シニアー個人旅行のかわら版

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東京下町散歩・・・隅田川(向島)七福神めぐり

2010-01-26 13:42:47 | Weblog
正月に隅田川七福神めぐりを楽しみました。
1月5日朝日新聞夕刊に七福神ランキングが紹介されていましたが、東京からは浅草名所七福神(2位)、柴又七福神(5位)、谷中七福神(6位)、深川七福神(7位)、亀戸七福神(8位)、隅田川(向島)七福神(9位)がベスト10入りしていました。
同紙で俳優の小沢昭一さんは向島の七福神を推奨しておりました。

向島七福神めぐりは、正月だけでなく、普段の東京下町散歩の絶好のルートになります。ゆっくり歩いて半日の散策ですが、最大の特徴は、国指定名勝及び史跡「百花園」が含まれることです。春夏秋冬、いつでも季節の草花が咲き乱れる百花園は東京下町散歩の絶好ポイントです。
(次のサイトの地図を参照しながら、お読みください。)http://members2.jcom.home.ne.jp/sirahige/images/chizu15.jpg

出発浅草

1. 鐘ヶ淵駅


 浅草から東武線で四つ目、10分、160円です。
写真は踏み切り脇の交番から撮りました。商店街の路地を進みます。

下町の雰囲気が濃密な道です。人家が重なり合うように密集、ところどころ路地が交差します。正月には「七福神巡回路」の大きな看板が要所にありますが、普段は見通しの利かない迷路・・・親切な下町の人に道を尋ねたほうがよいでしょう。

2.多聞寺毘沙門天


 下町の民家に割って入ったような小さな寺と想像しながら到着・・・まず、茅葺屋根の山門には驚かされるでしょう。今まで歩いてきた街の様子とのあまりの違い・・・しずかな佇まいの中にある多聞寺・・・異次元の世界に出会った驚きです。

東京下町は、関東大震災東京大空襲と二度の災害で多くの建物が焼失しましたが、多聞寺はいずれの災害からも逃れ、300年前の面影を今にとどめている数少ない建物です。
 明治の初めまで、この辺りは隅田村と呼ばれ、田んぼや畑、蓮田に囲まれるように点在する人家の周りに竹やぶ、松、ケヤキがあるという風景でした。多聞寺隣には丹頂池があり、鶴の姿も見られました。多聞寺だけが、江戸時代そのままの姿を残しているのです。
 旧幕臣であった榎本武揚は、隠居した後、この地を散策することを殊に愛し、多聞寺の七福神碑は彼の書です。

 多聞寺の次は白鬚神社へ・・・浅草方面にかつての隅田川の堤であった墨提通り沿って下ります。墨提通りは街並みよりわずかながら高くなっており、昔の堤のなごりが残っていますが、今は交通量の多い幹線道路・・・ここを歩くのはあまり快適とは言えません。墨提通りから一段下がった横丁を浅草方面へ歩きます。

3.梅若小学校


 多聞寺から白鬚神社への中間点にある小学校です。校名に注目してください。歌舞伎、文楽、清元で演じられる「隅田川」で登場する悲劇の梅若伝説の梅若丸に因んだ校名としています。
 江戸が東国の寒村に過ぎなかった頃、室町・鎌倉時代に京と東国を結ぶ鎌倉街道奥羽街道が、この辺りで隅田川を渡っていました。
 在原業平が「名にし負はばいざこと問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と詠ったのもこの渡しでした。
 梅若小学校を紹介するサイトにこの地の変遷が詳しく紹介されています
http://id30.hp.infoseek.co.jp/umewaka-shougakkou.htm
 梅若伝説については次のサイトをご覧ください。
http://japanese.hix05.com/Noh/4/yokyoku410.sumidagawa.html

4.白鬚神社寿老神


永井荷風が終戦間もない昭和23年に白鬚神社から鳩の街までを歩いています。

昭和二十三年一月十日。晴。暖。来訪者を避けむとて午下市川駅前より発する上野行のバスに乗り浅草雷門に至る。歩みて言問橋をわたり白髭に至る。白髭神社蓮華寺共に焼けず。外祖父毅堂先生の碑無事に立てるを見る。地蔵坂下より秋葉神社前に出る横町にもと玉の井の娼家移転せり。この辺も焼けざりしが如し。向嶋は災を免れし処随分あるやうなり」。

 しかしながら、戦火を逃れた白鬚神社ですが、平成2年に放火により江戸時代から続いた社殿と周囲の名木が焼失・・・荷風の祖父の碑も含めて、そこに立つ数多くの石碑が往時の姿を伝えるのみです。

 江戸時代、ここ寺島村は風光明媚な行楽地として知られ、また、周辺の農家は野菜を江戸市内に出荷していました。特に茄子は品質が良く、「寺島なす」として江戸の人々に賞味されていました。

 5・百花園福禄寿


 墨堤通りから別れる数十メートルの通りが昔の隅田川の土手で、面影が残っています。ここを離れ、南に200mほど町中を進みます。
突然、緑豊かな庭園、百花園にぶつかります。この庭園は、戦災で被害を受け、一時はグランドにしようという意見もでましたが、昭和24年から復興作業を始め、かつての美しさを取り戻しました。今では四季折々の草花を楽しむ人々の来園が絶えません。

 二百年前、佐原鞠塢(きくう)という骨董屋がここにあった旗本屋敷跡を買い取り、庭園を作り百花園と称しました。ある時、風流文雅の通人が集まった席で、鞠塢が愛蔵している「福禄寿」に因んで、向島にも七福神を作ろうと、周辺の寺や神社を探し始めました。隅田村の多聞寺に「毘沙門天」、須崎村の長命寺と弘福寺にそれぞれ「弁財天」「布袋尊」、小梅村の三囲神社に「大黒神」と「恵比寿神」があることまでは分かりましたが、どうしても「寿老人」が見つかりません。そこで、百花園と同じ寺島村にある白鬚神社に目をつけ、鬚を生やした「寿老人」にかかわりがあるに違いないと機知をはたらかせて、向島七福神を完成しました。

6.鳩の街


 百花園から再び墨堤通りに近づくよう浅草方面に向かいます。地蔵坂通りを横切り、墨堤通りの寄りの道を行くとかつての遊郭・鳩の街入口に至ります。この地域も空襲で焼け残り、永井荷風の「墨東綺譚」で知られる遊郭・玉の井が焼失したため、戦後、この通りが遊郭街となり、吉行淳之介が「原色の街」で描いた鳩の街となります。
500メートルの真っ直ぐな狭い路地は、映画のセットのような昭和の初め頃からのレトロな雰囲気が色濃く残る通りとなっています。

7.墨田公園
墨堤通りは隅田公園で終わります。ここには280年の歴史を持つ「長命寺桜もち」と180年続く「言問団子」の二つの和菓子屋があり、散策疲れを癒す観光客の格好の場所となっています。
 交差点を直進すると見番通りに入り、直ぐに長命寺、弘福寺、300メートル先に、三囲神社があります。

8.長命寺弁財天
 

 三代将軍徳川家光が、鷹狩の帰り腹痛に襲われ、ここの井戸の水で服薬、快癒しました。家光は、その井戸を長命水と名づけ、それが寺の名前となります。関東大震災で焼失、現在の本堂は戦後の再建です。
 境内に芭蕉雪見の句碑があり、当地は雪見を楽しむ江戸の風流人が訪れたところであることが分かります。

9.弘福寺布袋尊
 

 17世紀末建立の禅宗の寺です。本堂の重厚な屋根や山門など威厳に満ちた風格があります。関東大震災後の再建で、幸いにも東京大空襲の被害には会いませんでした。
境内に祭られる「セキの爺婆尊」から咳止めにご利益があると信じられ、せき止飴が土産として売られています。

10.三囲(みめぐり)神社恵比寿神大黒神


 徳川家康が江戸に入った慶長年間から当地に鎮座する古社。創建時に、一匹の白狐が神像の周りを三度回って何処へかけ去ったという故事に因んで名づけられました。
 俳人宝井其角の句碑、14歳で亡くなった囲碁の天才・中山善吉の墓があります。

11.向島の花街
 長命寺、弘福寺、三囲神社が連なるこの辺りは、今まで散策してきた墨田、寺島地区の人家が密集していた雰囲気とは異なり、料亭の看板が目に付くようになります。花街の伝統を引き継ぐ高級料亭が数多くあり、夜ともなると、政財界人が宴会を開くところでもあります。

 江戸時代には須崎村小梅村の2村があり、浅草から隅田川を渡ればすぐのこの地は、風光明媚なことから水戸徳川家の下屋敷や武家屋敷も多く立てられました。
 森鴎外が石見・津和野から11歳の時、一家揃って上京していますが、津和野藩主の御典医であった父と居を構えたのが小梅村ですので、明治維新後に残っていた武家屋敷の一つに住んだのでしょうか。

12.東京スカイツリー


 三囲神社脇から、250mまで伸びた東京スカイツリーを間近に見ることができます。2年後完成時には、450mの展望台の真下に、向島の七福神のルートを一望できることになるでしょう。

13.桜橋
三囲神社からは、隅田川沿いを戻り、隅田川唯一のX字型をした歩行者専用橋を渡り、浅草側の隅田公園に出ます。公園を歩いていけば、浅草です。

到着浅草


}「東京スカイツリーと隅田川七福神もご覧ください。
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奥会津は今年の正月も雪でした

2010-01-10 11:16:05 | Weblog
1月2日、たかつえスキー場に行く道路が閉鎖になったというのは本当でしょうか。
今朝、ブログへのアクセス分析をしていましたら「1月2日 たかつえ 道路通行止め 理由」のキーワードでアクセスされた方がおられました。

当日、湯の花温泉から東京に帰るところで、午前10時頃、中山トンネルを抜けた地点で、反対車線に一台の自家用車が立ち往生・・・たかつえスキー場方面に向かう車の渋滞が金竜橋先1キロくらいまで続いていました。
道路管理用の車が後ろに止まり、係員が「困ったな」とつぶやきながら、Uターンをして田島回りで行くようにと運転手に指示していました。おそらく、中山峠の坂を登りきれないと判断されたのでしょう。
5年前、たかつえスキー場への取り付け道路で、やはり坂で立ち往生していたワンボックス車をUターンできる地点まで、牽引したことがあります。磨り減ったスタッドレス装着の後輪駆動車でした。


12月31日には尾頭トンネル、山王トンネル、中山トンネル付近の道路には積雪はありませんでした。この5年間、初めてのことです。地元の方は、久しぶりに雪のない正月を迎えられると期待していたようですが、31日の午後から本格的に降り始め、元旦の朝には車は雪に埋もれていました。
高畑スキー場は31日の午後は滑れましたが、元旦は降雪が激しくなり、見通しが利かず、圧雪もままならず、初心者の私は一度滑っただけで、ギブアップでした。


写真を撮ろうと桧枝岐村まで入りました。村に近づくにつれ、吹雪模様になりました。左右の雪の壁が路面と区別しにくくなり、境界に立てられた紅白に塗られたポールを目印のドライブです。桧枝岐村に近づくにつれ、スノーシェッドが連続しますが、本来は雪崩よけにつくられたものですが、この中に入るとホッとしました。
桧枝岐村は正月だというのに除雪で大忙し・・・お目当ての六地蔵は雪の中に埋もれていました。

湯の花温泉の宿に戻ろうと急ぎましたが、途中、車の脇で大きく手を振る方に出会いました。車を雪の壁にぶつけ、抜け出せなくなっているとのこと・・・さっそくロープを取り出し牽引、無事引き出すことができました。
15年前、福島の母成峠で側溝に脱輪、身動きできなくなっているところを、地元の車に助けられて以来、牽引用のロープを積んでいるのが再び役に立ちました。
それにしても、雪道の運転には注意に注意を重ねるべきだと痛感しました。

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