新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月5日 その2 続・続逸話(=anecdote)

2024-02-05 15:17:48 | コラム
少し残念な話:

*ビクトル・スタルヒン投手:
本当の昔の話。「もう、その存在を知っていた職業野球ファンがいるとは思えないし、巨人軍のビクトル・スタルヒン(白系ロシア人だったが、日本生まれで日本育ち)投手がいたことなど知っている人が何人いるだろうか。私は幸運にも戦前に母親に連れられて、箱庭のような後楽園球場で彼の投球を見る機会があった。

「昭和初期にその巨人軍がアメリカに遠征した時、スタルヒン投手は何処に行っても、現地人たちから英語で話しかけられて困った」という話があった。アメリカに来て野球をやっている白人を、現地ではアメリカ人だろうと思ったのは当たり前のことだっただろう。

だから、先ほど取り上げたことで、1972年にEastern航空で私の隣に座った少年が私に話しかけてきたのも、アメリカではごく普通の現象だったのだと思う。陳腐な言い方になるが、屡々ニューヨークは「人種のるつぼ」と形容されるが、現在のアメリカ合衆国は何処に行ってもその「るつぼ現象」状態なのだ。

*Two Chinese are walking downstairs.
私が1975年にシアトル市内のNordstromという評判が高いデパートの1階を、三菱商事の駐在だった従兄弟と歩いていた時のこと。それを2階から見下ろしていた(当然「白人」)少年が“、Mammy. Look at that. Two Chinese are walking downstairs.”と叫んだのだった。我々にも解ったことで、母親は慌てて制止した。

この時、従兄弟は少しも慌てず驚かず「こちらでは良くあること。アメリカ人はアジア系が皆中国人だと思うのです」と言うのだった。我が社の東京事務所の日系人BJ氏にこの話をした。彼は笑って「中国人に間違えられたのは寧ろ名誉だと思った方が。それほど日本人という存在は海外では知られていないのです」と教えてくれたのだった。

この翌年、カナダのBC州ヴァンクーヴァーの裏通りで「カレーライスあり」(という英語の)看板が出ていた店に入って、食べたカレーライスは日本式ではなく本場のインド式だった。会計となってレジ行くと、会計係の女性に“Are you a Chinese?”と訊かれたので否定。すると“Are you a Korean?”と来た。勿論“No!”だ。

すると突如として日本語に切り替わって「じゃー、日本人だったの。珍しいわね。こんな裏通りにまで日本人が一人で入ってきて英語で注文するなんて殆どないの。だからてっきり中国人か韓国人だと思ったわ」と言われてしまった。彼女は日系カナダ人だったが、この遣り取りで感じたことは「残念ながら、日本と日本人は未だ海外では殆ど知られていないというか認識されていない存在なのでは」だった。

視点を変えれば、それほど中国人や韓国人は数多くアメリカやオーストラリアに合法/非合法で移住しているのだということだろう。現に東南アジアの諸国では経済を抑えているのは華僑だ。習近平率いる中国は我が国にも着々と華僑の卵を無数に送り込んでいるではないか。善意の我が政府はその留学生を援助しようと資金を出している。

また、去りし東京オリンピックのゴルフで稲見萌寧と第1位を争ったオーストラリアのリディア・コ(Lydia Ko)さんは「高寶環」と言う韓国系オーストラリア人だった。また、テレビが日本に観光に来て食を楽しんでいるオーストラリア人を取り上げると、殆どの場合アジア系なのだ。

続・逸話(=anecdote)

2024-02-05 08:34:45 | コラム
アメリカ零れ話:

とは言ってみたが、回顧談だとご理解願いたい。

マクドナルドの効用:
2011年1月に有り難いことでSM氏に誘われて、LAからバークレーまで1泊2日の旅をした時のことだった。フリーウエイを北上するのだが、道中SM氏が「マクドナルドが見えたら教えて」と言うので、東側に発見して通告。すると、彼は直ちにフリーウエイから降りて昼飯時でないのにマクドナルドの駐車場に入って行くのだった。「何で?」と聞けば「トイレ休憩」と行ってスタスタとそこに向かったので、私も付いていった。

自分で車の運転をしない私はウエアーハウザー勤務の頃でも、フリーウエイはシアトルから3時間程を南下するインターステイト5くらいしか走ったことがないので、滅多にトイレ休憩をしなかった。故に、マクドナルドをその為だけに使うことが、暗黙の了解だったとは知らなかっただけのことらしかった。

この旅では2回目にマクドナルドで止まった時には丁度昼だったので、SM氏も「ここで食べましょう」という事で、何十年ぶりかで反バーバーをしかもアメリカのマクドナルドで食べることになった。味は日本と同じだった気がするが、何となくアメリカの方が10%程大きかったように感じた。我が国ではそういう使い方が認められているかは知らない。何分にもコンビニだって全面的にトイレを開放している訳ではないのだから。

ビールの銘柄を指定してくれないと:
1972年8月に生まれて初めてアメリカに「トレーニング」という名目で出張した時のことだった。オハイオ州デイトンのMeadの本社で顔見せを終えて、パルプ部の本部があるコネティカット州にニューヨーク経由で向かった。空港に向かう途中で休憩に立ち寄ったパルプ部員の家で「何か飲むか」(=Something to drink?)となった。アメリカは乾燥していて喉が乾くので、当時は未だ少しは飲めていた「ビールを」と所望した。

すると、その屋の主は「ビールと言われただけでは対応しようがない。ブランドを指定してくれ」と意味不明なことを言うのだった。戸惑っていると「こっちにお出で」と大きな冷蔵庫の前に案内された。扉を開くと中には「無数の」と言いたいくらいのビールの缶がズラッと並んでいた。「へー。アメリカの家庭ではこれほど多くのブランドを用意しておくのか」と生活様式(程度?)の違いを痛感させられた。「違い」に圧倒されたのか、何を飲んだか全く覚えていない。

そこからフリーウエイを延々と走って空港に向かったのだが、周囲は何処まで行ってもトウモロコシ畑だけ。「何だ。アメリカって農業国だったのか」と認識したくなってしまった程の退屈なドライブだった。

日本は未だアメリカに追いついていないのです:
上記のビールのことを東京に戻ってから、当時のMeadの日本代表者だったHM氏(故人)に語ってみた。するとHM氏は「それは、日本が発展したとは言え、未だアメリカには追いついてはいないという事です」と言われて、下記のように解説された。

「日本は急速に経済的にも発展してアメリカに追いついてきましたので、アメリカ人たちが持っている物と同じ物が手に入るところまで来ました。だが、アメリカとは未だ違いがあります。それは、日本で買えるようになった物は、アメリカ人たちが既に当たり前のように持っていたという点です」という話だった。

その頃には現在のP社などは「マネシタ」と揶揄されていたし、アメリカでは何かと言えば成長発展目覚ましい我が国の産業を“copy cat”(模倣者)と侮蔑的に呼んでいた。

因みに、HM氏は昭和4年生まれで京都大学出身。日本パルプ(現在の王子製紙)に入社後に、フルブライトではなかったと記憶するが、アメリカからの資金の援助を受けて留学された紙パルプ業界の実力者だった。

アメリカで飛行機に乗っている以上アメリカ人だろう:
1973年だったと記憶する。ジョージア州のアトランタから北上する飛行機に乗った時のこと。確かEastern航空の便だった。隣に座った高校生がいきなり握手を求めてきて“Hello, I am so and so.”と名乗ったのだった。何で見ず知らずの私に挨拶するのかと訝って「何で、何処の国の者とも解らない私にいきなり英語で話しかけるのか」と尋ねてみた。

この男児は憤然とした表情で「貴方のように一人で旅をしている人を、同じアメリカ人だと思うのは当然ではないのか。だから、親しさを表そうと思って挨拶したのだ」と切りかえされてしまった。当時の私の受け止め方でも「なる程。これほど何処の国の出身か解らない者が多いアメリカでは、ここにいる以上アメリカ人だと解釈するのか」となったのだった。

その高校生とその後何を語り合ったか全く記憶はないが、目的地まで退屈せずに過ごせた。見ず知らず同士でも気楽に語り合うのがアメリカなのかと、大いに「文化の違い」を学ぶことが出来た。