「閃き」が当たってしまうとは:
北京の冬季オリンピックは偶々合わせたチャンネルで中継放映しているものを見ている。昨日は、その「偶々」が引き当てたのが、我が代表がほぼ確実と騒がれていた女子のPursuitだった。3人の選手たちが美しい隊列を組んで走り出して間もなく、相手のカナダを少しだけリードしたのを見た瞬間に「この人たちがもしも負けることがあるとすれば、それは誰かが転倒した場合なのだが、そんなことがあり得るのだろうか」など余計なことが閃いてきたのだった。
そして、僅差であったが我が方に有利に進み、最後のカーブ(「コーナーというのは誤りのカタカナ語」にさしかかり「もう大丈夫かな?」と思わせられた瞬間、最後尾を走っていた高木菜那さんが確か右手を挙げておかしな動作をしたかと思った瞬間に体勢を崩して転倒してしまったのだった。まさか余計なことを考えたのが現実になってしまうとは夢想すらもしていなかったので、勝負というものの難しさと苛酷さを、あらためて痛感していた。
何も高木美帆さんを責めるつもりなど更々ないが、勝負の難しさと恐ろしさがこの辺りにあると思うのだ。高木菜那さんは4年前の平昌では優勝した経験があるのだから「勝ち方」を心得ていたはずである。平常心であの試合に臨めていたと思う。だが、あの地点まで走り込んでくれば、ほんの一瞬の間にでも「勝った」と意識したかも知れない気がするのだ。それは気の緩みなのではなく「もう少しで勝てるぞ」と自分を励ましたのかも知れないが、その意識があの足の運びの乱れとなって出てしまったのかも知れないと考えている。
以上は私の想像であり、現実に高木菜那さんがそのようなことを考えたかどうかなどは解らない。ここで言いたかった事は「勝ちきるということは、彼女たちのように経験豊富で勝ち方を知っていても、最後の瞬間に『まさか』の事態に襲われないようにせねばならないのだ」という点だ。張本勲はあの「喝」の時間で繰り返し「1位にならなければビリも同じ」と主張していた。だが、彼女らの場合は輝く「世界第2位」だったのだから、胸を張って良い凄い成績なのだ。高木菜那さんの涙は解るが、「貴女は偉い」と褒めてあげるべき成績であろう。
俗な言い方に「生まれたばかりの赤子だって3年経てば3歳になる」というのがある。彼女らは4年前に優勝しているのだから、競合した諸国の代表選手たちも4年間に成長しただろうし、その伸ばしてきた実力が我が代表選手たちに目に見える圧力となってのし掛かってきたのではなかろうか。それだけではなく、彼女たちは「連覇だ」と騒ぎ立てる連中の存在も目に見えない圧迫となっていたのではなかったかとも考えられる。
そのような圧力が最後の瞬間に高木菜那さんに一気にかかって来たのではないのかと思って、転倒して障壁に当たってしまった場年を見て「オリンピックのような場で勝つということが、これほど難しかったのか」と悲しいほど感じさせられていた。
部外者が幾ら彼女を慰めてあげても、彼女の心は晴れないだろうし、責任を痛感している状態から簡単には脱出出来ないだろう。高木菜那さんに向かって我々に出来ることは「貴女は偉かった。素晴らしい銀メダルだった」と褒めてあげて、彼女が立ち直るのを待っていてあげることくらいだろう。
お仕舞いに英語の講釈だが、文中に“pursuit”としてきたのは、あの種目を「パシュート」と表記してあるのはQueen’s Englishの発音に基づいていて、アメリカ式では「パースート」に近いのだからだ。勿論、私は「パースート」派である。誰が「英連邦式に準拠せよ」と決めたのだろう。