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シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

スコットランドと夏目漱石

2025-04-28 09:30:58 | Weblog


過日、朝日新聞の特集記事で漱石がスコットランドを訪れていたことを知りました。
漱石が滞在したのはエジンバラEdinburghから車で北へ一時間ほどのペットロホリーPitlochryの町です。
漱石は随筆の中で「ピトロクリの谷は秋の真下にある」と書いているそうですから、訪れたのは10月の初めだったのでしょう。ペットロホリーのホテル協会のホームページには漱石が見たであろう秋のペットロホリーの風景写真があります。
ホームページ上部にGateway to the Highlands「ハイランドへの門口」の文字が浮かんでいます。
ペットロホリーPitlochryは最もスコットランドらしい風土、そしてヨーロッパで最も美しい地域の一つに数えられるスコットランドの北西部、山、谷、湖が連なるハイランドthe Highlandsへの出発点に当たるリゾートタウンで言えます。


 スコットランドの地図を開けてみましょう。スコットランドの推奨ルート黄色の線で示されていますが、Edinburghから北北西に伸びるA9号線の80キロほど先、ハイランド地方のほぼ中央にPitlochryの町を見つけることができます。
 二十年ほど前に、ネス湖を目指すスコットランド・ドライブの途中、Pitlochryを通過しましたが、谷間の川沿いに沿うようにして町並みがあるこじんまりとした趣が印象に残っています。漱石がここに滞在したことがあると知っていたら・・・と今になって残念に思っています。


 朝日新聞にも紹介してあった漱石が泊まった館ダンダラック・ホテルDundarach hotelホームページを開いてみましょう。 1902年留学二年目の夏には高度の神経衰弱に悩まされ、9月には親友正岡子規が亡くなり、気分転換を図るためにScotlandへの旅を思いついたのでしょうか。それとも12月の帰国を控えてイギリス留学の思い出としてペットロホリーへ出かけたのでしょうか。
 当時のイギリス人の間では国内旅行がブームになっていたようです。スコットランドの主要な鉄道網は十九世紀の末までにほぼ完成し、スコットランドへの旅が身近になりました。特にペットロホリーは避暑地として保養地として人気があり、多くのイギリス人が訪れていました。そんな雰囲気の中で、漱石はスコットランドに惹かれたのかもしれません。
まず、北ウエールズ、そしてスコットランドへと国内旅行が爆発的に広がりました。

 北ウエールズの旅

 
 もう一つ分からないのは、当時ホテルでもなかった一個人の邸宅であったダンダラック館へ滞在した経緯です。ダンダラック・ホテル(1936年にホテルに)のホームページによると"Japanese literary giant Soseki Natsume visited the Pitlochry Dundarach at the time, as a friend of the proprietor and wrote a poem of his stay."とありますから、日本庭園をダンダラック館に取り入れ、富士山のミニアチュアまでを作るなど日本趣味に傾倒していた所有者となんらかの交友関係があったことが推測できます。しかし、ロンドンでは友人がほとんどいなかった上、神経衰弱気味であった漱石とどのような交友関係があったか知る由もありません。漱石が師事したウイリアム・クレーグ教授の紹介かとも考えましたが、教授はアイルランド出身、スコットランドとは結びつきません。漱石が書いたという詩がホテルにあるそうですから、そこに手がかりがあるかもしれません。



 文豪夏目漱石が滞在したことのあるホテルに宿泊できるということで、ダンダラック・ホテルには日本人も訪ねてくるようですが、明治・大正時代に日本の作家の間ではヨーロッパ旅行が一種のブームとなり、彼らが泊まったホテルが数多く現存しています。
 そんな中で異色なのがスペインの国営宿泊施設パラドール・アルマグロParador de Almagroでしょう。1596年にサンフランシスコ派の修道院として建設され、伊達政宗に派遣された支倉常長一行が1615年に宿泊しています。400年前に日本人が宿泊した修道院(パラドール)に泊まることができる・・・そんな至福な一夜を過したいものです。
 
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太平洋に向かって滑る・・・みやぎ蔵王白石スキー場へLet's go!!

2024-12-28 11:10:54 | Weblog
寒波到来で、十数年ぶりでしょうか、12月中旬からスキー場に雪が降り、久しぶりに正月スキーが楽しめます・・・
しかし、一昨年に出かけた羽鳥湖スキー場が休業、毎年のように出かけた南会津の北日光・高畑スキー場が数年後に閉鎖という寂しいニュースが飛び込んできました・・・
昨今の暖冬、スキー客減少の現実では仕方がないでしょう。

そんな中で、みやぎ蔵王白石スキー場はスキーシーズン開幕です。
今回は蔵王連峰の南端、不忘山(1,705m)の宮城県側にあるみやぎ蔵王白石スキー場紹介です。
 白石市民が中心になって構成される「NPO法人不忘アザレア」が運営するスキー場です。
 以前のスキーブームに乗って某民間企業が開発したこのスキー場は、経営不振から白石市に譲渡され、以来NPO法人不忘アザレアが順調な運営を続けています。白石市の市民スキー場という趣があり、地元のスキーヤーのほかに仙台市周辺からのスキーヤーが中心ですが、東北高速道路、新幹線を利用すれば首都圏からでもでかけることができます。

このスキー場の特徴は・・・
○ 太平洋を望むことができる景色の良いスキー場です。
○ 白石市内からスキー場まで県道254号で30分です
○ 白石市の市民が中心のマナーの良いスキー場です
○ 初級者から上級者、競技者までが楽しめるレイアウトで、レベルに応じたスキーが楽しめます。殊に子供が安全に滑ることができるスキー場です
○ スキー場と白石市との中間点に鎌先温泉があります

◎自家用車で行く推奨プラン  
 白石市内からスキー場までの路線バスの便はありません。そこで東京から自家用車で行くプランです。せっかく出かけるのですから、名湯鎌先温泉に泊まる一泊二日の日程がお勧めです。(無料送迎バスについては後述します)

一日目  
8:00 東京出発(東北自動車道)
12:00 白石IC
12:30 みやぎ蔵王白石スキー場着
(スキーを楽しむ)
16:00 みやぎ蔵王白石スキー場発
16:20 鎌先温泉着(宿泊)
二日目
9:30 鎌先温泉発
10:00 みやぎ蔵王白石スキー場着
(スキーを楽しむ)
15:00 みやぎ蔵王白石スキー場発
15:30 鎌先温泉入浴
16:30 鎌先温泉発
20:30 東京到着(東北自動車道)

道路情報
○東北自動車道は他の路線に比べると比較的通行量が少なく、走りやすい路線です。白河以北は降雪があり、福島、国見付近は地吹雪になることがありますので注意してください。白石付近の降雪量が少なく、福島、国見付近に降雪があっても白石にはほとんど降らないということもあります。
○白石ICからは国道4号を福島方面に戻り、途中に鎌先温泉・スキー場方面へ右折する道もありますが、冬季は避けます。5つ目の信号を標識に従って左折、直ぐのT字路を右折し、4号線陸橋を越え、県道254号へ。あとは鎌先温泉、みやぎ蔵王白石スキー場へ・・・分かりやすく走りやすい道路で、降雪があっても除雪は完璧です。

◎新幹線で行く日帰りスキー 
 土曜日、日曜日、祝祭日、年末年始にはNPO法人不忘アザレアが市内からの無料送迎バスを1往復運行します。利用する場合には2週間前までに「みやぎ蔵王白石スキー場(電話0224-24-8111 Fax 0224-24-8267)」まで連絡する必要があります。
日帰り  
6:20 東京駅(やまびこ201号)
8:25 白石蔵王駅
8:50 スキー場送迎無料バス
9:30 (予定時刻)スキー場着
(スキーを楽しむ)
15:30 (予定時刻)スキー場発
16:10 (予定時刻)白石蔵王駅
16:56 白石蔵王駅(やまびこ122号)
18:56 東京駅

送迎バス情報
○無料送迎バスは新幹線白石蔵王駅から市内を回り、60分でスキー場到着です。予約制ですので二週間前までに電話(0224-24-8111)します。。
○帰路に鎌先温泉に立ち寄る場合には、予約送迎バス予約時に問い合わせてください。
新幹線: 
○無料送迎バス(白石蔵王駅8:50発)に間に合うには東京駅6:20発(やまびこ201号)に乗車する必要があります。
○白石蔵王駅からの東京方面への新幹線は一時間に1本です。





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いよいよ夏、思い出の積丹半島へ・・・

2024-05-17 09:35:47 | Weblog
札幌を午前8時に出発、帰着午後4時、200キロのゆったりドライブでした。
訪れたことのある小樽を素通り、積丹岳、余別岳の原生林の裾野を走り、夏の海岸を走る素晴らしいドライブとなりました。

まず、神威岬灯台です・・・

今まで訪れた灯台、伊豆・石廊崎灯台、茨城・塩屋岬灯台、出雲・日御碕灯台などと較べても最も印象に残った灯台です。

○ 駐車場から灯台に至る30分の遊歩道は、余別岳から連なる岬の急峻な尾根道を下り、山道を散策する楽しさがあります。馬の背を行くような道ですが、歩道両脇には手すりが設置、安全は確保されています。



○ 東に積丹岬、南に沼前岬までが見通せ、背後に聳える積丹岳、余別岳など360度広がる景観は、灯台までの往路と復路で異なる姿を見せてくれ、同じ道を行き来していることを忘れさせてくれます。

    

○ 歩道より左右の海を覗き込めば、積丹ブルーといわれる青く輝く海が広がり、透明な海の底が手に取るように揺れています。



○ 灯台は昭和35年(1960年)無人化されるまで、明治21年(1888年)から90人の職員とその家族によって守られて来ました。歩道途中にある説明版「念仏トンネルの由来」は、灯台長と灯台補員の家族に大正1年12月(1912年)に起きた悲劇を伝えています。

      

○ 灯台直前の尾根道の鞍部にかつて灯台職員と家族が使っていた海岸まで下りるジグザクのコンクリート歩道がわずかに特定できます。ちょうど、カヌーで着岸した若者が下りていました。



帰路に訪れたニッカウヰスキー余市蒸留所です・・・

 2014年の「行ってよかった工場見学&社会科見学ランキング」(トリップアドバイザー)のトップにランクされました。トヨタ産業技術記念館を抑えての堂々の第一位でした。人々を魅了してやまないのは次の理由からではないでしょうか。

       

その一です。
 建物に工場らしさを感じさせない美しさがあるのです。入り口はまるでスコットランドの古城に入るような趣があります。外部から見ると石造りの工場は人を寄せつけない印象ですが、ひとたび中に入れば情景が一変、建物が芝生や木々の間に点在するメルヘンチックな世界なのです。

その二です
 竹鶴正孝が妻リタへの思いを込めた工場であるからでしょう。大正7年(1918年)ウヰスキーの製造技術を学ぼうと単身スコットランドに渡り、そこで知り合ったリタ・・・リタの家族の猛反対を押し切って結婚、遥か遠く未知の国・日本へ正孝とともに渡ってきたリタへの思いと感謝がこの工場には満ち溢れています。
 リタの墓を工場を見下ろす地に建てたことにも正孝の思いを知ることができます。

その三です。
 竹鶴正孝のスコットランド・ウヰスキーへの情熱が余市蒸留所創業の昭和8年(1934年)以来、綿々と受け継がれているからでしょう。正孝が壽屋(現サントリー)に迎えられウヰスキー蒸留技術を根付かせた後、本来の伝統的なスコッチ・ウヰスキー作りを目指し、余市蒸留所で頑なに少量生産のシングルモルト・ウヰスキーを守り続けた姿勢に心打たれます。17年もののシングルモルトを惜しげもなく試飲させる姿勢にも社是と信念が見て取れます。

スコットランドと余市
 正孝は我が国でのウヰスキーの製造はスコットランドと気候風土が似通った北海道で行うべきだと考えていました。故郷スコットランドから遠い異国で暮らす妻リタへの思いやりもあったでしょう。函館本線が通り、小樽港にも近い海辺の町余市に蒸留所を建て夢を実現しました。

 (スコットランド北海に臨む村で・・・



「ニッカ」の名の由来です
 正孝が余市でウヰスキー蒸留所を建てた際の社名を「大日本果汁株式会社」としました。ウヰスキーの製造は時間がかかり、その発売までリンゴの果汁も製造したからです。会社の通称名「日果」が「ニッカ」となりました。果汁製造でも正孝のものづくりの姿勢は変わりませんでした。混ざり物のない100パーセントの果汁を目指したのです。その結果、他社の製品より割高になり、売れ行きは芳しくなかったようです。

今秋からNHK朝ドラ「マッサン」が始まります
 竹鶴正孝とリタの物語です。リタが正孝を「マッサン」と呼んでいたことがタイトルとなりました。今後も間違いなく、ニッカウヰスキー余市蒸留所が「行ってよかった工場見学&社会科見学ランキング」を飾るでしょう。
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本州最北端の駅と温泉・・・下北駅と下風呂温泉を訪れました

2023-03-28 09:40:04 | Weblog


JR東日本が魅力的なチケットを発売しました。さっそく購入、「鉄道開業150年記念 JR東日本パス」、3日間乗り放題で22,150円です。
できるだけ遠くに出かけようとが選んだ目的地は本州最北端の駅「下北駅」です。
東京駅・・八戸駅・・野辺地駅・・下北駅、東北新幹線、青い森鉄道、jr大湊線・・・通常料金なら往復37,000円です。

津軽海峡に面する最北端の下風呂温泉へ



 下北半島を代表する観光スポットは恐山と仏が浦でしょう。しかし、恐山開山は5月1日から、仏が浦への観光船の運航は4月下旬からです。そこで、選んだのが下風呂温泉です。はやりの「ゆったり温泉ひとり旅」です。

 下風呂温泉は室町時代から続く歴史ある硫黄泉です。江戸時代の旅行家菅江真澄が1794年35歳の時、同志社の創立者新島襄が幕末1864年21歳で、作家井上靖は昭和33年33歳の時執筆のため滞在しています。

なぜ新島襄が下風呂温泉に?

下風呂がもっとも賑わったのは、幕末から明治の初めにかけてです。幕府は1859年に横浜港・長崎港とともに函館港を日本国内最初の交易港として、外国船に開港したのです。津軽海峡を挟んで対岸にある下風呂は格好の汐待ち港となり、江戸から函館を目指していた新島襄の乗る帆船も二日間を下風呂に停泊したのです。
 函館へ渡った新島襄は、三か月後、上海に向かうアメリカ船で密航します。

湯元すぐの「さが旅館」に二泊しました

 あいにくの雨模様の二日間でしたが、持参した岩波現代文庫「新島襄」、毎日ワンズ「わが若き日 決死の日本脱出記」、岩波文庫「新島襄 手記・紀行文・日記」と、さが旅館の女将からお借りした「風間浦村史」と読書・温泉三昧の「ゆったり温泉ひとり旅」でした。

 最終日の朝にようやく晴れ間・・・湯元を点検する村の職員の方と立ち話、バス停でようやく新島襄も見たであろう函館に連なる「恵山(618m)」がうっすらと望め、旅の思い出となりました。







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未曾有の大災害を引き起こした天明三年の浅間山大噴火

2017-10-17 10:04:17 | Weblog

草津温泉の最高地点、道の駅展望歩道橋から見た南にそびえる浅間山です。

 今から230年ほど前の天明三年七月八日、三か月にわたり活発な活動を見せていた浅間山が突然大噴火します。
 1億立方メートルともいわれる大量の溶岩が火砕流となって、火口から北側の斜面を下り、村々を飲み込み、泥流は吾妻川に流れ下り、1,400名以上の犠牲者を出しました。

 噴煙は成層圏に達し、火山灰は東に流れ、高崎の倉賀野や新町のすべての田畑は降灰により元の形状がわからなくなるほどで、遠く江戸や銚子にも降りそそぎました。

鎌原村(かんばらむら)の悲劇と吾妻川の天然ダム



火砕流の直撃を受けた浅間山北面の集落は悲惨でした。鎌原村では村民の8割以上の483名が、長野原でも210名の死者が出ました。
 火砕流は吾妻川に流れ込んで土石流となり、川幅の狭い吾妻渓付近では「塞留められし故泥水50丈高く押し上げ・・」と古文書にあり、建設省土木研究所では高さ100m前後の天然ダムが一時的に形成決壊し、渋川までには80分で泥流が到達したと推測しています。

泥流は吾妻川から利根川、江戸川へ



当時、利根川水運でにぎわった赤岩(千代田町赤岩)では500間にわたり堤防が決壊しています。



 また、浅間山噴火から10日を過ぎた頃、葛飾・柴又村の村人は江戸川の異変に気づきます。大量の漂流物とともに老若男女の遺体が流れ着いたのです。吾妻川、利根川を経て江戸川を流れ下ったのです。
 村人は遺体を流れ着いた家畜とともに村の題経寺(柴又帝釈天)の境内に葬ります。、供養塚には「南無妙法蓮華経 川流溺死之老若男女 一切変死之魚畜等 供養塚」と刻まれています。

火山灰は下総の農地に被害を



 常盤平団地がある松戸市金ケ作の一角に、昔からの地元の方が「川越」と呼ぶ地区があります。江戸時代にここ下総台地に川越藩の飛び地があり、開拓地として開かれたのです。新京成電鉄常盤平駅の北口すぐに熊野神社がある一角です。
 熊野神社の由緒書に天明三年の浅間山大噴火の火山灰の降灰の記録が記されています。



 川越藩の郷士・石川彦次右衛門が武蔵国入間郡下赤坂村から九家を引き連れて下総国葛飾郡金ケ作に入植したのが天明二年、翌年、天明三年に開墾を終えたばかりの田畑に火山灰が降り注いだのです。村の安泰、五穀豊穣を願い、石川彦次右衛門たちが建てられたのが熊野神社です。

天明大飢饉の前兆に

 当時の人々には予測できなかったでしょうが、もっとも甚大な被害を及ぼしたのが成層圏まで吹き上がった火山灰と火山ガスです。日本上空の成層圏に数年間にわたって滞留、異常気象を引き起こし、冷害に襲われた東北地方を中心に、餓死者が30万とも50万ともいわれる天明大飢饉の決定的な要因となります。

移転されていた供養塚



 今回、十数年ぶりに柴又帝釈天を訪れ、残念なことがありました。境内の案内図には載っているのですが、天明噴火で流れ着いた犠牲者を祭った供養碑が見当たらないのです。
 寺の方に尋ねると、10年前に新たに整備された善養寺に移動したとのことでした。帝釈天から15分、北総線の新柴又駅近くの善養寺で撮影したのが上記の写真です。

 柴又帝釈天の境内には真新しい東日本大震災犠牲者供養塔が建てられていました。ぜひ、再び、天明三年浅間山噴火横死者供養碑を帝釈天の境内に戻し、時代の流れに忘れさられてしまう自然災害の教訓として多くの参詣者の方の目に触れていただきたいと願うばかりです。
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茨城と福島の県境にある秘湯・湯岐温泉へ鉄道の旅

2017-08-14 14:07:27 | Weblog

今回は鉄道の旅となりました。
東京駅11時53分発特急ひたち号で水戸駅13時06分着、
水郡線13時15分発郡山行に乗り換え、磐城塙駅15時05分に到着、
湯岐温泉山形屋旅館の御主人が出迎えてくれました。



車窓からの変化に富んだ風景が楽しめました。水戸駅からはしばらく関東平野を走ります。”『ひよっこ』の奥茨城村”の幟が立つ常陸大宮駅からは丘陵が見られるようになり、やがて奥久慈清流ラインとよばれる久慈川に沿って渓谷を走ります。蛇行する久慈川を鉄橋で何度も渡り、車窓からの撮影ポイントの連続です。袋田駅を過ぎ、常陸大子駅で車両切り離しで一両編成に、”『ひよっこ』の奥茨城村”の幟ともここでお別れです。





 東北地方の最南端の駅と知られてる矢祭山駅からは福島県、風景は一変します。西の八溝山地と東の阿武隈山地の間に挟まれる細長い谷底平野となり、水田と市街地が連続し、久慈川の最上流とは思えないのどかな風景です。





 磐城塙駅から車で細い曲がりくねった山道を20分、湯岐温泉は阿武隈山地の海抜500mの山の中にあります。旅館は3軒だけ、かつては10軒の旅館があり、当時の屋号を残したままの民家があるだけです。
 季節ごとの湯治に訪れる農民だけでなく、峠を越えれば20キロで太平洋ということもあり、漁民も多く訪れていました。江戸時代には水戸藩士や棚倉藩の殿様も・・・御殿湯であった名残が岩風呂に刻まれています。



 花崗岩の割れ目から透明な38度前後の湯がたえず自然湧出して、岩風呂を満たしています。混浴が昔からの習わしですが、現在は女性専用時間を一時間ずつ3回設けています。旅館の家族風呂の内湯は源泉から引湯しているため湯の温度が下がりますが、気温が低い時期は加熱できるようになっています。



 宿泊した山形屋旅館は家族経営、息子さんご夫婦が中心のようです。
食事には感心しました。磐城地方の季節感に富んだ伝統的な家庭料理が中心ですが、こころのこもったひと工夫があるのです。地元の名産・豚のみそ漬けは直火焼、天ぷらは新鮮な野菜で揚げたて、季節の鮎の塩焼きの形の良さ、自家製でしょうかメンチカツも意外感がありました。海が近いので刺身も新鮮つまも自家製、朝食の地元産の納豆も小粒で香りゆたかな薬味・・・これこそ「ザ・納豆」、忘れていた納豆の本当の味がよみがえりました。漬物は山形屋旅館の長年の味がしみ込んでいました。味噌汁も毎回の具が楽しみでした。連泊宿泊者のサービスとして昼食に蕎麦を出していただきましたが、薬味が手が込んでいました。

 湯治で栄えた古き湯と懐かしい味に出会えた旅となりました。ありがとうございます。

湯岐温泉山形屋旅館 
http://yujimata-yamagataya.jp/
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日田&東峰村&筑豊を訪ねる北九州の旅

2017-05-06 08:30:40 | Weblog

 江戸時代には九州の政治経済の中心地として栄えた日田の隈町と豆田町・・・
 室町時代から続く棚田が美しい東峰村・・・
 我が国の戦前戦後の経済成長を支えた炭鉱の町・田川と飯塚・・・

 かつて石炭を運んだ鉄道路線を乗り継ぐ旅でもありました。



4月23日(日) 新橋駅(都営浅草線・アクセス特急)6:25→7:33成田空港
         成田空港(ジェットスター)8:40→10:40福岡空港
         福岡空港(高速バス)11:45→13:10日田バスターミナル


  
JR日田駅前のホテルルートイン日田に連泊しました。

 駅の右手800mに三隈川に面して隈町、左手800mに花月川に至る豆田町があります。




 隈町です。筑後川の中流に位置する三隈川沿いにかつて商家が軒を連ねていました。



 豆田町です。江戸時代からの街並みが残され、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。




4月25日(火) 日田駅(日田彦山線)7:35→8:10筑前岩屋駅 
            
        
 宝珠山駅です。駅のホームが県境を跨いでいる珍しい駅で、ここから福岡県東峰村です。旧宝珠山炭鉱の石炭搬出のために日田彦山線が敷設されました。



 筑前岩屋駅近くの棚田です。室町時代から綿々と作られた石垣が見事です。



 棚田周辺の農家の庭先には石楠花が満開でした。駅で待ち合わせをした東峰村ツーリズム協会の小野豊徳さんに案内していただきました。




        大行司駅(日田彦山線)12:30→13:22田川伊田駅


 筑豊最大の炭鉱・三井鉱業所伊田坑跡地に立つ明治41年にドイツ製のレンガで建てられた45mの排気煙突と翌年建設の300m地下まで坑夫を届けた竪坑櫓です。



 石炭歴史博物館があり世界記憶遺産に登録された山本作兵衛の炭鉱記録画を展示しています。敷地内に再現された炭鉱住宅です。



炭坑節に「ひと山、ふた山、み山越え」と歌われた香春岳の現在の姿です。一ノ岳は石灰石採掘で半分の高さになっていました。




 田川伊田駅(日田彦山線)15:12→15:16田川後藤寺駅(後藤寺線)15:19→15:39新飯塚駅 


 NHK連続テレビ小説「花子とアン」に登場した石炭王・伊藤伝右衛門邸です。二階が燁子(白蓮)が住んだ部屋で、現在は飯塚市が所有管理しています。



 伊藤伝右衛門邸の近くを流れる遠賀川です。古くは筑豊炭田の石炭輸送に利用されていました。



 伊藤伝右衛門が資金を提供して設立した女学校が前身、現在は共学の県立嘉穂東高等学校。




       新飯塚駅(福北ゆたか線)17:40→18:22博多駅(地下鉄空港線)→福岡空港(ジェットスター)20:30→22:20成田空港(アクセス特急)22:51→23:44日暮里駅  
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こけし人形は東北の温泉地で生まれました

2017-03-23 09:54:05 | Weblog
誕生こけしです。
孫娘の誕生記念に作ってもらった等身大のこけしです。
福島県猪苗代湖近くの中ノ沢温泉の周辺では女の子が生まれると背の高さに合わせたこけしを作り祝う習慣があると聞いて、中ノ沢温泉に出かけて注文したものです。

東北の温泉地では、土産物としてこけしが売られています。どのような経緯でこけしが温泉地の土産物となったのでしょうか。

二人挽きの轆轤(ロクロ)から一人挽きの轆轤へ

 木地轆轤(ろくろ)の歴史は古く奈良時代からだと言われています。一人が手で轆轤をひき回し、もう一人が木地を挽くという作業が長年続いていました。家内作業では妻が轆轤をひき回し、夫が器や盆を挽くことも多かったのです。作業をする夫婦の傍らに遊ぶわが子に玩具を挽いて与えていたのです。こけし人形もそんな玩具の一つでした。

 明治時代の中頃になると一人挽きの足踏み轆轤が使われるようになり、生産性が上がり、こけしが子供の土産品として温泉地で売られるようになりました。

女衆が湯治客にこけしを売りました

 宮城県白石市に鎌先温泉があり、その先2キロほど不忘山に向かって登ると弥次郎集落があります。江戸時代から続く木地師の集落です。現在では「弥次郎こけし村」という観光施設があり、こけしの絵付け体験もできます。

 弥次郎集落では、明治の中頃から大正、昭和にかけて、鎌先温泉の湯治客にこけしを土産物として売っていました。女衆が風呂敷に包んだこけしを担ぎ、鎌先温泉の旅館の湯治客の各部屋を回ったのです。女衆は「鎌先商い」と呼んでいました。

 こけしを湯治客に売らせてもらう代わりに、旅館の季節ごとの漬物漬け、年末の大掃除を手伝うのも仕事でした。

肘折温泉の工人・鈴木征一氏からお話を聞きました

 2月に山形県大蔵村肘折温泉を訪れました。月山登山道の入り口でこけしを作られている鈴木征一さんに出会いました。こけしの歴史に興味をいだいていることを知ると、工房内を見学させていただき、写真撮影もさせていただきました。
 どのようにしてこけしが出来上がるのか、鈴木さんがお書きになった「こけしのしおり」
から知ることができました。



 伐採

 春になると山の雪が締り、ソリを引いて深山に入ることができます。太陽の光を浴びて、若葉の芽が青空に浮かんでいます。探し求めたイタヤカエデの木を切り倒し、枝をはらって、2メートルくらいに切り、ソリで道路近くに運び、水分を抜くためそのまま置いておきます。

 皮削ぎ・乾燥
 
 道路の雪が消えると、車で原木を作業所まで運び出し、丸太の皮をナタなどで剥ぎます。皮つきのままでは乾燥が遅く、木肌に黒いシミが残るためです。長年の知恵で、割れが生じないように、丸太の両端の皮を残します。三か月から五か月、十分外気に当て、時々置き換えながら自然乾燥させます。

 木取り

 乾燥した用材から、作るこけしの頭部と胴の大きさをイメージしながら角の用材を切り出します。太さ、長さ、何よりも割れない部位を切り取ることが求められます。木取りができるようになればこけし作りも一人前と言われています。



ろくろびき

 木取りした材料をろくろ挽きして、こけしを完成する過程は「肘折こけし」のサイトで詳しく見ることができます。工人のお名前は載せられていませんが、工房のようすから、ろくろびきされているのは鈴木征一さんだと思われます。


山形県最上郡肘折 工人 鈴木征一 電話0233(76)2222(夜間)/2217(製造)




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 積雪深264センチの肘折温泉へ出かけました

2017-02-22 14:21:49 | Weblog
肘折温泉には3度目です。20年前の4月に家内と、翌年の8月に友人と、それぞれ車で出かけました、今回は極寒の2月の鉄道ひとり旅です。

肘折温泉は月山登山七口の一つであり、湯治場としても栄えました。その伝統が色濃く残り、快く一人でも客も受け入れてくれるのです。

冬場の肘折温泉は、肘折温泉の代名詞となっている近隣の農家の方が集まる朝市もなく、静かな佇まいをみせていました。

肘折温泉の道路は除雪され、散策を楽しめました。





アメダス実況(積雪深)を開いてみましょう

http://www.tenki.jp/amedas/snow.html

全国各地の積雪深度が載っています。

トップは断然、青森県の酸ヶ湯で、2位、3位を山形県大蔵村肘折と福島県桧枝岐が競っています。もっとも、八甲田山麓の酸ヶ湯は酸ヶ湯温泉という観光地があるだけで住民はいません。

人々が日常生活を営む日本一の豪雪の地というと、月山北東15キロの肘折か尾瀬への入り口七入がある桧枝岐村ということになります。
肘折には120世帯、桧枝岐には220世帯が生活し、郵便局も小学校もあるのです。(注・肘折小学校は2009年大蔵小学校へ統廃合)

肘折は標高290m、桧枝岐は標高980mです。


肘折温泉はカルデラ内にあります

 
 肘折カルデラは一万年前の火山の噴火口です。地熱活動が今なお続き、豊富な温泉を供給しています。
 
 月山に源を発し最上川に流れ込む銅山川に沿って国道458号を進みます。肘折トンネルを過ぎると、鋼製の桟道橋がループを描くように肘折温泉に降りていきます。平成12年4月の道路崩落のため、8か月の突貫工事で完成されました。



 桟道橋の手前にある展望スポットから、肘折カルデラが一望でき、南西に月山が見えるはずですが、積雪に視界が妨げられてしまいました。
(冒頭の写真は月山登山口から肘折温泉を撮りました。奥に桟道橋が見えます)

東京からのアクセスです

東京駅(山形新幹線)10:00→13:31新庄駅(送迎車)14:00→14:40肘折
肘折(送迎車)10:00→10:40新庄駅(山形新幹線)11:17→14:48東京駅

〇雪道対応のブーツを履けば、特別な冬支度は必要ありません。肘折温泉の旅館には長靴が用意してあります。

〇送迎車のサービスのない旅館の場合は、路線バス利用となります。

〇山形新幹線は福島駅から在来線を走ります。高架を走る新幹線では味わうことが出来ない車窓からの眺めを楽しめます。

 積雪の多い米沢付近では雪原を走っているような感覚です。



〇新庄駅構内です



〇駅前で旅館の送迎車が出迎えます。






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明治・大正・昭和の面影を求めて焼津へ

2017-01-30 09:31:01 | Weblog

子供の頃、台所の鰹削り箱の中にいつもあったのが焼津節・・・
高校時代に読んだ「Kwaidan」を書いた小泉八雲がこよなく愛した焼津・・・
ビキニ環礁の米国水爆実験で被ばくした第五福竜丸の母港が焼津・・・
ある夏の夜、土肥の旅館から駿河湾越しに見えた焼津の打ち上げ花火・・・
焼津はいつか訪れたい、訪れなければならないと思っていた街でした。

東京から新幹線で静岡駅へ、そこから東海道線で三つ目が焼津駅、1時間40分で到着です。
焼津市自主運行のバスは市内を巡っていますが、住民のための路線であり、本数も少なく、タクシーと徒歩の旅となります。


 焼津駅から文化センターへ(タクシー10分・見学1時間)




文化センターには図書館、文化会館、歴史民俗資料館、焼津小泉八雲記念館があります。

歴史民俗資料館の第五福竜丸コーナーでは被ばく事件の経緯が写真、新聞、パネル掲示で展示されています。遺族から提供されたという東京の病院から家族にあてた久保田愛吉氏の手紙に心打たれます。
歴史民俗資料館http://www.city.yaizu.lg.jp/rekimin/月曜休館



小泉八雲記念館の収集された展示物の質と量に、八雲に対する焼津の人々の思いがうかがわれます。八雲が夏を過ごした家の家主山口乙吉と八雲が「先生さま」「おときちさーま」と呼び合った尊敬と友情が焼津の人々に綿々と伝わっているのです。
 八雲の手紙や焼津で執筆した作品の草稿はじっくりと読みたいです。

小泉八雲記念館http://www.city.yaizu.lg.jp/yaizu-yakumo/ 月曜休館
小泉八雲と焼津http://www.yaizu-shinkin.co.jp/local/700/


 文化センターから浜通り散策へ(タクシー10分・散策1時間)

 歴史民俗資料館発行のパンフレット「探しに行こう!浜通り」を持参します。パンフレットには浜通り出身の佐藤道外が描いた明治大正の絵図と現在の写真を対比して載せ、往時の浜通りの様子に思いを巡らしながら散策できるようになっています。



 磯自慢酒造脇の小路を入ると、江戸時代に掘削された運河・堀川(黒石川)に架かる橋に出ます。橋の欄干に海辺から飛んできたカモメが羽を休めています。



 浜通りを進むと、札の辻・庚申塚があります。「探しに行こう!浜通り」には「二米幅の小路、海へつきぬけると、御休町堤防の上り段あり」と道外の絵にはありますが、今では小路の先には堤防も浜辺もなく、四車線道路のウオーターラインを車が走っているだけです。
(*パンフレットに載っている庚申塚付近の絵図です)



 札の辻の庚申塚の庚申像は昭和12年に建てられ、小泉八雲が滞在した明治30年代には2体の波きり地蔵しかありませんでした。道外の絵にも波きり地蔵が描かれるだけ、大正時代の浜通りを描いていることが推測できます。
 「八雲通り」の標識がありますが、この辺りは八雲ゆかりの地が多く、八雲が滞在した山口乙吉の家はこの先にあります。

山口乙吉の家は明治村に移築保存され、明治村のサイトで見ることができます。

http://www.meijimura.com/sp/enjoy/sight/building/4-48.html

「探しにいこう!浜通り」に記載されているように「右側は出入口と通り土間を設け、左側を座敷にする」という浜通りの民家の特徴が見てとれます。ただ、明治村のサイトでは、
建設は明治初年となっていますが、パンフレットでは「防潮堤の完成後は、本格的な二階建ての建物が造られるようになった」とあり、建設年にずれがあります。



堀川(黒石川)を河口に向かって撮りました。突き当りの山が虚空蔵山、前方の橋の左側の白い建物がパンフレットに紹介されている岩清蔵でしょう。右側が浜通りですが、防潮堤がなかった時代には民家にまで押し寄せる高波を堀川に流せるように、小路を多く取り入れ工夫した町割になっています。


 浜通りから焼津漁業資料館へ(散策30分・見学1時間)

浜通りを進み小泉八雲風詠の碑を過ぎると焼津港に至ります。港の左側に沿うように進み、橋を渡り二つ目の信号を右折すると資料館です。
 (*焼津駅前にある焼津観光協会作成の「焼津観光ロードマップ」が参考になります)
http://www.yaizu-gyokyo.or.jp/gyokyo/museum/月曜休館・12時ー1時昼休み



漁船の操舵室(ブリッジ)の実物が目を引きます。54トンの木造カツオ漁船のものです。ブリッジに乗り込んで見学でき、舵輪、方向探知機、霧笛、そして無線機がそのまま置かれています。操舵室の左右に仮眠室がありますが、その狭さに驚きます。



展示物の中には明治の頃の焼津の浜辺の様子を描いた写生画に惹かれました。浜通りの浜辺は砂利浜で、カツオ漁船はそこを湊としていたのです。描かれているのは八丁櫓のカツオ船で、全長15メートル、35人が乗り込み、遠く伊豆七島まで漁に出かけました。伊豆半島先端に波勝崎が描かれていますが、その倍の沖まで漕ぎ出したのです。



長く続く浜の突き当りに虚空蔵山、富士山の雄姿、浜に引き上げられる八丁櫓のカツオ船、手前の船の脇には生餌のイワシを入れた生籠・・・これこそが小泉八雲が目にした明治の焼津浜だったでしょう。

カツオやマグロが所狭しと浜辺に並べられた昔の焼津湊の様子を伝える写真も多数掲示されており、大正、昭和初めの焼津を知ることができます。
遠洋漁業の記録映画のビデオ上映もあります。


 漁業資料館から浜当目へ(タクシー10分・散策1時間)





 虚空蔵山の麓にある弘徳院です。第五福竜丸の無線長であった久保山愛吉氏が葬られています。米軍の水爆実験に巻き込まれ焼津港に帰還するまで、久保山氏は無線を封止します。戦時中、海軍に通信員として徴用されていた体験から、米軍に無線を傍受される危険を避けたのです。
 ビキニ環礁被ばく報道後の米国の高圧的な対応をみると、久保山氏の行動は先見の明があったといえるでしょう。



 浜当目海水浴場にあるマリアナ観音です。遠くマリアナ諸島の方角を見つめています。昭和40年、マリアナ海域漁船集団遭難事件で、浜当目の第三千代丸も台風に巻き込まれ、42名の乗組員全員が亡くなった海難事故の慰霊碑です。
「板子一枚下は地獄」とは漁師のことわざですが、焼津の漁師にも当てはまります。板子一枚にすがって助かった焼津の漁師の体験を、八雲は「漂流」に記しています。

虚空蔵山の頂上には弘徳院の末寺香集寺があります。幼稚園脇の登山道から往復30分です。また、明治36年に海軍が国産の無線機の交信実験を三浦半島間で行ったのが虚空蔵山で、船舶無線電信発祥の碑があります。焼津の港が一望できるヴューポイントでもあります。
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美作三湯・奥津温泉と鳥取市へ・・・東京からの旅

2016-12-28 13:53:18 | Weblog

 美作三湯(みまさかさんとう)・・・響きのよい、魅力的なネーミングの温泉地です。
湯郷温泉、湯原温泉、奥津温泉といういい湯があるんだと岡山出身の知人から聞かされていましたが、首都圏に住む者には、岡山県北部、中国山地近くにある美作三湯は、いかんせん遠かったのです。

 今回、思い切って出かけることにしました。

 東京から新幹線で岡山へ、JR津山線で津山へ、路線バスに乗り換えれば行けるよ・・・とのことでしたが、調べてみると、路線バスはJR津山線との連絡は配慮されておらず、どうやら昔の記憶で話してくれたようです。

ずいぶん以前に読んだ小説「秋津温泉」が奥津温泉のモデルと知り、美作三湯のうち奥津温泉を訪れことにしました。
せっかく歴史で習った「美作の国」に足を踏み入れるのですから、津山駅と鳥取駅を結ぶ因美線に乗り、「因幡の国」も訪れるプランです。

 出かける時期は11月下旬から12月中、狩猟解禁(11月中旬)で奥津温泉ではイノシシ料理が、ズワイガニの親ガニ解禁(11月・12月)でセコガニが鳥取で食べられます。

 山海の珍味を味わうというぜいたくな旅にも惹かれました。

首都圏から奥津温泉までのアクセスです



 中国道の開通で、津山までは京阪神からの高速バス利用が選択肢に加わりました。しかし、津山から奥津温泉へのローカル路線バスの連絡に難があります。そこで、津山で乗り換えることなく、奥津温泉近くを通る高速バスを探したところ、日本交通が運行する「倉吉ー神戸・大阪線」を知りました。
 しかし首都圏からの旅で実質利用できるのは次の3便だけです。

 〇阪急高速バス新大阪ターミナル9時20分→かみさいばら温泉12時30分
 〇阪急高速バス新大阪ターミナル14時20分→かみさいばら温泉17時30分
 〇なんばOCAT(大阪シテイエアターミナル)10時30分→奥津温泉口13時18分

注1.かみさいばら温泉は奥津温泉と同じ鏡野町にありますが、約5キロ中国山地寄りです。旅館から迎えの車が必須となります。

注2.高速バスは予約制の乗合バスです。利用前日までに電話・メールで予約、当日、ターミナルの窓口で乗車券を購入します。

注3.東京からの推奨列車です。
 〇東京(のぞみ3号)6:16→8:43新大阪→阪急高速バス新大阪ターミナル
 〇東京(のぞみ201号)6:43→9:13新大阪(大阪市営御堂筋線)9:28→
  9:44なんば→30出口OCAT連絡口→OCAT

奥津温泉・津山から鳥取までのアクセスです



 奥津温泉から津山駅まで路線バス、津山駅から因美線で智頭駅へ、乗り換えて鳥取駅へという経路です。津山から姫新線・佐用町経由でも行けますが、料金が2倍以上となり、所要時間のメリットもありません。

 日本交通運行「倉吉ー神戸・大阪線」の「かみさいばら温泉」、「奥津温泉口」停留所は降車専用で、倉吉方面へは利用できません。「鳥取ー津山・岡山線」の高速バスがありましたが、平成26年に廃止されました。

 津山周辺の路線バスも鉄道も住民の通学・通勤・通院のための路線です。奥津温泉からの路線バスは昼間時は1時間に1便です。JR因美線にいたっては、6時42分から11時35分まで一本も走っていません。
 奥津温泉9:08→10:14津山駅11:35→12:43智頭駅12:56→13:43鳥取駅
という経路しかないことになります。

鳥取市から東京へのアクセスです



 空の便、鉄道、高速バスが利用できますが、鳥取市内でカニ料理を味わい東京へ帰るとなると、ANAもJRも18時40分が最終便、ゆっくりと夕食を楽しめません。
 そこで選んだのが20時50分発の高速バスのキャメル号です。東京・浜松町に翌朝6時35分着とラッシュアワーが始まる前に都内に入ることができ、料金が10,500円と割安なのも魅力的です。
 キャメル号を利用する場合は・・・

 〇鳥取県民の人気路線です。満席となる可能性があります。首都圏在住なら、共同運航会社の京浜急行で予約状況確認、切符購入します。

 〇鳥取駅前のバスターミナルはキャメル号出発の20時50分までは営業、暖房された待合室で待機できます。

 〇途中SAに午後10時、早朝4時の2回15分の休憩、車内トイレを使用しないですみます。

キャメル号は令和3年3月15日をもって運行廃止となりました

グルメ情報です

〇 奥津温泉のほとんでの旅館では11月中旬の狩猟解禁に合わせて、新鮮なイノシシ料理を提供しています。宿泊先に問い合わせを・・・
 http://www.mto.ne.jp/okutsuonsenkk/oyado.html

〇 11月上旬に日本海で解禁となるがズワイガニ漁です。地元では「高価な松葉ガニ(オス)は売るためのカニ、安いセコガニ(親カニ)は家庭で楽しむカニ」と区別しているとか・・・。セコガニは一匹700円前後ですが、内子(卵巣)と外子(受精卵)が珍味とされます。
 なお、資源保護のため親ガニの漁期は11月、12月のみ。この時期、予約が殺到する「味暦あんべ」へ。セコガニ(親ガニ)を専門とする料理店です。

観光案内です

〇 因美線への待ち時間が1時間10分、駅隣の「津山まなびの鉄道館(旧津山扇形機関車庫)」を訪れたかったのですが、月曜日で休館でした。蒸気機関車全盛期には津山は鉄道の町でした。現存する扇形機関車庫では全国2位の規模を誇ります。

〇 代わりに津山城を訪れました。往きはタクシー、帰りは徒歩で、見学時間は40分ありました。津山城は戦国時代が終わり、領主が権威を示すかのように鶴山に築いた平山城です。堀はなく、本丸、二の丸、三の丸が階段状に結ばれ、「一二三段」(ひふみ段)と呼ばれる城構えは広大で、桜やモミジの樹木の手入れもよくされており、石垣が見事で、幅の広い石段も補修され、建設当時の姿をよく伝える美しい城です。「鶴山公園」として管理、入場料300円です。


〇 因美線は観光鉄道のような趣でした。一両だけの気動車は山際にへばりつくように敷設された単線の線路を中国山地に向かってゆっくりと登っていきます。レールが短く、継ぎ目の数が多いのか、よく揺れます。津山方面に流れる加茂川に沿って、趣のある無人駅を結んで進みます。
 中国山地を抜ける長さ3キロの物見トンネルが最高地点、トンネル途中からスピードアップ、智頭駅へと下っていきます。






〇 鳥取駅からタクシーで鳥取城に向かいました。「正面に見える久松山が鳥取城・・・城門も櫓もなく、石垣が残るだけ。見学するなら明治に建てられた洋風建築の仁風閣でしょう」との運転手の言でした。

 山下の丸と呼ばれた場所には県立博物館、軍馬の訓練をした馬場には仁風閣、三の丸には県立鳥取西高校・・・公園となって鳥取市内を望む二の丸と鳥取地震で崩落した城壁がそのままの天球丸が江戸時代の鳥取城の面影を残しています。戦国時代の遺構が残る頂上の天守閣跡と山上の丸への登り口には「熊注意」の札が・・・ちょうど下山してきた二人ずれの女性は登山姿のフル装備でした。

 鳥取城ではなく鳥取城址と言われる所以がわかりましたが、戦国時代から江戸時代末までの遺構を伝え、「城郭の博物館」と評価されている鳥取城・・・鳥取砂丘が見えるという山頂への道の整備も含めて復活することを望みます。

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西伊豆・土肥温泉がぐっと近くになりました

2016-11-26 14:49:25 | Weblog
伊豆縦貫道路を利用、夜のドライブでしたが、東名・長泉沼津ICから1時間で土肥温泉に到着しました。来年には修善寺から先も部分開通、船原トンネルからの土肥に向かう旧道の改修も進み、さらに快適で安全なドライブとなるでしょう。

土肥の見どころ紹介です。

花時計がある松原公園から700mの砂浜が南に延びています。



遠浅で波静か、駿河湾に面している海は水質ランク最高のAAを誇ります。特筆すべきは,海水浴シーズンには「温泉丸」が海岸に並べられることです。豊富な土肥の温泉を船に満たし、海水浴で冷えた身体を温めてもらう趣向です。



 かつて土肥鉱山から湧き出る温泉が海に流れ込んでいた歴史があるからです。「湯の川」と呼ばれ、「土肥金山」近くの東海バス停留所名にその名をとどめています。当時の子供たちは海水浴の後で、海から入り込む小魚といっしょに湯の川で身体を温めました。



また、海岸は駿河湾に面しており、特に夕日が美しい海岸です。晴れた日には、南アルプスの山々が遠望でき、オールシーズンで散策を楽しむ人の姿が見られます。

フェリー乗り場手前の、かつて沼津と土肥を結んでいたホワイトマリン号の乗り場の突堤で釣りをする人が早朝から見られます。



 オキアミを入れた下かごが先端についた仕掛けを突堤から沖に投げ込んでいます。道糸に5,6本のキラキラ光るサビキ(疑似餌)を下カゴからの撒き餌と間違えて食いついてくるアジやサバなどを釣るようです。
 サビキ釣りはファミリーフィッシングとして人気が高いようですが、土肥の突堤は船着き場であった関係で水深がかなりあり、転落事故には注意が必要です。

 もちろん船釣りも楽しめます。
http://taihoumaru.blog87.fc2.com/


日蓮宗の寺・清雲寺です。日蓮宗のお寺といえば、身延山久遠寺と池上本門寺が双璧ですが、両寺とも火災や戦災で戦後建て直された寺院であるのに対して、江戸時代末期に建設された清雲寺は、豪壮な寺院建築の格式をよく伝えています。



 北条氏の家臣であった土肥城主富永山城守政家が、北条氏と里見氏が戦った国府台合戦で討ち死にした父を弔うために建てた菩提寺が始まりです。



 見どころは日蓮上人一代記の板絵です。一枚の大きさが一畳もある、明治の初めに浮世絵師によって描かれた板絵が90枚、きらびやかな堂内を飾り、参拝者を圧倒します。
http://seiunji.net/nichirenshounin.html

 個人参拝の場合は社務所に声をかければ自由に拝観できます。

伊豆市指定史跡の「土肥金山」です。土肥鉱山の坑道の一部を組み込んで平成元年に開業した観光施設です。



 土肥鉱山は足利幕府時代からの金山で、徳川家康の時代に最盛期を迎えますが、まもなく休山、300年後の明治39年に外国技術を導入して再開発されます。
 別子銅山精錬所と提携、土肥鉱山で掘り出された鉱石は鉱石運搬船で瀬戸内海の四阪島精錬所に運ばれ、大正13年には産金量で本邦第2位の金山となります。

 明治・大正から昭和40年の閉山まで掘り出された金は40トン、銀400トンでした。「土肥金山」の目玉展示物のギネス認定12.5キロの金塊を3,200本を産出したことになります。



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身延山久遠寺から池上本門寺へ:日蓮上人の最後の足跡

2016-10-29 11:19:21 | Weblog

身延山へは4回目の参拝となりますが、池上本門寺へは初めての参詣です。
今回は身延山から、下部温泉、本栖湖、河口湖、山中湖を経て御殿場から東名高速道に入り、池上本門寺に向かいました。5時間のバス旅でした。
日蓮上人の最後となった旅に思いを馳せながらの参拝旅行でした。
 
上人の身延山での歩みを振り返ります。

1274年(文永11年)



 三年間の佐渡流罪後、鎌倉に召喚。身延一帯の地頭である南部(波木井)実長に招かれ、身延へ、身延山を寄進されます。
 身延山中腹から西谷を撮った写真です。上人が入山されたころは、当然のことながら三門も門前町もなく、周りの山の底に沈んだように大木に覆われた西谷に御草庵があっただけでしょう。

 日差しもあたらず、冬は雪が降り、夏は湿気の多い西谷の気候に御草庵は四年で柱は腐食し壁が落ちるという有様であったと伝わります。このような環境下、三年間の佐渡流刑の疲れもあったのでしょう、たびたび病床に伏されるようになります。
 なお、この年に蒙古来襲、文永の役。

1281年(弘安4年)



 南部(波木井)一族の家の子郎党挙げての尽力で、十間四面の大坊が西谷に建立されます。今ではその威容は見られず、想像するしかありません。西谷には、御草庵、久遠寺大坊、僧侶が住まう小坊や厩が見られたことでしょう。
 この年、ふたたび蒙古来襲、弘安の役。

1282年(弘安5年)9月8日・10月10日  *旧暦・新暦表示

 上人の健康回復を願った南部実長は常陸の所領・隠井(加倉井)の湯での湯治を勧めます。上人は湯治を決断、常陸への旅の途中に武蔵から上総・茂原を経て、安房・小湊での父母の墓参を旅程に組み込みます。

 実長が用意した栗鹿毛の馬に乗せられた上人と従う僧侶一行は実長郎党の若武者に守られて身延の山を下り、北上して下山兵庫助光基邸に泊まります。南下して駿河湾沿いに伊豆箱根へ向かう道をとらなかったのは、日蓮上人を快く思わない北条氏の勢力圏を避けるためだったのです。
 
1282年(弘安5年)9月9日・10月11日

 今でこそ富士川に沿って国道が甲府まで伸びていますが、当時は富士川の流れを大きく山側に迂回する道しかありませんでした。下山から山道を辿ると当時では難所といわれた早川に出ます。七面山、身延山、南アルプスの前山からの流れを合わて富士川に流れ込む早川は「早きこと箭(や)を射るごとし」と上人も述べられています。

 早川を渡り、三ツ石から現在421号となっている山道を辿り、富士川岸の切石まで往きます。手打沢から再び山道に入り富士川を大きく迂回して、ようやく富士川最上部、釜無川と笛吹川が合流する鰍沢に着き、大井庄司入道邸に宿泊しました。

1282年(弘安5年)9月10日・10月12日

鰍沢からは甲府盆地に入ります。釜無川、笛吹川を越えるのは難儀だったでしょうが、平坦な扇状地を歩むだけ、前日の富士川沿いの山道に比べれば、楽な旅程だったでしょう。
 
上人一行は盆地南端の曽根台地を目指し東進、曽根次郎宅に宿泊しました。
 曽根付近は古来からの放牧地があり、甲斐の黒駒に象徴される馬産地でした。また、古墳もあり、上人も古の人々へ思いを馳せたかもしれません。

1282年(弘安5年)9月11日・10月13日

上人一行は甲斐路を目指します。甲斐路は古代からの官道で御坂峠を越え富士山麓の北側を通り、東海道と結んでいました。「御坂みち」や「鎌倉往還」の名が残りますが、当時は単に「大道」と呼ばれていたようです。
 海抜300メートルの曽根から緩やかの登り道をたどり、御坂峠の登り口にあたる黒駒で宿泊したと伝わります。

1282年(弘安5年)9月12日・10月14日

 黒駒は海抜500メートル、御坂峠は1520m、標高差1000メートルを登らなければなりません。さらに御坂峠から河口まで700メートルを一気に下るという道中で最大の難所でした。馬の背に乗っていたとはいえ、病身の上人にとっては過酷な峠越えでした。
 河口の梅屋本庄家に宿泊します。

1282年(弘安5年)9月13日・10月15日

 上人の疲労が回復しなかったのか、その後の道中に備えてたのか、この日はわずか2里8キロしか離れていない暮地(くれち)の遠山藤学家に泊まります。暮地は三つ峠下にあり、富士山眺望地として知られている場所、上人も秋空の富士山を眺められたことでしょう。

 遠山家に逸話が伝わります。親戚の二人が竹ノ下、関本まで上人一行に付き添いますが、そのまま関本にとどまり、暮地と名乗り住みついたというのです。温暖な関本の地に惹かれて、暮地に戻る気持ちが失せたのでしょうか。

1282年(弘安5年)9月14日・10月16日

 暮地から鳥居地峠を越えて山中湖東岸に出ます。ここから海抜1168mの三国峠を越えますが、山中湖が海抜980mですからそれほどの登りではなかったでしょう。三国峠からは下り一方の道で明神峠を経て、現在147号となっている道を上野集落まで下り、そこからは集落を結ぶ路を南下し、海抜350メートルの竹ノ下で宿泊します。

1282年(弘安5年)9月15日・10月17日

 竹ノ下からは道中最後の峠越え海抜759メートルの足柄峠です。峠からは標高差700mを下り、関本(注・南足柄市)の下田五郎左衛門邸に宿泊しました。
 日蓮上人にとっては9年前、鎌倉から身延山に往く道中でも足柄峠越えでした。その時は竹ノ下から富士山の南回りで身延に向かっています。

 箱根越えよりも足柄峠越えのほうが急峻だが近道ということで、鎌倉・室町時代にはよく使われていたようです。ちなみに1336年(建武2年)足利尊氏と新田義貞の間で箱根・竹ノ下の戦いがありました。

1282年(弘安5年)9月16日・10月18日

 関本は海抜60m、ここから関東平野が始まり、平坦な道を往く道中となります。武蔵の国を目指すなら、現在の246号の道筋が一番近いはずですが、北条氏の領地を避けるように海岸沿いの道を選んだのではないかと言われています。 
 酒匂川を渡り、平塚の松雲山要法寺に宿泊、7里・28キロの道程でした。

1282年(弘安5年)9月17日・10月19日

 平塚から北に進み、相模川を寒川神社一之宮へと渡ります。さらに北上して、以前立ち寄ってことがある座間入谷の円教寺で休息、そこから東に進み、関谷にある福昌山妙光寺に泊まります。
 6里・24キロの道程でした。

1282年(弘安5年)9月18日・10月20日
 
 武蔵の国・池上宗仲邸へ向かいます。関谷から池上までの距離はおおよそ7里・28キロ、多摩川を渡り、千束池(洗足池)に到着したのが夕方でした。休息後、旅を続けますが、池上宗仲邸までわずか半里2キロの地点で上人の体力が尽き、馬籠の萬福寺阿弥陀堂へ宿泊されたと伝わります。
 この時のご様子が南馬込の萬福寺のホームページに詳しく描写されています。

萬福寺鬼子母神縁起
http://www.manpukuji.or.jp/publics/index/95/
 
 上人とお傍に侍る者を除いて一行は池上宗仲邸に急ぎ、日蓮上人ご到着を告げたでしょうから、9月18日池上宗仲邸到着と伝わっているのでしょう。

1282年(弘安5年)9月19日・10月21日

 池上宗仲邸に安着された聖人は南部(波木井)実長への手紙を認めます。聖人の生涯最後の手紙となる「波木井公御報」です。筆も持つことが出来ないほど衰弱された上人のお言葉を弟子が記しました。

 御報からは、日蓮上人のお声が聞こえてくるようです。手紙の末尾に記す「はんぎょう(署名・花押)」さえも記すことができないお体なのにもかかわらず、共に旅をした愛馬「くりげかげの御馬」を案じられる聖人のお優しいお心に胸をうたれます。愛馬に付き添っていた舎人ともども「上総のもばら殿(注・領主の斎藤兼綱)」に常陸の湯より帰るまで預けさせてほしいという文面からは、上総・茂原から安房・小湊へと旅を続け、両親の墓参をという強いお心が読み取れます。
 次のサイトで波木井公御報の原文をぜひお読みください。

岡本亮伸・日蓮聖人『波木井殿御報』を味わうこと
 http://www.eijuin.jp/News/view/16/621

1282年(弘安5年)10月13日・11月14日



 ずっと病床につかれていた日蓮聖人は死期が近いことを知り、六老僧、日昭・日朗・日興・日頂・日持・日向に全てを託します。
 10月13日辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸の仏間で弟子と信徒の読経と日昭の打ち鳴らす臨滅度時の鐘が響き渡る中、60年の生涯を終えられます。

 毎年、全国の日蓮宗寺院では、日蓮上人の御命日である10月13日を中心にお会式(法要)が営まれます。
 特に日蓮聖人御入滅の霊跡である池上本門寺では、12日の夜には万灯行列が行われ、毎年30万人の人出となります。

参考資料
*市川智康 「日蓮聖人の歩まれた道」
*宮崎英修 「波木井殿御報‘常陸の湯’について」
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江戸時代から続く南会津・大内宿の歩み

2016-09-09 13:57:35 | Weblog

八月、大内宿を訪れました。今回で四度目です。駐車場が四つに増え、交通整理員が車の整理をしていました。初めて訪れたときの、江戸時代の宿場町がそのまま姿を伝えている感動を忘れることができません。以来、家族や友人・知人を案内してきました。

いずれも一泊二日の旅でした。
*東北道→磐越道→猪苗代湖→会津若松→大内宿(会津東山温泉泊)
*東北道→塩原→南会津町→奥只見→昭和村→大内宿(只見町泊) 
*東北道→那須高原→甲子道路→大内宿(那須温泉泊)
*浅草駅→鬼怒川温泉駅→湯野上温泉駅→大内宿(鬼怒川温泉泊)




 大内宿の歴史

1643年(寛永20年)頃
 *若松・江戸を五泊六日で結ぶ下野街道に現在の街並みがほぼ形作られる。

 *以来、隔年ごと21回会津藩参勤交代が立ち寄る

1680年(延宝8年) 
 *幕府、脇街道(下野・会津西街道)での参勤交代と廻米を禁止、白河街道へ。
 *大内宿は商人・旅人だけの宿場となり賑わいを失い、半農半宿の生活に。

1683年(天和3年)
 *日光地震で山が崩落、五十里宿に高さ70mの堰止湖が出現。
 *氏家・板室・三斗小屋経由の迂回路である中街道ができる。

1723年(享保8年)
 *大雨で堰止湖決壊、濁流が宇都宮まで下る。下野・会津西街道開通。

1868年(慶応4年)
 *戊辰戦争で南会津一帯が戦場に。大芦宿(昭和村)29戸、三斗小屋宿14戸焼失。
 *新政府軍の利用を恐れ、会津藩は大内宿に火を放とうするが、村人の懇願で取止める
 *薩摩・人吉・肥前・中津・芸州・今治などの藩兵が大内宿に陣を敷く。

1878年(明治11年)
 *イギリス人女性旅行家イサベラ・バード、美濃屋(阿部家)に泊まる。

1884年(明治17年)
 *若松から阿賀川沿いに楢原宿(下郷町)まで道路整備(現121号線)
 *大内宿はルートから外れ、宿場としての歴史を終える

会津地方の一山村としての歩みが、その後85年ほど続く。日清戦争、日露戦争、太平洋戦争の動乱のなか、明治時代は足尾銅山日雇い人足、大正・昭和には草屋根葺き職人として関東への出稼ぎで生活を支える。また、炭焼き・養蚕→葉タバコ→高原大根・米作→花卉栽培・米作と換金作物は変遷、しかし、人々の結の精神は、防災、農作業、茅葺屋根葺きなど共同作業で綿々と受け継がれ、大内宿を江戸時代の姿そのままに伝えることになる。


1969年(昭和44年)
 *朝日新聞全国版に大内宿保存に取り組む研究者の活動が紹介される。
 *大内の代表者と下郷町職員、保存事業に取り組む長野県妻籠宿訪問。

1970年(昭和45年)
 *NHK大河ドラマ「樅の木は残った」のロケーション撮影地に

1976年(昭和51年)
 *妻籠宿、文化庁より重要伝統的建造物群保存地区に選定される。
 
1977年(昭和52年)
 *大内ダム(多目的ダム)の建設が始まる
 *補償金と建設工事従事で現金収入、トタン屋根への葺き替えが行われる。
 *住民、重要伝統的建造物群保存地区への申請を断る。

1978年(昭和53年)
 *奈良井宿(長野県)が重要伝統的建造物群保存地区に選定

1980年(昭和55年)
 *大内宿住民、重要伝統的建造物群保存地区申請を決断。
 *トタン屋根・アスファルト舗装撤去および電柱・電線の配置換え。

1981年(昭和56年)
*4月18日、文化庁、大内宿を重要伝統的建造物群保存地区に選定

大内宿への観光客の数は指定を受けてから3万人前後で推移していたが、平成に入ってから一気に増加、平成2年には30万人、翌年に50万人、平成15年に80万人、平成22年に100万人を超える。しかし東日本大震災の年は半減、回復基調にあるが現在80万人程度である。
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英国道路地図の読み方とスカイ島観光案内

2016-06-17 10:04:12 | Weblog
初夏を迎えて、英国スコットランドへの旅を考えておられる方も多いでしょう。
英国(スコットランド)ドライブに欠かせないのが道路地図です。
以前は大型書店に行かないと手に入りませんでしたが、今では英国政府観光庁のサイトを通じてオンラインで簡単に入手できるようになりました。
今回はスコットランドへの旅行がテーマですので、スコットランドの道路地図を購入してもよろしいですが、英国全土の道路地図ビッグ・ロード・アトラス (2,423円)を勧めます。




インターネット上の地図の活用法

 一つはスコットランドの全体図です。小さな町や県道レベルの道路の多くが表示されませんが、コース全体を捉えるのに便利です。今回のスコットランドのハイランド周遊コースをこの地図で確定してください。
もう一つは英国自動車協会のネット道路地図AA(Automobile Association)Route Plannerです。この道路地図は、出発地と目的地を入力すれば、そこへの経路を地図上で示してくれますし、距離・所要時間を表示してくれます。ただし、一部の地方道や小さな町については対応していませんが、それは地図で確認できますので、そんなに不便を感じません。
 ではAA Route Plannerを使って、本ブログスコットランド5日間の旅」の行程をたどって見ましょう




(インヴァネスで民泊した家の前で)

AA route planner
を開きます。
 この表の[From](出発地)と[To](到着地)、複数のルートが考えられる場合には[Via](経由地)の欄に地名を打ち込みます。
では具体的にコースを調べましょう。



二日目のルート「エジンバラ空港Eddinburgh AirportからビューリBeaulyまで」 
[From](Edinburgh Airport)[To](Beauly) [Via](Spean Bridge
打ち込んだら[Get route]をクリック、概略のルート地図,距離、所要時間が示されます。地図上にBeaulyが表示されるまでズームイン、ルート詳細が表示されます。さらにズームインして空港周辺の道路を確認します。
三日目のルート「ビューリBeaulyから スリガッチャンSligachanまで」

[From](Beauly)[To](Sligachan) [Via](Kyle of Lochalsh

五日目のルート「スリガッチャンSligachanからエジンバラ空港まで(フェリー利用マレイグMallaig,クリアンラリッヒCrianlarich経由」 

[From](Sligachan)[To](Edinburgh Airport) [Via](Mallaig) [Via](Crianlarich

AA Route Planner活用の留意点
 
空港から主要道に取り付くまでは一般道を走りますが、その道路名を必ずメモしておきます。途中、ラウンドアバウトRoundabout(信号機のない交差点)がある場合には下記を参考に・・・
 *ラウンドアバウトの通行方法を動画で説明しているサイトにリンクを付けました。ご覧下さい。

国道では標識Signpost情報に従って走行します。

都市周辺には「・・・ Ind. Est.」という標識を目にすることがありますが、これは高速道路周辺に建設された「工業団地(Industrial Estate)」のことです。


英国でのドライブ

    スピード表示がマイルであることを除けば、右ハンドル、左側通行の英国ドライブは日本人にとっては安心できます。その上、英国のドライバーはヨーロッパで一番マナーが良いとされています。だだし、レンタカーはマニュアル車が主流であること、車種によっては仕様が異なり、それなりの注意は必要です。
本ブログのスペインでのレンタカー運転の体験を参考にしてください。

英国での宿泊

 英国(スコットランドも含む)はおそらく観光案内所Tourist Information(赤字の筆記体[i]がトレードマーク)が最も完備した国でしょう。小さな観光地でも必ずTourist Informationが置かれ、ホテルやB and Bの予約が出来るようになっています。私の二回の英国旅行では全てTourist Informationで当日の宿泊を手配しました。だだし、午後3時までには申し込みを済ませます。

 ホテル情報についてはイギリスのインターネット予約サイトのActive Hotelsをよく参考にしています。特に、顧客の「Review(書き込み)」でホテルの内容がよく分かります。また、このサイトを通じてフランスリヨンのホテルを予約したことがありますが、なんら問題はありませんでした。

英国では地方のホテルの従業員は東欧からの出稼ぎ者が多くいます。英語を話せるとは限らず、また地域の情報についてはほとんど答えられません。

英国旅行の楽しみは朝食です。日本人には十分な種類と量で、ホテルでもB and Bでも当たりはずれがありません。おかげで昼食はパブで軽く済ますことができます。

スカイ島観光情報:



   キリン山Cuillinを始め、ウオーキング愛好者にとっては魅力的なコースが数多くあります。標高は高くありませんが、侮ってはいけません、ヨーロッパアルプスに匹敵する難コースが多いのです。Sligachan Hotel スリガッチャンホテルに二泊、ホテル背後に聳えるCullin山に登りましたが、当日は快晴、コースからは常にホテルが遠望でき目印となり、イギリス人の単独登山者の後ろを付いて歩く形になりましたので、不安がありませんでした。しかし、頂上までは無理と判断、八合目でホテルが作ってくれたランチ・ボックスの昼食をと取りながら、眺望を楽しみました。だだし、天候が急変したら、ふみ跡もはっきりしない岩山の登山道は迷う危険があります。(日本から登山靴を持参しました。)
    なお、ホテルを通して依頼すればガイドを頼むことができます。(1日£150×150円=22,500円)



 イギリスの料理は・・・?とクエスチョン・マークを付ける方がおられますが、スコットランド、特に魚介類が豊富なスカイ島は別格です。私は生ガキでスカイ島の地ビールを堪能しました。ポートリーPortreeにはシーフッドレストランもあります。ぜひ、訪れてくさい。

スコットランドでは羊毛製品、特にセーターがお薦めです。スコットランド特有のデザインのセーターは街中でも、普段着としても、また登山用にもおしゃれで目立ちます。私はスカイ島のポートリーPortreeで買いましたが、10年たった現在でも重宝しています。現在では若者向けのケルトの伝統を受け継いだデザインの衣料に人気があるようです。

スカイ島ウイッグUigの陶器Potteryも有名です。PortreeからA856で20分でいくことが出来る小村ですが、ここの生活用品の陶器はお土産に最適でしょう。サイトを覗いてください。

人気の高いスコットランドのモルトウイスキーがテロ対策の液体物規制の影響で機内持ち込み禁止です。スカイ島にはスコットランド三大銘酒の一つTaliskerがあるだけに、実に残念です。海草の香りがするこのウイスキーは日本人の口にも合います。 スコットランド滞在中に是非お試し下さい。スカイ島のウイスキーの銘酒Taliskerに興味をもたれた方はスコッチウイスキーのサイトを覗いてください。



  北ウエールズ案内



*昨年、バルセロナ空港からの帰り、ヒースロー空港でTaliskerを見つけました。帰国便の手続きが終わって、最初に通る酒類販売店で売っていました。40ポンドでした。もちろん購入しました。




 
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