新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月30日 その2 日本語の表音文字化を憂うるの弁

2018-11-30 15:56:30 | コラム
和製英語(=造語)とカタカナ語の恐ろしさ:

いきなり結論めいたことから入ろう。それは「英語の単語をバラバラに覚えただけの偏った知識で珍妙なカタカナ語を創り出し、濫用するのを辞めよ」とマスメディアに言ってやりたいのだ。本稿はその辺りを16年の11月28日に採り上げたものに加筆・訂正して、更にカタカナ語が何故良くないかという点を指摘して、諸賢に訴えていこうとするものだ。少し長いのだが、何卒宜しくお付き合いのほどを。
そう主張する理由は簡単明瞭で、私は1990年からのカタカナ語を排斥論者であり、無秩序に英語とは無関係のカタカナ語を乱造し濫用することが日本語を破壊する危険性が極めて高いと批判してきたからである。特にテレビ局は酷く着々とその望ましくない方向に進んでいる。それ故に、最早20年以上もの間にあらゆる機会を捉えて一見というか一聴英語の如くに聞こえる造語も含めて、後から後から現れてくるカタカナ語の新語とその使用というか濫用を戒めて「使うな」、「辞めるべきだ」と主張してきた。

その目的の為に2008年6月には元興銀常務の上田正臣氏主宰の21世紀パラダイム研究会では約100語を集めたプリゼンテーションを行う機会を与えて頂けた。更に、渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」にはその発表を何回かに分けて投稿したし、現在のGooのブログにも何年か前に矢張り分割で掲載してきた。この作業は新カタカナ語が続々と現れる以上、今後とも継続していかねばならないとかんがえている。

排斥論者の弁:
私は造語を含めてカタカナ語が余りにも数多く日常的に日本語に登場するのが理解出来なかった。だが、仔細に観察してみると日本語には漢字・平仮名・片仮名・ローマ字とともに和製英語やカタカナ語が使われていて表現の方法が融通無碍であるという素晴らしさがあることをあらためて見出した。それだけに止まらず、英語を主とした外国語を基にして新たな言葉を創造してきた先人と現代人の優れた英語の単語のみの知識と、それらを如何にしてカタカナ語化するかという我が国独特の展開能力には敬意を表したくなった。

このようにして創造されてしまった言葉を「外来語」か「和製英語」と称しているようだが、その多くは既に日本語の中に溶け込んでしまっているので、今更「造語か外来語であると認識せよ」と迫るの無駄な努力かも知れない思っている。「頂門の一針」誌上でもまた別の機会にもこの問題を論じる機会を与えられた時にでも、一部の方々からかなり厳しい反論および反対に出会ったものだった。即ち、「今更それを否定することはない。これらは日本語の内であるから、このまま使い続けよう」と主張する方が多かったのだ。

だが、しかし、私の論旨は「これらのカタカナ語を使うのは各人の好みと自由で勝手であり、日常会話の中で使っても一向に構わないと思う。但し、「そのカタカナ語の正体というか実態は英語とは全く無関係で純粋な日本製の言葉である」という認識だけは持っていて欲しいのだ。更に「このカタカナ語の99%が英語の本来の意味か使い方とは違っているのだという点をお忘れないよう」と補足しておかねばなるまい。

換言すれば、カタカナ語を本来の英語(English)と比較して見れば、全く別な事を意味する例がほとんどである知って貰いのである。外国人を相手にして「会話」などをする時に迂闊にもカタカナ語を交ぜて氏使ってしまえば意味が通じなくなる(コミュニケーションが取れなくなる?)危険性は極めて高いのだ。カタカナ語依存症の方々にはこういうことを十分に弁えていて欲しいのだ。

言葉が耳から入る時の影響力:
私がこのような主張をする理由は「言葉は耳から入った場合の影響が強く、テレビなどに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に認知されるかあるいは尊敬されている人たちが無意識に使うかあるいは誤用すると、一般人は『このような有識者が使うのだから、歴とした英語だろう』などと素直に誤解して受け止めて『何時かは自分でも使おう』と思い込んでしまう結果になる点を好ましくない」ところにある。

言葉の誤用:
更にこの機会に、「何も知らずに使っているアナウンサーやスポーツ番組の解説者や、無知で無学な(失礼)テレビ・タレント(これも造語だが)たちの悪影響が最早無視できない段階に至っていることも言っておきたい」のである。それらの卑近な例をいくつか挙げてみれば、サッカーなどで「降雨の後などでピッチが滑りやすくなってしまった状態」を「スリッピー」と言っているのは「スリッパリー→“slippery”」の誤りである。これは松木安太郎が使い始めたと認識している。

他にも困った間違いだと嘆いている例に「キャプテンシー」がある。彼らは「主将としての統率の才能」のつもりで使っているが、本当は“captainship”なのである。因みに、“presidency”と言えば「大統領の地位」を意味するのだ。多くのアナウンサーが“award”(=賞)を「アワード」と言っているのも困ったものなのだ。プロデューサーでもシナリオライターも英和辞典くらい見ておけよと言いたくなる。

単語重視の教育の弊害:
更に、我が国の学校教育で英語を科学としてか乃至は数学のように取り扱い、単語を覚えさせたがる教え方をすることに重きを置くのも、カタカナ語の粗製乱造を産む原因の一つであると指摘しておきたい。それだけではない、「生徒を5段階で評価するために教えて、話せるようにすることはその目的ではない」とする教育方針もあることを申し添えておきたい。

日本語の表音文字化:
私が現在と未来を通じて絶対避けたいこと、あってはならないことと考えているのが「カタカナ語の多用による日本語の表音文字化」なのである。しかし、現実には英語の単語をカタカナ表記あるいはローマ字式に発音して語り且つ使う人は増える一方なのだ。こういう言葉の使い方に依存する所謂有識者や文化人が多く、彼らはこういう語法に頼ることを衒っているとしか思えないので困る。簡単に言えば「日本式学校教育の英語の欠陥が現れて、難しい単語の知識が豊富であることのひけらかし」にしか見えないし、私にはいやみにしか聞こえないのだ。

私は英語という表音文字の世界で読み書き語らざるを得ない生活を続けて解ったことは「英語とは困ったことに表音文字を使っており、一目見ただけでは直ちに完全に理解しがたいということ」だった。スペリングを目で追い且つ発音してみて、何を意味する言葉(単語?)か熟語か慣用句等であるかが解って、更に音読でも黙読でも進め、文章全体を読み終えて初めて何を言っているかが解るという面倒な言語なのだ。これが日本語との大きな違いである。その英語と較べれば、漢字がどれほど便利なのかをこのような経験を通じて再認識したものだった。

英語は表音文字の羅列である以上、文字の並び方を読み切って如何なる意味かを読み取っていかなければならないのであると同じことで、カタカナ語はその表音文字の英語の単語を恣意的か便宜的にカタカナに置き換えたのであるから、そのカタカナ語をまた即座に元の英語に戻して考えるだけの英語力(能力?)を備えておかねば、日本語すら解らなくなってしまいかねない事態が何時かは生じるだろうと危惧しているのだ。

例えば、私は既に槍玉に挙げたが「コラボ」という言葉に先ず耳から接して「アレッ」という思いに囚われた。何という“big word”的な言葉を使うのかという感じだった。それが“collaboration”=「合作、共同制作品」という単語の前半だけを取ったものだろうと察しがついた。しかし、Oxfordには先ず“the act of working with another person or group of people to create or produce ~”とある。“collaboration”は文語的であり、恥ずかしながら私は22年半のアメリカの会社勤めの間に使った記憶はなく、何処かで聞いたことはある程度の代物である。先ず日常会話などには出てこない。それにも拘わらず、手もなくカタカナ語として使ってしまう制作者の語彙には敬意をすら表したくなる。

他にも、テレビ局が濫用するカタカナ語を挙げておくと、如何なる故障、事故、揉め事でも「トラブル」で括ってしまうこと、「思い描くこと」なく「イメージ」とするだけに飽き足らず「イメージアップまたはダウン」としてしまうし、「アップ」と「ダウン」は英語の “up ”も“down” も前置詞か副詞でそういう使い方がないにも拘わらず「レベルアップまたはダウン」などと言ってしまう無神経さがある。こういう使い方をすると、表音文字化を推進するのみならず英語の勉強にも悪い影響を与えているとは一向に気が付いていない辺りが怖い。

ここまでに指摘したように、偉そうに言えば私でさえ(?)如何なる意味だったかを思い出す必要があるようなカタカナ語化された英語を日常的に使うことが、英語を学ぼうとする人たちに対して役に立つ訳がないと思う。カタカナ語化に「合作」か「共同制作」という漢字を使った熟語を排除するだけの意義や意味があるのだろうかと、テレビ局や新聞社に「国語の破壊か表音文字化になるのではないか」と問いかけてみたいのだ。

主張したかったことは「表音文字の世界に居続ける為に必要なことは、その文章には如何なる単語が使われているかを瞬時に読み取って知って、前後の流れを把握し理解せよ」ということだったのだ。換言すれば、「表音文字の世界に馴れるのは容易ではなかった」のだった。しかも、表音文字でありながら、同じ単語でも前後の流れ次第では全く異なる使われ方をするし慣用句のように全く元の単語とは異なった意味になる場合もあるので、ウッカリしていると意味を取り違える危険性もある。

時々、私はカタカナ語を使いたくない為に、英語のままで書きたいと思うことすらある。その例には私が忌み嫌っている「セキュリティー」がある。これは最悪でも「セキュアリテイー」であるべきはずの“security”を「セキュリティー」のようにカタカナ語化してしまった愚かな例がある。だが、私が試みていることは、所詮は無駄な抵抗で、私が目指している「セキュリティー」のような「原語に不忠実なカタカナ表記」の改革には容易に進展していかないのだと思っている。英語の発音は「セキュアラテイ―」が最も近いと思う。「セキュリティー」は単なるローマ字式読み方の一種である。

私がW社に転身したばかりの頃に東京事務所にいたワシントン大学のMBAだった日系人J氏はは「日本語で話している時に、英語を英語の発音のままで入れるのは最低で最悪。日本にいる以上、矢張り日本式のカタカナ表記の発音で言うべきだ」と教えられた。これには賛成だ。だが、私は仮に生命の危険があると解っているようなことがあっても「セキュリティー」とは言いたくはないし、“the Major League”は絶対に「メジャーリーグ」という気はないし、「自己ベスト」のような漢字交じりの合成語も使う意志など毛頭ない。私は日本語に和製英語(造語)のようなカタカナ語をこれ以上増やして表音文字化を進めるのには絶対に反対なのだから。



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