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未曾有の大災害を引き起こした天明三年の浅間山大噴火

2017-10-17 10:04:17 | Weblog

草津温泉の最高地点、道の駅展望歩道橋から見た南にそびえる浅間山です。

 今から230年ほど前の天明三年七月八日、三か月にわたり活発な活動を見せていた浅間山が突然大噴火します。
 1億立方メートルともいわれる大量の溶岩が火砕流となって、火口から北側の斜面を下り、村々を飲み込み、泥流は吾妻川に流れ下り、1,400名以上の犠牲者を出しました。

 噴煙は成層圏に達し、火山灰は東に流れ、高崎の倉賀野や新町のすべての田畑は降灰により元の形状がわからなくなるほどで、遠く江戸や銚子にも降りそそぎました。

鎌原村(かんばらむら)の悲劇と吾妻川の天然ダム



火砕流の直撃を受けた浅間山北面の集落は悲惨でした。鎌原村では村民の8割以上の483名が、長野原でも210名の死者が出ました。
 火砕流は吾妻川に流れ込んで土石流となり、川幅の狭い吾妻渓付近では「塞留められし故泥水50丈高く押し上げ・・」と古文書にあり、建設省土木研究所では高さ100m前後の天然ダムが一時的に形成決壊し、渋川までには80分で泥流が到達したと推測しています。

泥流は吾妻川から利根川、江戸川へ



当時、利根川水運でにぎわった赤岩(千代田町赤岩)では500間にわたり堤防が決壊しています。



 また、浅間山噴火から10日を過ぎた頃、葛飾・柴又村の村人は江戸川の異変に気づきます。大量の漂流物とともに老若男女の遺体が流れ着いたのです。吾妻川、利根川を経て江戸川を流れ下ったのです。
 村人は遺体を流れ着いた家畜とともに村の題経寺(柴又帝釈天)の境内に葬ります。、供養塚には「南無妙法蓮華経 川流溺死之老若男女 一切変死之魚畜等 供養塚」と刻まれています。

火山灰は下総の農地に被害を



 常盤平団地がある松戸市金ケ作の一角に、昔からの地元の方が「川越」と呼ぶ地区があります。江戸時代にここ下総台地に川越藩の飛び地があり、開拓地として開かれたのです。新京成電鉄常盤平駅の北口すぐに熊野神社がある一角です。
 熊野神社の由緒書に天明三年の浅間山大噴火の火山灰の降灰の記録が記されています。



 川越藩の郷士・石川彦次右衛門が武蔵国入間郡下赤坂村から九家を引き連れて下総国葛飾郡金ケ作に入植したのが天明二年、翌年、天明三年に開墾を終えたばかりの田畑に火山灰が降り注いだのです。村の安泰、五穀豊穣を願い、石川彦次右衛門たちが建てられたのが熊野神社です。

天明大飢饉の前兆に

 当時の人々には予測できなかったでしょうが、もっとも甚大な被害を及ぼしたのが成層圏まで吹き上がった火山灰と火山ガスです。日本上空の成層圏に数年間にわたって滞留、異常気象を引き起こし、冷害に襲われた東北地方を中心に、餓死者が30万とも50万ともいわれる天明大飢饉の決定的な要因となります。

移転されていた供養塚



 今回、十数年ぶりに柴又帝釈天を訪れ、残念なことがありました。境内の案内図には載っているのですが、天明噴火で流れ着いた犠牲者を祭った供養碑が見当たらないのです。
 寺の方に尋ねると、10年前に新たに整備された善養寺に移動したとのことでした。帝釈天から15分、北総線の新柴又駅近くの善養寺で撮影したのが上記の写真です。

 柴又帝釈天の境内には真新しい東日本大震災犠牲者供養塔が建てられていました。ぜひ、再び、天明三年浅間山噴火横死者供養碑を帝釈天の境内に戻し、時代の流れに忘れさられてしまう自然災害の教訓として多くの参詣者の方の目に触れていただきたいと願うばかりです。
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