまっすぐ下っています。



 一般の参詣者には、あえて参道に幾つかの曲がり角をつけ、華麗な八幡造りの国宝本殿の姿を最後の最後まで目にすることが出来ない巧みなレイアウトが、宇佐神宮の特色のように思いました。これが宇佐神宮の懐深さ、奥行きの深さを感じさせてくれ、時々参詣する明治神宮との違いです。それもそのはずで、全国4万あまりの八幡宮の総本山であり、伊勢神宮に次ぐ我が国第二の総廟であり、天皇家の勅使が10年に一度参向するという格式を持った神宮であることをパンフレットから知りました。 

 本宮のお参りを済ませてから、参道を戻り、若宮神社で左手に下り、下宮に詣で、再び参道に戻ります。ここから表参道の神橋まで行かずに、神宮庁を左折、西参道の、鎌倉時代からの歴史がある神橋である屋根付の呉橋(くれはし)を見学します。現在は渡ることが禁止されており、並んで作られている歩道橋で寄藻川を渡ります。右に曲がれば、みやげ店前の駐車場はです。

宇佐神宮から黒川温泉へ:

 カーナビの推奨ルートは宇佐別府道路大分自動車道やまなみハイウエイ経由ですが、やまなみハイウエイは走ったことがあり、湯布院も今回の旅では寄らないこと、また、レンタカー借り出し時に黒川温泉付近の降雪・凍結情報を知らされていましたので、瀬の本峠から黒川温泉へ下るこのルートを避けることにしました。
 第二のルートは387号線院内玖珠九重を経て、熊本県小国に入り、そこで442号線黒川温泉に向かうルートです。一般道を走ることになりますから、昔ながらの町並みを楽しみながらドライブできるのでは・・・と思いながら設定しました。
  
 387号線を選んで正解でした。私の古い地図では、387号はカーブの多い道路となっていましたが、今では改修が進み、走りやすくなっています。平日でしたが、交通量は少なく、落ち着いた町を抜けていく予想通りのドライブです。

 玖珠町に近づくと正面に大きな山容の万年山(ハネヤマ)1,140m)が見えてきます。頂上部が平らなこの山はミヤマキリシマの群生地があり、五月末から六月初にかけて多くのハイカーが訪れます。387号はさらに万年山と九重山の間を走りますが、ここに天然洞窟温泉で知られる壁湯川田川沿い最大の宝泉寺温泉文字通り川底から温泉が湧く一軒宿の川底温泉と三つの魅力的な鄙びた温泉地を抜けていきます。いつの日か、ここの温泉に泊まり、万年山に登ろうと考えながらのドライブでした。
 川底温泉を過ぎると熊本県です。小国町に近づく辺りから、387号は、昔ながらの、すれちがいが出来ないような、細いカーブが連続する下り坂になります。しかしここもトンネルを新設中で、今年中には開通するようです。
 小国から442号に左折、阿蘇くじゅう国立公園に向かって上っていけば、30分で黒川温泉に到着です。ここまで、路面凍結の標識はありましたが、雪はまったく目にしませんでした。
 一日目は150キロのドライブでした。

九州・冬の旅2日目



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