シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

「きしゃにちゅういせらるべし」・・・西那須野を走った東野鉄道のSL

2008-05-31 10:42:23 | Weblog
 西那須野の黒羽を散策したのが一ヶ月前、一昨日5月29日の朝日新聞の夕刊に東野鉄道(とうやてつどう)」を紹介する記事が載っており、初めて黒羽と西那須野の間を鉄道が走っていとことを知りました。
 白河以北に出かけるときは、あえて東北道を使わずに、長い歴史と美しい景色を見せてくれる国道294号線を利用、烏山、小川、黒羽、白河へと進みますが、今まで10回以上走りましたが、小川から黒羽までの294号線沿いにかつて鉄道が走っていたとは、まったく見聞きしなかっただけに驚きでした。

翌日、早速、インターネットで「東野鉄道(とうやてつどう)」を検索、大正7年(1918)に東北本線西那須野駅から黒羽間が開通、その後小川まで延長、しかし第一次大戦終結後の不景気で黒羽―小川間は昭和14年(1939)に廃線、黒羽―西那須野間は昭和43年(1968)までSLが走っていたと「東野鉄道」のサイトで知ることができました。
鉄道跡の面影が旧沿線跡の随所に残っている様子をカラー写真で紹介、鉄道ファンでない私でも興味を持ってみることができました。
中でも、黒羽の町に今でも残っているという踏切の表示板「きしゃにちゅういせらるべし」には感動しました。今なら漢字で「踏切注意」となるでしょうが、ひらがなで書かれた表示なら誰でも読めるだろうという当時の鉄道関係者の配慮が読み取れます。

その夜、NHK衛星第2「昭和のSL映像館」が放映されていました。NHKが撮影したフィルムの中から、SL映像を拾い出し、三人の座談会形式の解説で構成されていました。その中で、偶然、東野鉄道のSLの映像を見ることができました。SLの後を追うように、消防車両が走るという珍しい映像として紹介されていました。
当時、蒸気機関車の煙火が飛び火して、沿線の家々の茅葺屋根が燃えるという事故がたびたびあったようですので、その消火にでも赴くところだったのでしょうか・・・。

ところで2006年に宮城県登米町(とよままち)へ仕事で出かけることがありました。登米は北上川の水運で栄えた町で、明治の面影残る旧庁舎、旧警察署、旧尋常高等小学校の建物が残っており、宮城県の明治村として知られた町ですが、路線バスのアクセスが悪く、登米町まで行くのに大変苦労しました。しかし、この町にも東北本線瀬峰駅との間に「仙北鉄道」が大正10年(1921)から昭和25年(1950)まで走っていました。
また、続いて出かけた秋田県との県境にある細倉へ車利用で出かけましたが、今思えば、東北本線石越駅から「くりはら田園鉄道」を利用すべきだったと後悔しています。翌年、2007年3月に「くりでん」の名で親しまれていた90年の歴史に幕を閉じてしまったからです。

 冒頭の写真は黒羽城址から那須方向を撮ったものです。ここからSLの煙がたなびくのが見えたでしょうか・・・

ブログ「南那須に奥の細道を訪ねる」もお読みください

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晴れ、雨、雷、そして晴れ・・・奥久慈男体山ハイキング

2008-05-18 11:23:30 | Weblog
 五月晴れのスタートでした。写真は大円地集落の茶畑に沿って、奥に聳える男体山へ向かう私たちのグループです。ハイキングが初めてという仲間二人とともに意気揚々と出発しましたが・・・

水郡線の電車は意外に込んでいました
 5月17日(土曜日)、水戸駅構内で弁当を買い、水戸駅発9時23分の郡山行の電車に
乗り込みました。ローカル線なので、空席はあるだろうと考えていましたが、予想に反して、3両編成の電車は満席、立っている人もかなりいます。乗客の半数以上が、ハイキング姿で、晴天に誘われての奥久慈のハイキングを楽しむのでしょう。そういえば奥久慈方面のハイキングは人気上昇中、私のブログでも、5月に入ってから、男体山を紹介したページにアプローチする方が増えていました。
 男体山へは今回で5度目、電車利用は初めて、そしてハイキングが久しぶりという仲間と連れ立ってのハイキングです。

タクシー確保顛末記です
 男体山は、登山口まで水郡線西金(さいがね)駅か上小川駅から徒歩で行くのが一般的です。しかし、登山口まで往復2時間半の徒歩を強いられます。今回は初心者もいることなので、往復タクシー利用です。
 前日にタクシーを予約しようと袋田のタクシー会社に電話しましたが、過日の問い合わせには丁寧に応答してくれたのに、新緑の袋田の滝や袋田温泉への客が多い土曜日ということもあったのでしょう、数少ない男体山登山のタクシー利用者のための配車はお断りという雰囲気です。
 そこで袋田の一つ先の大子のタクシー会社に電話すると、料金的には時間的にも水戸寄りの山方宿駅からのタクシー利用を勧められ、親切にも山方ハイヤー(℡0295-57-2404)を紹介してくれました。
 
 10時9分、山方宿駅で降りたハイカーは私たちの6人だけ、2台の山方ハイヤーの車が駅前に待機していました。田植えが終わったばかりの田んぼや山々の新緑が晴天に映える久慈川、湯沢川渓谷に沿っての、快適なドライブです。古分屋敷(こぶやしき)集落の男体山の登山道入り口まで20分で到着、午後3時に迎えを頼み、ハイキング出発です。
 前もって迎車を約束してあったのは正解でした。山中からの電波の状況が悪く、携帯が通じにくいので、下山途中でのタクシー会社への連絡が不可能なのです。約束の午後3時を10分ほど過ぎてしましましたが、古分屋敷の駐車場に同じ運転手さんが待機していてくれました。
 帰路、「三太の湯」という立ち寄り湯の標識が見えたので尋ねると、その周辺にもハイキングコースがあり、入浴を終えたハイカーを迎えに行くことがあるとのこと・・・早速、帰宅してから情報を集めることにしました。

料金は迎車料込みで往復1台7,960円でした。


頂上で天候が急変しました
 当日の天気予報では、栃木県、群馬県の山沿いでは午後3時ころから雷雨だとのことでした。茨城県北部の男体山でも午後3時頃からの天候悪化がありうると考えていましたが、早くも頂上到着直前の12時半からポツポツと雨が落ち始め、頂上では雨の中の昼食となりました。裾野の西側大円地、古分屋敷や、東側の持方集落はよく見えますが、北側の袋田方面の空は真っ暗な雲に覆われ始め、雷鳴が始まりました。

 昼食後の休憩なしで、すぐに下山開始・・・やがて雨が激しくなり、稲光が横に走り、落雷も始まりました。頂上直下の断崖沿いの岩だらけの急な下り坂の登山道を早く通り越し、その先のブナ林に逃げ込みたいのですが、初心者がいますので安全第一、滑りやすい岩の坂道を這うようにして降りるので時間がかかります。「三点確保」の声を掛けながらの下山です。
 途中、三人のグループが傘を差し、雷を避けるためでしょう、しゃがみ込んでいます。私たちは雨具を忘れたため、ずぶ濡れになった同行者を囲むようにしてブナ林の中の歩道へ急ぎました。

 ようやく大円地越えの東屋に着く頃から、急速に天候が回復、日差しが戻り、ホッと一息つくことができました。途中で雷を避けていた三人グループも東屋に到着、男体山から月居山(つきおりさん)、袋田の滝への縦走を計画したが、断念したとのことです。三人とも完璧な雨対策のスタイル、それに対して下着までずぶ濡れの哀れな我がグループ・・・いろいろと反省いたしました。
◎ 初心者とのハイキングでは、予備の雨具や軍手を用意する。
◎ 雨が簡単にしみ込まない素材のズボンを履く
◎ 天気予報で雷雨の恐れがある場合には、午前中に頂上を下り始める。


 大円地集落の茶畑を登り始めたのが午前11時、到着したのは午後3時、4時間かかりました。皮肉にも、青空の中をくっきりと聳え立つ男体山に見送られて大円地を後にしました。

 私のブログ黄門様も登った奥久慈・男体山へハイキングもお読みください。

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鉄道と路線バスの旅・50年前の北海道旅行

2008-05-11 10:55:21 | Weblog
先週、学生時代の友人の快気祝いを東京・御茶ノ水で開きました。同じ病気で、同じ病院で、執刀医も同じ、私が5年前、友人は2ヶ月前の手術という縁で、二人のささやかな宴となりました。

話題はいつしか50年前、昭和34年に出かけた北海道旅行となり盛り上がりました。もう一人の友人三人で、2週間、テント・寝袋を担いでの旅行でした。かかった費用は1万5千円、バイトで貯めた金でした。
当時の大学卒業者の初任給がそのくらいでしたから、今の物価の換算で、およそ10倍、15万円ぐらいになるでしょうか・・・学生の身分にしては豪華な旅でした。テントを使ったのはほんの3日、往復の夜行列車での2日、後は友人の父君が勤めていた国鉄の宿舎や、旅館に泊まりましたので、この金額となりました。
 今でも記憶に残る列車と路線バスを乗り継いでの旅の断面を記してみます。

 網走駅から列車を乗り継いで、帯広駅に出て、士幌線上士幌駅へ・・・そこから山道をテントで泊まりながら、当時秘境としてようやく知られるようになっていた然別湖へ向かう予定でした。
ところが、上士幌の町の人に道を尋ねると、半ば呆れ顔で「熊に食われるが関の山」だと諭され、計画を断念、糠平湖畔の真新しい温泉旅館に泊まりました。糠平湖も完成したばかりの人造湖で、満水までには至らず、赤茶けた湖畔がむき出しでした。

ここの旅館では失敗があります。天汁を澄し汁と思い、ずいぶん量が少ないと思いながら、飲んでしまったことです。当時、天ぷらは醤油でしか食べたことがありませんでしたから、浸して食べる天汁があるのだということなどまったく知らなかったのです。

 私たちが行き帰りに乗った士幌線はとうの昔に廃線となりましたが、当時のコンクリートアーチ橋梁が今では北海道遺産となり、観光客が訪れています。

 上士幌駅から再び、帯広駅へ・・・そこから広尾線広尾駅に向かいました。車中の記憶はまったくないのですが、愛国駅・幸福駅が途中にあり、一時期、大変有名になりましたので、そこを学生時代に列車で通過したのだとようやく思い出したくらいです。

その広尾線も廃線、線路、橋脚は撤去されたものの、駅舎は保存状態がよく、鉄道ファンが訪れているようです。(詳しくは廃線研究所のページを・・・)。

 広尾駅からは路線バス襟裳岬へ・・・見学後、再び路線バス日高本線様似駅へ向かいました。バスの中で、地元の人から、将来は広尾駅から様似駅まで鉄道が繋がるという話を耳にしましたが、その広尾線も廃線、日高本線も一時間に一本列車が走るかどうかという、車窓から見る海岸沿いに干されている昆布の光景がハイライトというローカル線と現在ではなってしまっています。

その代わりとして、広尾町豊似から浦河までが、236号線日高山脈を突き抜ける野塚トンネルの開通で結ばれましたから、地元の方の夢も実現したことになるでしょうか・・・。冒頭の写真は昨年の夏、訪れた襟裳岬です。



(判官館の岬から見た新冠町へ走る日高本線)



(判官館の断崖下を太平洋の波打ち際を走る)

日高本線は様似・鵡川間の廃止が決まりました

苫小牧駅から室蘭本線に乗り換えました。途中の長万部(おしゃまんべ)駅で忘れられない思い出があります。男性の売り子が首からかごをぶる下げ、停車した列車の車窓に向かって「毛がに!毛がに!」と連呼しているのです。たしか一匹50円でした。今の値段で500円になります。ゆで蟹を買うと、新聞紙が手渡され、膝の上に広げて、蟹を捌いて、食べました。この話を北海道出身の同僚に話したところ、「それは歴史的な体験だった」と羨ましがられました。

今でも長万部駅は蟹の駅弁では知られていますが駅弁かにめし本舗のホームページ
をのぞいて見ましたが、50年前に毛がにを新聞紙付で売っていたという記事はありませんでした。
 
青函連絡船青森駅に渡りましたが、洞爺丸の海難事故から5年しかたっていませんでしたから、救命胴衣を真剣に探した記憶があります。
 青森駅からは奥羽本線回りの夜行列車上野駅へ一気に向かいました。車窓から見た八郎潟は干拓が始まったばかり、月明かりの中、満々と水を湛えた美しい姿を見せていました。

 50年前の記憶というものは、受け取り手によってずいぶん異なるものだと痛感しました。一方が鮮明に覚えている光景・出来事も他方の記憶にまったく残っていないなどちぐはぐの連続でしたが、それでも話が途切れることなく続いたのは50年前、青春時代の2週間を、ともに過ごした濃密な時間・空間があったからでしょう。
今ではまったく顧みられることがなくなった、普通列車と路線バスを乗り継いだスローな旅の楽しさを久しぶりに思い出して、私のブログ東京から行く石見銀山の旅を紹介、他の旧友にも声を掛け、50年ぶりの列車とバスの旅で世界遺産石見銀山を目指すことを約束して、宴を終わりました。

北海道旅行に関する私の他のブログもお読みください。
富良野、日高原生林、そしてサラブレッド銀座へ
旭山動物園、大雪山国立公園を往く
札幌と留萌を結ぶオロロンラインを往く
フェリーで行くロマンチックな旅を
LCCで行く初夏の北海道







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