シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

ひな祭りで知られる、秋の真壁を訪れました

2013-10-26 15:47:28 | Weblog
真壁のひな祭りは、毎年、2月初めから3月初めに行われ、10万人の観光客を集めています。その真壁の秋を訪ねました。

ひな祭り期間中を除いて、真壁まで行く公共交通機関はまったくありません。
そこで、つくば駅から路線バス「筑波山口」行で筑波山へ向かいました。

「筑波山口」は旧筑波鉄道の「筑波駅」があったところです。ここから筑波神社まで歩き、ケーブルカーで筑波山へ・・・というのが当時のルートでした。上野駅から直通快速「筑波」号も走っていました。その筑波鉄道は昭和62年に廃線、軌道跡は「りんりんロード 」としてサイクリング愛好家に親しまれています。



              

「筑波山口」は、つくば駅や土浦駅への路線バスの発着所となり、周辺の地区へのタクシー乗り場となっています。真壁の伝承館までのタクシーは、20分、3,500円でした。

真壁の街は「お・も・て・な・し」の心で迎えてくれました
 普段の真壁は静かなたたずまいを見せていました。人通りはほとんどありません。それでも時々お会いする街の方からあいさつを受けます。街の様子を尋ねると親切に教えてくれます。長屋門の写真を撮っていると、家の方から「中を見ていきますか・・・」と声をかけられました。400年の歴史のある酒蔵を訪れると、試飲をさせていただいたうえ、酒蔵を見学させていただきました。
 10年前から始まったひな祭りも、真壁を訪れてくれた遠来の方々へのおもてなしとして、家々に伝わる雛飾りを披露することから始まったとのことでした。


             
              

真壁の街は復興半ばです
 茨城県で唯一の伝統的建造物群保存地区に指定されている真壁の街は、昔ながらの瓦屋根と本土壁を主体とした建物が多かったため、大きな被害を受けました。大震災から二年七ヶ月も経った現在でも、崩れたままに放置されたり、補修途中のお宅も目にしました。多くの家々では瓦が落ち、屋根の修理に数百万円の費用が掛かったとのことでした。
 そのような被害を受けながら震災の翌年もひな祭りを続けられた真壁の人々の心意気に感銘を受けました



               (ひな祭りでにぎわう真壁の町)

              


真壁は歴史の街でもあります
 真壁町の東に真壁城址があり、その背後に筑波山に連なる山々があります。その麓に立つと、真壁の町の前に関東平野が広がります。平将門の天慶の乱の地で、戦いの舞台となった下野(栃木)の大平山が置き石のように西の水平線に見えます。



               (大平山から筑波山を望む)
                 
               


 室町時代からの豪族・真壁氏の館があり、戦国時代は常陸の佐竹氏の家臣団に属していましたが、佐竹氏が徳川家康の命により出羽国秋田へ国替えとなり、真壁氏も秋田の角館に移ります。

 浅野家が真壁5万石を継ぎ、この頃に現在の真壁の町並みが形づくられます。なお、元禄赤穂事件の大石内蔵助は浅野家の永代家老でした。討ち入りの赤穂浪士の中には真壁ゆかりの武士もいたかもしれません。
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渋谷で昼食会、そしてプラネタリウムへ

2013-10-11 07:49:14 | Weblog
友人と三人会を作っています。
学生時代からよくハイキングや旅行に出かけた仲間です。
半世紀前、テントを担いで、北海道を二週間、歩き回ったのが一番の思い出です。

50年前の北海道旅行

退職後もよく会っていましたが、近い将来のことも考えて、最近は夫婦一緒の昼食会を年に一度、開くことになりました。昨年は皇居ほとりにあるホテルでフランス料理・・・お堀端を散策し、生まれ変わった東京駅を訪れました。

お堀端から東京駅へ

そして今年は懐かしい渋谷です。学生時代、渋谷駅を通り通学していました。テレビには駅前交差点が毎日のように映し出されてますが、大きく変貌した町並みからどこか遠い場所のように思えていました。

昼食会は日本最初の本格的なロシア料理店であるロゴスキーです。学生時代から名前は知っていましたが、当時は入れる身分ではありませんでした。現在は東急プラザ渋谷の9階にあり、渋谷ヒカリエを正面に見ながらの昼食会でした。

渋谷ヒカリエは旧東急文化会館があったところで、屋上に五島プラネタリウムがありました。
食事が終わり、246号の歩道橋で越えて、渋谷区文化総合センター大和田の12階にあるコスモプラネタリウム渋谷に向かいました。



人気のプログラムだと午前中の早い時間に入場券が売り切れてしまうそうですが、平日の午後2時であったこともあり、プラネタリウムの観客は10名足らず・・・リクラインした座席で、夜の高原に仰向けになって星空を見ているような感覚に浸った時間でした。

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「旅する音楽」は、ロマの人々を追った異色の音楽番組でした

2013-10-04 09:51:12 | Weblog
かつてはgypsy(ジプシー)と呼ばれたロマの人々の1000年にも渡る放浪の旅を俳優オダギリジョーがたどります。

ロマの人々が放浪の旅を始めたとされるインド北西部ラジャスタン州を訪れ、今のロマの人々の生活を映し出し、長老から2000年にわたるインドでのロマの人々の生活と歴史を語ってもらいます。

続いて、現在のヨーロッパに画面に替わります。
最初に写しだされた映像を見て驚きました・・・7年前に訪れたことがある、フランス南部、ローヌ川が作る広大な湿地帯カマルグの端、地中海の小さな漁村サント・マリー・ド・ラ・メールだったのです。

1500人たらずの小さな街は、5月24日から始まる三日間の巡礼祭の前日を祝おうと、競うように音楽を奏でるロマの人々で溢れかえっています。ヨーロッパ各地から、昔は馬車、いまはキャンピングカーで、一族ごとにロマの人々が集り、再会を祝います。オダギリジョーは大なべでパエリアを炊くグループに招待されます。スペインから来たロマの人々でしょうか・・・

漁村の名前はSaintes-Maries-de-la-Mer,「海から来た聖マリアたち」です。伝承ではイエスの復活に立ち会った三人のマリアと従者たちが西暦42年小船で流れ着き、マリア・サロメとマリア・ヤコベとともに二人に従う浅黒い肌をしたサラがこの地に残ります。「黒い聖女サラ」で、ロマたちのの守護聖人となっているのです。

サントマリー教会の地下に安置されていたサラの像は、巡礼祭でロマたちに担がれロマの音楽家の演奏する聖歌に率いられて海岸まで練り歩きます。



肌が浅黒くエジプトから来たとされジプシー(Gypsy)という蔑称で呼ばれていた人々は、自分たちをロマ(roma人間)と呼びます。楽器と音楽を携え、即興の歌と踊りを生活の糧としながら、インドを出て、中近東を経て、ヨーロッパへと1000年もの放浪の旅をしながら、ギター、ヴァイオリンなども加えて、各地の音楽と融合していきます。スペインではロマの人々をヒターノ(Gitano)と呼び、フラメンコを担っています。

それだけではありません。大平原が広がるハンガリーの村々ではロマの人々の定住が進み、踊りを愛するマジャール人の音楽を支え、ハンガリー舞曲などのクラッシクにも繋がっていきます。

ゴッホ家馬車・ジプシーの野営」には往時のロマの人々の放浪生活が描かれています。
http://www.monogatariya.info/m_museum/gallery/gogh/coach/coach.html

ゴッホサント・マリー・ド・ラ・メールの海
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Vincent_Willem_van_Gogh_042.jpg

サント・マリー・ド・ラ・メールまでアクセスは本ブログ十字軍ゆかりの城壁都市と美しい漁村をご覧ください。
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