アメリカの何に憧れたのだろう:
昭和20年4月に中学に進んで8月に戦争が終わり、進駐軍にアメリカの物質文明というか豊かで豊富な食べ物や衣料品を見せつけられた私は、矢張り例外たり得ず高校の頃には「アメリカに留学したい」と憧れ熱望する一人だったと思う。だが、今にして思えば「アメリカに行って何を学びたいのか」のような具体的な考え方はなかった。その頃には高校の英語の先生が何人か「フルブライト資金」だったかで1年行ってこられたのを見ても「僕も行きたいなー」となったのも当然かも知れない。
後年知ったことだが、私は高校では「英語しか出来ないサッカー部の生え抜き」として知られていたが、私が高校1年の頃に既にアメリカ人の中に入っても言葉で苦労はしないという「会話能力」があることはほとんど知られていなかったし、自分でもそういうことは先ず言い出さなかったように記憶する。その英語が話せるようになっていたのは、GHQの秘書の方に後にアメリカ人たちにも褒められたような教え方をして頂いた賜物だった。
折角身につけた英語力だったが、就職活動をする頃には「英語を使って仕事をする会社は希望しない」と考えるようになっていた。その根拠は、ほぼ4年間続けたアルバイトと、その中で別途経験した通訳の仕事から、「日常の職務に英語を使わねばならないことは余分な負担となるし、現在の(その当時の)アメリカ人の我々に対する扱いを経験した結果で、外資は雇って頂きない先だと決めていたからだ。
そして17年間英語とは全く無縁の製紙会社の国内向けの営業担当者として働いている間では「アメリカに行きたい」とも「行こうとも」とも「行ける機会が巡ってくる」などと考えたこともなかった。「もう、英語は趣味にでもしておけば良いか」くらいに考えていた。そこに1969年に全く予想もできなかった偶然の積み重ねで社内で「英語が出来る」と常務に披露してしまうことがあって、運命が大きく早く回転し始めてしまった。
結果的にはお世話になり育って頂いた会社を辞めて1972年にアメリカの会社に転出してしまうことになって知ったのだから、運命など予測しがたいもので「行きたいとも行けるとも行こう」とも思っていなかったアメリカに行くようになったのだった。初めて渡ったカリフォルニア州からジョージア州、ニューヨーク市と目まぐるしく旅している間にその物質文明の素晴らしさには確かに感動したものだった。
最初の転進先であるM社に入社直後の25日間の「トレーニング」という出張が終わる頃には、「アメリカに永住しても良いかな」と思ったほど人々も親切で明るかった。「矢張り憧れていただけの価値があったな」という辺りが偽らざる感覚だった。即ち、未だ未だ「企業社会における仕事の手順、仕来りという文化の違い」も弁えることが出来ておらず、生活習慣の違いなどには触れる機会などなかった。
だが、大きな家と芝生の綺麗な庭、ガレージに付けられているバスケットボールのリング、発達して広く行き渡っている家庭電器、自動車を下駄というかスリッパのように単なる移動手段として乱暴に扱っている感覚の違いがあるなど、驚かされたことが多々あった。
そして1975年に縁あってW社に転出することになって、そこで数少ない日本人の社員X君に出会う機会もあった。彼はICUを経てUCLAのビジネススクールでMBAを取得した精鋭で、W社が世界的にも誇る“M&ER”(直訳すれば経済・市場調査部)のエコノミストだった。余談になるが首席エコノミスト、リン・マイケリスなどは我が国が講演を依頼して招聘したほど著名だった。
だが、X君はW社が人員を増やして売り上げを伸ばした後で、リストラで人員削減を繰り返して成長していった中で、リストラに対象になってW社ジャパンの営業職に変わってきたのだ。彼が言うには「我々の能力や才能は決して彼らに劣っていないと思う。だが、UCLAのビジネススクールで優等生を取れなかったのは教育の方式の違いだった。我が国では学校で教えられたことの範囲内で十分に予習・復習を繰り返していくと良い成績が取れるが、ここにアメリカとの違いがある」と教えてくれた。
彼は「その違いはアメリかではただ単に教えられたことだけやっていたのでは埒があかないのだ。自分から積極的に先生や教授に言われていない範囲のことまで身につけておくことが評価の対象になるのだ。特にビジネススクールともなれば研究の領域を自分でどんどん拡張していく姿勢が身に付いていないとアッという間に評価が落ちてしまうのだ。自分が小学校からそういう教育で育った来ていれば、彼らアメリカ人に負けなかったと思うが、ビジネススクールまで来ては手遅れだったのが残念だった」と述懐した。言わば「文化の違い」に大きく左右されたのだった。
X君の話はここで終わっていない。彼がリストラの対象としてM&ERで2名候補が指名された時に、彼の競合相手がアメリカ人だったそうだ。彼曰く「能力だけならば負けていなかったが、英語力では遺憾ながらnative speakerよりは劣るので、自分が切られると覚悟した」と言っていて、実際のその通りとなってしまった。私はこれまでに色々と「企業社会における文化比較論」を述べてきたが、アメリカの教育の仕方にはかかる違いがあったことに触れるのは最初かと思う。
ここで活きてくるのは上述の「何を何処で学ぶか」を考えずに「教育のシステムと言うか評価の仕方の違い」を知らずにアメリカに留学しても容易に成果が挙がらないかも知れないのである。YM氏は「遺憾ながら我が国からの留学者の英語力では・・・」と繰り返して指摘していた。換言すれば「単なる憧れだけでアメリカに渡るのは考えものでは」となるかと思う。
昭和20年4月に中学に進んで8月に戦争が終わり、進駐軍にアメリカの物質文明というか豊かで豊富な食べ物や衣料品を見せつけられた私は、矢張り例外たり得ず高校の頃には「アメリカに留学したい」と憧れ熱望する一人だったと思う。だが、今にして思えば「アメリカに行って何を学びたいのか」のような具体的な考え方はなかった。その頃には高校の英語の先生が何人か「フルブライト資金」だったかで1年行ってこられたのを見ても「僕も行きたいなー」となったのも当然かも知れない。
後年知ったことだが、私は高校では「英語しか出来ないサッカー部の生え抜き」として知られていたが、私が高校1年の頃に既にアメリカ人の中に入っても言葉で苦労はしないという「会話能力」があることはほとんど知られていなかったし、自分でもそういうことは先ず言い出さなかったように記憶する。その英語が話せるようになっていたのは、GHQの秘書の方に後にアメリカ人たちにも褒められたような教え方をして頂いた賜物だった。
折角身につけた英語力だったが、就職活動をする頃には「英語を使って仕事をする会社は希望しない」と考えるようになっていた。その根拠は、ほぼ4年間続けたアルバイトと、その中で別途経験した通訳の仕事から、「日常の職務に英語を使わねばならないことは余分な負担となるし、現在の(その当時の)アメリカ人の我々に対する扱いを経験した結果で、外資は雇って頂きない先だと決めていたからだ。
そして17年間英語とは全く無縁の製紙会社の国内向けの営業担当者として働いている間では「アメリカに行きたい」とも「行こうとも」とも「行ける機会が巡ってくる」などと考えたこともなかった。「もう、英語は趣味にでもしておけば良いか」くらいに考えていた。そこに1969年に全く予想もできなかった偶然の積み重ねで社内で「英語が出来る」と常務に披露してしまうことがあって、運命が大きく早く回転し始めてしまった。
結果的にはお世話になり育って頂いた会社を辞めて1972年にアメリカの会社に転出してしまうことになって知ったのだから、運命など予測しがたいもので「行きたいとも行けるとも行こう」とも思っていなかったアメリカに行くようになったのだった。初めて渡ったカリフォルニア州からジョージア州、ニューヨーク市と目まぐるしく旅している間にその物質文明の素晴らしさには確かに感動したものだった。
最初の転進先であるM社に入社直後の25日間の「トレーニング」という出張が終わる頃には、「アメリカに永住しても良いかな」と思ったほど人々も親切で明るかった。「矢張り憧れていただけの価値があったな」という辺りが偽らざる感覚だった。即ち、未だ未だ「企業社会における仕事の手順、仕来りという文化の違い」も弁えることが出来ておらず、生活習慣の違いなどには触れる機会などなかった。
だが、大きな家と芝生の綺麗な庭、ガレージに付けられているバスケットボールのリング、発達して広く行き渡っている家庭電器、自動車を下駄というかスリッパのように単なる移動手段として乱暴に扱っている感覚の違いがあるなど、驚かされたことが多々あった。
そして1975年に縁あってW社に転出することになって、そこで数少ない日本人の社員X君に出会う機会もあった。彼はICUを経てUCLAのビジネススクールでMBAを取得した精鋭で、W社が世界的にも誇る“M&ER”(直訳すれば経済・市場調査部)のエコノミストだった。余談になるが首席エコノミスト、リン・マイケリスなどは我が国が講演を依頼して招聘したほど著名だった。
だが、X君はW社が人員を増やして売り上げを伸ばした後で、リストラで人員削減を繰り返して成長していった中で、リストラに対象になってW社ジャパンの営業職に変わってきたのだ。彼が言うには「我々の能力や才能は決して彼らに劣っていないと思う。だが、UCLAのビジネススクールで優等生を取れなかったのは教育の方式の違いだった。我が国では学校で教えられたことの範囲内で十分に予習・復習を繰り返していくと良い成績が取れるが、ここにアメリカとの違いがある」と教えてくれた。
彼は「その違いはアメリかではただ単に教えられたことだけやっていたのでは埒があかないのだ。自分から積極的に先生や教授に言われていない範囲のことまで身につけておくことが評価の対象になるのだ。特にビジネススクールともなれば研究の領域を自分でどんどん拡張していく姿勢が身に付いていないとアッという間に評価が落ちてしまうのだ。自分が小学校からそういう教育で育った来ていれば、彼らアメリカ人に負けなかったと思うが、ビジネススクールまで来ては手遅れだったのが残念だった」と述懐した。言わば「文化の違い」に大きく左右されたのだった。
X君の話はここで終わっていない。彼がリストラの対象としてM&ERで2名候補が指名された時に、彼の競合相手がアメリカ人だったそうだ。彼曰く「能力だけならば負けていなかったが、英語力では遺憾ながらnative speakerよりは劣るので、自分が切られると覚悟した」と言っていて、実際のその通りとなってしまった。私はこれまでに色々と「企業社会における文化比較論」を述べてきたが、アメリカの教育の仕方にはかかる違いがあったことに触れるのは最初かと思う。
ここで活きてくるのは上述の「何を何処で学ぶか」を考えずに「教育のシステムと言うか評価の仕方の違い」を知らずにアメリカに留学しても容易に成果が挙がらないかも知れないのである。YM氏は「遺憾ながら我が国からの留学者の英語力では・・・」と繰り返して指摘していた。換言すれば「単なる憧れだけでアメリカに渡るのは考えものでは」となるかと思う。
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