新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月28日 その2 電力の供給不足の時期にEV推進か

2022-06-28 09:14:04 | コラム
2時間の充電で20km走行の費用は¥14:

この見出しは、近頃は余り見ていない、テレ東の人気番組なのだろう出川哲朗の「充電させて下さい」での、電動バイクの充電の実態である。2時間かけて、電動アシスト自転車の電池よりは大型と見える電池の充電が2時間かかるという知識を得た。そもそも、EVとやらに全世界の自動車が置き換わってしまう頃まで自分が生き長らえているとは到底考えられないので、自動車の電気化には殆ど関心がなかった。

だが、現在の東京電力管内だけの現象かどうかも知らないが、「電力の供給が危機的になってきたし、原子力発電所は2ヶ所か3ヶ所しか動かせていない状況」で、「天気が悪くなれば太陽光パネルからの発電が落ち込みという時期」に、「如何なる目論見があってEVを全メーカーが挙って強力に推し進めるのだろうかな」と、少しばかり考えるようになった。

「無学者論に負けず」じゃなかった「無知識者論を吹っ掛ける」積リなど毛頭ないのだ。だが、「充電を必要とする(のだろう)EVを大量に市中に出すのは二酸化炭素問題対策などには結構なことだ」と十分に理解できる。だが、「その充電を担当する電気スタンドを何処にどれほど設置して、その電気を何処から供給する態勢を整えるのかな」と思ってしまう。国民に節電して下さいと命令するほど不足している電力を、何年か先にどれほど供給能力を増やせるのだろうかと疑問に思う。

いきなり余談になるが、真面目に英語というかカタカナ語を取り上げる。「ガソリンスタンド」というカタカナ語を先に作ってしまったのでEV用には「電気スタンド」となりはしないかと指摘したまでだ。以前に何度も述べておいたことで、英語では“gas station“だったのだ。だから、「電気ステーション」にすれば済むことだろう。

その電気ステーションだが、疑問に感じていることがある。それは、出川哲朗の電動バイクのあの小型の電池でも充電に2時間もかかっていることから考えると、何百キロも走ろうとするEVの充電には、何時間かかるのかなという不安感。「そんな事は既に承知していて、対策を着々と打ってある」と言われれば、それで結構だと思う。だが、EVの1台の充電が仮に2時間で終わったとしても、電気ステーションには何十台もの充電機を設置しておかないと、延々長EVの列が出来るのではないのか。

その「オールEV化」が終わるのが何年先か知らないが、その頃に「電力供給ドンと来い」の体制が整うものなのだろうか。私が心配しても無意味なのだが、不思議なEV化の方向のように見えるのは、無知識者だからなのだろうか。

私は、そんな何年も先のことはどうでも良いのだ。それよりも「たった今、安心して猛暑対策で室内の空調を目一杯動かして、安心して暑さに対応した生活がしたいだけ」なのだ。

電力が危ういのならば、例えば、NPBに「全試合を昼間にして欲しい。甲子園で真っ昼間開催して高校生も観客も無事だったから」と要望したら如何。コンビニエンスストアにはそれでなくとも苦境に立たされている夜間の営業を止めて事態を乗り切ることの協力を」と要請したら如何か。百貨店は既に種々やっているのだから。

岸田総理は折角諸外国の首脳に会っておられるのだから、「この重大な電力供給危機を乗り切る為に、火力発電所を短期間稼働させて国民を安心させるのからご理解を」くらいのことを言って頂けると嬉しいのだがなー。

何処かの地区に向けて2億ドルを供与されるのも立派だと解るが、自国民の苦境を救われるのもお忘れなきようとお願いしたいのだ。私には総理は何か優先順位のつけ方が宜しくないように思えてならないのだが、私の僻目か。


「暑さ・寒さの変動」に対する感度の問題

2022-06-28 08:03:58 | コラム
後期高齢者となって感じた危険なこと:

昨日も都内は34度だか35度だかの異常とも言えるような暑さだったそうだ。その最悪に暑かったのだろうと思われる昨日の午前11時半頃にジムから出てきた私は、高田馬場駅前のバスの乗り場に立ってバスを待っていた。背中に背負ったリュックサックの中には帽子を入れてあったが、日の光が眩しいとは感じても、帽子をかぶろうとまでは感じなかったし「何だ、天気予報で警告していたほど猛烈に暑くはないじゃないか」とすら思っていた。

70歳台の半ば頃から気が付いたことがあった。それは「暑さと寒さに対して鈍感になったこと」だった。即ち、日中でも外に出たときに、人々が言われるほど「暑くも寒くもないじゃないか」と感じてしまうのだった。暑いと言われているときには「日射病」(これと熱中症の何処が違うかなんて知らないが)を避ける為に2000年4月にワシントン州の工場を訪れたときに記念に貰った、W社のロゴ入りの帽子をかぶる程度で過ごしていた。寒ければダウンジャケットを羽織れば済むのだった。

私はこの「暑さ・寒さ」を感じなくなった現象を「人は長く生きて気温の変動に対して抵抗力が付いたか、亀の甲より年の功でもあるのか」のように、自分にとって都合が良いような解釈をしていた。この「感じないこと」は、ここ数日の猛烈な暑さに対しても「何だ、矢張りたいしたことはないのでは」と感じさせているのだった。だが、テレビのニュースで救急搬送される熱中症患者の人たちはほぼ高齢者ばかりなのだ。

そこで、自分が鈍感化したことに基づいて、「何故、高齢者は猛暑に弱いのか」を考えて見ようと思った。自分の気温の上下の急変動に対する感じ方の鈍さから類推すれば、あの高齢者たちは猛暑に負けただけではなく、猛暑を感じられなくて対応を誤っておられたのではないかと思って見ている。空調を使っていなかったという例もあれば、備えておられない家庭もあったようだ。

それで、私は「もしかすると高齢化すればするほど、気温の上下の変動に鈍感になるのではないのか」と見ている。感じなければ、30度を超えた危険な気温に対する警戒心もなくなるのだろうから、対策も立てていないのだろう。それだけではなく、散々警告されている水分の補給もしないのではないかと疑う。補給が必要とも知らないのではないのか。特に、昭和一桁生まれの私などは、真夏の蹴球部の猛練習の最中でも「水を飲むこと」は御法度という時代の育ちだ。「なんてことない」と思うだろう。

事実、このPCの部屋でも日中はエヤコンを30度に設定して風さえ当たってくれば、何の苦労もなく過ごせてしまうのだ。のどの渇きを感じていなくても、定期的に水を飲みに立ち上がる程度で過ごしている。私の疑問は「この気温の上下の変動に対する鈍感さは私だけのことなのか、それとも大多数の高齢者に生じている現象なのか」なのだ。もしも、高齢化即ち鈍感化であるならば、政府か専門家によるその旨の警告が必要なのではないのだろうか。

警告を発するのは山際大志郎大臣(私の高校の何十期か後の方だ)さん、貴殿でしょうか。もしかして、厚生労働大臣後藤茂之氏の所管かな。