シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

富士山を仰ぎ見るハイキングと船旅・・・東京近郊散策(2)

2008-03-22 05:40:30 | Weblog
今から70年前、1939年に、一枚の写真がニューヨークの万国博覧会に展示されました。それが伊豆の達磨山付近から撮影された富士山の写真です・・・駿河湾越しに、高く聳える雄大な美しい富士山の姿を欧米の人々は初めて目にしたのです。 その同じ撮影場所に立ち、同じ景観を楽しむ・・・そして駿河湾を定期船で横断・・・山上からも海上からも富士山の姿を心行くまで楽しむという贅沢な日帰りの旅はいかがですか?


(写真は戸田港の背後に大きく聳える達磨山です)


   
行程

東京駅発  6:56 JR新幹線こだま533号  5,100円(東京―修善寺)
三島駅着  7:54
三島駅発  8:09 伊豆箱根鉄道
修善寺駅着 8:46  
修善寺発  9:10 中伊豆東海バス 戸田(へだ)行  720円
戸田峠着  9:39 ㈱中伊豆東海バス ℡ 0558-72-1841   
 金冠山ハイキング 戸田峠(720m)⇔金冠山(810m)約1時間30分
 達磨山ハイキング 戸田峠(720m)⇔達磨山(980m)約2時間
 戸田峠⇒だるま高原レストハウス(トイレ休憩)    約20分
だるま高原レストハウス発 14:47     670円
戸田着   15:10   
 戸田散策
戸田発   15:15   高速船ホワイトマリン
 2,000円
沼津着 15:45 
 沼津港湾で買い物と食事
沼津駅へ タクシー10分        1,000円
沼津駅=三島駅=東京駅 約1時間10分 4,400円 

注1: 金冠山ハイキングだけの場合には「東京駅発9:26 こだま543号 修善寺発11:15 戸田峠着 11:44」となる
注2: ホワイトマリンは水曜日休航となりました。夏ダイヤは戸田発16:25 沼津着16:55,
冬ダイヤでは上記プランは不可
注3: ホワイトマリン号欠航の場合は、戸田を見学、バスで修善寺に戻る

旅のご案内

三島駅から修善寺駅の車窓から
 狩野川流域の中伊豆を走る伊豆箱根駿豆線は、歴史の中を走る電車です。各駅の「名所案内」を見れば一目瞭然、「三嶋大社」「蛭が小島」「政子産湯の井戸」「源頼家の墓」と源頼朝と北条政子ゆかりの史跡が車窓の左右に点在する中を走る電車です。「駅から始まる物語」
 また、ここ中伊豆は田方平野と呼ばれ狩野川沿岸の肥沃な土地でのイチゴ栽培が盛んで、その先進地であり、50年の歴史があります。秋から冬にかけての夕方、イチゴの電照処理のため、内部を照らされたビニールハウスがぼんやりと闇の中に浮き上がる様は風物詩となっています。

修善寺駅から戸田峠への旅
 中伊豆バスは駅からすぐ狩野川を渡ります。以前は多くの釣り人が見られましたが、鮎の遡上が少なくなったのか、めっきりと少なくなりました。バスは136号線を天城方面へ進み、やがて修善寺温泉を抜けていきます。両側に家々が立ち並ぶ坂道に、温泉地の風情を感じます。修善寺温泉は大正時代から多くの文人、政治家が訪れ、由緒ある旅館も多いのです。
 バスは南国の山道らしく緑濃い木々の中をジグザクに登ります。自然公園、そしてゴルフ場と過ぎるとだるま山高原キャンプ場のレストハウスが見えて、この辺りから富士山が右手に見え隠れします。そして戸田峠に到着です。

戸田峠から金冠山・達磨山へ
 戸田峠は船原峠に通じる伊豆スカイラインドライブウエイの分岐点となっており、一般車用の駐車場があります。その脇に達磨山(だるまやま)への登山口、道路を渡って右側が金冠山(きんかんやま)の登山口です。
 金冠山・達磨山山歩記録
 まず、金冠山へ向います。登山口から30分のハイキングコースで、標高差90メートルを登るだけなので、体力の自信のない方でも大丈夫、本日のハイキングへの身体慣らしに丁度良い登りです。頂上の最後の登りはチョッときついでしょうが、ここをがんばると360度の展望が待つ頂上に出ます。ここからの富士山の景観が万国博覧会で展示された写真の風景とほぼ同じです。しばらく風景を楽しんだら、往路を戸田峠へ戻ります。
 今度は達磨山へ向います。標高差は260m、50分の登山です。歩き始めは、アセビの林の中を往きます。アセビは達磨山付近を代表する花木で、春に白い可憐な花を咲かせます。ここを抜けると、南国の山容らしいハコネザサが両側に広がる登山道となり、見晴らしが一気に開けます。右手下に戸田が箱庭のように、左手前方に天城連峰が見えてきます。所々で登山道はスカイラインドライブウエイと並行します。小達磨山への急な登り坂を越え、最後の坂を登りきれば、達磨山の頂上です。頂上は幾つかの巨石から成り、火山の外輪山であったことがうかがえます。360度の眺望・・・富士山、戸田の港、天城連峰・・・何度見ても感激です。 帰路は同じ道を戻りますが、景色をゆっくりと楽しみながら下るので飽きることはありません。
(なお、登山道にマムシ注意の看板があります。私は五回ほどの山行で一度も見たことがありませんが、注意することに越したことはありません)

戸田峠から戸田へ
 峠を戸田に向ってすぐ降りたところに「ごぜ展望地」があります。「ごぜ」とは「瞽女」のことで昔、大雪で行き倒れになった瞽女を悼んで村人が観音像を建てたと伝えられています。瞽女を葬った場所が確認されているというのは全国的にも珍しいようです。ごぜ展望地
 ここ戸田峠を越える道は、バスが運行されるようになった昭和の初め以前は、修善寺から峠越えで戸田まで一日がかりで歩いていたのです。戸田峠は海抜720メートル、南国とはいえ冬から春にかけて雪に閉ざされることが年に数回はあります。盲目の瞽女の一行はそんな日に峠を越えようとしで力尽きたのでしょう。
 観音像のある場所からの展望が素晴らしいので「ごぜ展望地」と呼ばれるようになったのでしょう。
 ごぜ展望地からは曲がりくねった山道を一気に下っていきます。最初の集落辺りからはミカンの木が目立つようになります。五月頃は甘いミカンの花の香りが漂います。やがて川沿いの平坦な田んぼ沿いの道を港まで真っ直ぐ進みます。

近代造船発祥の地:戸田
 戸田を語る上で欠かせないのが、安政元年11月に起きた安政東海大地震でしょう。戸田村の被害は軽微でしたが、伊豆半島南端の下田には津波が押し寄せ、当時停泊していた帝政ロシアのプチャーチン提督乗船の軍艦デイアナ号が大被害を受けます。天然の良港戸田での修理のため回航してきますが、風と潮に流され田子の浦沖で沈没、プチャーチン提督は500名の乗員とともに陸路を戸田に向い、ここでの船の建造が始まります・・・幕末戸田の‘開国’と‘海廊伝説’
この洋式外航船の建造はロシア人の書いた設計図を基に、伊豆の各地から集められた船大工たちによって行われますが、ロシア人たちは日本の船大工の優秀さに驚嘆したと伝えられています。この経験は日本人にとっても有益でした。その後、船大工の何人かは発足間もない石川島造船や横須賀造船に招聘され、造船大国日本の礎となります。・・・君沢型帆船について
造船博物館で当時の様子と数々の遺品を見学できます。また、世界最大の高足がにを中心とした戸田の海で獲れる魚を見ることができる深海生物館も併設されています。
ただし、上記の行程では、戸田に40分ほどしか滞在できないので、タクシーを利用しての見学でないと船便に間に合わない恐れがあります。休館は水曜日です。

ホワイトマリンの沼津への運航は廃止されました。沼津へはデマンドタクシーと東海バス西浦線を利用します
http://yamazaki-group.net/howto

戸田から沼津へ
 戸田の港を出る船上から振り返ると、達磨山がその全貌を見せてくれます。(冒頭の写真)ホワイトマリンは狭い港の開口部を出ると、右に曲がり沼津へ向います。ここから大瀬崎(おせざき)まで、達磨山系火山の溶岩が一気に海に落ち込んで造られた荒々しい海食崖が続きます。中には100メートルを越える断崖もあります。 
 海上では、トビウオが船と競争するかのように飛んでいる姿も見ることが出来ます。やがて大瀬崎、ダイビングのメッカで、ダイバーの姿を船上から見ることができるでしょう。ここを過ぎると、金冠山から眺めた富士山を正面に、今度は船上から仰ぎ見ることになります。海岸線に黒く長く伸びる線は沼津の千本松原、その後の山塊は古火山の愛鷹山(あしたかやま)、そして高く聳える富士山・・・。これで今回の旅は終わります。

沼津の買い物・食事情報
 ホワイトマリンは港湾に着きます。ここには沼津港魚市場(土曜日休場)があり、駿河湾で獲れた魚が水揚げされ、活気に満ちています。また、市場周辺にはすし店や生鮮魚類を提供する店がたくさんあり、観光客で賑わっています。お土産にはひものがお勧めです。温暖な気候、駿河湾の浜風、東洋一の名水と言われる柿田川・・・干物造りに最適な自然に恵まれた沼津は、ひもの生産高日本一を誇っています。

 せっかく魚市場の近くに来たのです。この地の寿司店・鮮魚料理店で、新鮮で旬の近海物を肴に、一献を傾けるのも、旅の思い出となります。
双葉寿司    055-961-0885(火曜日休業、その他不定休業あり)
鮮魚料理千本一 055-952-0025 (同上)

関連サイト:
伊豆・土肥へ海水浴 http://blog.goo.ne.jp/masa4439er/e/c6433cf0fb8fd1ab676d954f69969be9 

 


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東京近郊散策(1)・・・流山・吉川へ

2008-03-14 08:27:48 | Weblog
  日々暖かくなっています。いよいよハイキングの季節がやってきました。東京から手軽に足をのばすことができる流山(千葉県)と吉川(埼玉県)への電車の旅に出かけてみませんか。
近藤勇」「小林一茶」「なまず料理」・・・これがこの旅のキーワードです。

東京       9:00 東京メトロ千代田線
馬橋駅     9:40 総武流山電鉄
平和台駅     10:00 散策開始
近藤勇陣屋跡 10:20
一茶双樹記念館 10:30~11:30
 流山橋・三郷駅 11:30~12:15
 

三郷駅     12:15 JR武蔵野線
吉川駅     12:30
 料亭麹家     12:45 ~13:45 (昼食:なまず料理)
吉川駅     14:00 
南浦和駅    14:30 JR京浜東北線
東京      15:00 

*時刻はおおよその目安です。本数の少ない流山電鉄でも15分ごとに出ています。
*一茶双樹記念館は月曜日が休館、麹屋は不定休です。

旅のご案内
馬橋駅
 馬橋は旧水戸街道沿いにあります。小林一茶ゆかりの地で、ここで油商を営んでいた大川立砂の庇護を受け、江戸から度々訪ねています。一茶の消息が不明である15歳から25歳までの間、大川油屋に奉公、立砂から俳句の手ほどきを受けたという伝聞が地元に伝わっています。立砂の死後、大川油屋は没落、その地を示す史標が立っているだけです。一茶が訪れた萬満寺が馬橋駅からすぐのところにあります。

流山電鉄
 流山から常磐線馬橋駅を結ぶわずか5.7キロ、6駅の鉄道です。1913年流山の有志の出資で軽便鉄道として敷設されました。建設当初は狭軌で、貨車の常磐線への乗り入れが出来ませんでしたが、軽便鉄道開通前は2時間をかけて松戸駅まで歩いていた流山の人々にとっては便利な路線となりました。レトロな車両は今でも鉄道ファンに人気があります。

流山散策(一茶双樹記念館ホームページ地図参照)
平和台駅から近藤勇陣屋跡へ
 江戸川方向へ真っ直ぐ歩きます。県道流山線を横断、昔のメインストリート、裏街道にぶつかります。ここを右に進むと直ぐ、左手に駐車場があり、ここが近藤勇の陣屋があったところです。説明版があります。

一茶双樹記念館へ
 裏街道を戻り、流山橋の方向へ進みます。道祖神が祭られていたり、お寺があったり、醸造所があったり、昔の流山を感じさせる道です。10分ほど歩くと左手に一茶双樹記念館があります。記念館は白味醂の醸造に初めて成功した秋元本家の屋敷で、一茶と親しい間柄であった五代目秋元双樹が住んでいたところで、小林一茶は双樹が亡くなるまでの10年に亘り、ここを幾度となく訪れています。

 記念館は二棟の建物からなり、入り口の建物の一階が受付、二階が一茶直筆の書や関係文書が展示、奥の母屋は六代目が立てた150年前の建物で、当時の豪商の生活ぶりを垣間見ることが出来ます。(冒頭の写真)
四季折々の花々が咲く日本庭園を眺めながら茶菓を楽しむことができ、茶会・句会が定期的に開かれ、テレビドラマの撮影が行われたこともあるとのことです。
 記念館の南は、塀越しに、広大な空き地となっていますが、ここが秋元家の味醂「天晴(あっぱれ)」の醸造所があったところで、秋元家が衰退した後、幾多の手を経て、最近までメルシャン醸造工場があったところです。

記念館から三郷駅(埼玉県)へ
 一茶双樹記念館の斜め前の森の中が洋画家故笹岡良一氏のアトリエで無料公開されています。左側の工場跡地の先に赤城神社の小山が見えます。昔、江戸川の洪水でこの小山が出来たという言い伝えから「流山」の地名が生まれました。裏街道は土手に上るようにして、旧流山街道に合流します。横断歩道がありませんが、街道を横切り、土手に上ってみましょう。
 土手が作られる前はここが船河岸でした。江戸時代は帆を張った高瀬舟が、明治になり外輪船の川蒸気が行き来していたところです。一日平均100艘の船が昼夜を問わず、上り下りし、銚子から利根川を経由、関宿から江戸川に入り、行徳から小名木川を経て、江戸へと荷を運んでいました。江戸へは水産物、米、醤油などを、江戸からは上方(瀬戸内海)からの下り塩、綿織り物・麻織物などが運ばれていました。旅客ももちろん乗っていたわけで、明治になり利根運河が開削され、東京―銚子間を18時間で結んでいました。
 流山橋は歩行者専用の歩道がありますので安全に渡れますが、車の交通量が多いので、道路の横断にはご注意ください。橋を渡ってからは、JR武蔵野線を左手に見ながら真っ直ぐ下っていくと三郷駅です。

吉川駅
 昼食を400年の老舗麹家でなまず料理はいかがでしょうか。詳しくは本ブログ
なまず料理の町吉川と近藤勇」をご覧ください。

Q&A
*近藤勇はなぜ流山に陣を構えたのか

 日光街道を上り、会津藩に合流しようとしたという説があります。流山街道から先は日光街道とも呼ばれ、野田、関宿、結城を通って日光に向っています。日光からは会津西街道で会津までわずかです。
近藤勇に従っていた将兵は約200名、水運業と醸造業で繁栄していた当時の流山はこれだけの人員を収容し、賄うことができる経済力があったのです。しかし流山の人々は戦火に巻き込まれるのではないかと戦々恐々としていたことでしょう。近藤勇は2週間の滞陣後、政府軍に出頭しますが、流山を戦火に巻き込むのを避けるための自首であったと、地元の人々は今でも信じています。
 この地で新撰組は四散、土方歳三は残存した隊員を率い、北関東、会津と転戦、仙台で榎本武揚の艦隊と合流、函館に渡ります。

*鉄道がなぜ流山を通らなかったか
 水運業や宿場町として栄えた地域の人々は、鉄道が通ることで経済の基盤を奪われるという思いから、鉄道建設に強く反対したため、鉄道が通らなかったのだという従来の説を「鉄道忌避伝説」とし、別の理由があったのだとする主張があります。
 明治中頃から始まった鉄道建設は、我が国の近代化を進めるために急がれましたが、当時の鉄道敷設技術が未熟であったこと、また、経済的理由から、トンネルを作らない、平坦な土地に真っ直ぐな線路を敷く、軟弱地盤を避ける、民家が密集した市街地を迂回するなどの方針で、結果として一部の地域に鉄道が通らなかったのだとする説です。
 
 本当にそれが主たる理由だったしょうか。関東地方の水運治水の歴史に詳しい千葉県立関宿城博物館に、関宿対岸の境河岸天明5年の職業人別記録が展示されています。それによると、約1,800人の住民の内、船頭や荷積み人491人、船持297人、河岸問屋・水産物を扱う浜方問屋・穀物問屋196人、旅籠・茶屋91人と、実に6割の住民が水運関係の職業に就いており、地元経済の根幹であったことが知られています。
 流山もほぼ同様の状況であっただろうことから、生計の基盤を失うことになりかねない鉄道の敷設に強く反対していたことは当然考えられることです。しかし、流山の場合は、水運業のほかに、味醂・酒などの醸造業も盛んであり、水運よりも鉄道輸送を考える地元有力者もいたでしょうから、この意見対立が誘致活動に影響したという意見もあります。
 後日談になりますが、松戸、馬橋、北小金、我孫子の四駅が設置され、鉄道は千葉県北東部を通ることになりますが、開通間もない明治41年に蒸気機関車の煙火が飛び火し、馬橋の萬満寺が焼失しています。このようなことからも人々の間で鉄道を忌避する風潮があったとしても不思議ではありません。

関連リンク:
千葉県立関宿城博物館 http://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/intro.htm
馬橋・萬満寺http://www.manmanji.or.jp/
馬橋と関係深かった小林一茶http://www.mast-ishikawa.com/matudo_histoty2.html
一茶双樹記念館http://www.issasoju-leimei.com/issa/koutu/koutu.html
流山市観光協会http://www2.tbb.t-com.ne.jp/nagareyama-s.a./
総武流山電鉄http://www.g-gauge.jp/prototype/nagareyama/nagareyama.html
浮世絵に描かれた外輪蒸気船http://www.lmuse.or.jp/EVENT/tokuten-tuuunmaru1.html

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一茶の故郷とタングラム斑尾スキー場へ

2008-03-07 13:34:22 | Weblog
3月最初の土曜日、日曜日と昨年に続いて、スキーサークルのメンバー7人と1泊2日で出かけまた。 昨年は雪が少なく、ゲレンデの下では蕗のとうが芽をだしていましたが、今年は2m50センチの積雪でした。
1日は風は吹いていませんでしたが、雪が激しく、見通しが利かずにレストハウスで話に興ずる時間が多く、それなりに楽しい一時でした。
2日は快晴、春のような天気で、ゲレンデはパウダースノウ、絶好のスキー日和・・・しかし私一人は皆と別れ、信濃町に出かけ、一茶の記念館と旧家を訪れました。

3月1日(土)東京駅発8時16分あさま563号
      長野駅着10時0分
      長野駅発10時10分送迎バス
      スキー場着  11時10分

3月2日(日)スキー場発8時30分送迎バス
      黒姫駅着9時00分
         (一茶の故郷:信濃町散策)
      黒姫駅発12時10分送迎バス
      スキー場着12時40分
      スキー場発15時30分送迎バス
      長野駅着6時40分
      長野駅発17時9分あさま542号
      東京駅着18時52分

一茶の故郷へ
 斑尾高原にあるスキー場については12月のブログで紹介いたしましたので、今回は小林一茶の故郷訪問記とさせていただきます。
冒頭の写真は、一茶が晩年を過ごした旧宅脇から、妙高山を撮ったものです。おそらく一茶も同じ風景を何度と無く見たに違いありません。旧宅は2m近い雪に埋もれ、近づくこともできません。一茶が歌ったように「これがまあ終(つい)のすみかか雪五尺」という趣でした。

黒姫駅から一茶通りと名づけられた駅前通りを一茶記念館へ向います。電柱に貼られた一茶の句を読みながら、10分ほど行くと柏原小学校の上手の丘の上に立派な真新しい記念館があります。通りを除いては、家々も小学校も記念館も周囲は2m近い雪で覆われています。一茶記念館冬期休館中ですが、前もって連絡すれば入館できるとホームページに書かれていたので、その言葉に甘えました。私一人のために、係りの方が出勤され、館内は照明が灯されています。「スイッチを入れたばかりなので、暖房があまり効いてません」の言葉に恐縮しながら2時間近く見学しました。

漂泊の俳人
一茶について再確認したこと、また初めて知ったことが多くありました。
* 柏原を出た15歳から30歳までの消息がわからない
* 江戸で学び、30歳代は四国、九州、40歳代は江戸に居を構え、下総・房州、50歳代以降は故郷北信濃で漂泊俳人として活動
* 旅の間、日本地図を持参(展示)
* 健康に注意し、病気の治療法をこまめにメモしていた
* 生家は農家ではあるが、北国街道柏原宿にあり、これが弟との遺産相続の争いの原因となった
* 多くの弟子を北信濃に抱え、農業からの収入もあり、決して貧しくはなかった
* 52歳の晩婚で、折角授かった子どもを次々と亡くし、このことが作風に強く影響した

 展示は年代順に沿って展示され、多くの手紙、文書、日記、遺品などがあり、その解説も丁寧で、俳句すごろくなどゲームをしながら子どもでも興味を持って見学できるようになっています。また、当時の北国街道の宿場の様子も模型で再現され、一茶の晩年を中心にまとめた20分のビデオ作品も興味深いものでした。
 2時間の見学ではとても時間が足りませんでした。

北国街道にある一茶旧宅へ
 記念館は一茶の一族の墓がある丘の上に立てられています。ここから見る黒姫山妙高山は、斑尾スキー場から見るよりも一段と近く、大きく迫っています。
 ここから、信濃町役場方面へ町の中を10分ほど歩くと、国道18号線、昔の北国街道沿いに一茶の旧宅があります。柏原宿の大火で焼け残った土蔵が一茶の「終のすみか」となり、国指定の文化財として大切に保存されています。冬期は積雪のため、中の見学は勿論のこと、近づくこともできません。雪の中の建物だけを眺めて、一茶に思いを馳せるだけです。
 
 国道18号線は交通量が多く、除雪されているとはいえ歩道は定かでなく、車道の端を歩くため、危険と隣り合わせでした。黒姫駅への帰り道は18号線を避け、集落の中を歩きました。快晴の日曜日であることから、どの家も雪降ろしで忙しく、それでも挨拶をすると、その方も作業に飽いたのでしょう、相手になってくれました。「雪はもうたくさん」「夏場は良いが、冬に住む所ではない」「屋根から雪を降ろすのは簡単だが、その捨て場がない」「一昨年は大雪、昨年は少なかったが、今年はこれで平年並み」などとお聞きしました。柏原は海抜660メートルの地、長野市へ向って下っていく台地にあるため、雪を捨てる大きな川がないのだそうです。信濃町役場の広場も、柏原小学校の校庭の脇にも山のように雪が積み上げられてありました。

来年への想い
斑尾スキー場への送迎バスは、長野駅からも黒姫駅からも18号線で信濃町を通り、そこから野尻湖脇から登っていきます。最後の集落が、古海(ふるみ)です。この集落上部から眺める妙高山は絶景です。日本全国でも、古海ほど美しい眺望を誇る集落は多くないでしょう。来年は、この集落周辺を散策しようと心に決めた旅でした。

関連リンク:
スキー場:斑尾高原&タングラム斑尾http://www.i-sks.com/m_t/
ホテル:タングラム斑尾http://www.tangram.jp/index.html
一茶記念館http://park3.wakwak.com/~issakinenkan/
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