
母校・第二砂町中学校の同窓会に参加しました。砂町を離れてから半世紀以上の歳月が経ちます。この機会に砂町を散策することにしました。
出かける前に、昭和43年に習志野市谷津に移転した仙気稲荷(正式には砂村稲荷神社)の荒井静寿宮司のお宅を訪れました。荒井宮司は92歳になられますが、仙気稲荷の移転の経緯や昔の砂町の様子など奥様もご一緒に話してくださり、お宅に祭られている御祭神、当時の写生画や江戸時代の古地図の写真撮影を許してくださいました。

昭和8年、永井荷風は完成間もない葛西橋通りを通って深川から砂町へ足を伸ばし、「元八まん」を書き下ろしました。今回、荷風の足跡を追って歩くことにしました。荷風の随筆からの引用は斜体にしてあります。
(「元八まん」全文は青空文庫のサイトで読むことができます。)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49667_38497.html
散策ルートです
1.東西線南砂町駅

大手町から20分足らずで到着です。地上に出ると第三砂町中学校の門前に江東区が作成した案内板があります。南砂町駅はかつて運河であったこと、荒川堤近くに砂町海水浴場があったことが写真入で説明してあります。
古地図です。赤い縁取りで囲んであるのが元八幡、青い線は東西線、南砂町駅も書き込まれています。

2.日曹橋交差点

「日曹橋」とは日曹製鋼(現・太平洋金属)に因んだ橋名です。昭和の新興財閥、日曹コンチェルンが、毛利家のお抱え屋敷跡を昭和10年頃工場用地として購入しました。現在の南砂3丁目全域がほぼ含まれる広大な土地でした。
3.仙気稲荷(砂村稲荷神社)

<突然、行手にこんもりした樹木と神社の屋根が見えた。その日深川の町からここに至るまで、散歩の途上に、やや年を経た樹木を目にしたのはこれが始めてである>
800坪の敷地の中に樹木に囲まれた社殿がありました。しかし戦災で壊滅、現在は史跡として仙気稲荷神社の小社が祭られているだけです。昭和40年頃、日曹製鋼が仙気稲荷(砂村稲荷)を含めて工場用地を売却したため移転を余儀なくされ、現在、習志野市谷津の荒井宮司の屋敷に祭られています。
(冒頭の写真です)
文化文政の頃から「仙気(下腹部の病)」にご利益があるということで、洲崎遊郭が近かったこともあり、参拝者が絶えなかった神社でした。落語「仙気の虫」はここ仙気稲荷に由来しています。
戦前の仙気稲荷の写生画です。

4.旧市電(都電)停留所跡

<道は辻をなし、南北に走る電車線路の柱に、「稲荷前」と書いてその下にベンチが二脚置いてある。また東の方へ曲る角に巡査派出所があって、「砂町海水浴場近道南砂町青年団」というペンキ塗の榜示杭が立っていた>
路面電車が錦糸堀から砂町を通り、洲崎、深川、日本橋に通じていました。専用軌道跡は南砂緑道公園となっています。写真には荷風も渡った小名木川貨物線が見えます。
稲荷前停車場から元八幡を過ぎて20分ほど歩くと海水浴場でした。飛び込み台の櫓もある本格的な海水浴場で、名所・旧跡・行楽地を私鉄15社の路線図に組み込んで描かれた昭和4年発行の「東京郊外電車回遊図会」(東京博物館所蔵)にも、仙気稲荷と砂町海水浴場が載っています。
運営・管理は南砂町青年団が行っていました。第三砂町小学校の児童には無料券も配られ、水泳教室も開かれていたようです。しかし昭和23年に閉鎖されました。
5.仙気稲荷通り
<右側は目のとどくかぎり平かな砂地で、その端れは堤防に限られている。左手はとびとびに人家のつづいている中に、不動院という門構の寺や、医者の家、土蔵づくりの雑貨店なども交っているが、その間の路地を覗くと、見るも哀れな裏長屋が、向きも方角もなく入り乱れてぼろぼろの亜鉛屋根を並べている>
砂地は後に日曹製鋼の工場用地に、荷風が見た堤防は現在の東西線となっています。医者の家は柳田病院、不動院は延命子育地蔵尊ではないかと思われます。
6.元八幡通り
<道の上には長屋の子供が五、六人ずつ群をなして遊んでいる。空車を曳いた馬がいかにも疲れたらしく、鬣を垂れ、馬方の背に額を押しつけながら歩いて行く>
荷風の文を読むと、貧しい下町の様子が描かれていますが、もし元八幡通りから一歩北に入ったならば、砂町の学習院と地元の人が自慢した建設間もないモダンな第三砂町尋常小学校を目にしたでしょう。
馬が登場していますが、トラック輸送が取って代わる昭和20年代後半までは、砂町での輸送は荷馬車に頼っていました。
7.元八幡(富賀岡八幡宮)

元八幡宮も砂村稲荷神社も代々荒井家が宮司を勤めておられます。元八幡の荒井宮司にお会いしましたが、荷風の「元八まん」をお読みになっており、元八幡に関する部分については作家の誇張があるのではないかと話されておられます。たしかに文化10年作(1813年)の屋根の上に鳳凰が羽を広げた御輿を荷風が目にしていたのなら、記述も異なったものとなったでしょう。
写真左がその神輿です。

元八幡は江戸時代にはさくら、松を合わせて3万本の並木道のある景勝地で、日本橋から一里半の道のりで、参詣者で大変賑わいました。歌川広重の「江戸名所百景・砂むら元はちまん」に当時の様子が描かれています。
http://hiroshige100.blog91.fc2.com/blog-entry-54.html
次の写真は広重が[砂むら元はちまん」に描いた海辺の現在の様子です。東西線の高架から先が昔の海辺でした。第二砂町中学校は写真左手にありますが、昭和27年の開校当時、畑の中に校舎が建ち目の前の堤防の先には海が広がっていました。

元八幡の境内には富士塚があります。江戸時代に盛んになった富士講の影響で富士山を象った塚を作り、それにお参りすることで富士山登山と同じご利益があると信じられていました。吉田口、大宮口、須走口を付け、宝永山まであるという本格的な富士塚です。荷風が築山と見たのはこの塚であったでしょう。

雑感です:
「砂町」ではなく、「砂村町」とすべきでした
<砂村は今砂町と改称せられているが、むかしの事を思えば「砂村町」とでも言って置けばよかったのである>
砂村稲荷の荒井静寿宮司もまったく同じご意見です。大正10年の町制施行の折、行政が安易に「砂村→砂町」としたことに今でも憤っておられます。
万治年間(1658年ー1660年)、砂村新左衛門と一族が心血を注いで開拓し,農民たちが300年近くも耕し続けた砂村新田も、また、200年以上に亘って人々の信仰を集めた砂村仙気稲荷も、砂村の名が無くなり、記憶する人も少なくなりました。
元八幡の境内にある砂村新左衛門の石碑です。

第二砂町中学校校歌と佐藤春夫
同窓会の最後に校歌斉唱となりましたが、 卒業後に校歌が作られたため一期生である私たちは歌詞も曲も知りません。体育館の壁面に掲示されている校歌を見ながらの校歌斉唱となりました。
「田園の憂鬱」や「西班牙犬の家」を読んだこともあり、佐藤春夫の作詞であることを知って感動いたしました。
佐藤春夫は校歌の作詞を承諾してから一週間にわたり砂町を訪れたそうですが、当時は地下鉄もなく都心からの交通の便は良くありませんでした。しかし、荒川堤に立てば視界を遮るものはなにも無く、袖ヶ浦の海を見渡すことができる自然が残っていました。昭和30年代の砂町の様子がよく歌われています。
「消費の都心遠くして
世の奢侈より逃れたり
荒川堤 袖ヶ浦
建設の野をわれら行く 」
ところで、学校の隣にある元八幡を佐藤春夫は訪れたのでしょうか。慶應義塾大学の学生であった頃、教授であった永井荷風に学んでいますし、荷風主幹の三田文学で活動し、「小説永井荷風伝」を書いていますから、荷風の随筆「元八まん」を読んでいたに違いはありません。
当時、芥川賞選考委員で多忙であった佐藤春夫が校歌作詞を承諾した背景には、荷風の「元八まん」の地を訪れたいという気持ちがあったのではないでしょうか。
宮部みゆきの「砂村新田」 
江戸下町を描いた宮部作品の中でも評価の高い作品です。NHKテレビ「茂七の事件簿 ふしぎ草紙」で「ならず者」というタイトルで最終回を飾りました。また、青少年向けの「はじめての文学」(文芸春秋)でも宮部みゆきはこの作品を選んでいます。
『12歳のお春は砂村新田の地主の家に下働きの女中として奉公に通いますが、ある日声をかけてきた、母親の知り合いらしい、やくざだが純情な男をめぐる心温まる物語です。
深川から砂村新田まで一里の道のりを、梅雨に濡れながら、12歳のお春が初めての奉公に出かける心細い心情を描く場面から物語は始まります。』
宮部みゆきは深川育ちの作家です。父親の曽祖父の代に砂村から深川に移ってきたとのことですから、「砂村新田」には作者の砂村への思いが込められているのかもしれません。
出かける前に、昭和43年に習志野市谷津に移転した仙気稲荷(正式には砂村稲荷神社)の荒井静寿宮司のお宅を訪れました。荒井宮司は92歳になられますが、仙気稲荷の移転の経緯や昔の砂町の様子など奥様もご一緒に話してくださり、お宅に祭られている御祭神、当時の写生画や江戸時代の古地図の写真撮影を許してくださいました。

昭和8年、永井荷風は完成間もない葛西橋通りを通って深川から砂町へ足を伸ばし、「元八まん」を書き下ろしました。今回、荷風の足跡を追って歩くことにしました。荷風の随筆からの引用は斜体にしてあります。
(「元八まん」全文は青空文庫のサイトで読むことができます。)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49667_38497.html

1.東西線南砂町駅

大手町から20分足らずで到着です。地上に出ると第三砂町中学校の門前に江東区が作成した案内板があります。南砂町駅はかつて運河であったこと、荒川堤近くに砂町海水浴場があったことが写真入で説明してあります。
古地図です。赤い縁取りで囲んであるのが元八幡、青い線は東西線、南砂町駅も書き込まれています。

2.日曹橋交差点

「日曹橋」とは日曹製鋼(現・太平洋金属)に因んだ橋名です。昭和の新興財閥、日曹コンチェルンが、毛利家のお抱え屋敷跡を昭和10年頃工場用地として購入しました。現在の南砂3丁目全域がほぼ含まれる広大な土地でした。
3.仙気稲荷(砂村稲荷神社)

<突然、行手にこんもりした樹木と神社の屋根が見えた。その日深川の町からここに至るまで、散歩の途上に、やや年を経た樹木を目にしたのはこれが始めてである>
800坪の敷地の中に樹木に囲まれた社殿がありました。しかし戦災で壊滅、現在は史跡として仙気稲荷神社の小社が祭られているだけです。昭和40年頃、日曹製鋼が仙気稲荷(砂村稲荷)を含めて工場用地を売却したため移転を余儀なくされ、現在、習志野市谷津の荒井宮司の屋敷に祭られています。
(冒頭の写真です)
文化文政の頃から「仙気(下腹部の病)」にご利益があるということで、洲崎遊郭が近かったこともあり、参拝者が絶えなかった神社でした。落語「仙気の虫」はここ仙気稲荷に由来しています。
戦前の仙気稲荷の写生画です。

4.旧市電(都電)停留所跡

<道は辻をなし、南北に走る電車線路の柱に、「稲荷前」と書いてその下にベンチが二脚置いてある。また東の方へ曲る角に巡査派出所があって、「砂町海水浴場近道南砂町青年団」というペンキ塗の榜示杭が立っていた>
路面電車が錦糸堀から砂町を通り、洲崎、深川、日本橋に通じていました。専用軌道跡は南砂緑道公園となっています。写真には荷風も渡った小名木川貨物線が見えます。
稲荷前停車場から元八幡を過ぎて20分ほど歩くと海水浴場でした。飛び込み台の櫓もある本格的な海水浴場で、名所・旧跡・行楽地を私鉄15社の路線図に組み込んで描かれた昭和4年発行の「東京郊外電車回遊図会」(東京博物館所蔵)にも、仙気稲荷と砂町海水浴場が載っています。
運営・管理は南砂町青年団が行っていました。第三砂町小学校の児童には無料券も配られ、水泳教室も開かれていたようです。しかし昭和23年に閉鎖されました。
5.仙気稲荷通り
<右側は目のとどくかぎり平かな砂地で、その端れは堤防に限られている。左手はとびとびに人家のつづいている中に、不動院という門構の寺や、医者の家、土蔵づくりの雑貨店なども交っているが、その間の路地を覗くと、見るも哀れな裏長屋が、向きも方角もなく入り乱れてぼろぼろの亜鉛屋根を並べている>
砂地は後に日曹製鋼の工場用地に、荷風が見た堤防は現在の東西線となっています。医者の家は柳田病院、不動院は延命子育地蔵尊ではないかと思われます。
6.元八幡通り
<道の上には長屋の子供が五、六人ずつ群をなして遊んでいる。空車を曳いた馬がいかにも疲れたらしく、鬣を垂れ、馬方の背に額を押しつけながら歩いて行く>
荷風の文を読むと、貧しい下町の様子が描かれていますが、もし元八幡通りから一歩北に入ったならば、砂町の学習院と地元の人が自慢した建設間もないモダンな第三砂町尋常小学校を目にしたでしょう。
馬が登場していますが、トラック輸送が取って代わる昭和20年代後半までは、砂町での輸送は荷馬車に頼っていました。
7.元八幡(富賀岡八幡宮)

元八幡宮も砂村稲荷神社も代々荒井家が宮司を勤めておられます。元八幡の荒井宮司にお会いしましたが、荷風の「元八まん」をお読みになっており、元八幡に関する部分については作家の誇張があるのではないかと話されておられます。たしかに文化10年作(1813年)の屋根の上に鳳凰が羽を広げた御輿を荷風が目にしていたのなら、記述も異なったものとなったでしょう。
写真左がその神輿です。

元八幡は江戸時代にはさくら、松を合わせて3万本の並木道のある景勝地で、日本橋から一里半の道のりで、参詣者で大変賑わいました。歌川広重の「江戸名所百景・砂むら元はちまん」に当時の様子が描かれています。
http://hiroshige100.blog91.fc2.com/blog-entry-54.html
次の写真は広重が[砂むら元はちまん」に描いた海辺の現在の様子です。東西線の高架から先が昔の海辺でした。第二砂町中学校は写真左手にありますが、昭和27年の開校当時、畑の中に校舎が建ち目の前の堤防の先には海が広がっていました。

元八幡の境内には富士塚があります。江戸時代に盛んになった富士講の影響で富士山を象った塚を作り、それにお参りすることで富士山登山と同じご利益があると信じられていました。吉田口、大宮口、須走口を付け、宝永山まであるという本格的な富士塚です。荷風が築山と見たのはこの塚であったでしょう。



<砂村は今砂町と改称せられているが、むかしの事を思えば「砂村町」とでも言って置けばよかったのである>
砂村稲荷の荒井静寿宮司もまったく同じご意見です。大正10年の町制施行の折、行政が安易に「砂村→砂町」としたことに今でも憤っておられます。
万治年間(1658年ー1660年)、砂村新左衛門と一族が心血を注いで開拓し,農民たちが300年近くも耕し続けた砂村新田も、また、200年以上に亘って人々の信仰を集めた砂村仙気稲荷も、砂村の名が無くなり、記憶する人も少なくなりました。
元八幡の境内にある砂村新左衛門の石碑です。


同窓会の最後に校歌斉唱となりましたが、 卒業後に校歌が作られたため一期生である私たちは歌詞も曲も知りません。体育館の壁面に掲示されている校歌を見ながらの校歌斉唱となりました。

「田園の憂鬱」や「西班牙犬の家」を読んだこともあり、佐藤春夫の作詞であることを知って感動いたしました。
佐藤春夫は校歌の作詞を承諾してから一週間にわたり砂町を訪れたそうですが、当時は地下鉄もなく都心からの交通の便は良くありませんでした。しかし、荒川堤に立てば視界を遮るものはなにも無く、袖ヶ浦の海を見渡すことができる自然が残っていました。昭和30年代の砂町の様子がよく歌われています。
「消費の都心遠くして
世の奢侈より逃れたり
荒川堤 袖ヶ浦
建設の野をわれら行く 」
ところで、学校の隣にある元八幡を佐藤春夫は訪れたのでしょうか。慶應義塾大学の学生であった頃、教授であった永井荷風に学んでいますし、荷風主幹の三田文学で活動し、「小説永井荷風伝」を書いていますから、荷風の随筆「元八まん」を読んでいたに違いはありません。
当時、芥川賞選考委員で多忙であった佐藤春夫が校歌作詞を承諾した背景には、荷風の「元八まん」の地を訪れたいという気持ちがあったのではないでしょうか。


江戸下町を描いた宮部作品の中でも評価の高い作品です。NHKテレビ「茂七の事件簿 ふしぎ草紙」で「ならず者」というタイトルで最終回を飾りました。また、青少年向けの「はじめての文学」(文芸春秋)でも宮部みゆきはこの作品を選んでいます。
『12歳のお春は砂村新田の地主の家に下働きの女中として奉公に通いますが、ある日声をかけてきた、母親の知り合いらしい、やくざだが純情な男をめぐる心温まる物語です。
深川から砂村新田まで一里の道のりを、梅雨に濡れながら、12歳のお春が初めての奉公に出かける心細い心情を描く場面から物語は始まります。』
宮部みゆきは深川育ちの作家です。父親の曽祖父の代に砂村から深川に移ってきたとのことですから、「砂村新田」には作者の砂村への思いが込められているのかもしれません。
確か2年生のとき校歌の発表会があり、参加した覚えがあります。
当時講堂もなく、2教室を繋げた会場で式が行われました。
消費の都心遠くしてと今では笑われるような出だしでした。
懐かしい思い出です。
ブログ中のおじいさまの写真はそのまま載せさせていただいてよろしいですか。このページはご覧になる方が多いのですが・・・