新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

我が国の英語教育の成果の考察

2015-05-25 07:52:12 | コラム
我々が英語の学習に注いだエネルギーの効果は:

思い起こせば、1年前の5月24日には国際法のTY先生と懇談の機会があった。私は「高齢化とともに先生のような優れた学者と親しく語り合う機会が減るのは止むを得ないが、そのために頭脳の回転というか働きが遅くなる一方で、物思う力が落ちる一方だ」と思っている。あの時のように無い知恵を絞って語らねばならないのは、言うなれば絶好のブレーンストーミングの機会であろう。

先生との話題は数々あったが、最も記憶に残ったのが先生が指摘された「我が国における英語に対する劣等意識というか『学ばねば世界に遅れる』とでも表現したいような強迫観念を押し付けるのは不当である。本当の意味での"English"ではない英語という代物の学習に費やす膨大なエネルギーに、どれほどの効果があるのか」という点だった。

私はこういう視点からは英語(”English”とは別の性質の物で、”English”の如きである教科を指す)を論じてこなかったので、非常に新鮮な論点だと思って承っていた。私のこれまでの表現は初代の日本プロ野球のアメリカ大リーグの選手、ホーナーが1年働いてから「もうこれ以上"something like baseballをやるのは厭だ」と言って帰ってしまったのと同じで、我が国の学校教育では「英語という名の"something like English"をこれでもかと数学のように教え込んでいるだけ」だと見なしてきた。

ところがそれだけでは飽き足らない英語の教育者たちは”TOEIC”なるテストを恰もアメリカ製の如くに装って輸入し「英語の科学」の学習効果を占う最終的なテストに仕立ててしまった。「英語」をいくら懸命になって学んでも、その効果は「外国人に通じたか通じないか」を試す程度でしかなく、とても英語圏の外国人を相手に論旨を組み立てて自由自在に論争し、尚且つ屈服させる次元には希に到達するだけの効果しか望めないのではないか。しかし、「英語」の学習は非常に重要活社会生活上も必須であるのだと、誰もが思い込まされているようだ。

しかし、何処かの誰かが「国際化の時代にあっては英語ぐらい解らないではいられないし、外国人と思うように語らねばならないのだ」といったような空気を醸し出して、挙げ句の果てには小学校から英語教育をという時代になってしまった。しかし、私が何度も言ってきたように「私は有り余る英語力を抱えていても(「冗談言うな」と思われても結構です)、会社からリタイヤーしてしまった後では英語など全くと言って良いほど活用する機会などなく、外国人にこの広い東京で道を尋ねられたことなどリタイヤーした後の21年間で僅かに3回である。

だが、屡々「外国人に道を聞かれて答えられずに恥ずかしかった」等と言う人は沢山いるのは何故だろう。実は、我が国の街中では街億陣に道を英語で教えて上げるのは非常に困難であり、日本語でも容易に教えて上げられない性質だ。私は「時間があるので、途中まで一緒に行って上げる」(I’ll go part of the way with you, as I have time enough.”で良いと思うが)と言ったこともあったほど面倒なのだ。故に、恥と思う必要などないと認識して頂きたい。

事の序でに講釈をしておけばこちらから積極的に「道がお解りではないのですか」か「道に迷われましたか」と言って上げたければ “Did you lose your way?”かその簡略型で “Lost your way?” と尋ねて上げる方法もある。もっと簡単な言い方は “May I help you?” か “Any problem?” でも良いだろうもっと丁寧に言いたければ、何れも言い方でも最初に “Excuse me.” としておけば良いと思う。注意すべき点は、こういう尋ね方を流暢にやると「お主出来るな」とばかりに他の話題まで勢いよく英語で話しかけられてしまうことがある危険性かも知れない。

英語とは外国人に道を教えるために学ぶものだろうか。そんなことはないはずだろが、そのために中学から大学の教養課程まで6年間も数学を学ぶように科学的に学ぶことにどれほどの意義があるのだろうか。「通じた」と言って喜ぶために学ぶのだろうか。しかも、その教え込まれた「英語」が本当の"English"とは一寸異なる英語圏の人には理解されにくい「科学としての英語」だと知ったら余りにも悲しすぎないか。

些か遠回りしてしまったが、ここにあらためて主張したい重要な点は「英語の学習を万人に強制すべきか」、「英語ないしはEnglishは本当にそれを必要とする職業か学問の道に進むものだけが、それに相応しい学び方をすれば十分ではないか」、「英語圏の文化を教えずに『科学としての英語』を数学のように教え込まれたために、英語を母国語とする国の人たちとの交流も取引も上手く行かなかった例が多すぎたと承知しているのか」等々である。

換言すれば、「文化(言語・風俗・思考体系・宗教等)が異なる国の言葉を教えるないしは学ぶ際に、我が国の文化との間にそれほど大きな違いというか差があるのを無視して、例えば”TOEIC”如きテストで高得点するのために強制することに果たして意義があるのかの疑問が湧くのだ。それに費やすエネルギーを他の強化や専門科目に振り向ける方が効果的ではないのか」なのである。

私は「「英語」ないしは”English”に精通することに意味がないと言っているのではなく、必要な人が必要に応じて学べば十分ではないのかと言っているのだ。それは英語を深く追求すれば、あるいは高級な趣味になるかも知れないし、教養の立派な一部のなるかも知れない。だが、良く考えなくても解ることだが、「我が国の全ての国民が他所の国の人と、その国の言葉で専門的な話題を深く掘り下げて論じるか話り合う機会が生涯にどれほどあるのか」ということだ。

近頃は一部に信じられていた「日本語は難しくて外国人には容易に習得できない」という誤った説を覆すような、日本語を驚くほど巧みに、自由に操る外国人が激増した。しかし、私は彼等が本当に我が国との文化の違いにまで精通しているかどうかは、私は寡聞にして知らない。だが、あれほど短期間に上達する外国人が増えたという事実は「諸外国の外国語教育が余程充実しているのでは」ということと「それに引き替え我が国の英語教育は・・・」という辺りに、誠に遺憾ながら思いが至ってしまうのだ。嗚呼。

なお、上記は昨年の5月24日に採り上げて論じたものを加筆訂正したもので、繰り返し論ずる価値があると思い敢えて再度採り上げた。


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