シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

新緑と紅葉の高瀬川・鮭が遡上する請戸川・・・浪江町の復活を信じます

2011-04-20 16:42:09 | Weblog
4月14日、福島第一原発7キロ圏内の浪江町請戸地区で行方不明になっている方々の初めての捜索がありました。放射能測定器で監視しながら、放射能防護服で身を固めたの警察署員・地元消防団員が、浪江町を流れる請戸川の川岸のガレキの中を手探りで捜索されている様子がテレビに流れていました。

 20年前の秋、三春を訪れた帰りに、県道落合・浪江線を高瀬川渓谷沿いに浪江まで走ったことがあります。舗装されておらず、県道というより林道という趣で、高瀬川の川辺すれすれを走る箇所もありました。紅葉と清流に囲まれた思い出深いドライブでした。
}高瀬川の紅葉

 浪江町に入ると高瀬川は町の北を流れる泉田川と合流、請戸川となって太平洋に注ぎます。河口に人だかりがしているので、近づいてみると鮭狩りの最中でした。福島県の、それほど大きくもない川に、鮭が遡上するということを知って驚いたことを覚えています。

 現在では、秋になると浪江町では「鮭狩りまつり」が行われ、首都圏からも観光客が訪れるようになりました。江戸時代から鮭の人工ふ化の歴史があり、年間7万匹から10万匹の水揚げがあり、東北地方有数の鮭の魚場となっています。
請戸川の鮭狩り

 鮭の稚魚は海に出てから平均4年の歳月をかけて母なる川に戻ってくるそうです。鮭は生まれた川の近くまでは地球の磁気や太陽の向きを頼りにやって来て、そこから母川の「匂い」を敏感に感じ取りながら遡上するといわれています。

 今年の請戸川は東日本大震災で状況が大きく変わってしました。川辺に散乱するガレキから流れ込む汚水や原発からの放射能で、請戸川の「匂い」がすっかり変わっているかもしれません。しかし、阿武隈高地から流れ出る高瀬川と泉田川の清い流れが、秋までには請戸川の母なる「匂い」を取り戻してくれると信じています。そして、今年の9月末には鮭の第一陣が請戸川に姿を見せてくれることを心待ちにしています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

登米には67年前も東京から123名の小学生が避難してきました

2011-04-04 13:40:11 | Weblog
 南三陸町で被災された方が登米市に到着、町の方の心づくしの暖かい「はっと汁」をおいしそうに召し上がっている姿がテレビニュースで映し出されました。仮設住宅が設置されるまでの9月頃まで登米で避難生活を送られるとのことです。

 この映像を67年前の学童疎開に重ねて見入っていたのは私だけだったでしょうか。
昭和19年から20年にかけて、登米(とよま)町は東京から疎開してきた杉並区桃井第三,第四国民学校の123名の小学生と引率する教職員を受け入れました。子供たちは町内に分宿、現在教育資料館となっている旧登米高等尋常小学校の校舎で学びました。

 昭和19年8月、上野駅から東北線で瀬峰駅へ、そこから仙北鉄道(昭和40年廃線)で登米駅までの10数時間の旅でした。疎開先の登米町の様子をまったく知らないまま、車中で不安な時を過ごした子供たち・・・しかし、登米駅前に集まってくださった出迎えの大勢の町の人々の姿を見たときには、どんなにほっとしたことでしょうか。
 
 登米町のモダンな警察署、東京の学校よりはるかに立派な登米小学校・・・「田舎へ疎開する」と聞かされていた子供たちは、予想とまったく異なる町の様子に、びっくりすると同時に、希望が湧いてきたことでしょう。

 また、悲壮な決意で児童を引率していった教師たちも、その夜、登米小学校の教職員が開いてくれた思いもかけぬ歓迎会に、物資不足の東京では目にすることがなかったご馳走の数々を前に、東北言葉と東京言葉での交流・・・登米での疎開生活の将来に一筋の光を見いだし、自信を持てたに違いありません。
 
 登米の皆さんは、家族と遠く離れて暮らす子供たちの寂しさを慰めようと、各家庭に招待する「おばさんの家」制度を設けるなど、子供たちを暖かく包んでくださりました。疎開生活が子供たちの心に影を落すことなく、むしろ懐かしい思い出となっていることを当時の子供の手記から知ることが出来ます。

 学童集団疎開は戦時中首都に迫る空襲の脅威から児童を守るため、学校まるごと地方に疎開させる施策で、小学校3年生から6年生(空襲が激しくなった昭和20年からは1、2年生も)が対象になりました。今回、東日本大震災で被害を受けられた岩手県、宮城県、福島県、茨城県は、東京から多くの疎開児童を受け入れてくださいました。
 疎開先の旅館や寺院の広間を教室として学び、戦況が悪化するにつれて食糧の配給もままならず、多くの児童は栄養失調状態となり、勉強どころではなくなったというのが実情でした。
 
 登米に疎開した子供たちのように地元の小学校で学ぶことができ、町の人々からも暖かく迎えられた例は極めて稀でした。



*疎開関係資料を登米市立登米小学校より送っていただきました。

*登米市立登米小学校は「とめしりつとよましょうがっこう」と読みます。「登米」の本来の読み方は「とよま」ですが、明治の頃、当地に赴任した行政官が「とめ」と読んだことが慣例化したいう説があります。因みに、宮城県立登米高等学校は「とめこうとうがっこう」です。

*“登米(とよま)”みやぎの明治村から
http://www12.plala.or.jp/aburahu/toyoma/

学童集団疎開にふれた次のブログもお読みください。
http://blog.goo.ne.jp/masa4439er/e/0d251767aab3720fb88e43d247f2dd31


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閲覧数

閲覧、ありがとうございます