新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

超後期高齢者が回顧すれば

2022-02-10 09:34:10 | コラム
我々の憧れだった(旧制)高等学校:

進駐軍は学校制度を改悪して、無残にも我々の憧れを奪い去ったのだった。今回は一昨日「旧制中学」という表現が通用しなかったことを踏まえて、当時の高等学校を語ってみようと思う。高等学校とは言ったが、当時は存在していた大学の予科の3年間と同じく3年制だったのだ。

昭和23年までは、中学の5年生が高等学校か大学の予科を受験して合格すれば進学出来る制度だった。だが、4年生からも、現代風にいえば「飛び級」で受験出来るようにもなっていた。我々が高等学校に憧れたのは、そこが選りすぐりの秀才の集まりであり、それを象徴するかのような特異な服装が非常に優れて見えたからだった。

その出で立ちと言えば「制服と制帽はあるのだが、それが弊衣弊帽と言うか非常に汚らしく、その上にはまた汚れているとしか見えない真っ黒なマントを羽織っているのだ。しかも、靴などという物は履かずに、朴歯の高下駄の音を響かせてくれるのだった。しかも、戦後間もなくの衛生状態が芳しくない時期にあっては結核を病む者もいて、青白い顔でマルクスの資本論などを抱えて歩くのが「格好良い」と見えたのだった。

多くの高等学校は全寮制だったように記憶するが、「そこに集まった天下の秀才たちは日夜集まって切磋琢磨して天下国家を論じ合って、学校での勉強と共に知性と教養を磨いていたのだった」と理解していた。我々は何もその服装に憧れていただけではなく、その勉学の場に憧れていたのだった。

また、その高等学校の寮にはそれぞれ特色のある寮歌があり、それもまた大いに魅力的だったのだった。その良さを回顧するような寮歌祭も何時の頃までだったか開催されていた。例えば旧制一高の寮歌「あー玉杯に」や、三高の「紅萌ゆる丘の花」や、北大予科の「都ぞ彌生の雲紫に」などは未だに歌えるほどの憧憬だった。

私がリタイアしてから色々と薫陶を受けた旧日本興業銀行の常務だった上田正臣氏は山形高校から東大のご出身だが「戦後に旧制高校という制度を廃止されてしまったのは残念至極だった。高等学校が我々の真の学び舎で知性と教養を高め、人格を鍛える場だった」と、その制度の廃止を嘆いておられた。言うまでもないことだと思うが、戦前の指導者の多くは高等学校から東京帝国大学を中心とする七帝国大学のご出身だったのだから、石原君ではないが「我が国の骨を抜こう」とのアメリカ軍の作戦で、旧制高等学校を廃止に追い込んだのではないのか。

我々は突如として憧れの高等学校という目標を無くされただけではなく、似ても似つかない「新制」という名前だけは高等学校に組み入れられてしまったのだった。尤も、今だからこそ、このような批判を出来るのだが、あの頃は全く何のことかも解らない状態の儘に「高等学校の生徒」にされてしまったのだった。

そこで、ご参考までに未だに覚えている高等学校の一高から八高までと所在地を列記してみよう。一高は東京だったが今は旧東京高校と共に東京大学。二高は仙台。三高は京都、四高は金沢。五高は熊本。六高は岡山。七高は鹿児島。八高は名古屋であり、多くは旧七帝国大学の一部になっている。多くの県にはそれぞれ高等学校があったが、神奈川県には存在していなかったのは何故だろう。