新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

東京都知事選挙に思う

2016-07-21 07:34:59 | コラム
本当に選挙運動期間なのか:

昨20日は昼前には新宿駅西口周辺から新大久保駅まで、午後は再び新大久保駅前から大久保通りを通って平河町から霞ヶ関を走るバス路線で都内を動き回ったが、何処に行ってもどの候補者の選挙カーにもご本人にも出会う機会はなかった。静かなもので何時も通りの都内の景色だった。ポスターの掲示板だって全候補者が貼り出しているとは見えなかった。本当に選挙運動をしているのかと思った。

偏見かも知れないが、私はテレビ局のニュースでは先ず鳥越候補の動静から入っていく気がしてならないのだ。何分にもTBSだった杉尾氏は民進党から参議院に立って当選したし、テレ朝だった三反園氏は鹿児島県知事だったかに当選したかと思えば、早速原発停止を言い出した。そういう連中の巣窟がテレビ局s(複数の”s”だ)だから油断がならないとつい考えてしまう。産経は途中計時で小池候補が有利とは言うが、投票日は31日だから単なる途中経過に過ぎない。

私は増田候補が、ニュージーランドのラグビー他のスポーツ用品のブランドである”Canterbury of New Zealand”の横縞の空色と紺のポロシャツを着ていたセンスを笑いたくなったほど不似合で、人気を失うのではないかと心配して上げたほど。せめてUNIQLOであるべきだったかも知れない?!それならば素人目には如何なるブランドかは解らないだろうから。

こうして大雑把に考えていくと、何か云々するのは時期尚早だろうが、マスコミが集中的に採り上げるお三方の中では、私には消去法で小池氏が選択肢となってくる気がする。鳥越候補は”the worst”としか見えない気がするし、増田候補が”only second worst”、小池候補は”good”とまでは行かないまでも”not bad”辺りにはなるが”not too bad”までもう一息か。未だ投票日まで10日はある。各候補の奮闘振りを見守っていこう。期待するも何も、自分たちが住む東京の知事を決める選挙だから。

何故か1974年を回顧すれば

2016-07-20 15:25:55 | コラム
多忙な年だった:

昨日、歯科医の待合室で見ていた週刊新潮の書評欄に「貴方は1974年は何をしていましたか」という一文を見つけた。何と言うことはないのだが、「そう言われては」と思って振り返ってみると、誠に忙しい一年だったことに気付いた。

母親が亡くなった:
時間を追って思い起こせば、4月10日だった。当日私は当時住んでいた藤沢から何時もの通り出勤していった。すると家内から会社にずっと子宮癌に悩んでいた母親が突然激しい痛みに襲われて救急車で市民病院に入院した。だが状態は安定しているので、帰りにでも寄ってみれば良い」と連絡があった。何にも考えずに午後19時前に病院に行くと「何ともないし、見舞いの時間が終わるから直ぐ帰れ」と追い返された。如何にも明治38年生まれの気丈な母らしい応対だったので、安心していた。

すると、11日の明け方の何時だったか、病院から容態が急変したので直ぐに来るようにと連絡があった。藤沢ではこの時間にはタクシー会社は営業していなかったので、弟とともに自転車で小田急の駅にして3駅分の距離を走って行くことにした。何とか間に合わせようと必死だった。病院の前に自転車を放り出して駆け上がった。辛うじて「僕だよ。解る」と言えて手を握っただけで、間に合ったような間に合わない事態になった。本当に悔いが残る出来事だった。

それから先は大変だった。馴れぬ(当然だが)お通夜から葬儀とその後の事務的な処理等でで嵐のような忙しさだった。会社に出て行かねばならないことなどほとんど脳裏から消え去っていた。しかもその年の4月下旬にはフロリダで所謂”Division meeting”が開催されるので、その準備もあって猛烈に忙しいのだったにもかかわらずだ。念のため申し添えておけば、その頃の私は最初に転身したアメリカの紙パルプ業界の大手Mead Corp.のパルプ部の日本市場担当のマネージャーだったのだ。

Division meeting:
これは言わば「部会」だが、単なる部会ではなくMead社パルプ部の全世界の市場に駐在するマネージャーと、主要な市場を担当する販売代理店が一堂に会して過ぎた年を回顧し、将来の計画を会社の首脳部に向かってプリゼンテーションも行う重要な会議なのである。そうとは承知していたが、何とか葬式等の事後処理を終えて出国に漕ぎ着けた。実際の会場であるフロリダのPonte Vedra Clubに到着してみて驚かされた。このクラブはどれほどの敷地面積があるのかも解らないほど広く、大西洋の美しい砂浜に散りばめられた所謂コテージ風の豪華な宿泊施設、複数の会議場、食堂、娯楽室、チャンピオンコースのゴルフ場、複数のテニスコート、馬場等々の設備が整った施設だった。

このクラブに滞在中はあらゆる施設を事業部の経費で処理出来るシステムになっており、極端なことを言えば手ぶらで来ても、事業部の経費でゴルフクラブや靴を買ってか借りてゴルフをしても良いのだと聞かされて、アメリカの大手メーカーとは本当に凄いものだと感心するだけだった。そこで、月曜から金曜まで午前中は朝8時から12時までビッシリと会議。昼食を終えた後は一切自由時間で何でも好みのリクリエーションを部費で楽しんで英気を養って良いとなっていた。勿論、夕食も同様で、毎晩違った趣向で楽しんでいられた。

その間に世界各国の代表たちと意見交換も出来るし語り合うことも可能だし、リクリエーションを楽しむという、未だアメリカに不慣れな田舎者だった私には夢のような1週間はあっという間に過ぎ去った。実は、私はこの頃には既に15年ほど経験したゴルフはやっていなかったが、上司や本社の副社長にも強制されて2ラウンドほど話のタネにクラブのクラブを借りて回ってみた。

アメリカで人生最後のゴルフ:
元はと言えばサッカーで鍛えた足腰でドライバーの距離が出る方だったので、広くて長いフェアーウエイでOBに心配もなく気楽にゴルフを楽しんだ。ビックリしたのは空気が軽いというか湿度か低いアメリカ南部のフロリダでは、我が国では考えられないほど距離が出たのだった。何しろ、残り150ヤードと知って#5のアイアンで打つと軽く170ヤードは飛んでしまい、グリーンを大きくオーヴァーしてしまったのだから。それでも、かの有名な池の中にグリーンが浮かんでいるショートホールではボールの手持ちがなくなるほど打ち込んでしまい、待ち構えていた少年どもが池に飛び込んではボールを拾ってきて高く売りつけられたのも、今となっては思い出かも知れない。この後はこの思い出を抱いてゴルフを綺麗さっぱりと止めてしまった。

帰路は会社の飛行機が出迎えてくれて、本社があるオハイオ州デイトンまで一飛びという具合だった。パルプの製造販売という事業でどれほど利益が上がるのか知らなかったが、後にW社に転身しても同じような部会に参加して知り得たのだが、これらに要する経費は各年度毎の予算に計上されているだけのことだった。とは言え、我が国の会社では考えられないだろうと思わずにはいられなかったビジネス社会における文化の違いだと思うのだ。

再度の転身?:
実は、この会議を終えて帰国した1974年の後半にはオイルショックもあって仕事は順調だった。だが、人生などは先を見通せないもので、思いもかけなかった社内の機構変更があって、一生涯勤めるつもりで敢行した転身だったにも拘わらず、身の振り方を考えねばならぬ事態に直面したのだった。そこには二度と会社を辞めるようなことはしないと固く決意していたにも拘わらず、W社に転身する切っ掛けが訪れるのだ。その辺りは長くなるのでまたに機会に譲ろうと思う。何れにせよ色々な出来事に襲われた大変な年だったのは間違いなかった。


7月19日 その2 多忙だった7月19日

2016-07-19 17:03:42 | コラム
高温・多湿をものともせず:

朝は新大久保駅前を08:07のバスで国立国際医療研究センター病院(NCGM)に向かう。バスの車内は空調が効いていて快調。08:20には再来の手続きを終えて3階の泌尿器科の外来に。そこで残尿量の検査を受けて呼び出しを待つ。このところ幸運が続き今朝も予約時刻前に呼び出された。診断の結果は薬効があって前立腺肥大症も落ち着いてきたので、もうこれ以上来ることはなく、そもそも紹介状を出して頂いた開業医のクリニックに戻ってそこで薬を出して貰うだけで十分とのことだった。誠に結構で、処方箋を貰ってNCGMを後にする。クリニック向けにはあらためて紹介状を出すので来週取りに来るようにと言われた。

そこで会計を終えてバス停に戻れば5分待ちだったのは幸運だった。予定では終わり次第ジムに回ることにしていたので、明治通りで乗り換えのバスを待てばここでも有り難いことに高田馬場駅行きが直ぐに来たではないか。そこで、ジムには09:35に到着して、着替えを終えてストレッチに取りかかったのが09:50だった。それからゆっくりとストレッチ、ウオーキング、エアロバイク、マッサージチェアの順で消化して、シャワーを浴びて着替えを終えても未だ12時前だった。

外に出てからポカリスエットの500 mlの瓶を買って水分を補給してから、リトルマーメードのパンを買って帰宅。と言いたいところだが、その前に調剤薬局に立ち寄って処方箋を置いてきた。この店のパンは気に入っているが、特に「ガーリックバターフランス」が好みだ。そこに買い物から帰ってきた家内とともに実質的にパン2個の昼食。飲み物はポカリスエットだ。

その後、食休みと短い時間の昼寝をした後に我が家から徒歩3分の調剤薬局に薬を受け取りに行く。だが、午後3時過ぎの外は日当たりがまぶしくサングラスを置いてきたのが悔やまれるほど。それからは我がアパートの地下にある歯医者さんに。治療は簡単なもので、終わって帰宅すればほぼ16時。多忙だった一日の予定を無事消化した。残された課題はブログの毎日更新。モーツアルトのCDで気を落ち着かせて2本仕上げて時計を見れば丁度17時だった。

街を歩けば

2016-07-19 16:30:17 | コラム
気に入らない風俗が見える:

妙な髪型が流行りだして久しいものがある。これは何も街を歩かないでもテレビを見ていれば幾らでも目に入ってくる。それは主に若者だが(青年男子という言い方もあるか?)頭の両脇を刈り上げて、てっぺんだけに長髪を残した言わば頭の上に「片側分け」とでも形容したような形の髪型(カタカナ語ならばヘヤースタイルか)である。私にはこの格好が特に芸人とスポーツ選手に多いように見える。昭和一桁生まれとしては誠に珍妙な刈り方で、みっともないとしか思えないのだが流行っている。ここまでの説明で如何なる形かお解り頂ければ幸いだが、未だ一寸自信がない。ここに写真を載せられないのが残念だ。

これは我が国においてだけの流行かと思っていたが、テレビの画面などに見る欧米人の芸人やスポーツ選手にも多く見かけるのだ。と言うことは、我が国のオリジナルではなく輸入品だったのかと思って些か幻滅だった。欧米人(=白人)が採り上げていたからといって直ぐに真似るのは早計で、彼らの顔の構造と我が国のそれとでは大きな違いがあるし、そういう髪型をする連中は決して何でもかんでも真似たいような輩ではないのだ。ズバリと言えば低層に属する連中だろう。それでも、彫り物をするのよりは未だましかと思って見逃してやっているが、決して好ましい流行ではないと決めつけたい。

次にこき下ろしたいのが、20年以上も前から体育会の学生たちの間などで流行始めていたワイシャツやスポーツシャツの類いの裾をズボンの外に出して着る風俗だ。これはアメリカ乃至は欧州が元であったかどうかには調査が行き届いていない。これを学生たちがやっていた時はそれなりに様になっていたが、時移り人変わり今や良い歳をした小父さんたちまでも嬉々としてシャツの裾外出しファッションで街を闊歩する時代になってしまった。私の感覚からすれば、あの場合のシャツの裾はそもそもの半楕円形のカットではなく、直線にカットされている方が自然だと思うのだが、現在の風俗はカットの形状とは無関係に外に出されているようだ。

アロハシャツやかりゆしならいざ知らず、外に出すのならば所謂ワイシャツの裾の円くなった形は辞めた方が良いと思うのだが、皆の衆如何でしょうか。実は、これをくさすのには個人的理由があるのだ。と言うのは、当方の身長ではシャツの裾を外に出すと、ズボンの半分くらいが隠れてしまうかと危惧して、どうしても外に出す勇気が出てこないのである。即ち、これは半ば長身者に嫉妬で貶しているのではないかと言われても、反論出来ない弱みがあるのが残念なのだ。

最後は近頃の若者の一部に多く見かけるツンツルテン(こんな言葉は死語かと一瞬ひるんだが)の上衣(カタカナ語と正規の英語ではジャケット)に、パチンパチンの股引のようなズボンのスーツを着て、しかもそれが所謂ダークスーツでありながら、飴色でつま先が魔法使いの靴のように尖った靴を履いているファッションが目立つ。これは後期高齢者の目には珍妙としか映らない。由緒正しきビジネスマンの服装学的見地からすればネイビーブルー乃至はチャコールグレーのスーツの際の靴の色は「黒」と決まっているし、ジョン・モロイ様の名著「出世する服装」(原題”A New Dress for Success”)にも明記されている。思うに、何処かの跳ねっ返りのデザイナーかコーデイネーターかが「綺麗に入ります」とでも言って薦めて流行らせたのだろう。

ここまでは未だ序の口で、スーツにストライプが入っている場合には、シャツにもネクタイにもストライプのものは合わせてはならないのがモロイ様も指摘された古典的な大原則だが、今やこれは完全に忘れ去られて、ビジネスマン、国会議員、芸人、アナウンサー等テレビに登場するタレント等々はストライプのスーツにシャツで飽き足らず、ネクタイまでストライプと来る。世も末だなどと、1993年末までのビジネスマンであり、方々で「ビジネスマンの服装学」を語ってきた身としては腹が立つを通り越して情けなくて言葉もないのである。ストライプの三重奏をおかしいと思わない感受性がおかしいのか、こちらの考えが古物化したのか、考え込まざるを得ない今日この頃だ。


7月18日 その2 平和を愛する諸国民の公正と信義に

2016-07-18 13:18:42 | コラム
隣国は平和を愛し公正で信義があるのだろうか:

上野の国立西洋美術館が世界遺産に登録されたのは誠に結構なことで、この方面に無知な私もお喜び申し上げたい平和なことである。本当に良かったではないか。

だが、世界の情勢を見れば、一向に平和を愛する気配を感じさせない諸国が方々で騒動を起こしているではないか。事態は決して諸国の公正にも信義に信頼していられるようなものではないのではないのか。特にかのお隣の大国は「日本は当事者ではないのから余計な介入はするな」と曰う始末である。九段線がダメだったとなれば、彼らに残る選択肢は東シナ海となったかの如くで、既に我が国のEEZ内に海警局だったかの船をこれまでよりも一層頻繁に航行させているではないか。

かの隣国にとっては国際法などはあってなきが如しであり、これまでも言いたい放題やりたい放題だった。そこで、この隣国がこれまでの方針を変えることなど考えられず、これからも従来通りの横暴な振る舞いを一層激しい調子で繰り返すだろうことは容易に想定出来る。既に軍の首脳部の一人は公式に「武力行使をも厭わない」ような発言をしていた。矢張り平和を愛してはおられなかったのだ。そんな時期になっても安保法制廃棄を言う政党があるのが、我が国の言論の自由の落ち着く先である。のんきなものだ。

目を欧州の方角に転ずれば、フランスでは繰り返しイスラム教徒が関与したテロ行為が発生している。UKは国民投票でEU離脱を決定して全世界の経済と治安に不安な状態を出現させてくれた。UKにはイスラム教は直接的な悪影響は見いだせないが、移民問題の深刻さがあらためて脚光を浴びた。少し西寄りになるが、バングラデシュでは我が同胞から7人の犠牲者が出てしまった。この悲しい出来事については「ISは日本国民をも標的にする」と言っていたではないかと解説する有識者がいた。イスラム教徒と言うべきかISと決めつけるべきかは定かではないが、世界中何処に行っても平和を一向に愛していない教徒がいる様子だ。

言いたかったことは「何時何時、宗教が絡もうと絡むまいと、我が国でもか、我が国に対してもか、テロ行為乃至はそれに準じるような武力または暴力がらみの事件が起きないという保証などなくなってしまった」なのだ。参議院選挙は終わってしまったが、自衛隊の存在を否定したり、戦争法案廃棄などと世迷い言を言っていられる政党の存在は許されるべきではないし、諸国の公正は信義などは雲散霧消したと認識した方が安全かも知れない事態が直ぐそこまで来てしまったと、私は密かに危惧しているのだ。そして、この個人的危惧が杞憂に終わってくれれば良いがと念ずるのだが、隣国は着々と牙を剥きだしてくる気がしてならない今日この頃だ。

言い方は悪いと承知だが、美術館が世界遺産に登録されても平和を守っては頂ける強力な援軍にはならないと恐れるのだ。